第3話 お腹が減るのは良くないことです

 まとめよう。


 女の子は自称月面人。

 歳は十代そこそこ。

 見た目は可愛い。

 服装は黒ずくめ。

 豊かな想像力の持ち主で妄想と現実に区別がついてない。

 つまり早急な保護が必要。


 そこまで分かってるのに……僕はなんでこの子と二人、深夜のファミリーレストランにいるのだろうか?

 どうして向かい合って座って食卓を囲んでいるのだろうか。

 現状把握に対して理解に苦しむ一点があるとすればそこだけだ。


 まあ、まあ、だけどさ、考えても見てほしい。

 目の前におなかを空かせた子供がいたら、そりゃ誰だって可哀相になるだろう?

 お腹いっぱいにしてあげたくなるだろう?

 お腹が減るのは良くないことだ。

 つまりそういうことだ。

 

 とは言ったものの……。


 やはり人目は気になるもので、隠れるように隅の席に座った。


 ここは職場にほど近いファミリーレストラン。

 同僚、取引先、その他諸々が利用する場所でもある。

 さて、問題です。この疑惑の現場を見られてしまったら、どうなるでしょう?

 

 はい、そうですね、どれだけの言い訳を重ね、無実を訴えた所で、僕の人生は終わりに向かって急転直下。

 自称月から落ちた女の子を助けて、自分の人生から落っこちるなんてコントにもならない。

 大して良かったことなどない人生だけど、善意の行動で棒に振っていいと言えるほどの覚悟は持ち合わせてない。

 

 ……肝心の悩みの種、自称月面人少女は目の前の席に座って、夢中でハンバーグを頬張っていた。

 相当お腹が減っていたのだろうか?

 その表情からは美味しくてたまらない、という幸せの感情が伝わってくる。


 コーヒーを一口含んで、胸中から込み上がる杞憂も一緒に飲み込む。

 ため息に味がするとしたらこんな感じだろうか。

 なんてことを考えていると、今度は何の会話のない沈黙もなんだか不自然な気がしてきた。

 でも何を話せばいいんだろうか。相槌を打つのは得意だが、話すのは得意じゃない。


「それで、どうして、どうやって、落ちたんだい? あぁ……つまり、月からなんだけど」


 だから、質問することにした。テーブルを照らす裸電球を月に見立てて指さし、そう尋ねる。


 彼女に大きな怪我がないことを確認して安心したけれど、どうしてこんな深夜に公園を徘徊していたのか。どこから落ちたのか、落ちた理由はなぜなのか……はさっぱりわかっていない。


 それが分かればそれに越したことはないし、そうでなくとも、彼女の不思議な妄想に付き合って機嫌を取れば、気分を良くして素直に家に帰ってくれるかもしれない。


 訪ねられて女の子は、スプーンを咥えたまま、僕の顔を真っ直ぐに見つめた。

 行儀が悪い。

 ほっぺたにハンバーグの食べかすがついててなお行儀が悪い、が、愛らしい。


 薄暗い街灯の下でも思ったが、女の子は大層な美少女だった。

 電球の明かりがより鮮明にその事実を教えてくれた。


 真っ白い肌、睫毛は鉛筆が乗るんじゃないかってくらい長くて、大きな瞳は輝く満月のような金色。

 肩の辺りで切りそろえられた色素の薄い髪はつややかで、同時にふわふわしている。

 日本人離れしてるというのだろうか。

 どこか異国の地が混ざっているのかもしれない。


 絵に描いたような美少女。夜中に一人で出歩くには……危なすぎる要素が満載だ。


「ひゃあ、しょのですね……」


 その上、頭もちょっと残念と来ている。


「あぁ……口の中のものを飲み込んでから話そうね」


 こくりとうなずき、ゴクンと飲み込み、女の子は神妙な顔で語り始めた。


「落ちた理由は少々難解でして……」


 女の子は手に持ったフォークをおでこのあたりまで掲げ、それからハンバーグの真ん中に乗った目玉焼きへとおどけた仕草で近づけた。


「かいつまんで話すと」


 まるで生き物が目玉焼きを狙っているかのように。


「宇宙狼の主食が月の光であることはご存知かと思いますが」


 なるほど、見事にかいつまんである。

 意味の分からない話だろうとは想像していたけれど、飛躍まで挟まれたら、もう手も足も出ない。


「あ、ああ、うん、小学校の時、社会科で習ったような気がするな」


「はい。だから普通は月を追いかけても、月にたどり着くことはありません。それは美味しくない距離感です。だから気を抜いていたのです……」


 女の子はバツが悪そうな様子で、目玉焼きをフォークでちょんちょんと突付いた。


「宇宙狼が月の光を食べやすいように適度な距離感を保つ。それはあたしの大事な仕事です。お腹が減るのはいけないことです。絶対ダメです。自信はありました。居眠りしてたって月の公転速度を保つことはアサメシマエなのです」


