朝鮮燃ゆ 李方子~朝鮮の母となった日本人~
長尾景虎
第1話 朝鮮燃ゆ!朝鮮の母となった日本人
「朝鮮燃ゆ 李方子(りまさこ)〝韓国の母〝となった日本人」
日韓関係に刻まれた一人の女性の足跡~山口淑子(よしこ)と李方子(りまさこ)の波乱の生涯 時代に翻弄された美しい女優と朝鮮王朝最後の王妃~
~新たな真実!渾身の書き下ろし
『永遠の美人女優・李香蘭』『朝鮮王朝最後の王妃・李方子』の真実が甦る!
total-produced&PRESENTED&written by
NAGAO Kagetora
長尾 景虎
<NHK朝の連続テレビ小説ドラマ化か民放ドラマ化映画化希望>
this story is a dramatic interoretation
of events and characters based on public
sources and an in complete historical record.
some scenes and events are presented as
composites or have been hypothesized or condensed.
……人は望むとおりのことができるものではない。望む、また生きる、それは別々だ。
くよくよするもんじゃない。肝心なことはねぇ、
望んだり生きたりするのに飽きないことだ。………
ロマン・ローラン作『ジャン・クリストフ』より
『「朝鮮燃ゆ 李方子〝韓国の母〝になった日本人」山口淑子と李方子と李
垠の波乱の人生』あらすじ
中国人美人女優・李香蘭こと山口淑子は、一九二〇(大正九)年二月十二日に中国奉天(ほうてん・中国の遼寧省・瀋陽)に生まれた。没年は二〇一四(平成二十六)年九月七日(享年九十四歳)で東京の大鷹家の自宅でひっそりと亡くなられた。もはや過去の人であったが、その存在は蓮の花のように永遠のものになった。ひとつの時代が、おわった。
その存在自体がひとつの奇跡であった。李香蘭こと山口淑子は戦時中に映画歌手デビューした。その後、日本人であるので敗戦後の日本でもジャーナリストそして参議院議員へ。
『白蓮の歌』が大当たり、大ブレイクする。しかし、恋はうまくいかない。男装の麗人として知られた川島芳子と知り合いに。しかし、李香蘭こと山口淑子がスターへの階段を駆けあがったためにふたりの仲には亀裂が。戦争がおわり、淑子は日本人宣言、活躍。
やがて、山口淑子も老いていく。皺やしみが目立ち始め、東京下町で余生を暮らす日々。そんなとき、ユニセフの仕事に目覚める。子供の頃、飢餓を経験した山口淑子はユニセフの仕事に全身全霊であたる。だが、淑子は志し半ばで天国へと召されてしまう。山口淑子は二〇一四年に亡くなった。享年九十四歳。しかし、彼女の魂、思想、博愛は、いまもなお輝きを失ってはいない。
おわり
第一章 小説・パート『李方子 朝鮮王朝最後の王妃』
~物語部 朝鮮王朝に嫁いだ方子さまはいかにして韓国の母となったのか~
山口淑子こと李香蘭演じる白蓮は、何やら中国語か日本語で可憐な歌声で美声を披露する。李香蘭は妖精のように美しい。
現代版おとぎ話ともいうべき『白蓮の歌』は、反日のこころを持つ中国人娘・白蓮が、長谷川一夫演じる、貧乏でどこかうさんくさい日本人帝大生と中国の町を歩きまわり、名所を訪ねていき次第に日本人を好きになってしまうというものだ。シンデレラ物語を逆にしたようなこの映画は、人々を魅了した。日本人庶民の生活に憧れる中国人娘・白蓮を、李香蘭は見事に演じきった。そして、この映画で、李香蘭は「永遠の妖精」として愛されるようになるのである。……
第一章 李香蘭 李方子 誕生
山口淑子と李香蘭(りこうらん・リイシャンラン)
梨本宮方子と李垠殿下
百年前、日本中の祝福を受けた結婚。
朝鮮最後の皇太子と皇室のお嬢様。それは華やかな国際結婚のはずだった。朝鮮は〝朝鮮併合〝で日本国領土とされた。その朝鮮と日本との仲をよくするための政略結婚。朝鮮王朝最後の皇太子・李垠(り・ぎん)と皇室皇族の令嬢・梨(なし)本宮(もとのみや)方子(まさこ)。その人生は波乱万丈の人生である。
日本中が沸いたロイヤルウェディング。
朝鮮併合を日本が宣言。朝鮮王朝最後の皇太子・李垠は軍事を学ぶために日本に留学していた。だが、梨本宮方子さまは最初、あまり乗り気ではなかった。当時十八歳。
梨本宮方子さまは戸惑っていた。
「何故わざわざ風俗も習慣も違う外国人の異国に嫁がなければならないの?」
正直な感想だった。
方子の住んでいた屋敷が今も残っている(現在は外国の大使公邸)。ここが2人のお見合いの場となった。梨本宮方子さまは気持ちの整理もつかぬままのお見合いになった。
〝整ったお顔立ちに眼鏡の奥からのぞく聡明なまなざしが印象的でした。私はうれしい驚きに包まれていました〝李方子自伝より。
〝おっとりとして美しく淑(しと)やかな感じを受けた。写真で見たよりもさらにあでやかで心ひかれた〝李垠の自伝より。
昭和十二(一九三七)年四月、梨本宮方子・李垠の結婚式となった(朝鮮式)。
李方子と垠皇太子の婚礼衣装が残されている。
沿道を自動車でパレード。人々は日本・朝鮮国の旗をふって祝う。〝沿道で打ち振られる旗を目にした瞬間、胸に温かいものが込み上げてきました。こんな大勢のひとが私の結婚を祝ってくださる〝李方子の自伝より。
〝是非とも日朝親善に全力を尽くし皆様の期待にお応えしなければ〝李方子自伝より。
この結婚で李方子は過酷な人生を歩むことになろうとは考えもしなかった。
大正8年4月28日、今から約百年前、ひとつのロイヤルウェディングがありました。
妻となったのは梨本宮方子女王。――日本の皇室から初めて異国の王朝に嫁いだ女性。
夫となったのは李王・李垠(り・ぎん)殿下(韓国読み・イ・ウン殿下)。のちに朝鮮王朝最後の皇太子と呼ばれることになるお方でした。この結婚は当時韓国を併合していた日本が、朝鮮半島の経営を安定させるために、進めたものでした。
しかし、お二人は両国の動乱の歴史に翻弄されながらも、稀有な愛情を築かれたのでした。
梨本宮邸では、ウェディングドレス姿の梨本宮方子女王が、父上・梨本(なしもとの)宮守(みやもり)正(まさ)王と、母上・伊都子(いつこ)妃殿下に挨拶をするところでした。
「お召替えが御済で御座います」
御用使用人の中川たえが囁くように言って、両殿下の前で平伏する。
ウェディングドレス姿の方子が歩いてくる。お美しい。可憐で純白なドレス。
笑顔の方子に、父上も母上も笑顔での頷きを交わす。
〝政略結婚〟といわれながらも、その運命に負けず、固い絆で結婚なされたお二人の愛は、今の我々にどんなメッセージを残してくれるだろうか?
妹君の梨本宮規子女王(まだ幼い)は「まあ、お姉さま、お綺麗よ」と笑顔。
父上も母上も笑顔だ。
東京の李王邸では、李垠殿下が母親の厳(オム)妃(ビ)様の遺影に話しかけているところだった。本当は韓国語ではあるが、日本語で統一したい。
「母上、わたしは今日、日本の女王を妻として娶ります」
ドアがノックされる。
「はい」
すると、李王職事務官・高義(コ・ウィ)敬(ギョン)が、やって来た。
「それではお迎えにいってまいります」
「頼みます」
「御心中、お察しいたします。厳妃さまご在命であらせられれば今日この日をどれだけお喜びになられたか」
「母はきっとお喜びくださられたと思う」
「……殿下」
「私は……そう信じたい!」
この日を境にお二人がたどられた道も、決して平坦なものではありませんでした。
次回は、お二人の御幼少時代まで話は遡ります。
話を変える。
―――李香蘭、歌手、女優、ジャーナリスト、政治家(五十四~七十二歳まで「外交問題」特に「従軍慰安婦問題」担当)。山口淑子さんを突き動かしていたのは贖罪(しょくざい)だった。白蓮の夜・支那の夜などの映画は、いずれも戦前・戦時中の日本人に反発していた中国人娘が日本人にひかれて好きになってしまうという役(中国人娘役・日本人にとって都合のいい役柄)だった。
李香蘭の話はドラマや映画やミュージカルにもなったが、戦後はジャーナリストとしてベトナムや中東・パレスチナなどに何度も取材にいき、弱い立場のひとに寄り添い続けた。山口淑子さんは「今は全て罪を贖罪という意味で、私が残されている時間は一生懸命走り回るところでございます」という。
山口さんは自伝本『李香蘭 私の半生』の中で「私は生まれたからずっと戦争の中にいた。ひととひとが殺し合う中で生活していた」という。
映画『支那の夜』『白蓮の歌』等はゲリラ戦最中の中国共産党や毛沢東が洞穴で観たとか、北朝鮮の金日成が満州で観た、らしい。(自伝『李香蘭 私の半生』共同著作者・藤原作弥さん談)
晩年の山口淑子さん(2007年・当時86歳)〝支那の夜〝について。「ああいう映画がなかったらよかったと今でも思う」「今でも中国と日本のふたつの国を背負っている感じがしてならないの、わたくしは。」(NHK記者に)
当時の戦時中の言葉に『暴支庸懲(ぼうしようちょう)(乱暴な支那(中国)を懲らしめようという意味)』とさかんにつかわれた。
日本人として後述するが漢奸罪から逃れ、命が助かった李香蘭こと山口淑子さんだが、一緒に出演した中国人俳優や仲間が死刑に次々になるのをきいて贖罪の思いでいっぱいになったという。山口さんは言う。「日本人に都合のいい中国の娘の満州の娘の役を私はやっていた訳ですよね。それに一枚加わっていた李香蘭っていう人間が私は本当に許せないし、中国人からみても絶対に許せない存在であったと思いますよ」
生前一度も撮影が許されなかった山口(大鷹)さんの自宅には山口淑子・李香蘭の足跡が多くあった。元・秘書の寒川一郎さんは「先生の思い出でいっぱいですね。……平和というのは望むだけでは得られない。自ら行動して勝ち得なければならない、と先生はおいっしゃってましたねえ」
李香蘭こと山口淑子は、以外なことに赤ん坊の頃はふっくらとした子供であったという。成長してからは、淑子はすっとした痩せたスレンダーな体型だったのに比べれば、赤子の頃は健康優良児だった訳だ。彼女は、一九二〇年二月十二日に生まれた。
父・山口文雄、母・石橋アイの紅一点の娘である。歳の離れた弟・妹がいる。彼女は中国遼寧省瀋陽(旧・奉天)で産声をあげた。生後すぐに両親は満州国(日本軍の傀儡国家・中国東北部)の撫順に引っ越したという。日本人両親との間に出来た正真正銘の日本人娘であり、ハーフでもクオータでもない。中国名・李香蘭等は芸名や中国名で、戸籍には山口(本名・大鷹)淑子、で日本政府に掲載登録されていた。
赤子の淑子は誰よりもミルクを飲む、食欲旺盛な子供だったという。
愛情が足りない分を食べ物で補っていたのだろうか?
