第32話 


☆ 要 渚


 借りたタオルを頭からかぶったまま椅子の上でうな垂れると燃え尽きたボクサーみたいだ。

 僕は今、頭が色々な思考で塗りつぶされて却って何も考えられないような状態に陥っている。


「そうやって姉ちゃんみたいなことばっかりしてさ……。僕をどうしたいんだよ」

 有無を言わさず頭をガシガシ拭かれた時は恥ずかしさと興奮で急速に体温が上がった。そのまま茹で上がって倒れるんじゃないかと思ったほどだ。でも先に倒れたのは合流した母さんだった。理由は心因性のショックと過労からくるもので、前者も後者も心当たりがありすぎる僕は胸を痛めた。自分が負ったケガなんてそれに比べたらかすり傷だ。


 あれから数時間。もう一度荒木さん親子と話して今回の件はお咎めなしだと伝えた。そしてイジメの事実も。向こうの校長たちや電車を非常停止させた件で警察も来ていたからちょうどいいだろう。あとはそっちでどうにかしてくれ。僕はもう関わりたくない。


 問題はこっちだ。点滴に繋がれている母さんの腕はシーツに負けないほど白かった。一緒に暮らしてるとはいえ僕は母さんの顔と手足以外の素肌を見る機会が極端に少ない。せいぜい夏の湯上がりくらいだし、スナックの照明は薄暗くてオレンジがかってるから日中に見る肌の色がこんなに白かったことも知らなかった。まるで病人だ。今は本当に病人だけども。


「母さん、歳とったね……」

 若く見えようがキレイだと言われようが、手の甲や首すじは年齢が誤魔化せない。その言葉に反応したわけじゃないだろうが母さんの目がゆっくりと開かれた。そして僕を視界に入れた途端「いま何時?」と。

「三時過ぎだよ。学校はボチボチ放課後かな」

「三時……? 大変。お店の支度しないと」

「いやいやいや、今日は休みなよ。今日はっていうかしばらく」

 母さんが無理やり起きようとしたから僕は慌ててそれを制した。

「どきなさい渚」

「でももうお店に臨時休業の札かけてきたよ」

「……それ、ほんと?」

「ホントホント」

 そう言ったら母さんは寝返りを打って向こうをむいてしまった。本当はまだかけてないけど嘘も方便ってことで。


「いい機会だしさ、そろそろ本気で従業員雇ったら?」

「……それより先に言うことがあるんじゃないの?」

「あー……うん。心配かけてごめん」

「……」

 気まずい。こういう時って本当の親子だったらもっと会話が続くのかな。いや、どうだろう。こればっかりは性格の問題だもんな。どうしたもんか。僕も母さんも人付き合いがすこぶる下手だし。姉ちゃんは上手かった記憶があるけど。

 時計の秒針がやけにうるさく感じられるほどの嫌な沈黙。それを破ったのはやはりと言うべきか先生だった。……ノックくらいはしてほしかったかな。

 僕が名前を呼ぶと母さんも反応して入ってきたばかりの先生を見た。そんでもって顔だけ確認してまた寝返り。先生ってばすっかり嫌われちゃってるな。

「あー……弘絵さん。お体のほうはいかがですか?」

「……すこぶる悪いわ。アンタの顔を見たら特にね」

 じゃあ見なきゃいいのに、と僕は先生と顔を見合わせてお互い苦笑を浮かべた。

「じゃあ僕、一旦帰るね。入院用の荷物とか持ってくる――」

「私……」

「え?」

「もう限界……」

 あまりにも静かな空間だったから消え入りそうな声で紡がれたその呟きが予想以上にクリアに聞こえた。


「もうアンタの母親……続けらんない」

「ど、どうしたの急に」

「アンタのことが全然分からないの。いつだって私は置いてきぼり……」

 なんだろう。母さんの様子がおかしい。僕と先生のあいだに緊張が走った。倒れた時に頭でも打ったかな。

「置いてきぼりって、僕がいつ母さんを置いてったのさ」

「今回の件がまさにそうじゃない。一昨日学校から電話があって、どうせまた担任からだと思って出たら息子が暴力を振るったって言われた私の気持ちがアンタに分かる?」

「あ、それは……」

「混乱したままワケを聞いたらあの先生とヨロシクやってるみたいな写真がネットにばら撒かれたですって? なんの冗談かと思ったわ。でも実際にその画像を見たら頭が痛くてたまらなかった。アンタは私が負わせたケガを化粧で誤魔化してもらってたみたいだけどあの写真でその言いわけが通じるわけないじゃない。なのにアンタは悪びれもせずに、それどころか何かを成し遂げて達成感を感じてるような顔をしてて……。私、心底アンタが怖かったわ」

 僕が、怖い? それこそなんの冗談だよ。僕はいつも母さんに支配されてるのに。


「そのうえどうやったのか知らないけど犯人を見つけて相手の親まで引きずり出して、かと思えば処分は先生に一任します、ですって? 挙句の果てに電車に飛び込もうとした女の子を助けてケガをしたって聞いて……こんなんじゃ心臓がいくつあっても持たないわよ……」

 そして母さんはまたこっちを向いて「ねぇ、アンタ。どこに行こうとしてるの……?」と猜疑心たっぷりの目で僕を見たんだ。

「僕は……どこにも行かないよ」

「嘘つき!」

 ひときわ響いたヒステリックな叫びが窓を震わせた。実際には風でそうなっただけなのに母さんの仕業だと思わせる凄みがあったんだ。そして母さんの症状は秒単位で悪化していった。


「そうやってみんな、私を置いていくのよ……。主人も、あの男も……結弦も」

 言いながら這うように体を動かして僕の腕を掴む母さん。その力が予想以上に強くて僕は本能的な恐怖を感じた。見かねた先生が割って入ろうとしたけど先生も女の人だし、おまけに非力なほうだから引きはがせる気配すらなかった。

