第2話
葦井の住所は、父の年賀状を掻き分けて見つけた。とはいえ、もう二十年以上前のものだ。日に焼けた年賀状には、崩した女性らしい文字で『お互い良い一年になりますように』と書かれていた。幼なじみにしても気安く思えるのは、疑っているからだろうか。
辿り着いたアパートの二階を見上げ、一息つく。幼い頃には既に古びて見えていたアパートは、廃墟のようにも見えた。砂利敷きの駐車場には車が止まっているから住んでいるのだろうが、土曜なのにまるで人の気配がない。敷地の隅に積まれた錆びた自転車や粗大ごみは、不安を掻き立てる。それでも、行くしかない。意を決して車の隙間を縫い、階段へ向かった。
腐食の進む階段を上がり、年賀状にあった二〇三号室の前に立つ。色褪せた木目の合板が貼りつけられたドアには、防犯対策などまるで気にしていない丸ノブがはまっていた。
緊張する手を軽く揉んだあと、呼び鈴を押す。なんとなく気配を感じたが、出てくる様子はなかった。
「突然すみません、
ドアを二回ノックしたあと、控えめな声で身元を明かす。はっきりと感じられた気配が近づき、鍵を下ろしてドアを開いた。
薄暗い隙間に見える女性は、年をとっているが間違いなく葦井だ。
「お久しぶりです、伴部です。父のことで少し、お伺いしたいことがあって」
切り出した用件に、葦井は黙って頷く。ドアをもう少し開けて、私を迎え入れた。
頭を下げつつ足を踏み入れた室内は、作りは古いものの整頓された清潔感のある場所だった。見る限りは一人暮らしらしい。
「急に、どうしたの?」
葦井は私にダイニングの椅子を勧め、冷蔵庫へ向かう。
「以前、父が失踪したあとにうちに来て、私に父が家にいるかと聞きましたよね。あのことを今日思い出したら、気になってしまって。結局、あれから父とは会われましたか?」
座りつつ切り出した私に、葦井は緩く頭を横に振った。
あの頃は胸の辺りまであるパーマヘアを揺らしていたが、今はすっきりとしたショートヘアだ。あの頃は気づかなかった白髪の多さに、年月を感じる。確か幼稚園の先生をしていたはずだが、もうとっくに定年だろう。
「あの時、父はここにいたんですよね?」
「そう。突然ふらりとやって来て、『一緒に逃げよう』って言ったの」
葦井はミルクティの紙パックを手に、水切棚からグラスを二つ下ろす。予想していた内容なのに、実際に聞くのは想像以上に堪える。膝の上で組んだ手に力を込め、深呼吸をした。
「園子ちゃん、今年でいくつ?」
ミルクティで満たしたグラスの一つを私の前に置きながら、葦井が尋ねる。
「三十六です」
「そうなの。私も年をとるはずねえ。もう六十六よ」
もう一つを手に、笑いつつ向かいの席に座った。
「お婿さんが見つからなくて、大変なんですってね。あなたのおうちは相変わらずね。お母さんが亡くなってお祖母さんが施設へ行っても、何も変わらないんじゃないの?」
「私は婿をとる気はありません。後半はそのとおりですが」
閉鎖的な場所だから、噂はすぐに広がってしまう。
嫁のように従わない孫に憤慨した祖母が娘を呼び戻せと言い出したのは、半年前だ。慌てた伯母達は相談して祖母を説得し、自分達の責任で施設へ入れることに決めた。
「彼と私は幼なじみで、高校の時に付き合ってた。でもうちはあまりいい家じゃなかったから、お祖母さんや伯母さん達に反対されて別れたの。女性が強い家で、お祖父さんとお父さんはすごく肩身が狭そうだった」
女の気が強いのは、母を除けばそのとおりだろう。祖父の記憶はほとんどないが、父は祖母や伯母達の言いなりだった。食卓で祖母が母を責め始めても止めず、俯き黙って食べ進めた。一度も母を庇ったことはなかったし、私が祖母に言い返していても何も言わなかった。
「あんなこと言うの、初めてだった。よっぽどのことがあったんだろうと思って、放っておけなくて泊めたの。一緒に逃げてもいいって伝えたのは、三日目くらいかな。仕事がつらい時でね。彼は嬉しそうだったけど、そこから腰を上げるのにまた三日くらいかかった。私が出て行く準備を始めたから動いたって感じ」
葦井は苦笑しつつ、私より早くグラスを傾けた。丸い指先に短い爪が並ぶ、素っ気ないが実直そうな手だ。仕事の名残か、手の甲にはたくさんのシミが散らばっている。
母が私を少し離れた幼稚園に通わせたのは、最寄りの幼稚園には葦井がいたからだろう。
「でも、仕事もこれまでの人生も全部捨てるつもりで待ってたのに、戻って来なかった。いいように振り回されたと思ったら腹が立って、会いに行ったの。でもあなたの反応を見て、帰ってないことを知った。家からも、私からも逃げたんだなってようやく気づいたの」
頷いて、私もミルクティを口に運ぶ。甘すぎる味に一口でグラスを置いた。小さく咳をして、あの、と切り出すと葦井は視線を擡げた。少しまぶたは下がり始めているが、丸くくりっとした目が印象的な人だ。瞳の色は、まだくすんでいない。