母親のアイは、夫(つまり山口文雄の父)とうまくいっていなかった。まず、
……身分が違うこと。そして、伴侶の筈の文雄がナチス・ヒトラーの崇拝者であること……。
それが、不和の原因のひとつだった。
山口淑子の母親、石橋アイは、東京の華族の生まれではあったが、すでに没落していて、経済的に貧困であったという。
しかし、アイは、常に「自分は華族なのだ」と、妙な誇りをもっていたという。
淑子の祖父までは、豪邸住まいで、贅沢三昧だった。
だが、没落すると、アイはお手伝いさんもいなくなりひとりで身の回りをやらなければならなかった。しかし、贅沢ざんまいで何事も『ひとまかせ』だったアイは、最初はなにひとつまともに出来なかったという。
やがて、結婚し、女の子を産んだ。それが、山口淑子である。
「母は本気で女優になりたいと思っていたの」
淑子はある対談でこう語った。
アイは少女時代、女優になりたいと頑張った。しかし、父親に反対される。父親の意見は絶対なので、彼女は従った。女優への憧れが、のちにステージママと揶揄されるような存在になった訳だ。アイは父親に夢を破られたことをトラウマのように感じていたという。 二 十歳になると、結婚を父親が決めてしまった。最初の結婚相手は名前の前に閣下がつく鈴木正太郎左衛門というやたらに長い名前の男だった。男爵の彼は、俗物だったという。
天皇制を必死で守り、思いやりの心も博愛もない……ただ、自分だけのことを考える男で、贅沢を好み、酒色を好む、ひたすら醜い根性の男だった。
マリー・アントワネットの男版といったところだ。
アイは反発した。それは、しんとした静かな反発だ。
しかし、結局、父親のいう通り結婚した。子宝にも恵まれなかった。
やはり、結婚生活はとても憂欝なものだった。結婚当初から、鈴木某と男爵は衝突した。
アイは三度離婚を試みたが、そのたびに父親に、「世間体のことを考えろ」と、説得されて離婚はオジャンになるのだった。
結婚五年目の一九十五年、アイはやっと離婚できた。離婚はスキャンダラスに報道され、人々の話題となった。そこで、石橋一家は未開地・中国・旧撫(ぶ)順(じゅん)に移住せざるえなくなったという。まぁ、夜逃げというか、左遷というか……とにかく逃げたのだ。
その後に奉天(現在の遼寧省瀋陽)に移転する。瀋(しん)陽(よう)とは遼(りょう)寧(ねい)省で、省都市である。その当時の撫順は本当に〝未開地〝で、道路や電気、水道などのインフラもまともに整備されていなかったという。
なぜ、こんな未開地へ……?
やはり、逃げた、といっても過言ではないだろう。石橋一家は、スキャンダルからこの中国の炭鉱町に逃げてきたのだ。おめおめと逃げてきたのだ。
アイとアイの父親と母親は、瀋陽で静かに暮らしはじめた。
長い休暇のような滞在中に、アイは『女男爵』という称号を正式に授かった。が、現地のひとたちは「見栄をはって女男爵などと名乗っている」としか見なかった。それだけ馬鹿にされていたということだろうか。
とにかく、滞在中にアイはひとりの男性と恋におちる。
山口文雄という男である。アイが近くの島に旅行にいったとき知り合ったのだという。彼はたたきあげの鉱山所長で、中国語が堪能な男で、平凡な容姿だったという。しかし、人柄は魅力的で、アイはひかれた。男に幻滅していたアイさえも、彼はひきつけたのである。同じ日本人で満州国関係者であるという。
彼は、愛する女性には親切に、つくすタイプの男であった。
文雄の方も、アイに夢中になった。
電報をわざわざ打って、ヨーロッパからアイのためにプレゼントを送ってもらいプレゼントしたり、蘭の花束を送ったり、いろいろ贈物をした。
また、彼は、女性に奴隷のようにつくすタイプだったため、アイは益々、文雄にひかれるのだった。(アイは男運が悪く、鈴木某のような男の正体でさえ見抜けなかった) 問題は、文雄はアイに優しくしてはくれるのだが、そのために必要な金はアイに頼りきっていたことだ。つまり、財産目当てに文雄は近寄ってきたのだ。
このこともまた、ふたりの間をギクシャクさせる原因ともなる。
結婚生活をさらにギクシャクさせたのは中国・撫順の移住であったという。
撫順は炭鉱の田舎町で排他的なところで、生活もふたりをギクシャクさせる原因ともなった。文雄とアイはいつも口論をしていた。
その被害者は、たったひとりの娘、淑子(李香蘭。幼い頃はおかっぱ頭の〝豆チビ〝と父親から綽名でよばれていた。以下は淑子・李香蘭等と表記する)だった。
「私は両親にかまってもらえなかった。それが、愛に飢えた性格になった原因ね」
李香蘭こと山口淑子はある対談で話す。
とにかく両親はケンカばかりしていた。
撫順は保守的な土地柄で、アイのような意志の強い女性を敬遠しだした。当時のご時世でも、『女性は男より目立ってはいけない』というような男尊女卑が支流であった。当然、アイは〝ペルソナ・ノン・グラータ〝(好ましくない人物)になった。
しかし、淑子は母の影響を受けて育ち、そっくりになった。
一九八四年にアイがこの世を去るまで、母娘はぴったりと寄り添っていた。
アイが淑子に与えた影響は大きく、恋人から友達、結婚にいたるまで常に母親の影響下におかれていたという。アイが厳しく接したため、淑子の潜在的な拒食症を助長したと友人や親類たちは語ったそうだ。撫順での日ごろの、仲良しの子供は俊子ちゃんや美都里(みどり)ちゃん等という少女であったという。
*父親は淑子に厳しく中国語を教えたという。中国語といっても日本の方言のように中国広東語や中国北京語など…いろいろある。父親の山口文雄は一八八九年(明治二十二年)佐賀県に生まれた。父の父、つまり淑子の祖父は博(ひろし)といい、士族出身の漢学者で、父親はその薫陶を受けて中国語を学び、日露戦争後、語学留学のために中国の満州に渡った。
その頃に知り合った中国人の友人に李際春(リイジイチェン)氏や潘航桂(バンユグエイ)氏ら、戦前の親日派中国人がいて、ふたりとも財界人、政治家。その縁で山口淑子は「李香蘭」や「潘淑華(バンシュウホウ)」などの中国名を頂戴することになったという。
淑子の母・石橋アイも、山口文雄と五歳年下ではあるが九州福岡出身である。旧華族で、更に母親の父親、つまり淑子の祖父は回船問屋も営んでいたが、鉄道の発展で事業が傾き、没落したのだった。淑子の父は中国語の堪能さを活かして満州日本陸軍にとりいったが、独学のひとであり無学であったという。それに比べ淑子の母親アイは、日本女子大を卒業したインテリであった。山口淑子は音楽や文学・国語や絵が好きな少女であった。だが、算数と体操はどうしても苦手であったという。
<〝内地(日本国土)〝のように女の子だからといって、お茶、お花、料理、裁縫などは特に習わせられなかった。そのかわりバイオリン、ピアノ、お琴などの稽古にかよわされた。幼稚園時代から父親は私に厳しく中国語とその発音を自ら習わせた。中国語は特に本物の中国人でも通用するくらい厳しく父親が練習させたという>
<父の特訓による中国語をのぞけば、私はごく普通の平凡な女の子だった>
<いわゆる日本と中国の二重国籍だったわけだが、幼い私にはそういう悲哀のような感情は一切なかった><子供ながらに忙しい子供だった>*『李香蘭 私の半生』著作山口淑子+藤沢作弥・新潮社24~28ページ参照引用
*山口淑子が十二歳の撫順女学校一年生のとき、抗日ゲリラが炭鉱を襲撃した『楊柏堡事件』が起こった。<真夜中に揺り起こされ、眠い目をこすりベッドに身をおこすと、母の蒼ざめた顔がのぞきこんでいて、父は身支度を整えていた。父は「淑子はお姉さんなんだからしっかりするんだよ」と言って外出した。弟と妹が四人いたがまだ小さい。窓からののぞくと遠くの炭鉱あたりがオレンジ色になって明るく、ポプラ並木がシルエットのように黒く浮かび上がっていた。夏だというのに震えが止まらなかった。>