「一日も休まずそれができるならすごいことだね」


「休んでしまったんです……」

「え?」


「つまり、です。うっかりうたた寝をしてしまったわけです……」


 恥じらいと自責の入り混じった色が愛らしい顔を覆った。

 しかしそれも一瞬。

 今度は胸のあたりまで両手を上げて、指をぐっと鉤のように曲げる。

 爪のつもりだろうか。

 そしてイーっと白い歯をむき出しにする。

 牙のつもりだろうか。


 女の子はぐるるるるる、と、唸る。

 精一杯に自分が目にした恐ろしさを再現しているのだと思うが、どこからどこまでも可愛らしくて、なんだか気が抜ける。


「唸り声で眼が覚めました。目を開けると視界いっぱいに大きな宇宙狼の顔! らんぐいの牙とその間から真っ赤な舌がだらーん垂れ下がっています。大きな瞳はギランギランであたしを見おろしているのです!」


それからまたしゅんとした面持ちに戻る。


「だから吃驚してしまいましてね、それで……」

「落っこちた、と? な、なるほど」


「お腹が減るのは良くないことです」


 女の子はもう一度繰り返した。


「宇宙狼は月の光しか食べません。でもお腹が空いたら……このままでは狼さんは腹ペコになってしまって、仕方なく月を丸ごと食べてしまうかもしれません。実際、そう言った事例は記録に残っているのです。そうなったら月は無くなってしまいます。地球の海は潮の満ち引きをせず、自転は狂って、狼さんは食べるものがなくなって大変なことになってしまいます」


 そう言いながら、女の子はハンバーグを平らげた。

 狼よりも彼女の方が遥かに悪食に思える。


「ですからロケットが必要なのです。月に戻る方法が必要なのです。なにかいい方法があればいいのですが……」


 眉間に皺を寄せ、眉をハの字にして、女の子は頭を捻る。その顔は真剣そのものだ。

 

 よくできた妄想。

 この年頃で夢みがちな性分ならば、こういう不思議な世界に没入してしまうこともあるだろう。

 そう思っているはずなのに……。

 不思議と僕は彼女の語るこの虚構の物語を面白く感じていた。

 彼女の真剣な面持ちにどこか共感していた。

 彼女が話す物語が現実ではなくっても、彼女が信じている世界への気持ちはきっと本物だ。

 なんとなく、そう思った。


 無碍にするわけにもいかず、かといって、否定も肯定もできなくて、結局、出来たことは彼女にデザートを勧めること、それくらいだった。


「お腹が減るのは良くないこと、なんだよね?」


 デザートメニューを広げると女の子の真剣な表情はあっという間にどこかへ飛んでいった。目を輝かせ、目移りしたり、首をかしげて考え込んだり。


「僕もね、そう思うんだ。お腹がいっぱいになればいいアイデアも浮かぶかもしれないから」


 さすがにロケットを飛ばすのは無理だけど。


 散々迷って女の子が選んだのは、一番値の張る季節のフルーツパフェだった。

 手短に注文を済ませると、また気まずい沈黙がテーブルに落ちてきた。


 彼女は少しそわそわした様子で、椅子に立てかけた日傘の取手に触れたり、興味深けに周りを見渡したり、かと思えば、月と狼がやっぱり気になるのか、物憂げな顔を浮かべたり、百面相の様相でいる。


 早くパフェが来てくれないだろうか、と、そうすれば沈黙に気まずさを感じずに済むのに、と、心の中で呟いた。そういえば、誰かと一緒にご飯を食べる、なんて久しぶりだ。


「それにしてもあんなに高いところから落ちたのに、怪我もなさそうでよかったよ」


 今更ながら労りの言葉だけど、本当に彼女に怪我がないのか、やっぱり心配なのは心配だった。


「はい! もうおしりも痛くありません!」


 もしも本当に人間が月から落ちたら、おしりが痛い程度じゃすまないと思うけど。というか月から落下して地球に衝突したら粉微塵だし周辺にも結構な被害が出るだろう。

 それ以前に大気圏で焼けて死ぬと思う。

 ありがたいことに、この娘は焼けた慣れ果てのプラズマには見えなかった。


「親切な方にも出会えたし。あたしはラッキーでした」

「うん、でも、出来ればこんな夜中に出歩いちゃいけないし、親切に見える人でも、ついていっちゃダメだよ」

「はい! わかりました!」


 自分を棚に上げて言った言葉に、邪気のない笑顔で返してくるから、調子が狂う。本当に分かっているのだろうか。やっぱり心配だ。


 しかし、実際どこから落ちたのだろうか? あの公園に高所から落下できる場所なんてあっただろうか。 毎日のように、あの公園を通勤しているが、あるのは精々2メートルやそこらの街灯くらいだったはずだ。

