【後編】詩雫の雨雫

       ***



「っ……!?」


 まるで、煙のように。

 まるで、そこにははじめから何もなかったかのように。

 重なったはずの晴莉はるりの唇が、すり抜けた――?


 ほとんど反射的に身を引いていたが、私はなぜか、遅きにしっした感覚を覚えた。取り返しのつかない何かが、起こってしまった。


「あ――……!?」


 突如、凄まじい速度で脳内に映像が流れる。

 これは、記憶……!?


 濁流が流れ込むように、あるいは何かが湧き出るように。

 とにかく、忘れていた記憶が、どういうわけか一気に蘇り始めた。


「おい詩雫しずく、大丈夫か……!?」

「い、嫌、待って……!」

「詩雫!」


 大挙たいきょして襲い来る記憶の大波は、意思ではどうしようもない。視界ごとぐるぐるとゆがんで回る脳裏に、本能的に頭を抱えておののくことしかできなかった。


 走馬灯のように、次から次へと再生される映像。記憶。

 記憶障害になる前の、晴莉と過ごしていた日常の断片。恋人として愛し合っていた幸せな時間。

 ――そして。

 耳をつんざく救急車のサイレン。


「しっかりしろ、詩雫……!」


 なかばパニック状態のようになった私に、晴莉が必死に声をかける。


 頭の中を渦巻いていた記憶は、やがて静かに収束して、脳へ溶け込んでいく。手元に戻ってきて、自分の過去として形を得る感覚。

 それから数秒もすれば、私は、きちんと過去を持つ百森もももり詩雫に戻っていた。


 自分の息がひどく荒れていることに気がついて、固唾をみ込んで深呼吸をする。かすんで震えていた視界も次第に安定し、ただ疲労だけが残った。


「詩雫……?」


 心配そうな晴莉の声音こわね

 意識的に、ひとつ大きく呼吸をする。


「……思い、出した」

「………………そうか、」


 思い出した。全部。

 目の前の少女が、どのような存在なのかも。


「じゃあ、……ウチのことも、思い出したんだな」

「えぇ……そうね」


 記憶障害前の記憶が戻って、記憶障害になってからの記憶も戻って、だから目の前に存在している事実も理解してしまって。

 記憶に代わって押し寄せるあふれんばかりの感情は、小さな溜息となって漏れ出した。


 うっすらと浮かぶ晴莉の笑みは、寂しそうだ。かなしそうだ。



「晴莉、あなたは――



「……そーだな」


 言って、さらに深めた笑みは、やはり哀愁の色で。明朗快活な合川あいかわ晴莉は、もはやそこにはいない。


 ――大学の講義に出て、その帰りに晴莉の家に寄る。日によってはそのまま泊まる。

 それが、記憶障害になる前の私の生活だった。ひとえに、病に伏せた恋人を支えるため。


 晴莉は体が弱かった。軽い風邪なら毎月かかるくらいに。

 私が看病で晴莉の家に通い詰めるようになったのは、彼女がとうとう大きく体調を崩して寝たきり寸前になったときだ。診断は、ただの風邪。もちろん風邪にも軽重けいちょうはあって当然だから、体の弱さをふたりして笑っていた。

 だけど。


「免疫不全並みに病弱だったあなたは、風邪が肺炎に悪化して、それに気づく猶予すらないまま、」

「……案外苦しくないもんだったぜ、死ぬってのは」


 一瞬言葉に詰まった私から会話のバトンを取り上げて、晴莉はあっさりと結論を口にした。


 あの夜。

 夕食を食べられて、会話もできたくらい、快調だった。

 それなのに、翌朝語りかけたとき、晴莉の体はぴくりとも動かなくなっていた。すぐに救急車を呼んだ。当時の詳細な記憶は脳がにごしてしまっているけれど、のちに重度の肺炎だった可能性が高いと医者に言われたことだけは覚えている。

 一緒に記憶されている救急車のサイレンは、その一件でトラウマとなってしまった。


 記憶障害が始まったのは、それからだ。


「……毎日忘れてしまって、ごめんなさい」

「謝んな。詩雫は悪くねぇ」

「明日また、同じやり取りをするんでしょうけど」

「…………そのことなんだけどよ、」


 何やらとても言いにくそうな声色こわいろと素振りで、晴莉の目が左右に泳ぐ。

 次の言葉を聞くより早く、言い得ぬ不安を覚えた。


「もう、これで終わりだ」

「え……どういう、こと」

「あのな、……今日で、死んでなんだよ」

「ぇ――……」


 …………。


 しじゅう、くにち……?