「弘絵さん、落ち着いてください」

「そうだよ母さん。興奮したらまた――」

私になんの恨みがあるのよ! いつもいつも心配ばかり掛けて、当てつけみたいに結弦の服を着続けて……。自分が結弦の代わりになろうとでも思ってるの!?」

「ち、違うよ。だいいち、僕が姉ちゃんの代わりになんてなれるわけないじゃんか」

 母さんに掴まれた部分が熱をはらんでジットリと汗ばんでいく。だというのに僕はまだどうにか冷静でいられたから少しだけ考える余裕があったんだ。母さんが繰り返す”置いていく”という言葉の意味を。


 母さんの最初の旦那はシンシンと雪が降る年の瀬の会社帰りに交通事故で亡くなったと聞いている。姉ちゃんはまだ保育園に通っていたころの僕を迎えに行った帰りに事故に遭った。その後、二番目の旦那、つまり僕の実の父親は出張に行っているあいだにウチへ離婚届を送ってそれっきり。

 いずれも母さんは『行ってらっしゃい』と言って送り出したはずなんだ。帰ってこないなんて露ほども思わずに。それらの事情を考慮すれば僕の『どこにも行かないよ』だなんて発言は浅はかだった。だってついさっき死にかけたばかりなんだから。

 行ってきますと出かけていって無事に帰宅できる根拠なんてどこにもない。その途中で事故に遭って死ぬ可能性があることをどうやって否定できようか。人間はなぜ『自分だけは大丈夫』だと盲目的に信じたがるんだろうか。少なくとも毎日十人近くが事故で亡くなっているのに。


 万が一そんな事態に直面したら、母さんはもう迷うことなく姉ちゃんたちのあとを追うだろう。おそらく遺書も残さずに。そんな姿を想像したら僕は振りほどくための力が込められなくなった。そのせいで二人してバランスを崩してベッドから落ちてしまったんだ。

「ごめん、母さん……。でも、そんなこと言ったってさ、どうすればいいのさ」

「なんでなのよ……なんで私ばかりこんな目に遭うのよ……! なんでアイツらは生きてるのよ!」

 え、いや、待ってくれ。母さん、もしかして相手が誰だか知ってるのか?

「返してよ! 私の娘を返して!」

 ……違う。これは……母さんは荒木さんたちを、母親と娘の組み合わせを見て精神のバランスが保てなくなったんだ。姉ちゃんが長い眠りに就いている時も母さんは同級生や友人の見舞いを全て断っていた。元気に動いて喋る同じ年頃の女の子を見られないから、と。


 その頃から少しずつ母さんの情緒は不安定になっていったんだ。いつだったか、お店のゴミ箱に精神安定剤のゴミが捨てられていたこともあった。それを僕はひた隠しにしていた。血が繋がってないとはいえ自分の身内が精神的におかしくなったなんて信じたくなかったし、周囲には秘密にしておかなくちゃと思ったから。

 今はこんなでも昔は本当に凄く優しかったんだ。たった一年くらいだったけど、その一年があったからこそ今でも母さんと一緒に暮らせてると言える。また昔みたいに戻ってほしいって願っちゃうし、一人にするのが心苦しくて。一緒に過ごしていればいつかまた優しかったころの母さんに戻ってくれるかもしれないと僕自身も信じているから。


 でもこれは予想以上に悪化してる。決定打になったのは僕の不用意な発言と行動の数々だろう。いつもそうだ。僕は知らず知らずのうちに母さんを傷つけてる。十三年前もそうだった。

 そしてもう一つは飛鳥井先生の存在。ずっと女っ気がなかった僕にそういう人が現れて、あまつさえ化粧だなんて一人だったら絶対に縁のないことまでしちゃったから母さんは僕が急速に手元から離れていく恐怖を味わったに違いない。

 普通の親なら我が子が大人の階段を登ることを喜びこそすれ、恐れるなんてしないはず。でもこの人は――ひょっとしたら僕も――普通じゃなかった。


「お願いだから……アンタはもうどこにも行かないで……!」

 直前のものと噛み合わない支離滅裂な言動。母さんはもう、ダメなのかもしれない。僕には……どうすることもできない。所詮子どもの僕には……。

 直後、僕は信じられないものを見た。おろおろするばかりだった先生が決意を固めたような表情を浮かべたかと思うと、母さんをそっと抱き寄せたんだ。

「お母さん」


 その瞬間、病室から音が消えた。たった数秒間の沈黙。だけどこの数秒間で僕の頭の中では数ヶ月が経過したような気がする。おそらく同じ体験をしている母さんの脳内ではもっと長い、具体的には十七年ほどの時間が流れたはずだ。

 それは僕と母さんが姉ちゃんと過ごした時間だった。

 そうだ。これ、あの時と似てる。僕が熱中症になって保育園を早退きした日の出来事と。姉ちゃんはあの日、ベッドから落ちそうになった僕と戸棚で頭をぶつけて悶絶する母さんをそっと抱きしめたんだった。

「お母さん。私、ここにいるよ」

 母さんが驚愕に目を見開き、ワナワナと震えていく。


「一人でずっと頑張ってたもんね。ちょっと休もっか」

 僕からは先生の顔は見えない。けど確かに、そこに姉ちゃんの面影を感じた。

「お母さん。私に……命を繋いでくれてありがとう」

そう告げられた瞬間に母さんは先生の背中に腕を回し、ワンワンと子どもみたいに泣き始めたんだ。何度も何度も死んでしまった娘の名前を叫びながら。



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カナメの落とし物 黒瀬 木綿希(ゆうき) @ikarita_kuma

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