最終話

 父が失踪して六日目に、高校は夏休みに突入した。

 翌日は祖母を病院へ連れて行くため母は朝から家を出て、私も部活へと出掛けた。ただ学校へ着いてみたら部活は午後からで、たまたま会った友達と軽く話してから帰宅した。


 田舎の家らしく我が家もいつも鍵も閉めず出入りしていたから、玄関が開いていても気に留めなかった。ただ、たたきに見慣れた男物の靴を見た時は、別だった。

 気づかれぬようそろりと向かった座敷で、父はボストンバッグに荷物を詰め込んでいた。何してるの、と掛けた声にびくりとして振り向き、痩せた顔に張りついたような笑みを浮かべた。


 父が失踪した日、私は父にある頼みごとをしていた。

 伯母と叔母に今年の盆は母を手伝うように、手伝わないのなら帰ってこないように言って欲しい。それすら言えないのならもう、出て行って欲しい。

 家族を引き連れ訪れる伯母達にこきつかわれ、母は毎年のように盆明けに倒れていた。歳のせいか年々ひどくなる症状を見兼ねて、誰も言わないことを私が言った。


 母が倒れてしまう状況は、当然父も知っていた。母のことを少しでも思う気持ちがあるのならと願ったのだ。でも父が選んだのは、後者だった。

 まさか後者を選ぶとは思わなくて、あの日近所中を探し回った。そして見つからない姿に、絶望した。

 父を失踪させたのは、私だ。


 しばらくしても何も話そうとしない父に出て行くのかと尋ねると、私を見ない角度で頷いた。


――うるさくて、もう耐えられない。ごはんくらい、穏やかに食べさせて欲しい。


 少し枯れた声で返されたのは、初めて聞く父の主張だった。娘の私になら言えると思ったのかもしれない。でも私の血を逆流させるには、十分な言葉だった。

 父はろくに荷物も収めていないボストンバッグを手に腰を上げ、私の傍をすり抜けようとした。


 どうしても、許せなかったのだ。


 その腕を掴み、もぎ取ったボストンバッグで思い切り殴った。ふらついた体を勢いよく蹴り倒したその先に、座卓の角があったことは忘れていた。

 鈍い音のあと、父の軽い体は小さく跳ねて畳に落ちた。そしてそれきり、動かなくなった。その時点では多分父はまだ生きていたが、母を守らない男など不要だった。


 私は父を背負い、あの日もこうして裸足でここを歩いた。背負うようで背負えず、時折引きずりながら、こうして。


 譲葉の下、辿り着いた古井戸は枯れ始めた蔦に覆われている。軽く掻き分けるとぱきぱきと乾いて折れる音がした。あの日はもっと大きく掻き分けて古びた蓋を開け、汗だくになりながら父の体を井戸の縁に引っ掛けた。あとは足を持ち上げれば、落ちるまではすぐだった。鈍い音を聞き遂げたあと再び母屋へ戻り、ボストンバックと玄関の靴も追加で投げ込んだ。あとはもう、何もないはずだったのに。


――お母さん、園子には本当に感謝してるの。


 税理士になったばかりの頃、母は私を抱き締めながら言った。感謝されるのも触れられるのも、物心ついてからは初めてだった。


「私が息子なら、ね」

 鍵を残したのは多分、私が良心の呵責に耐えかねた時の保険だったのだろう。

 小さく笑い、少しだけ作った隙間から車の鍵も落とす。再び蔦を戻せば元どおりの古井戸だ。次に開くのは多分、私が死んだあとだ。


 足を払い広縁へ戻り、緩い風にしばらく吹かれる。冷えた首を撫でると、刈り上げられた襟足に触れた。


――園子ちゃん、お父さんの若い頃にそっくりね。


 不意に浮かび上がる涙を抑えきれず、顔を覆った。


             

                            (終)

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母の本懐 魚崎 依知子 @uosakiichiko

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