 私は、これまでに誰かの葬式に出る機会がなかったから、法事についてはあまり詳しくない。

 それでも、四十九日の概念くらい知っている。


 つまり。晴莉は、――……。


「……今のウチは、霊体と、詩雫の幻覚の狭間はざまみたいな存在なんだよ。だから、詩雫が夕方に記憶を取り戻して幻覚から解放されるタイミングで、毎日消えてた。そんでまた、朝に記憶障害が始まれば幻覚として干渉できるようになる。……そういう、存在だ」

「…………」


 霊体。幻覚。その、狭間はざま

 何を言っているのか分からない。分からないはずなのに――私の頭は、苦もなくその事実をみ込んでしまった。納得の二文字が浮かんだ。


「いっそ、完全な幻覚ならいいのになって思ってたんだけどな。やっぱり本質は霊らしい」


 耳で受け取った晴莉の声が、脳に届く前にかすれて消えていくように感じた。あまりにも突然牙をむいた現実への、脳のなけなしの拒絶。


 晴莉は、笑っている。いつもなら、私も笑っている。

 笑い合って、記憶障害のせいで日中にできなかったまともな雑談をするのだ。その時点で晴莉は幻覚という依代よりしろを失っているから、話せるのはほんの少しだけだけれど。

 それでも、また明日会えるからと。少しだけでもまた話せるからと。

 ……今日も、そのつもりだったのに。


 心構えなんてできているわけがない。

 こんなことなら、いっそ記憶なんて戻らなければよかった。


「いや――」

「ん?」

「いやだ、晴莉。いかないで」


 声に混ざってしまった弱々しい震えを聞いて、自分が泣きそうになっていることに気がついた。


 毎日のことだから、分かっている。

 あとどれだけの時間、晴莉とこうして話していられるか。

 永遠の別れが、どれほど近くまで迫っているか。


 早くも、じわ、と目元が熱くなってうるみ始めた。


「なんだよ。冷血お嬢様が泣くなよ、ばーか……」


 笑顔と泣き顔は、ときに境界がひどく曖昧で。

 同じくゆらぎを帯びた晴莉の声。彼女もまた、目元を赤らめていた。

 気を抜けばすぐに目つきが悪くなってしまう彼女の双眸そうぼうは、しかし今や、いたいけな少女のそれに他ならなかった。愛らしく――どこまでもかなしい。


 言いたいことが頭の中で無尽蔵に湧き出る。感情だけが、ひとりでに加速していく。


「晴莉とまだ一緒にいたい……」

「そりゃ、ウチもだよ」

「私だって手帳があるの――晴莉と行きたい場所とか食べたいものとか、たくさん書き留めてあるの。どれだけ記憶を失ったって、これからの晴莉との思い出まで失いたくなかったから……!」