 女の子が落ちてくる時に聞こえた声は、もっと、もっと高い場所から、遠くから、聞こえたような気がした。

 彼女の言う月とは一体なんのことなんだろうか。


「それで、その、君のおうちがある月って、どんなところ、なのかな?」


 普通に考えれば、地球より小さくて、重力が低くて、大気の薄い、砂と岩だらけの場所。人間が生きていける場所じゃない。


「そうですねぇ。静かですよ」


「どんな人がいるの?」

「月に人はいませんよ?」


「それはそうだけど……君は現に月星人なんでしょう?」

「うんと……あたしは……あたし達は、地球の生命とは少し違います。少なくとも同族と出会うことはありません」


「淋しくはないの?」

「淋しいってなんですか?」


 キョトンとした顔で彼女は言った。シラを切っているそぶりでなく、聞きなれない言葉の意味を尋ねるような、態度。抑揚。


「なんですか? って……えっと、周りに誰もいないと、不安になったり、悲しくなったりしないのかって……」

「そう、ですねぇ……。年中宇宙狼に追いかけまわされていますし……もうすぐ月虫の季節ですし月の地下には砂鯨もいます……それに、私にしかできないことがありますから。だから……そう言った気持ち? になったことや考えたことはありません……ねぇ」


 少し、申し訳なさそうに女の子は答えた。

 伏せた目がグラスと、グラスの中で溶けて角が丸くなった氷を映していた。

 氷に問いかけるように、でも、と女の子は続けた。


「地球を見ている時、沢山の地球の命を見てると、なんだか、不思議な気持になります。その時、あなたが言ったようなこと、少し感じる気がします」


 神妙な女の子の表情に、なんだか嫌な質問をしてしまったような気がした。

 幸か不幸か、先程注文した季節のフルーツパフェを片手に携えてウェイターが現れたのはそのタイミングだった。


「お、美味しそうだね。僕も注文すればよかったかなぁ!」


 濁った空気を無理やり振り払うように僕は言った。


「月面人にも色々あるんだね。他にはどんなことをしているのかな?」

「そうですねえ。地球に潮の満ち引きを起こしたり、自転が早くならないようにしたり、それから、それから、月に困ったことがないか見て回ったり、お掃除したり」


 ワンオペ二十四時間保守管理と言ったところだろうか。

 とんだブラック衛星もあったものだ。うたたねしても文句は言えない。


「じゃあ、やっぱり早く帰らないとまずいんじゃないの?」

「う。だから、そうなんですよ。どうにか早く帰る方法を探さないと」


 と、言いながら、季節のフルーツパフェを食べる手は休めない。

 そういえば、誰かとご飯を食べるのも久しぶりなら、こんなたわいない会話を誰かとするのも久しぶりだ。

 上司の小言でもなく取引先の無茶な注文でもなく、同僚同士の罵りあいでもなく。

 なんでもない、ただの会話。

 

 僕は、やっぱり彼女の語る物語を楽しく感じている。

 次々と現れる見たことも聞いたこともない世界。

 目を閉じると、それが浮かんでくる気がする。

 

 彼女の話は、馬鹿げているけれど優しげで、突拍子もないけど誰も傷つかない。

 

 僕は僕の空想する物語が嘘だと知っている。現実逃避だと知っている。

 でも彼女自身が見て聞いて感じている世界は、やっぱり彼女にとっては本物で、そこには嘘がない。


 馬鹿げてるからと切り捨ててしまうには、正直すぎて、素直ですぎて。

 突拍子もないからと邪険にするには、愚直すぎて、真摯すぎる。


 それは遠い昔に、置いて、忘れて、必要ないと言い聞かせて、取りに行こうともしない僕の落とし物なのかもしれない。


 だけど、もし、彼女が言う月という場所が、月という存在が、現実の何かの比喩なのだとしたら、月とは狼とはなんなのだろうか。

 それが辛い現実なのだとしたら……本当に、彼女を家に帰してもいいのだろうか。

 かといって、自分の家に連れ込むわけにもいかない。

 元時点で十分にアウトなのだ。

 

 会話をする限り、言ってることはトンチンカン……でも、受け答えはしっかりとしている。

 質問には返してくれるし、礼儀も正しい。

 身なりも奇天烈ではあるが小綺麗で着崩したり不潔だったりするわけではない。

 家庭に問題があるというのは少し違う気もする。

 そもそも家出をした女の子が、過剰な妄想でデコレーションされているとはいえ、帰りたい、という趣旨の申し出をするだろうか。

 もちろん現実の家と妄想の家が違う可能性もあるけれど。

 

 どうにせよ。

 

 この子が見ている世界とは別に、僕が逃避する空想とは別に、やっぱり現実は、あまりにも現実として存在している。手を伸ばせば、すぐそこにある。


「うん、帰らなくちゃ」


 彼女も、僕も。

 女の子がパフェの最後の一口を名残惜しそうに頬張った。

 スプーンがグラスに落ちる音が、夢の終わりを告げる目覚ましの音のように響いた。

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