愛して眠ってアムネシア

乙糸旬

【前編】晴莉の晴るけ所

「――おはよう。そんでたぶん、はじめまして」


 彼女は、毎日ウチのことを忘れる。毎日きっちり、毎朝さっぱり。

 さて。

 今日も今日とて、しがない女子大生の片想いが始ま――。


「ッ!?」

「あぶぁ……!?」


 ぱぁん。

 右側だけを伸ばしたうざったい前髪の下、こいつの魅力の大半を受け持つ切れ長の双眸そうぼうが見開かれて、わずか一秒足らず。細い腕による全身全霊の平手打ちが飛んできた。


「いっ…………なんですぐに手が出るんだお前は!」

「あ、あなた誰よ……!?」

「まず謝れ! 毎朝毎朝ぶん殴りやがって!」

「はぁ……!?」


 あまりの衝撃にちらつく視界の真ん中で、彼女――百森もももり詩雫しずくによる出力最大のしかめっつらがこちらを睨みつけてくる。寝起きで少し乱れた髪から覗く美貌を、遠慮の欠片もなく怪訝けげんそうにゆがめて。

 持ち上げて留めるのに馴染んだウチからすれば、大学入学時から変わらないその前髪は何度見ても鬱陶うっとうしい。


 叩かれた左頬がじんじんと熱をもってくる頃で、じわ、と涙がにじんだ。


「ったく……。知らねぇ奴に起こされて怖いのはもっともだからなぁ、責めるに責めらんねぇのがもどかしい!」

「なんの話よ……?」

「いいか? 今お前が叩き飛ばしたのは、お前を献身的に支えてやってる恩人なんだぞ」

「え、」


 すがめられていた目が驚嘆に開く。


「……私の病気のこと、知ってるのね」

「おん。謝る気になったか」

「……ごめん」


 まだ動揺の色が濃い面持ちのまま、口を動かしただけのような謝罪だ。

 毎朝全力ビンタをくらって鬱憤も相当溜まっているが、まぁ、ただでさえ大変な思いをしているこいつにこれ以上負担をかけてもしょうがない。


 ――それにしても。


か……」


 落胆だの寂しさだのを吐き出すつもりでつぶやいて、ズボンのポケットからメモ帳を取り出した。クリップで留めた小さなペンを外しつつ、最新のページを開く。


「何書いてるの、それ。何が今日もなの」

「気にすんな」

「えぇ……?」


 不満そうにうなる詩雫を尻目に、小さなメモ帳の上でペンを走らせた。


 昨日以前に書いた箇所と同様、今日の日付を書いて、その下に箇条書きの中黒をいくつか並べる。ひとつめの項目に【合川あいかわ晴莉はるり】と――ウチの名前をつづった。

 続く項目は、もう少し話さないと分からないな。


「……病気、どれくらい知ってるの?」


 病気――一ヶ月半ほど前に突として発症した、先例のない記憶障害。

 医者をもってしても、仕組みも治療法も迷宮入りした難病だ。ウチが詳細を知るわけはない。


「見て分かる範囲だけだ。……毎朝記憶の一部を失った状態で目をます。生活に支障が出るレベルから始まって、時間経過で徐々に緩和、夕暮れ時には九割がた快復。失う記憶は日によって若干変わる。それくらいしか知らねぇ」