「は……」

「だから、おねがい、晴莉……!」


 りきんで上手く動かない腕を、それでも必死に晴莉の手へと伸ばす。


 両手で思い切り掴んだのは、もちろん、空気だ。


 何度掴み直そうとしても、目からの情報を無視して手はくうを切る。

 ふわ、ふわ――そうやって無を掴むたびに、心が端から崩れていく感覚。壊れてはいけない何かが、砂山の一角が次々と剥がれていくように。


 頬を、温かい雫がなぞって落ちた。


「詩雫――もう、やめろ」

「どうして、どうして触れられないの……っ!? 晴莉はまだ――!」

「もういいんだ、詩雫」


 少し低めな晴莉の声は、いつもは少なからず圧をはらんでいて――けれど、今のそれには温もりしかなくて。

 一歩踏み出して私に優しく腕を回した晴莉に、思わず動きが止まった。


 相変わらず、触れられた感触はない。見えているのに、そこにかたちはない。

 だから、今感じている彼女の体温だって――きっと気のせいだ。


「ありがとな」


 なだめられて、かえってたがが外れる。そっちこそそんなに涙をこらえた声音こわねで、どう落ち着けと言うのか。


「ごめんなさい……! 私が晴莉のことを忘れなければ、もっと話せたのに――もっと一緒にいられたのに……! ごめん、なさい……っ」

「詩雫……」


 もはや、自分でもきちんと話せているか分からない。とにかく胸の奥が潰されたように苦しくて、息が上手にできない。


 そのせいか、晴莉の体がらいで見えた。


「あのさ、詩雫。これが最後になるから、聞いてくれ。……忘れるってな、そんなに悪いことじゃないんだよ」


 そう、ささやくように。

 最後という言葉が、氷刃に化けて私の胸を刺した。ひゅっ、と喉が鳴る。


 彼女は、それでも静かに続けた。


「人生は――この世界は、楽しんだ奴が一番強いようにできてる。生き方が上手いってのは、だから不幸すら楽しむ奴を指す言葉だ。でも凡人にはそんなことはできない。……だから、不幸なことは、忘れりゃいいんだよ」


 涙の膜の向こう。

 晴莉の存在感そのものが、薄れているように感じる。


「不幸を意識さえしなければ、人生なんて幸せに満ちあふれてる。何が起きたって負け組にはならねぇの。……だって、ウチがそうだったんだからよ」


 なぜか、顔を持ち上げられた気がして、晴莉の瞳を見上げた。

 んで細まったその双眸そうぼうは、どこまでも綺麗で、どこまでも深くて。


 だけど――やはり、幻視も、幻聴も、皮肉なことに治まろうとしているようだった。

 運命は、どうやら待つ気がない。覚悟が、できていない。


「死んだのは不幸だ。詩雫と離れちまうんだからな。……だけど、たとえ幽霊で幻覚で――そんな状態でも、詩雫と話している間は不幸の記憶なんて頭のすみにもなかった。目の前の詩雫のことしか見えてなかった。それが、幸せだった」

「ぁ――……」


 それこそ、煙のように。はじめから何もなかったかのように。

 晴莉の存在が、風に乗って消えていく。


 待って――お願いだから。


「だから、気にすんな。記憶障害なんて、悲観しなきゃむしろ超能力なんだから――」

「は、はるり……っ!」


 今さら焦って手を伸ばしたところで、何かが起きるはずもない。


 あまりにも突然訪れた最期は、笑顔もなく、声もなく。

 合川晴莉は、思念としての一言だけを残していった。


「死ぬほど幸せになれ、ばーか」


 窓の外は、朝の快晴とは打って変わって――しとしとと降る雨雫あめしずくの世界だった。






 ぷち。ぷち……。


 ブリスターパックから、錠剤を押し出していく。ちくちくと心を刺すような音とともに。

 夜の薬の時間だ。

 抗うつ剤、精神安定剤――いわゆるPTSDの治療薬。


 先例も仕組みも治療法もない記憶障害とはいえ、晴莉の死をきっかけとして発症したのだから、つまるところ私の病気はPTSDの一種にあたる。処方された薬は、なるほど記憶障害を抑えるようで、一、二時間ほど記憶の回復が早くなった。


 それに、これがPTSDだと分かれば、失う記憶の種類にも納得がいく。

 晴莉の手帳には、私が私のことを忘れた記述はひとつとしてなかった。着替えや料理というのは――彼女の看病をしていた頃に私がやっていたことだ。彼女のことはもちろん、彼女の死を思い出す可能性のある記憶まで、睡眠をトリガーとして消えていたのである。


「忘れるって、そんなに悪いことじゃない……?」


 ――不幸なことは、忘れりゃいい。


 晴莉の言葉が、もう数えきれないほど脳内で復唱されている。


 私は、薬を飲むことで記憶を早く取り戻そうとしていた。毎日忘れるのが、晴莉に申し訳なくて。

 けれど彼女は、忘れることを肯定した。……忘れる対象が、自分だというのに。


 自分の存在自体が不幸だと。

 不幸を忘れれば幸せだと。


 それは、つまり。


「私が幸せになるには、晴莉を、」


 晴莉にとって、彼女自身は不幸そのもので。

 晴莉にとって、不幸を忘れることが幸せで。


 ――死ぬほど幸せになれ、ばーか。


「…………そうね、」


 錠剤を、握りしめた手。


「晴莉が、そう言ってくれるなら」


 私に、恩知らずでいていいと言ってくれるなら。


 がさりと、ごみ箱が音を立てた。

 その底には、私を救うフリをして、幸せを縮める錠剤たち。



 明日も、まぶしい朝日がす。

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愛して眠ってアムネシア 乙糸旬 @shun-otsushi

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