第4話 ロケットなんかなくっても
月から落ちた女の子、か。
昔似たような話をどこかで読んだ気がする。
確か星の王子様、だっけか?
砂漠に不時着した飛行機乗りと小さな星からやってきた王子様の話。
どんな話だったかはよく覚えていないけど、王子様が飛行機乗りに自分の冒険を語って、最後は愛するバラの花にもう一度会うために、星に帰る話、だっただろうか?
「王子様は……どうやって星に帰ったんだっけか……」
ファミリーレストランから出た僕達は、出会った公園へと引き返していた。
交番に向かうにはここが一番近道だ。空気は一段と冷たくなって、月は西へと少し傾いて、柱の上に備え付けられた時計の針は日付を跨いで、新しい今日が始まっていた。
冷たい空気、冬が近づいたような錯覚。
日が昇れば、どうせまた、暖かくなるのに。
「地球って思っていたよりもすごく良いところですね。ご飯は美味しいし、人は親切だし」
彼女の気分ばかりが春模様だ。
「そうでもないよ。悪い人も沢山いるし、平和じゃないところも沢山ある。平和なところだって、みんながみんな幸せなわけじゃない」
「でもあなたはいい人です」
「僕もそんなにいい人じゃないよ」
本心じゃ君の言っていることを信じてはいないのだし。
「この公園を抜けたら、君を月へ連れて帰ってくれるかもしれない人がいる場所につくよ」
女の子の嘘を暴く場所へと、嘘で誘う。
それにしても、どうやって警察にこの子のことを説明して、保護してもらえばいいんだろうか?
結局なにも分からなかった。そもそも、いくらお腹を空かせているからと言って、親戚でもない十代の女の子を食事に誘うのはその時点で犯罪じゃないか。
彼女と出会った時点で事件性を認識していたのなら、すぐに救急と警察に通報するのが遵法者として取るべき最善の方法だったんじゃないか。
なら、なんで?
公園の中央。小さな噴水が闇夜に浮かんでいた。覗き込むと水面に落とし込まれた星空に五日月が映って揺らいでいる。
「この月なら、手でだって触れられるのにね」
皮肉混じりに言った。自分への? それとも女の子への? わからない。
そして苦笑した僕の瞳が見たのは、雷に打たれたように、眼を丸くした少女の顔だった
「そっか……そうですね」
女の子は小さく頷き、あっけに取られている僕の手を握った。
「ロケットなんかなくっても、最初からそうすれば良かったんです!」
「ちょ、ちょっと待って。状況が飲み込めない。どういうこと?」
答えは言葉ではなく、行動だった。
女の子は僕から手を離すと、噴水の縁へと軽やかに飛び乗った。
振り向いて、また、あの満月のような、柔らかな笑顔を僕へと注いだ。
「ここからなら、あたし、月に帰ることができそうです」
「え、えっと。つまり、その、この中に飛び込むってこと?」
今宵何度目かの唐突さに、またも混乱しつつも、僕はそれだけなんとか口にした。
女の子は小さく頷くと、少しだけ悲しそうな顔で僕を見た。
「これが淋しいってことなんでしょうか?」
「え?」
「向こうとこっちの道が閉じるまで、多分……時間はあまりありません。それがわかっているのに……もうちょっとここにいたいな、って、そう思ってるあたしがいます」
心配しなくても、帰れないと思うけどな……。そう思いつつも、女の子の言葉や態度は自分が信じる真実を疑ってない。だからなのだろうか?
「ここだって……本当は月と似たようなもんだよ」
僕は、思ってもなかった言葉を返していた。
「人間っていうのは七十億人もいるのに、みんな案外一人なんだ」
じっと彼女の目を見据える。金色の瞳に自分の姿が映っている。
「どうしてなんだろうね。朝がくれば、この公園も人でいっぱいになる。でも、その中で、他人を人格ある個人として見ている人はどれだけいるんだろう。ほとんどにとって知らない誰かは動くただの物体なんだ。その誰かがどんな風に生きていようが」
なんとなく、命や心があるんだろうなって、そう思っているだけ。
「僕を知っている人。僕が知っている人はどれだけいるんだろう」
彼女は僕をどんな風に見ていたのだろうか。僕は彼女の目を直視する自信をどこか失いはじめていた。
でも、言葉は途切れることなく続いていく。
「それが普通だし、あたりまえだとは思う。思うけど。もしかしたら誰かを知るって言うのは怖いことなのかもしれない。信じることなんてなおさらだ。だから知っているフリをして、信じている真似をして。そして、そうこうしているうちに」
やっと、気づいた。
「一番近くにいるはずの自分のことも見失ってしまう」
僕はきっと話がしたかったんだ。
「人が多すぎる世界も考え物だよ」
誰かに、自分はここにいると気付いて欲しかったんだ。
誰かに自分の物語を語って聞いて欲しかったんだ。
彼女が話していることは、現実ではないかもしれない。
でも嘘じゃなかった。
嘘をついていない彼女に、僕もこれ以上の嘘をついてはいけない。そう思った。
「地球も、月の砂漠とそう変わらないよ」
「一人なんかじゃないですよ」
女の子が笑う。長い言葉に返された、短く、優しい否定。
「あたしは、あなたと会えて嬉しかったし、楽しかったです。あなたがそう思ってくれたかはわからないけど。あなたのことをもっと知りたいと思いました」
口を開いたまま、女の子の言葉が止まる。何かを表現したいのに、言葉が見つからない、そんな様子で。
「そう思える存在とは……地球ではなんと言うんでしょうか?」
その質問は、心の中、深く暗い底の見えない場所へ落ちていき、月明かりのように輝いて、闇を照らした。
光の向こうに固く閉じられた扉がある。質問は鍵に姿を変えて、閉じられた扉の錆びついたかんぬきを解き放った。
「友達……?」
出てきたのは、ありきたりなのに、もう何年も使われずふるぼけた言葉。
「ともだち」
うん、と女の子は頷いた。
「そう、私とあなたはともだちです。月にだってともだちがいるんですもの。地球にだって、きっと、ううん、必ずいます」
「そうかな……そうだといいんだけどね」
僕は、多分、とてもおかしな顔をしていたと思う。
「むしろ僕の方が宇宙へ出て行きたいよ。代わりに月へ行きたいくらいだ」
おかしな顔をしたままそう言った僕に、女の子は困った顔を浮かべ、
「ダメですよ。月は地球より大気が薄くて重力も弱いんです。人間じゃ一秒たりとも生きてられないんですよ」
とても現実的な言葉を呟いた。それは、僕が君に言うべき言葉じゃないかな。
「あなたのこと、忘れません」
ぺこりと頭を下げて、女の子の足が噴水の縁を離れた。
その瞬間、思い出した。
そうだ、王子様は自分の星に帰るために……。
『重たい自分の肉体を地上に置いて行くのだ』
手を伸ばしていた。その瞬間、本気で思った。
あの水面に彼女が爪先をつけたら、途端に肉体は抜け殻になってしまうと。
馬鹿げてる。
そんなこと、あるわけない。
もう、どこからが本当で、どこからが嘘なのか分からない。
もし、嘘が全て本当ならば、君が本当に月に帰ってしまうのなら。
確かなことは、君がここにいること。僕を友達だと言ってくれたこと。
僕は君のことを何も知らない。本当のことなんて少しも話してない。
君のように、自分の言葉で自分の物語も話せてない。
「待って……!」
伸ばした手が女の子を肩を掴みかけた瞬間。
灯かりが消えるように、女の子はフッと消えた。
消える瞬間、僕に向かって微笑みかけた気がした。
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