<後で、満州国の帝国日本陸軍は首謀者や実行犯の中国人(服装から苦力(クウリイ)頭のような感じだった)たちに暴行し、ころしたり、連行したり、いろいろな残虐な事をしたらしい。><私が思わず眼をつむったときには、もう殴り終わっていて、銃声がした。次の瞬間には、うなだれた中国人の額からおびただしい血が胸をつたわって流れた。現在でも鮮明に残る記憶である>*『李香蘭 私の半生』著作山口淑子+藤原作弥・新潮社29~39ページ参照引用
映画女優になる前からアイの父親の撫順の屋敷にいた淑子は、その隔離されたような家でいたるところに置かれていたチョコレートを手当たり次第食べたという。
「子供の頃はチョコレートが恋人だったわ。チョコレートはわたしを裏切らなかったんですもの。あのころはチョコレートを食べるか、爪を噛んでたわ。それだけ心配事が多かったということでしょう」
対談で山口淑子は語る。
*<通的行為の容疑は晴れたが、撫順に居づらくなった父は、長年住み慣れた土地を離れ、友人を頼って奉天に居を移すことを決意した。
一九三三年(昭和八年)、私は十三歳になっていた。>*『李香蘭 私の半生』著者山口淑子+藤原作弥・新潮社39ページ参考文献
また、第二次世界大戦中に、淑子たちは中国の東北部にある満州の親日派中国人一族の家に隠れて暮らしていた。憲兵に追われて暗い地下室で餓死寸前の経験をした李香蘭こと山口淑子は深い罪悪感に悩むことになる。
「生き残れないひとたちがたくさんいたのに…」
飢餓を経験した淑子にとって、食事は〝贅沢〝であった。
彼女にとって、食事は、『なくても困らないもの』だったという。つまり摂食障害の女性にありがちな考えを生涯もっていた。つまり、……食べないことが、問題解決の道……という考えである。
アイの体型を見ていて、摂食障害になったという見方も出来るだろう。
母親のアイは太りやすい体質だったという。
いつも標準体重より十キロ以上も太っていた。そのため、移り気な夫を繋ぎ止めておくためにダイエットなどを心掛けたという。しかし、痩せなかった。
醜い体型の母を見て、……母のような〝おデブさん〝にはなりたくない!……
そう思っても不思議ではない。
山口淑子は、生涯、四十六キロ以上の体重にはならない、と誓っていた。それは守られた。アイという反面教師がいたからだ。母のようなデブはごめんだわ、と思った。それにしてもどうして彼女が、厳格な裕福な家庭で育った、頭のいい、美しい少女が、映画俳優などになったのだろう。人生ではもっとすばらしいこともあったはずだ。ハンサムな男と結婚し、ことあるごとに「愛してるよ」といってくれる男と結婚し、子供を沢山産むことだってできたはずだ。なぜ……そうだ、思いだした。お金…大金…それが理由だ。そして、ステータス。とにかく、成功するためにはデブになってはいけない。
現代アメリカでは、〝デブ〝と〝スモーカー〝は出世できないという。
〝デブ〝は食事のコントロールが下手で、自己管理ができてない訳だし、〝スモーカー〝もセルフ・コントロール(自己抑制)が弱い結果だ。
〝デブ〝も〝スモーカー〝も、ある意味で醜い。〝デブ〝は外見が醜いし、〝スモーカー〝は精神が醜く他人に煙りで迷惑をかける。
出世しなくて当たり前である。
まぁ、李香蘭こと山口淑子がそういうことを考えてダイエットしていたのかは不明だ。が、李香蘭にはスレンダーな体型こそ似合う。彼女がデブな体型だったら……果たして〝売れた〝だろうか?
李香蘭は幼かったため両親の不仲が自分のせいではないことがわからなかった。 父親は貧乏というほどでもなかったが、裕福という訳でもない。生活するためにずっと働かなければならなかった。いわゆる平凡な中流階級の庶民であった。母親・アイとの喧嘩の原因は、いつも『お金』のことでだった。喧嘩でいつもアイは夫の卑しい出をもちだしたという。
アイと文雄はしかし世間体を気にして、なかなか離婚しなかった。
五歳年下のアイと同様に、山口文雄にも離婚経験があったため、「今度こそは結婚を失敗させたくない」という信念があった。
文雄は旧・奉天(現在の遼寧省瀋陽)に移った。一家もついてきた。
それからは平和だった。
しかし、平和は長くは続かない。
李香蘭こと山口淑子の父親・文雄はナチスに浸透し、家に帰ると大声でプロパガンダ(大衆操作)を並び立てた。子供たちは怖がった。が、淑子はのちに言う。
「私は父親が嫌いではありませんでした。だって本当の父なんですもの」
文雄はやがて、家を去ることになる。
淑子は捨てられたことにショックを受けた。その恐怖は、淑子が一生背負うこととなる。
李垠と李方子が半年間の新婚時代を暮した家が現在も残されている。
離れをふくめて全部で七部屋。平屋で現在一般にも公開されている。李垠はあんずやはっさくなど実のなる実用的な木を好んで植えた。
縁側は二人の写真スポット。李垠の趣味が写真だったことから何百枚もの写真が残っているという。幸せそうな写真が現在も残っている。中でもお気に入りのポーズが、李垠が左腕をあけて、方子が手を添える格好。地元ではそうして手を添えてデートする姿が、度々みかけられたという。
一家はしんみりとした生活をしていた。
「お人形で遊んだことなんて一度もないのよ」
山口淑子はのちにある対談でいっている。「母はひとりっきりの娘だから、お人形と遊ぶ娘の姿を見たかったんだと思うの。でも、人形を嫌いだった本当の理由は、ままごとが嫌いだったの。現実の家庭生活で味わう痛みを、わざわざ思い出すようなことはしたくなかった。 わたしはどうしようもなく困惑してたし、動揺もしていた。そんな生活から逃げたかった。できればそんな気持ちは口にしたくなかったし、できれば知らないふりをしていたかった」
淑子はチョコレートなどの食べ物で寂しさを紛らわそうとしたという。
しかし、そんな彼女を救ったのが、音楽映画だった。
あるとき、母と淑子は劇場で歌謡映画をみた。
その瞬間、淑子は歌手にひかれた。ひきつけられた。
インスピレーションを与えられた。淑子の端整な顔に少女っぽい笑みが広がった。それは魅力的で説得力のある微笑だった。
淑子はいう。「わたしは歌を習いたいと思ったの。で、母にいうと、母は喜んだわ。自分が舞台に立てなかったけど、その夢を娘が叶えるのですもの。母は有頂天だったわ」こうして、のちの〝李香蘭〝〝ハリウッド・スター(シャーリーヤマグチ)〝の成功への長い第一歩が始まる。彼女は熱心に歌やバレエを習い始めた。
淑子はできるだけ父親に会いにいった。
しかし、父親は仕事で忙しく、また女出入りも激しかったので淑子は相手にもしてもらえなかった。彼女は父にむらがる女性たちにやきもちを焼いたという。
学校に通うようになると、淑子は今まで以上に疎外感を味わうようになる。
「人生を通してわたしが興味をもったことは読書だった。およそ社交的とはいえないわね」淑子はいう。
この期に及んでも、淑子は両親が元のさやに収まるのではないか……としんと期待していた。しかし、両親は元にはもどらなかった。十二歳になった山口淑子は、父のはからいで、奉天で週に一回歌とバレエのレッスンを受けることになった。
山口淑子は外では中国語を話し、けして日本人の感情を表にださなかった。
それは、そうしたほうが、解決策が見付かるとわかっていた節がある。
……能ある鷹は爪隠す、………である。
しかし、山口淑子たちの前には不気味な戦争の影が忍び寄って、いた。
――――――美しくて聡明で素直で知られたのが、のちの李方子さまとして知られる彼女の母親の梨本宮伊都子妃(なしのもとのみやいつこひ)であったという。
伊都子妃は、元々、大名のお姫様であり、旧・佐賀藩(佐賀県)の鍋島家の血筋である。
幕末の大政奉還や明治維新と明治新政府による廃藩置県で、佐賀の鍋島家も例にもれず、殿様でもなくなり東京に住み旧・大名や殿様・姫様出身の『華族』となった。
そんな利発な伊都子妃が、日本赤十字を支え、最新の「月経帯」なるものを発案したときには、庶民は、
