母の本懐

魚崎 依知子

第1話

 幅の広がった黒いパンプスに、野太い爪先が飲まれていく。じゃあ、と顔を上げた伯母は、少し垂れた目尻の皺を深くした。


「おばあちゃんのこと、長いことありがとう。あとはもう任せて、園子そのこちゃんはお婿さん探しに専念してね」

「ケアマネさんには、引き継いだことを改めて連絡しておきます。今日は来てくださって、ありがとうございました」


 正座の膝を揃え直し、浅く頭を下げる。十六年ものの喪服は、最近腕回りがきつい。体重は三キロほどしか増えていないのに、肉のつき方が変わってきたせいだろう。

 顔を上げた私に伯母は少しの間を置いたあと、ショールを掛け直して玄関を出て行った。


「あー、すんだすんだ」

 立ち上がり、ネクタイを引き抜きながら自室へ向かう。爪先で行儀悪く襖を開け、脱いだ喪服をベッドへ投げた。


 母がくも膜下出血で死亡したのは昨年の今頃、第一発見者は仕事帰りの私だ。仏壇に供えるところだったのだろう、倒れた母の手元には仏飯器が転がっていた。


 別にそれが原因なんて非科学的なことは言わないが、気に食わなかったのは事実だ。冷たくなった母の背をさすりつつ上げた視線の先では、遺影の父が薄く笑っていた。


 肌寒さに、少し分厚いスウェットに着替えて洟を啜る。十一月に入って一週間ほど、急激な冷え込みに体がまだ馴染めない。三十の坂を半分越えればこんなものだろう。個人的には来ない婿を探し続けるより、更年期に備えて自分をひたすら労っていたい。


 直系だの傍系だの、皇族でもないど田舎の平民がばからしい。このぼろ屋敷を守りたいなら伯母にも叔母にも息子がいるのだから、適当に継がせればそれで済むだろう。私まで親族の思惑に消費されるのはごめんだ。母は、そのせいで。


 自然と落ちた視線を上げ、気持ちを切り替えて仏間へ向かう。いつもより華やかに設えた仏壇を片付けるのは、今年二回目だ。今回は母の一周忌だが、夏には父の十三回忌をした。



 父が失踪したのは、私が十七歳の夏だった。土曜日にふらりと出掛けた父が日曜日になっても帰らなくて、母は警察に届け出をした。財布も携帯も持たず、車の鍵だけがなくなっていたが、車は置いたままだった。


 私も当時は、サンダルを突っ掛けて町内を探し回った。汗だくになりながら見つめた家の白壁が、いつの間にかぎらつく夕陽に染まっていたのを覚えている。

 何度か見たことのある女性が我が家を訪ねて来たのは、それから二週間ほどした頃だった。


――お父さん、おうちにいる?


 長屋門の影でぼんやりと水路を眺めていた私に、葦井あしいは少し困ったような表情で聞いた。


 葦井は父の幼なじみで、以前は隣の町区に住んでいた。父の失踪くらいとっくに知っているはずの距離だった。頭を横に振ると葦井は礼を言って踵を返し、私は家へ戻り母に報告した。台所にいた母は一言、そう、と言って、洗い桶にきゅうりを投げ込んだ。


 もう少しあとになってから、父が出て行って一週間は葦井の家にいたことを知らされた。

 その七年後、母の申立により父の失踪宣告は成立し、父は法律上の死人となった。



 仏壇を片付けたあと、思い出して母の座敷へ向かう。

 今日の一周忌に訪れたのは、伯母と母方の祖父母の三人。形見分けというわけではないが、祖父母には母の座敷を自由に見て好きなものを持って帰ってもらった。私がいたら気を使うだろうと席を外してそれきりで、座敷の状態を確認していなかった。


 一抹の不安を抱きつつ引いた襖の先はこれまでどおり、ぱっと見では違いを見つけられない。安堵しつつ確かめた机の上には、少し歪な字のメモが残されていた。


 『ありがとう。万年筆を一本、いただいて帰ります。できれば、私達が死ぬまでは部屋をこのままにしておいてやってください。』


 面と向かっては告げられなかった願いは、伯母を気にしてだろう。娘が使っていた座敷でも、ここは嫁ぎ先だ。片付けられても文句は言えない。


 尤も、願われなくても最初からそのつもりだった。私にとっても、ここは「死ぬまでに片付けられたらいい場所」だ。母の痕跡を、一年やそこらで片付けることなんてできない。


 確かめた机の上にはあの日のまま、仕事関係のファイルや本が置いてある。

 母は短大在学中に八歳年上の父と見合いをし、卒業後にこの家へ嫁いだ。私を産んだのは、二十二歳の時だ。まだ若い母に周りは二人目を、跡取りの男子を求めた。もちろん母自身も願っただろう。でも、願いは叶わなかった。


 一息つき、机の上の税法六法をぱらぱらとめくる。

 父が失踪するまで専業主婦として過ごしていた母は、失踪後に一念発起して三年で税理士になった。元々、商業高校から短大の商経学部へ進学し、簿記一級も持っていた人だ。父の失踪により収入の減った我が家を支え、私を育て上げた。私より遥かに華奢な体のどこにそんな力があるのだろうと思っていたが、そんなものはなかったのだ。


 本を置き、なんとなく引き出しを開ける。初めて見る中身は整然と、分かりやすく片付けられていた。その中でふと目を引いたのは、小さなケースだ。母の趣味にしてはかわいらしい兎柄のそれを、思わず手に取る。中でかしゃりと金属音がして、蓋を開けた。


 どうして、ここに。


 一瞬で干上がった喉に、唾を飲む。ケースの中にあったのは、父が持ち去ったはずの車の鍵だった。持ち上げて確かめた鍵には、私が修学旅行の土産であげたキーホルダーもついている。間違いない、父の持っていた鍵だ。それが、どうして。


 鍵を一旦置いて、震える手で顔をさすり上げる。肌寒かったはずなのに額は汗ばんでいて、息も短く浅い。胸はどくどくと早鐘を打っていた。


――お父さん、おうちにいる?


 自ずと思い出された言葉に手を下ろし、時計を確認する。十一時四十分。さすがに、昼前は迷惑か。私にも今は、落ち着くための時間が必要だ。ケースを机の上に置き、台所へ向かった。

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