「そう……本当に、よく知ってるのね」


 疑念か、安心か、好奇か――そのどれとも測りかねる詩雫の面差しから視線をらし、メモ帳を仕舞った。


 あぁ――苦手だ。

 この、記憶のページが破れた状態の詩雫と話す時間が。

 もう何度も経験して慣れてきた今でも、一歩間違うだけで心を閉ざされてしまうことへの恐怖がとにかく不快で。何より不安で。


 喉の奥を、それこそ不快な苦味のようなものが駆けた。


「まぁな。……だからまぁ、遠慮なく頼ってくれ」

「えぇ、……じゃあ、」


 怯えて身を引いたままの体勢だった詩雫が、のそのそとベッドの上で座り直した。さすがに頭にのぼっていた血もけてきたらしく、彼女の表情から棘が消え始めている。


「まず、あなたの名前と、私との関係をいてもいい?」

「合川晴莉。関係は、……大学の同級生だな」

「はるり? 変わった名前ね」


 何度目か分からないセリフを、相変わらず淡々とした声音こわねで言う。


「そーだろ? 呼びたくなければ合川って呼んでくれ」

「変わってると言っただけで、変だとは言ってないわよ。私は好き、その名前」

「……どーも」


 ……これこそ、口を動かしただけの相槌だ。


 もう、その言葉では照れない。寂しさが勝ってしまうようになったから。

 毎朝自己紹介のやり直しで、毎朝そうやって名前を褒めてくれる。変わっているけれど好きだ、と。それを言うときだけは、怯えも警戒も取っ払った淡い笑顔で。


 じゅ、と胸の奥を焦がした何かは、だから最高に心地が悪い。


「……さて、」


 思わず寄せてしまった眉根に気づかれないよう、ぱん、と手を叩いて改まった。


「まずは着替えだ」

「……え?」

「き、が、え」

「……私の?」

「そ」


 詩雫の目元に怪訝けげんさが復活。


「冗談やめてよ、こっちはあなたと初対面のつもりなのに」

「じゃあ着替えがどこにあるか覚えてるか?」

「は、それくらい………………」


 言葉と裏腹、不安げな彼女の眼差しが、こっそりと部屋を一周見回した。

 ウチの口角もこっそり上がる。ざんねぇん、この部屋にはないんだな。


「どんな服持ってるか、覚えてるか?」

「…………いいえ、」

「よし脱げ」

「にしてもよ! ……って、うわっ!?」


 ムササビさながらに飛びついたウチに、詩雫の体がびくりと跳ねた。


 ここでこいつが殻を割らないのは、もう何日も見てきたから嫌というほど分かっている。知らない人に裸を見せるのは……とか、女同士だとしても距離というものが……とか。そんな、を言いつらねて。

 過去に“話の通じないチンピラ”なんて愛称をつけて喧嘩を売ったのは、他でもない詩雫だ。公認のならず者として、遠慮なく引っがさせてもらう!


「待ちなさ……ちょっ、ま、待って!」

「早くも気取った口調が崩れてきたな。いつまで“冷血お嬢様”でいられるかな」

「どうして高校時代の蔑称を……!」

「ばーか、今もその蔑称じゃい」

「な、あ……っ!」


 記憶障害に都合よく消してもらっているらしいコンプレックスを突きつけて、生まれた一瞬の硬直で上のパジャマを盛大にはだけさせた。

 途端に詩雫の頬が赤みを帯びる。普段は冷然とした雰囲気をまとっておいて、案外こういう展開に流されることは知っているのだ。


「お前、またこの下着か」

「なに、駄目なの……?」

「扇情的すぎるからやめろっつったろ」

「覚えてないわよそんなこ、と……っ!?」


 冷静さを失って隙だらけの詩雫をごろんとひっくり返し、はだけたトップスを完全に脱がせる。それに気を取られた瞬間にズボンをすぽんと引っこ抜いた。

 上下セットの、彼女が一番のお気に入りだと言っていた下着が露わになる。無駄に洒落こんだ白と黒の意匠いしょう


 下着に際立てられた玉の肌――その面積の大半を一呼吸のうちに網膜にきつけた、そのとき。


「っ……」


 突然、頭痛に襲われた。

 頭蓋骨を内側から叩くような疼痛とうつうに不意を突かれて、思わず喉が詰まる。


「え……なに、どうしたの」


 あられもない姿のままの詩雫が、心配そうにうかがってきた。

 余計な心配をかけてしまったことは不本意だが、痛み自体は一瞬のことで、すでにほとんど治まっていた。


 ……この痛みには、思い当たる節がある。

 やっぱり、か。


「なんでもない」

「記憶障害だからって、そんな嘘が通ると思う?」

「……気にすんな」

「また、それなのね」


 悲しげに――寂しげにそうこぼす詩雫を前にしてどこか居たたまれなくなり、ベッドから降りて乱暴に掛け布団を被せた。

 巻き込んだ空気が布団の隙間からゆっくりと抜け、しぼんで詩雫の身体を覆う。その微妙な間は、微妙な沈黙だけを連れて流れた。


 不自然なまでに静まった部屋に背を向けてドアを開き、すぐそこに用意していた衣服一式をベッドの上へと放り投げてやる。ぼす、という音の向こうで、詩雫の細いうめき声が聞こえた気がした。


「自分の心配だけしてろ、ばか。……朝メシできてるから、着替えたら出てこい」


 少し困惑した表情の詩雫が、窓からす朝日に照らし出されていた。






 ――昼下がり。


「はい」


 こん。

 くだんの手帳を開いて眺めていたウチの前に、コーヒーの入ったマグカップが差し出された。薄霞うすがすみのように、ほんのりと立つ湯気が空気中へ溶け出している。


 特に何を考えるでもなくその水面を眺め、次に視線を移した先は、ダイニングテーブルの向かいに同じマグカップを手にして座った詩雫だ。

 両手で包むように持って口元に当て、ふー、と細い一息を吹きかけている。


「……ねぇ、そろそろ教えてくれないかしら。それは何を書き留める手帳なの」

「…………」


 上唇を当てただけにすら見える小さなひとくちのあと、もの言いたげな薄目でそう切り出してきた。


 再び手元のメモ帳に目を落とし、そこにつづられた自分の文字を目で追った。

 いくつか縦に並んだ箇条は、一番上の【合川晴莉】に始まり、【服】【ブラ】【料理】【掃除】などの言葉が整然と続いている。すっかり書き慣れたそれらは、やけに勢いのある筆跡だ。