「さすがは佐賀の鍋島家のお姫(ひい)さまだ」
と、感心したそうな。
伊都子妃の祖父に当たる佐賀藩主の鍋島直正公や鍋島家は、合理的な先進の思想の持ち主であり、幕末において、反射炉を用いて日本で最初の西洋式大砲を製造したという。
その直正公の嫡男が伊都子の父親の直大(なおひろ)公で、そんな家系で、直大公がただの殿様な訳もなく、岩倉具視の使節団に同行し、イギリスに留学までしている。
そんな直大公が、イタリア滞在中に生まれたのが伊都子妃であり、イタリアの伊太利亜の都市で生まれた女の子だから、伊都子という名前なのである。
そんな美貌の伊都子は十五歳の時に、宮家の梨本宮守正王と結婚した。
大きな声ではいえないが、それほど「玉の輿」であった訳でもないのだという。
だが、伊都子は華族階級から、宮家という準皇族の身分に出世した。
宮家というのは、今でこそ、戦後の皇族改革で、一般市民、平民、となっているが、この時代は、宮家は天皇家のように貴重な家柄であった。
一条家、二条家、三条家、梨本宮、久爾宮、竹田宮……―――――戦前は、特権階級のように天皇家や宮家、それに元大名の殿さまや姫様の華族階級が乱立繚乱の花を咲かせていた。
天皇家が素晴らしい家系だ、と誰もが思っていた。だが、幕末まで、宮家は四家しかなかった。それで、維新後に、宮家の男衆がオットセイの如く子供を幾人も作り、宮家があふれ出た。大名だった者も、「華族」という新しいケースに収まった。
この時代に、お金持ちといえば三井家、三菱の岩崎家や住友、安田、という財閥であった。
また、渋沢栄一一族も台頭しており、それでも加賀百万石の前田家や、薩摩(鹿児島県)の島津家、長州(山口県)の毛利家なども、長者番付に名前を挙げたりしていた。
資産を、鉄道や銀行の投資でうまく運用していたのだそうだ。
――明治四十年(1908)。
「日本の兵士はかなり強く、日清戦争・日露戦争でも勝利した。何故、日本の兵隊はそんなにお強いのですか?」
老人となった日本の初代内閣総理大臣・伊藤博文はまだ幼い李垠(イ・ギン、り・うん)太子(幼年 日本軍服)に浜辺で言ってきかせた。
「日本の兵隊が強いのは死をおそれないからです。」伊藤博文は笑顔で言った。
李垠太子は、「死んだら両親は? 父や母は嘆かないのか? 泣かないのか?」ときく。
すると伊藤博文は背広のまま「みな、お国のため天皇陛下のためだ、といわれれば皆、命をさしだすのです」
「親は泣かない?」
「心では泣いても……顔には出さないのでございます。」
「ふ~ん」李垠太子は感心しきりであった。
……そうか。日本兵たちはそんなに強く、また天皇陛下のためなら命さえ捨てるのか…
朝鮮の併合は、ロシアの南下を恐れた日本が、朝鮮半島を防波堤として使う、ということである。朝鮮半島は防波堤として、決して無視はできない土地でした。
そのために日本政府は朝鮮の内政に干渉し、ロシア寄りの姿勢を示していた明成皇后が、日本の駐在日本大使らによって暗殺されるという事件まで起きた。
日露戦争に勝利した日本は、統監府(とうかんふ)を置いて朝鮮の本格経営に乗り出しました。
そして、朝鮮近代化という名目の下、伊藤博文は初代朝鮮総督となり強い勧めにより、わずか11歳で、祖国を離れ、日本に留学という名のもと人質にとられたのが李垠殿下であったのだった。
朝鮮王朝(昌(しょう)徳宮(とくのみや)・王居)で、侍女の天喜が当時の皇太子である李垠太子について王や王妃にいっているところだった。
天喜は「太子はまだ八歳。まだまだ大母君に甘えたい年頃でございます。日本のやり方はあまりにも…」
王妃は「天喜! おやめなさい」と話をさえぎった。
「一番つらいのはおまえではないのだよ。」
王の李大君も「もうよい。留学のことはすべて日本のいうように取りはからうとすでに決めているのだぞ。我々にはそれより道はないのだ」
王妃は「ですが幼い身でたったひとり。日本へ赴かねばならない太子が不憫でなりません。」といって泣いた。李垠太子の母親の王妃・厳妃。父親は王の李王……であった。
留学という名目であったが、朝鮮からすれば人質に朝鮮王朝の太子をとられたも同然なのだ。
天喜は宮殿の庭場にいた李垠太子に声をかけた。
「こちらにいらっしゃったのですか太子! 早く日本への出発の荷物を……」
「天喜、わたしはもう戻れないかもしれない。だから、この石をもっていくね。」
宮廷女官・李天喜(イ・チョンヒ)は泣きそうな顔をして、「そのようなことを申されますな、太子! 父君と母君が知ったらどんなに悲しまれることか。必ず戻れますよ」
「天喜!」
天喜はまだ幼い李垠太子を抱擁した。「太子は必ずお帰りになられるのですよ」
もう涙涙である。
浜辺で日本語通訳の男・高に李垠太子はいった。
「わたしも今日を限りに泣かないことにする」
「殿下(チュナー)!」
この日をさかいに垠(ぎん)殿下はご自身の感情を顔に出さない方になられたという。
一方、方子(まさこ)さまと申しますと…。幼少の少女期に梨本宮邸宅の庭の木にのぼり鳥の巣をみていた。
そんなに高くにのぼった訳ではなかったが、女中のおんなは蜂の巣をつつかれたように驚き、金切り声で、
「方宮さまー! あ! おおりくだされませ! 危のうございまする! お母様に言いつけますよー!」と騒いだ。
方子幼少女はにやりとなる。幼い頃からおおらかで芯の強いお方でございました。
新宿御苑で幼少の頃、梨(なし)本宮方子(もとのみやまさこ)(のちの李方子)と李垠太子はあっている。
当時の李垠太子は日本の高級士官用の軍服を着ていた。
方子さまは明治34年(1901)11月28日、皇族梨本(なしもとの)宮守(みやもり)正(まさ)と鍋島侯爵家より嫁がれた伊都子(いつこ)妃との間にお生まれになりました。
李垠殿下は明治三十年(1897)10月20日生まれ。のちの昭和天皇(皇太子裕仁殿下・東宮様・当時)は明治34年4月29日生まれ。
新宿御苑の庭に軍服で帽子をかぶった李垠太子はまだ幼子である。例の石を見ている。
方子少女はみつける。のちに昭和天皇となる裕仁皇太子とは同い年でございます。
久邇宮(くにのみや)の良(なが)子(こ)女王と方子(まさこ)女王と、このお二人の中から将来の皇后さまが選ばれる、はずだったことを思うと朝鮮王朝に嫁いだ方子さまの身分の高さがうかがえる。
当時の皇太子・裕仁親王(のちの昭和天皇)の妃候補に、久邇宮の良子と梨本宮の方子が争っていた。だが、その候補者レースについて、本人はまったく関与してはいなかった。
だが、皇太子妃には久邇宮家の良子女王が決まってしまう。
伊都子にしてみたら、夫の梨本宮守正公の兄貴の久邇宮公の娘が、良子女王であり、従姉、でしかない。それは悔しい思いだったことだろう。
だが、皇太子は良子女王を選んだ。
確かに、方子さまはそれほど美しい訳でもない。
母親の伊都子は誰もが見惚れる美女だが、そこに旦那さんで父親の達磨おやじのようなぶくぶくに肥った〝髭の殿下〟の血が混ざると、凡庸を絵にかいたような顔に、方子さまの顔をそうしてしまう。これは致し方がない。背に腹は代えられないのである。
「まあさんに決まったらどんなに喜んだろうに」
伊都子の母親の栄子(ながこ)は、孫の女王に敬語をそう使う。
「良(なが)君かまあさんかどちらかであったのだけれども」
「それで、久邇宮の良君を皇太子さまは選んだ。最後は顔よね。女は顔よ」
「こうなったら、まあさんの相手をすぐに決めなければなりませんね」
方子は十四歳だが、婚約するのに早すぎるというのでは決してない。
華族の娘は、生まれ落ちたときから、配偶者を探すのがその当時の常識であった。
もしかしたら、皇太子妃に……という輝かしい願望が、枷、となり、梨本宮家の動きを鈍くした。だが、皇太子妃の話は、駄目に、なった。
伊都子はすぐに切り替えて、頭を働かす。戦略を練り直すしかない。
まあさんには、皇太子殿下のような高貴なお相手を!
