バスを降りる時

ちびゴリ

バスを降りる時

「どちらまで行きますか?」


 不意にそんな声が届いたような気がした。ひと昔どころか大昔と言ってもいいほど遠い記憶なのにと思いつつも、初めて直接受け取った切符の感触を指先に感じた。


 そういえばいくら払ったんだろう。考えて数秒もしないうちに苦笑が漏れた。五十年も前の話なのだから思い出せるはずもないと言った呆れた笑いだった。それでも左右に激しく揺られるバスの中で何事もないようにバランスを取る車掌の姿だけははっきり浮かんだ。


 とにかく格好が良かった。黒い車掌カバンにハサミパンチ。いつかはあれを手に仕事をしてみたいと憧れたものだ。



 しかし、時代は変わった。


 バスの前面にワンマンと表示されると同時に車掌は姿を消した。それは私の中にずっと揺らめいていた炎が吹き消された瞬間でもあった。確かにあの時は落胆した。全く別の仕事でもと一度は考えたが、結局バスからは離れられなかったということか。


 私は大型二種の免許を取得し、路線バスの勤務に就いた。観光バスの方が花形にも見えるし、会社から打診されたこともあった。正直、迷ったものの生活に密着したあの雰囲気が好きなんだろうと、私はその話を辞退した。


 今なら言える。その決断に間違いはなかったのだと。こうして何十年も飽きることなくハンドルを握り続けて来られたのだから。


 正面に顔を向けながら右のミラーに一瞬目をやってから、左のミラーに視線を向ける。そして早めの合図。これは守り通してきたこだわりでもある。年寄りに停留所を訊かれたのは何百、いや何千回を数えるだろうか。降りる際に丁寧にお礼を言う小学生に何度心が洗われたか。そんな時は投入する硬化すら心地よく聞こえたものだ。


 それに比べたら自分の幼少期など恥ずかしくて比較にもならない。着いたとばかりにただ慌てて降りただけ。今ならどやしつけてやりたいくらいだ。


―――四丁目の交差点に差し掛かる。慣れ親しんだ道だが決して油断はしない。無事故無違反は私の誇りでもある。周囲に注意を払いつつゆっくりとハンドルを左に切る。もちろん、車両をあまり傾けないことも重要だ。停止線を越えて止まる車も多い場所だが、今日に限ってはマナーが良いらしく、バスはスムーズに狭い交差点を折れることが出来た。


 時計を見る。ほぼ時間通りだ。しかし、今日の時間だけはいつもと違って見えた。時を刻む音が聞こえてくるような感じがする。



「ありがとうございました」


 最後の乗客に礼を述べると私は息を大きく吐き出した。何十年と抑えてきたような息だった。営業所に戻り定位置にバスを止めると帽子を一旦取って薄くなった髪を撫でた。それから愛おしいものに触れるようにハンドルを掌でなぞった。


「ありがとう」


 思わず声が零れていた。


 降車支度を整えてから立ち上がった私は今一度誰も居なくなった車内に目を向ける。すると朧気ながら様々な光景が浮かんで見えた。小学生だった子が高校生になり、やがて忘れた頃に結婚して子供を連れて来たことがあった。毎日乗っていたお婆さんが急に見えなくなったこと。いつも座っていたのは助手席側の一番前の席だった。


 いろんな顔が浮かんだ。


 何かが違うステップの感触を味わうかに車外に出ると、並んだバスの間からぞろぞろと人が出て来て私の前で整列した。どれも知った顔だったが、事態が把握できずに困惑した。


「まーちゃん。お疲れさま」

 

 第一声を発したのは営業所長の佐藤さんだった。彼は苗字ではなく守という名前から私をいつもこう呼んだ。それに続いてあちこちから声が掛かった。観光部の運転手やガイドまでもが顔を揃えていた。


「事務所に戻ってからってのも考えたんだけどな。やっぱり車を降りた時がいいだろうって――」


 直後、拍手の音に包まれた。それぞれの顔をじっくり眺めるようにしてから私は帽子を取り深々と頭を垂れた。


「ありがとうございました」


 だいぶ遅くなってしまったが、出来ればあの時の運転手さんにもこの言葉を届けたいと思った。


 定年最後の乗車という本日に。

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