「父がここに来た時、車の鍵を持っていたと思います。ここにありませんか?」
「ううん、ないよ。持って帰ったはず。どうして?」
「父のものが残ってるなら、回収させてもらいたくて」
探るように聞こえたのか、葦井は少し間を置いてミルクティを飲む。半分ほど減らしたグラスを置きつつ、残念だけど、と言った。
「ここには何もないよ。あれから一度も会ってないの。会いに来るかもって、思ってはいるけどね」
視線を伏せつつ語られた言葉は、事実に聞こえた。今もこの部屋に住んでいるのは、父を待っているからだろう。いつか戻って来るかもしれないと思えば、引っ越しもできない。それでもこのまま、死ぬまで待つつもりだろうか。
「すみません、ごちそうさまでした。お邪魔しました」
挨拶をして腰を上げた私に、葦井も頷いて腰を上げた。
「父の、どこが良かったんですか?」
玄関へ向かいながら、ずっと聞いてみたかった問いを投げる。
「気が弱くて泣き虫で、昔は私がいつも面倒を見ててね。その延長じゃないかな。放っておけなかったの」
葦井は少し前を行きながら、全く同意できない答えを返す。幼稚園で働いていたくらいだから、面倒見のいい人なのだろう。
スニーカーに足をねじ込み、では、と頭を下げて踵を返す。
「園子ちゃん、お父さんの若い頃にそっくりね」
背後から聞こえた声は無視してドアを開ける。やっぱり鍵は、家に戻されていた。
――私だって、男の子を望まれてることくらいとっくに分かってます。
母が泣きながら祖母に訴える姿を盗み見たのはいつだったか。自分が女だから母が苦しんでいるのだと察したのは、小学校低学年の頃だった。
筆頭は祖母だったが、周りも似たようなものだ。親族だけでなく近所の面々が口にした「園子ちゃんが男の子だったら」は私を蝕み、私に私を呪わせた。そこから少しでも逃れたくて男子のように髪を短くしたりズボンを選んだりしてみたが、所詮は上辺だけの変化だ。無駄なあがきは、小学五年生の冬に終わった。訪れた初潮は私を叩きのめして、言いようのない敗北を味わわせた。何をしても無駄なのだと、嘲笑われたようだった。
それでも母を守りたくて、セーラー服を着ながらも息子のように振る舞った。幸い私の体には女性らしい丸みがなく顔立ちも男のようだったから、服さえ選べば少年にしか見えなかった。中学では男子より女子にモテて、「王子」と呼ばれていた。
あの頃にはもう、息子のように振る舞えば振る舞うほど「男だったら」がついてまわることに気づいていたが、戻り方が分からなくなっていた。でも母のために、男のように跡を継げば良いのだと信じていた。
家に帰り、再び母の座敷へ向かう。引き出しからあのケースを取り出して、また開いた。相変わらずそこにあった車の鍵を握り、広縁へ出る。窓を開け、足を投げ出して座った。
父は郵便局に勤めていたが、内気な性格が災いしてか昇進は気配もなかったらしい。同じく郵便局員だった伯母の夫が着実な出世を果たす度、食卓の祖母はヒステリックに母を責めた。祖母の理屈では「結婚するまでは親の責任だが、結婚したあとはもう嫁の責任」になるらしい。出世できない素地を作った自分の子育てを棚に上げ、まるで自分はまともに育てたかのように母を断罪した。
子供の私はその理不尽を理解できなかったが、ただ母に対する攻撃が許せなくて反発した。本当は「うるせえ死ねくそババア」くらい言いたかったが、母が一層追い詰められるのが分かっていたから、できる限りお上品な言葉を使った。
祖母の横暴に常に疲れ切っていた母は止めたり止めなかったり、その時の心の余裕で決めていたのかもしれない。
一方で、上座で黙ったまま食事を消化する父はお飾りの殿様のようだった。枯れ枝のように痩せた小さな人で、シャツの肩がいつも尖っていた。誰に対しても声を荒くするようなことはなかったが、どんな場面でも、ただそれだけの人だった。
母は、父が戻ってきたことにいつ気づいたのだろう。葦井が訪ねて来た時にはもう、知っていたのか。
よ、と広縁から裏庭へ下りると、足の裏がひやりと冷たい。祖母がいたら口煩く言われるだろうが、今はもういない。鍵のリングに指を突っ込み、回しながら歩く。
母は、いつも陰で泣いていた。昔は祖母の横暴さが原因だろうと思っていたが、育つにつれて父に原因があるのだと分かってきた。少しも救おうとしない、父に。
私のあとに子供が産まれなかった理由は分からないが、父がそれに関するあらゆる罵詈雑言から母を守らなかったことは分かっている。
耐え難きを耐え忍び難きを忍び続けた母に、全てを放棄して葦井の元へ逃げた父の姿はどう見えたのだろう。失踪のあと息を吹き返したように光を取り戻し、七年経つやいなや失踪宣告の申立をした母には。
母屋の影を抜けた先には鬱蒼と茂った譲葉が数本、垂れた照葉を風に揺らしている。あの日も、そうだった。
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