そうして、白羽の矢を立てたのが、朝鮮王朝の王子で、あった。
その王子のことは、その数年前に、方子が幼い少女の頃に、皇居の近くのセレモニー広場で、見かけたことがある。あの軍服の少年だ。
名は、李垠(イ・ウン)とか言う。
――――数年前―――――
方子「おたうさま(お母様)、あのお方はだれ?」
「あ。あれは一昨年朝鮮からいらっしゃった李王の皇太子李垠殿下ですよ」
「朝鮮……?」
父は「ご留学といってな。はるばる日本へご赴任するためにいらっしゃったんだよ。」
「おかわいそうに。」方子の母は哀れんだ。「まだお母様に甘えたい年頃でしょうに…」
方子と李垠太子、目が合う。頭を下げるおふたり。
……年は流れ、方子少女(十代)へ。
女中は「方宮さまー! 学校におくれますよー!」と声を上げる。
「はーい!」木の上の鳥の巣をみながら方子は答えた。
美貌の美少女になっている。
もう女学生だった。
李垠太子も少年、高校生くらいになっている。雨の中、宮殿で日本の高級士官用の軍服と帽子姿である。執事は「殿下、士官学校へお出かけの時間でございます」
「ああ、わかった」帽子をかぶりなおして、公用車で外出する。
その後、方子は走って学校から帰ってきて「飛行機を見たい」と。妹も同調。
母君の伊都子さまは「仕方ないひとたちねえ。ずるはいけないけれど、表のひとにそういって飛行機を見学できるように宮内省に申し入れて」と女中に。
方子は「ありがとうございます、お母様」
「規子(のりこ)のめんどうもちゃんとみるのですよ」
「はい! 規子に連絡を!」
こうして方子さまと規子さまは飛行機見学にいけた。
方子はおしゃまなままに「規子さん。わたくし、女流飛行機パイロットになろうかしら?」
規子は「飛行機を動かす方におなりになるの?」
「うん。まだわからないけどね」
ふたりは微笑んだ。
蒼天には飛行機が飛んでいる。ふたりは「わああ」と感動しながら蒼天のプロペラ機を眺めている。空に虹がかかって……「わああ!」。
その頃の方子さまは春の日だまりのようなほんわりとした中におられました。
学習院・女學部。女学生の中の方子さま。
劇の接吻(せっぷん)(キス)の話で盛り上がっていた。
方子は「それは……本当になさっているの?」
「いいえ。でも劇場から観ればなさっているようにみえるの」
「……まあ!」
仲のいい女学生五人で盛り上がる。
話は少し違うが、生まれながらに病弱だった嘉仁親王(のちの大正天皇)は若き日の伊都子に懸想(恋愛)することもあったという。だが、天皇の息子・皇太子と大名の姫の華族である。しかも、嘉仁王には伏見宮禎子(さちこ)女王という妃候補が決まっていた。
最初は、その色白の美少女でいこうとしたが、その白すぎる肌が徒となり、肺結核の疑いが濃厚だというので、禎子女王は候補から外された。
替わりに、色黒だが、健康だけが取り柄の九条道孝侯爵の御令嬢・節子さまが皇太子妃に選ばれた。節子は美人でもなく、とりたてて頭脳明晰でもなかった。が、病弱な嘉仁親王を支える賢い皇太子妃になられた。
男の子供を三人も産んだのはお手柄だった。禎子女王は山内家の侯爵夫人となったが、いまだに子供も産んでいない。
伊都子は頭を働かせて、戦略を練っていた。そして、方子に釣り合う宮家の男子は六人いることがわかった。だが、二人は年下であり、二人は婚約しており、一人は素行が悪かった。もうひとりは病弱で入院している。しかも、側女に子供を生ませている。
これは、明治の世ならともかく、「醜聞」というものであるという。
元・大名の華族の公爵、侯爵、伯爵などには嫁がせる訳にはいかなかった。
自分のような思いを、方子にはさせたくない……そういう思いであったようだ。
皇太子妃・良子に、華族階級なら、深々と頭を下げなければならない。
身分が違い過ぎるのだ。宮家でも頭は下げなければならない。だが、頭の角度は、それほど深々と下げなくともよい。
朝鮮王朝の女王なら―――――――
不思議とそう思えた。
梨本宮にも、実家の鍋島家にも、〝朝鮮人差別〟のようなものはない。
好都合であった。
現代でも、〝朝鮮人差別〟や〝中国人差別〟のようなものが日本国でもある。ヘイトスピーチで、「〝朝鮮人〟を〇せ!」「〝中国人〟は〇ね!」というアレである。
結局、偶然に、日本国に生まれただけの幸運だけがアイデンティティの馬鹿な連中だ。
この時代は、欧米列強国の帝国主義・植民地主義の時代である。
帝国日本も、遅れてきた大国として、朝鮮半島と台湾、それに、樺太に、中国東北部(のちの満州国)を支配した。ロシアへの防波堤の役割であった。
この日本の植民地支配は、のちに韓国人や中国人が、「酷い植民地支配」「不当な統治」「虐殺や集団拉致・強姦や奴隷労働があった」と騒ぐが本当ではない。
その満州や朝鮮半島や台湾に、周りからどんどんと移民がやってきたのは、道路や鉄道や治水事業や干拓、水道、治安維持、法整備、病院・警察署整備など魅力的な(日本人統治による)社会環境があったからこそどんどん移民がやってきたのだ。
そんなに言うほど酷いところなら、移民など来るわけがない。拉致して連れてきたのではなく、移民は自らの意志で、やってきたのだからだ。論理が破綻している。日本=悪、とするために、大嘘をついても始まらないのだ。
「台湾を日本が統治しなければ、台湾は海南島のような不便な田舎島でしかなかった。日本人は台湾をきちんと整備し、正しい統治をした」
台湾人の方が、朝鮮人や中国人よりよくわかっている。反日感情もわからんでもないが、大嘘をついてまでの反日行動には、「いい加減にしろ!」と言いたくもなる。
まあ、〝朝鮮人差別〟の感覚がない伊都子だからこそ、娘の方子さまを李垠王子に嫁がせる、という発想にもなったのだろう。
当時の朝鮮王朝(李王家)の財産も相当なもので、それは日本の天皇家とも遜色がない。
――――――これなら大丈夫。方子も幸せになれる。
伊都子はそう確信した。
しかし、運命のときがとつぜんやってきました。梨本宮邸に宮内大臣・波多野敬直がきた。
方子の母へおじぎ。
「本日はお時間をおさきいただき、まことにありがたく存じます」
「いいえ。それで今日はどうゆうご用件で?」
「はっ。実は方子さまへのお話をもってまいりました」
「まあ」
「方子さまにおかれましては大変にお優しく、ご性格もおやさしく麗しくご成長なされたとおききしております」
「いいえ、まだほんの子供でございます」
「しかしながら、そろそろ御婚儀のことをお考えなのでは?」
「それは……時期がくればしかるべき方とのご縁談を、とは思っていますけれど……お話というのはもしかして?波多野さん?」
「はい。妃殿下、鳥居坂にお住まいの李王皇太子垠(ぎん)殿下をご存じでいらっしゃりますか?」
「ええ。おちいさいときにおみかけしたことはありますけれど。今は確か、陸軍の士官学校へ通ってらっしゃる」
「はい。学校の成績も優秀で、ご聡明なお方でいらっしゃいます。お上の御高名もあり、そのお暮らしは我が国の皇太子とすこしも変わりません。ご結婚については総督府でも検討中ですが、かなうことであれば日本の女王を、と」
「まさか……それでうちの方子を?」
「宮内省でもいくにんもの女王たちを検討したのですが、方子さまであればお人柄もよく李王李垠殿下にふさわしいのではないか、と。妃殿下、これはこの日本のお国のためのなのです」
李香蘭と戦争
一九三三年、アドルフ・ヒトラー率いるナチス党が政権を奪取した。
それは、戦火の前触れでもあった。日本軍も中国大陸や東南アジアに進攻、傀儡国家・満州国を建国までしていた。日本軍は『大東亜共栄圏』等という絵に描いた餅を主張した。
そして、いよいよ戦争の火の粉がまわりにおよぶようになると、文雄は淑子らを撫順から中国遼寧省の奉天(現・瀋陽)に戻ってくるように命じた。
心機一転、人生をやり直せると思ったからだった。
*<炭鉱の町・撫順に生まれ育った私にとって、奉天は、まさに憧れの大都会だった。
いや私だけではなく、当時の奉天は満州第一の都会で、政治、経済、文化の中心地。満州に住む者はみな憧れていた。もちろん、いまの瀋陽も中国最大の工業都市。上海、北京、天津につぐ中国第四位の都市である。>*『李香蘭 私の半生』著作山口淑子+藤原作弥・新潮社40ページ文面参照
*「奉天に戻ったとき、ほかの子からからかわれたことを思い出すといまでも胸が痛くなるの」淑子はいう。「以前奉天に住んでいた頃も言葉がよくわからなかったし、家では日本語を使っていたから、この奉天に戻るころには中国語の瀋陽方言をすっかり忘れていたの。それでもがんばってしゃべろうとすると、もの凄い訛りになった。そういうときの子供って意地悪で情け容赦ないのね。わたしは文字どおりひとりぼっちだった。でも、日本人とはけしてばれなかったわ」
母・アイと山口淑子と父親・山口文雄は、一家で、奉天で暮らしはじめた。
<「奉天」とは満州時代の日本人がつけた名である。もともとは元代のはじめに「瀋陽」と名付けられ、清(しん)の祖ヌルハチがこの地に都を開き、北京に遷都するまでの一六二五年から四三年の間、満族(清)の首都だった。その後、明国になるまでの北京から「探題・盛京将軍」が派遣され「奉天府」が設置されたところから「奉天」の名がとられたのである。日露戦争では、両軍軍隊の決選の地。また郊外の棚条湖で日本軍が鉄道を爆破したことから勃発した満州事変の発火点。私たちが撫順から引っ越したのは、日中の不幸な歴史が開かれたばかりの時期だった。>*『李香蘭 私の半生』(同)