 はぁ――と溜息が漏れた。

 見せないつもりだったが、さすがにそうもいかないか。


「ん」


 今日のページが開いたままの手帳を、押し付けるように手渡した。即座に釘付けになる好奇の目。


「備忘録ならぬ忘録だ。その日その日で、詩雫が何を忘れてるかメモしてんだよ」

「え、」


 透き通った双眸そうぼうから、一瞬で好奇の色が消えた。代わって――驚嘆といったところか。

 その拍子に落とすように置いた詩雫のカップの中で、まるで彼女の胸中を投影したかのように水面がゆらゆらと揺れている。


「どうして、そこまで」

「……ノーコメント」

「えぇ……?」


 想定どおり不満そうにうなったが、再びコーヒーを口にした詩雫は手帳へと目を落とした。すぐに見入って、無言のままページをさかのぼっている。

 しばらく、紙のれる音だけが鳴る静寂が流れた。


「ま、それはゆっくり見てくれていいが、」


 そこまで言って。

 また――前触れもなく、頭痛が走った。不快な疼痛とうつう


 ただ、今回はほんの一瞬のことで、強度も朝よりいくらかマシだった。

 おかげで言葉が止まったのも少しのことで、加えて詩雫も手帳の達筆を読み込んでいたから、次に言葉を続けるまでに怪しまれる隙はなかった。


 にしても……やっぱり今日なのか。なんて一秒も信じたことなかったが。


「なんか、してほしいことあるか?」

「え?」

「ウチは詩雫をサポートするためにここにいんの。だから、してほしいこと」


 これは、一応毎日くようにしている。症状は本人にしか分からないし、だから苦労や疲労も本人にしか分かりようがない。たいてい「結構よ」なんて返しやがるが。


 きょとんとした詩雫は、果たして手帳を閉じて言った。


「――キス」

「………………は?」


 今度は、ウチが手にするマグカップが危うく滑り落ちかけた。


 まるで、時が止まったようだった。

 キス――って、言ったのか? 詩雫が?


「なに言って――もしかして薬が効いたのか!?」

「え?」

「だって、まだこんな時間だ。記憶が戻るには早すぎる」


 記憶が戻って、ウチのことを――ウチとの関係を思い出すのは、およそ夕暮れ時だ。まだ数時間先のことのはずである。


「記憶は戻ってない。私にとって晴莉は、まだ今日会ったばかりの人よ」

「じゃあ、なんで――」

「晴莉、あなた私の恋人でしょう」


 え。

 不意と図星を同時に突かれて、その一文字すら言葉にならなかった。


 対する詩雫は、どこかたのしそうな笑みをたたえている。


「大学の同級生、なんてにごしたみたいだけど」

「……なんで、」

「晴莉が、私のタイプのど真ん中だから。過去の私が、あなたをただの友達で済ませるわけがないって、思ったから」


 言って、やはりたのしげに笑う。

 そうやって崩れても美しい容貌でありながら、同時に子どものように。無邪気に。


「……当たり?」

「…………あぁ」

「やっぱり」


 したり顔の詩雫を、ウチは直視できなかった。


 あり得ない。

 記憶を取り戻して、ウチとの関係性を思い出した詩雫ならまだしも。白紙の状態の彼女が、そんな積極的な言動をするはずがない。知り合って半日程度で、心どころか唇を許すような――そんなに脇の甘い奴ではないのだ。


 だって、今でも覚えている。

 詩雫の記憶障害が発覚した日、ウチのことが分からないと言われて。そのショックは言い得るものではなく、柄にもなく泣き崩れて。

 さしもの冷血お嬢様もそんなウチを見放すことはせず、不安を押し殺して受け入れようとしてくれたけれど、その無自覚な言葉の刃は毎朝新鮮なつもりをして振るわれた。

 ウチが気をいて前のめりになるほど、詩雫は心を閉ざす日々だった。


 それが当たり前になって、ようやく慣れてきた頃に。

 急にそんな希望のようなものを見せられたところで、受け取り方が分からない。


「……ねぇ、こっち来て」

「…………」


 その誘いに、ウチの体は勝手に従っていた。

 腰を上げて、詩雫の隣まで歩み寄る。座ったままの彼女を、複雑な想いとともに見下ろした。


 どうしても今日は――嫌な予感がぬぐえない。

 日に日に頻度と強度を増し、ついに今日明らかな悪化を見せた頭痛が、運命というものをありありと語っている。信じるかいなかの問題ではない。


 キスをすると、何かが起こる。

 根拠のない確信が、ウチの胸に確かに居座っていた。


 ――刹那。


「っ……」


 心の準備もできないまま、ぐい、と詩雫の唇が迫った。


 薄いくせに柔らかくて、温かくて、甘美なそのリップ。

 一瞬触れたように感じて――けれど、ふっ、と。


 



       ***

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