山口淑子はある対談でいう。
「奉天に戻ってからは泣いてばかりいたわ。椅子に座ってべそをかき、チョコレートを食べながら中国語方言を覚えようとがんばったの。でも、怠けていても言葉は覚えられた。気の散るようなことはなにもなかったし、他にやることもなかったから」
母親のアイはかわいそうな娘のために何か楽しいことがないか考えたが、戦火が近付くなかではなにも手にはいらない。娯楽どころではないのだ。
のちの李香蘭こと山口淑子は外出するかわりに、歌唱とバレエの本に夢中になり、歌唱とバレエを習うことを生きがいとまで感じるようになっていたという。
淑子はすっかり歌唱とバレエ・ファンになり、しんと陶酔していった。
体型がバレエ向きになってきたことも幸いした。彼女はバレエの基礎や知識、伝統などを勉強していった。完全にバレエに嵌まった。
戦火は日本人のデパートや瀟洒でお洒落な街並みの奉天にも迫っていた。
春、昭和天皇裕仁大元帥(陸海空軍を統べる)は帝国陸軍を東南アジア侵攻のため軍隊を送り込んできた。この頃、母・アイは非公式にレジスタンス活動(反政府活動のこと)に関わっていた。もはや、きらきらした時代ではなかった。
アイは地元のリーダーとなっていた。ナチズムに浸透した夫へのあてつけか?それは誰にもわからない。アイの屋敷はレジスタンス運動家の秘密のアジトになり、アイは仲間を増やそうとやっきになった。夫への反発の気持ちもあった。
アジトでは、大人たちが暗号で話していた。
山口淑子はその会話を耳にすることになるのだが、彼女はどんな気持ちだっただろうか?「そういう暗号の意味はもう覚えてないわ」淑子はいう。
アイにとってナチスや日本帝国軍は憎っくき夫と同じことだった。
母は、父親の悪口をいうことを禁じていた。そのかわり、アドルフ・ヒトラーを激しく憎むようにいった。
父親の山口文雄は最初、悪名高い黒シャツ隊に資金援助をするだけだった。が、この頃からは中国でのデモに参加するまでになっていた。
淑子は身をきられる思いであった。ある対談で、彼女はいう。
「当時わたしはまだ十二歳だったけど、ヒトラーが悪魔だということは知っていたつもりです。でも父はそのヒトラーを応援しているし、わたしは父を愛している。わたしは神様にお願いしたわ。お父さんが気持ちを変えてくれますように、そしてできることなら家族がまたひとつになりますようにって。わたしは生涯を通して、家族がひとつになれるようにと祈りつづけたんだと思う」
アイは娘をバレエ公演に連れていった。
しかし、目的は娯楽ではなく、アイにとってはレジスタンスの同志集めであった。会場には日本軍・シンパの男たちも大勢いて、彼らは日本軍寄りの元・華族というアイの仮面に疑いの目をむけていた。そのことに気付いていたアイは、日本軍が到着するまでバレエ団をとどめておくように働きかけた。そうすれば、自分は日本軍・裕仁天子さま寄りだと思わせられると考えたからである。
バレエ団の不安は募る。しかし、アイはとどめた。淑子はアイの命令に応じ、舞台にあがりダンサーのフォンテーンとド・ヴァロアに花束を渡した。ふたりはつぶらな瞳の美少女に興味をもった。
「わたし、歌手とダンサーに女優になりたいんです。ずっと夢みてます」
淑子は、フォンテーンとド・ヴァロアにきらりといったという。
日本帝国軍がけたたましい音とともに奉天に侵攻したのは、バレエ団のバスが街を去ってから数十分後のことであった。空襲警報が鳴り響き、銃声が響く。パラシュートが夜空の飛行機からいっぱい降りてくる。
淑子と母は家に戻り、地下室で寝たという。地下室にはすでにおさない弟と妹、それに乳母が避難していたそうだ。
淑子と家族の生活は、日本軍の侵攻によって一夜にしてがらりとかわってしまった。ラジオは「市民は家にこもり、鎧戸や鍵をしめ、外出しないこと」とさかんに放送していた。淑子は窓から外を覗きこみ、興奮した。
「わたしは弟たちと一緒に、窓の隙間から日本兵の姿をのぞき見たわ。軍服を着て銃をもった兵士たちは、灰色の海みたいだった。恐ろしい光景だったけど、彼らを打ち負かすことができるような気がした。子供らしいあどけない発想ね。ゲームみたいな感じになったの」
ある対談で、淑子はいう。
〝奉天は日本帝国陸軍の支配下になった〝
とラジオが伝えたのは、侵攻後の翌朝だった。
淑子の家族は経済的に厳しくなった。財産を日本軍に没収され、抵抗運動をしていた華族たちは無一文になった。アイと一緒にレジスタンス運動をしていたメンバーのうち、捕まったひとは〝見せしめ〝のために殺されたという。
が、淑子を打ちのめしたのは、母の兄が逮捕され、処刑されたことだった。なんでも街の広場で、レジスタンスたちとともに銃殺されたのだそうだ。
肉親を失ったアイだったが、抵抗運動はやめなかった。
アイは肉親の死に号泣し、何日も泣きはらしたという。しかし、それでも抵抗運動はやめなかった。戦火は拡大し、アイたち一家は貧しくなった。
淑子は、まるで赤毛のアンのように幻想と想像の中に逃げ込んだ。
配給される食料も、日に日に質が悪く、少なくなってきた。
のちに淑子らは、僅かな食料で飢えを凌ぐことになる。
水と黒パンだけ、という日もあったという。
ある対談で、淑子はいう。
「日本軍の満州国という中国東北部の傀儡政府や占領状態はすぐ終わるだろうとみんな思っていたの。戦争という悲劇がゆっくりといつまでも続き、日ごとに恥辱を増していくとは思っていなかった。どんなに落ち込んでも、明日はすべてが終わると信じていたから。どんなに惨めな日も、こんなことはいつまでも続かないって信じていたし、わたしは心のどこかで、自分は飢えているんじゃない、戦争終結を願って断食しているんだって言いきかせていたわ」
しかし、日々の生活は悪化していく。
*奉天はアジア民族だけでなく、帝政ロシアが共産主義国家になったのを境に亡命してきた白系ロシア人やトルコ系ロシア人やアルメニア人などの〝外国人〝も多く住んでおり、多数の異民族のモザイクとしてのようになったという。
日常会話は自宅ではもちろん日本語だが、街で買い物をするときも学校でも中国語であったという。山口淑子はネイティブの本物の中国人のように中国語を操っていた。
中国人の友人も誰もかれも山口淑子を日本人とは思わなかった。
当然、名前は同居する豪邸の主の李将軍から中国名・李香蘭(これは芸名ではなく養子になるときの名前)で通っていたし、中国語もペラペラなので「日本人」とはだれも思わなかった。李将軍はカイゼル髭の中年男で割腹もよく豪放(ごうほう)磊落(らいらく)だったが、婦人がふたりもいたという。第一夫人と第二夫人であり、その頃、一般的には廃止されている筈の纏足(てんそく)であったという。つまり幼児の頃から帛繃帯(はくほうたい)で両足をきつく縛って成長を止める習慣のことで、こうすることで躰にくらべて足が小さくなるのでよちよち脚になる。昔の中国人女性は纏足であることが美貌である、とされていたのだった。
淑子の父親とこのカイゼル髭の李際春将軍は肝胆相(かんたんあい)照(て)らす間柄(苦楽を共にした盟友の同志の間柄の意)であり、のちに淑子は中国人の養父養母として中国名も拝頂することになる。
それにしても満州国こそが日本人のユートピアであり、桃源郷のようなものであった。
当時、日本軍が侵略して建国した、中国の東北部の傀儡政権国こそが『満州国』であった。
*『李香蘭 私の半生』(同)42~43ページ
*<淡谷さんは奉天の長春座でよく映画のアトラクションとしてうたわれたそうだが、私も両親と一緒に「淡谷のり子ショー」をみたことがある。そんな機会にご本人と偶然出会って、お近づきになったのだ。
当時、淡谷さんはすでに有名な「ブルースの女王」。十三歳の私は、歌が大好きで先生について習ってはいたがもちろんまだ無名の女学生だった>
<淡谷さんの記憶はほとんど正確である。(淡谷のり子「満州ブルース」のエッセイから)>城内付近で道に迷い、小西辺門外のわが家の近くで途方に暮れていたときに、私と出会った。そのことは間違いがないのだけれど、私の記憶によれば、淡谷さんは、わが家の「山口文雄」という標札を見て日本人の家と知って門をくぐり、玄関に立って呼鈴を押したのだった。
ドアを開けた私が「あら、まっさおなお顔で一体どうなさったのですか」とたずねると、開口一番「ああ、やはり日本人のかた。よかった。助かったわ」と深呼吸して、「すいませんが御不浄(ごふじょう)(トイレ)をかしてください」と足踏みなさった。これが、淡谷さんとお近づきになったきっかけである。*『李香蘭 私の半生』(同)42~45ページ文章参考
*<儀式は終り。私は李際春将軍の乾姑娘(ガンクウニアン・義理の娘)になった。>
将軍は私にとっての義理の父である。もっとも、李家に引きとられるわけでなく、国籍が変わるわけでもない。末長い友誼(ゆうぎ)を誓うためのあくまでも名目上の親子にすぎなかった。義理の父は、親子のちぎりを記念し、乾姑娘のために名前をくれた。姓は「李」、名は父の俳号をそのままもらい、「香蘭」。ちなみに蘭は中国東方地方主産の名花である。
このようないきさつで私の中国名「李香蘭」は誕生したのだった。
「リイ・シャン・ラン」―音楽的な表音のひびきと、漢字字画の「香」と「蘭」のかもしだす雰囲気を理解できるのは中国人だけかも知れない。
<翌年、私はこの「李香蘭」の名前で歌手となり、さらには満映の女優としてデビューするのだが、関東軍が日本人を満州人の女優に仕立てるためにわざわざこしらえた名前という一部に流布された説は事実に反する。芸名の由来は、この養子縁組の命名にあったのである。>
なお、この自伝執筆にあたり改めて調べてみたところ、李際春将軍は、山東省に勢力を持っていた親日派軍閥で、奉天特務機関長・土肥原(どひはら)賢二大佐に協力し、満州国建設や関東軍の華北工作に積極的に参加した人物、と判明した。
『日中戦争』(古屋哲夫著、岩波新書、一九八五年)によれば、まず一九三一年(昭和六年)、旧清朝皇帝(ラストエンペラー)・愛(あい)新覚(しんかく)羅(ら)溥儀(ふぎ)を天津から連れてきて日本軍の傀儡国・満州国の皇帝にすえる画策をした人物で、戦後、東北地方の漢奸(かんかん)(祖国反逆者)の巨魁として逮捕され、裁判の結果処刑されたという。父が李将軍の招きで奉天に移ったころ、将軍は、軍閥という〝無頼漢〝家業から足をあらい、財界人として悠々自適の生活を送っていたのだろう。私にとっては隣に住む好々爺(こうこうや)だったが、半世紀たった今、大物の漢奸の過去をはじめて知り、呆然とした思いにとらわれてしまった。
<撫順高女から奉天の女学校に転校するはずだったが欠員がなく、順番待ちのあいだ、奉天女子商業高校に一時籍をおくこととした。けれど私は数学、簿記、ソロバン、裁縫などが大の苦手で、学校生活は少しも楽しくなかった。
相かわらず得意だったのは、音楽、絵画、そして作文と中国語である。とくに中国語は、同じ屋根の下にいる第二夫人から朝晩、習っていたので、ますます力がついていった。>
*『李香蘭 私の半生』(同)46~47ページ参照引用
テストで検定「二等」を取得すると、淑子の父親は「でかした、でかした」と喜んだという(試験後、なぜか淑子の名前・李香蘭の名前がない。どういうわけか?後でわかったのだが、うかつにも名前を書き忘れていたのだった。その名前のない答案用紙を書いた生徒が全校で最優秀の「二等」合格者ということだった。)
*<検定「二等」を取得すると、父はかねてからの希望どおり、私を政治家の秘書の道へ進ませようと考え、李将軍と相談し、北京在住の二人の共通の友人の政治家・潘航桂氏に私の身柄を預け留学させる段どりをつけた。「日本の諺(ことわざ)に、可愛い子には旅させよ、と言うからな」けれどそれも当分のあいだ、お預けとなった。元来、体があまり丈夫でなかった私は、肺浸潤を患って、数か月の入院。退院後、半年なかり休学し、自宅静養するよう医者に命ぜられたのである。>*
『李香蘭 私の半生』(同)47~49ページ参照引用
自宅療養の間に、淑子を励ましてくれたのは同年齢であるが事情で学年が二年下で千代田小学校(日本人学校)の五年生であった、ユダヤ系の白系ロシア人少女リューバ・モノソファ・グリーネッツだったという。彼女の実家は駅前のパンケーキ屋や菓子店である。煉瓦作りのお洒落な街の名物店のお父さんがパンを焼き、お母さんが店番し、流暢な中国語を話すお兄さんがいたという。
リューバと淑子が知り合ったのは、奉天に遠足に行った遠足の汽車の中で偶然、隣り合わせになり、言葉を交わしたかららしい。淑子はロシア語が分からないから日本語と中国語で話した。リューバは淑子を気に入り、「あなたの髪の毛はなぜそんなに黒いの」としきりに頭をなでるのだった。
こうしてふたりの交際ははじまった。彼女は淑子を「ヨシコチャン」と呼び、淑子は親しみをこめて彼女をロシア風に「リューバチカ」の愛称で呼んだそうだ。
*山口淑子こと李香蘭は中国服(いわゆるチャイナドレス)と学校の制服しか正装の服はもっていなかった。その為に日本の振袖をレンタルして着て、急な学芸会もどきのショーの歌唱演目でにほん歌の『荒城(こうじょう)の月(つき)』をうたった。この歌もマダムが「初めの曲は日本的な歌をうたいなさい」と言って選んでくれたという。
日本の歌曲『荒城の月』はまだ見たことがない祖国への郷愁そのもので、その後にシューベルトの歌曲「セレナーデ」やベートーベンの「イッヒ・リーベ・ディッヒ」歌曲も歌った。
いずれも練習に練習を重ねたものである。はじめての舞台なのに淑子は落ち着いていて自分でも「おかしいなあ」とおもったという。そんなんだから拍手を浴びながらマダムが舞台へ一歩出ようとしたとき、マダムのレースの先を踏んでしまったという。ドジを踏んだ訳だ。
だが、翌日に(次の土曜日の午後)、レッスン場でシューベルトの歌曲の練習をしていると、日本人紳士にスカウトされた。彼は「奉天放送局の東(あずま)敬三です」と名乗った。
「先日のリサイタルもよかったけど、いまのシューベルトもよかった」
淑子はコチコチに緊張して、セーラー服の身をかたくして、黙って靴のつま先を見つめていた。実は奉天放送局は一九三二年(昭和七年)満州国誕生と共に開局し、森繁久彌アナウンサーなどスタッフを充実させて、「満州新歌曲」という国民歌謡番組を企画していた。その専属歌手を探していたところ、たまたまヤマトホテルのリサイタルで淑子の歌を聞いた。マダムにたずねたところ、中国語も日本語も北京官話もつかえるという。そこで「放送に出てうたってくれないか」という話になったのだという。
淑子はその場で返答せず、両親に相談した。政治家の秘書にしたがった父は難色を示し、母は条件付きで賛成だったという。
「淑子は歌が好きなのだから、(当時はラジオ)放送に出演するぐらいなら……お国のためにもなることですし」。舞台に出るのでなく、音声放送ぐらいならOK、北京に留学しながらでも録音はできる。
榊原さんというひとが中国の民謡や流行歌をアレンジして十数曲の「満州新歌曲」を用意してくれたらしい。放送開始がせまって、中国語の芸名を何とするか問題になり、大人たちがうんうんうなりながら頭をひねっていた。淑子は何気なく言ってみた。「おとなりの李将軍からいただいた中国名をもっているのですけれど――李香蘭です」
こうして歌手としての李香蘭が誕生する。
<一九三一年(昭和六年)に日本が仕掛けた満州事変が起こった。翌三二年に満州国が日本人の手で作られた。一九三三年、その満州国の国策である「満州新歌曲」をうたう歌手・李香蘭がデビューしたが、その正体は山口淑子である日本人の私だった。何も知らぬ少女だったとはいえ、私も満州国同様に、日本人の手で作られた中国人だったのである。そのことを思うと胸が痛む。>*
『李香蘭 私の半生』(同)参考文献引用
*北京留学が本決まりになり、潘航桂氏の義理の娘として北京一流のミッションスクール栩教(イイチアオ)女学校への転校も認められた。学校で中国語と一般教養を習うかたわらに秘書見習いとしての仕事をすることになったのだという。しかも、中国人として。北京に転住する前に、駅前の甘いパンの焼けた匂いのするリューバチカのいる店に行くとびっくりとしたという。
ガラス窓やガラスケースが粉々に割られ、店内がめちゃくちゃに荒らされていた。店の前にいる人に話を聞いてもさっぱりわからない。ある人は、家族全員連行されたといい、ある人は憲兵が踏み込んだときにはもぬけの殻だったという。
いすれにしてもリューバチカとその家族は忽然と姿を消したのだった。淑子はその場で立ちすくみ「リューバチカ、リューバチカ」としばらく泣いていたが憲兵たちはそんな淑子をうさんくさそうに眺め、野良犬のように追い払ったという。*
『李香蘭 私の半生』(同)参考文献引用
まあ、ナチスドイツのユダヤ人狩りにあったという訳だ。が、日本人が「反ユダヤ」な訳はなかった。六千人のユダヤ人難民に日本の通行券を与えて有名になった杉原千畝(すぎはらちうね)さんや、七千人のユダヤ難民に満州国通行許可と列車を与えた「ゼネラル・ヒグチ」こと樋口季一郎氏のことでもわかる通り、日本人はナチスやヒトラーと同格人種ではなかったのだ。
当然、侵略戦争下での虐殺や野蛮行為は反省せねばならぬ。だが、日本軍=ナチス・ヒトラー………という見方はどうにも合点がいかない。つくられた偏見でしかない。その思想には「ペテン」が透けて見える。
ユダヤのひとは収容所に送られ、虐殺か……
淑子は反逆者となった。
淑子は、集団からリンチを受けるひとや、連行されるユダヤ人や反体制派の人々、銃でこづかれて殺される人々をみて、恐怖したという。もちろん、やっているのはナチス・ドイツ軍の兵士たちだ。「怖かったわ」淑子はいう。
児童七十人がナチスに捕まるという事件もあった。ナチスの電線とガス管を爆破しようとして捕まったのだ。それを知った淑子は、レジスタンス活動を積極的に行うようになったという。
恥ずかしがりやの内気な少女という正体に仮面をし、淑子は広場を明るくあるいた。世界情勢など知りもしない…という態度を装って……。でも、すりきれた靴の底には、レジスタンス活動家宛ての暗号メッセージが忍ばせてあるのだ。
淑子危機一髪という場面もあった。
ドイツ兵の落下傘がおちて、兵士が淑子に近付いてくるのだ。…怖がってはいけない。と思った淑子は、明るく無邪気な演技で、足元のヒナギクを摘み始めた。そして、兵士がやってきた頃には両手は花でいっぱいになった。
兵士がくると、淑子は雛菊を兵士に差し出してにこりと笑った。兵士は受け取ると、彼女の頭を撫でたという。そして、去った。
もし、逃げたり、なにかしてたりしたら射殺されていただろう。
淑子はしんと祈った。
……神様、ありがとう、わたしはまだ生きています…。
戦火は拡大していった。
状況はますます悪くなる一方であった。一九四三年になると、ナチスはユダヤ人を収容所に次々と送り、ガス室で大量殺戮していた。オランダのユダヤ人も次々と連行されていっていた。それでも、オランダ人たちはユダヤ人を匿ったり、別の身分証を出したりして匿っていた。
しかし、希望をつぶされるユダヤ人も多かった。
戦争終結まで、ナチスは六〇〇万人もユダヤ人やジプシーたちを殺戮したという。
アンネ・フランクなどもそうした被害にあったひとりであったといえる。
ナチスの暴行、虐殺、レイプ、略奪……。
ナチスへの恐怖は、人々を恐れさせ、しだいにヒステリーにしていった。アイも、恐怖から鬱病になり、不眠が続き、食欲も減退したという。しかし、食べるものなどほとんどないのだから、食欲は関係ないかもしれない。彼女は熟睡できずに狭いベッドで寝返りばかり打ち、夢が波をなして襲いかかってきた。あざやかであると同時に不吉な夢。何かが追いかけてくる、あるいは追いかけている夢。それが自分を幸運にするのか、傷つけるのかもわからなかった。まったくわからない。朝六時頃、ようやく目がさめた。
いや、この時代、みんな飢えていた。
李垠殿下が日本にご留学なされている間も朝鮮では抗日運動が過熱を極めていた。
朝鮮独立運動家の安重根(アン・ジュンクン)はアジトで同志たちにお互いの指を切って血判状をつくっていた。このひとは日本では狂気じみたテロリストという型にはまった悪人みたいな悪人と描かれることが多いけれど、地元の韓国では熱心なキリスト教徒で、英雄という風に韓国の学校では教わるという。
独立運動の英雄……かたや狂気じみたテロリスト…国の見方でこうもイメージが違うという典型的なケースである。
この人物は旧・哈(ハ)爾(ル)浜(ビン)駅で、背後から当時の初代内閣総理大臣であり、初代朝鮮総督でもある伊藤博文を発砲して拳銃で暗殺した。
十月二十六日に伊藤博文が哈爾浜駅に下り立った。出迎えたコ氏と並んで、露国軍の将兵を並んで閲兵(えっぺい)したという。
日露戦争からわずか五年後である。戦争の経験も生々しい中のこと、ホールに群がった人の中から、洋服の男がかけてきて出て、「伊藤博文、覚悟!」と叫んで六連発銃を連発でうちまくった。
伊藤はまず右の肺に火を感じ、次に腹部に一弾を受け、からだが崩れた。なおも三発目は、耳元をかすめ、四発五発六発は、随行員に命中して倒れる。
間髪を入れずに、日本国兵士が暴漢に覆いかかって取り押さえた。
青ざめた顔のコ氏は伊藤博文を介抱する。
「しっかりしてください! 公爵さま!」
「……犯人は韓国の者か…?」
伊藤博文のカラダからは血がどっと流れる。
もはや、出血多量で眼がかすみかけている。
「そうであります! 韓国人です!」
「……やはりそうか……その青年にいってくれ。この伊藤も君の怨みはよくわかる、と…」
「閣下! 伊藤閣下!」
「………もう駄目だよ……」
「……閣下―!」
「大韓独立万歳!」安は叫ぶ。明治四十二年満州のハルビン駅でのことである。
この暗殺事件を機に急速に日本と朝鮮の関係は悪化する。
日本では「朝鮮憎し」の感情が爆発する。
第三代朝鮮総監の寺内正毅という男は「伊藤閣下は朝鮮に甘すぎた。だが、わたしが来たからには朝鮮に強くいくぞ」などという。
このような中での李垠皇太子と梨本宮方子さまとのご縁談のお話であった。
方子さまのご両親は娘さんの方子さまの身を本当に案じられたことであろう。
なにしろ朝鮮半島では「日本帝国憎し」の嵐が吹き荒れているのである。
「やはりそのような話であったか。」
梨本宮守正殿下は妃より縁談のことをきいておっしゃった。
「しかし、このような非常時であるし……」
「わたくしは縁談に反対です。確かに垠(ぎん)殿下はごりっぱなお方でしょうが……このような朝鮮の状態では……あちらの国には日本の統治に不満をもつひとも大勢いるのでしょう? そんな国の皇太子に嫁がせる親がどこにいましょう?」
「………」
「それにあのこはまだ子供でございます。飛行機やおしばいのことで頭がいっぱいになってしまうような……ハッキリとお断りすることはできないのでございましょうか?」
「宮内大臣が、お国のためと申したんだな?」
「はい。………ですが。わたくしは方子には是非、東宮様(のちの昭和天皇)となら……」
「伊都子! ……ならば仕方あるまいよ」
「宮様!」
「これはお国のために誰かがなさねばならないことなのだ。わたしたちの娘はそういう尊いお役目に選ばれたんだよ。」
「……そんな……」
「伊都子……軍人のほんかいはお国の大事に殉ずることだ。鍋島公家に生まれたそなたならわかるはずだ。これがお国からあのこにささげられた使命なのだ。そう思うより他になかろう」
もし、このことがなければ方子さまは東宮さま、のちの昭和天皇のお后になられていたかも知れません。
ともあれ、ご両親がお悩み苦しんでいることは露ほども知らず、方子さまはわすれられない夏休みを経験することになるのでした。
「すべてはお国のためですから」
ひととおり挨拶回りを終えると、いつもより暑い夏がやってきた。
シトロエンに乗り、梨本宮一家は大磯の別荘に行った。
砂浜で、家族で、貝殻を拾った。
方子の機嫌もよかった。ひととおりの縁談を断ったことで、母親の伊都子が、縁談話を持ってこない、と信じているのだ。
大磯 梨本宮・別邸。女中は新聞をもってくる。
「方子さま。妃殿下さまがこれを(新聞)お読みになるように、と」
「お母(たあ)さまが?」
新聞をみると、梨本宮方子さまが李皇太子と婚約という写真入りの記事。驚く方子さま。
浜辺で日傘の母へ、方子さまはかけよって、ひざを砂につけて泣く。
その夜、父君と母君は方子さまにいってきかせる。
父君の梨本宮さまは「お前にとっては青天(せいてん)の霹靂(へきれき)だろうが、これはこの日本国のお国のためなのだ。わかってくれ。これを自らにかせられた使命と思い、見事果たしてほしい。これが父の願いだ」
「方子………ごめんなさいね」
「……」
方子さまは無言であられた。
次の日から女中は方子の髪型を朝鮮風の髪型へとした。
とまどう方子。
「この髪型をみて、みんなは何というかしら?」
女中は「そんな顔をなさらないでくださいまし。新学期でございましょう?」
母は「よく似合ってますよ。あなたは朝鮮王朝の李垠殿下に嫁ぐのです。何も恥じることはありません。胸を張って堂々としていればいいのですよ」と励ます。
「お母(たあ)さま」
「あなたは李王李垠皇太子のお妃となるのです。髪を朝鮮風にゆって何の不都合がありましょう。誰に何をいわれても堂々としていればいいのです。」
「……はい」
学習院の女學生たちは方子の話をしていた。東宮様と、だとばかり。すると方子がくる。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
心にあふれる大きな不安を今はただけんめいにかくす方子さまでした。
車で帰る李垠殿下。
「おかえりなさいませ」
「殿下、ただいま朝鮮より戻りました」
「父母上にかわりは?」
「すこぶる元気で。殿下の日本の皇族とのご婚約もおよろこびでございました」
「そうか」
「陛下から梨本宮家への贈り物をちょうだいいたしました」
「ほう」
「どれも朝鮮王朝の秘蔵の品ばかりにございまする」
「そうか……気楽だ」
「は?」
「私には父上の苦しみの度がわかる(朝鮮語で)。ここまで日本に対して下手に出なければならぬかと」
「殿下」
「贈り物はすぐに梨本宮へ届けよう」
「はっ。さっそく手当を」
「父上……(朝鮮語で)」
李垠皇太子と方子の顔合わせとなった。
贈り物に感謝の礼をのべる梨本父母。李垠は「いいえ」と、朝鮮王朝も大歓迎だ、と嘘をのべた。緊張と恥ずかしさで下を向いたままの方子さま。
やっと目をみる方子と李垠。
若いふたりだけで……となる。
「運命?」
「そう運命……そう思うしかありません」
「そんな運命はいやでございまする。かごの中の鳥だなんて」
「では、どうしろと?」
「わたしたちふたりが新しい日本を新しい朝鮮をつくるのでございまする」
「……新しい日本? 新しい朝鮮?」
ふたりは愛情をもつようになる。
惹かれ合うふたり。女中にからかわれる方子さま。
殿下のために〝折り鶴〝をつくる方子さま。時が過ぎていくうちに垠(ぎん)殿下と方子さまのふたりの関係は深くなっていく。
そんな中、李垠太子の父親が病気で倒れる(脳溢血)。戻られた李垠殿下は方子の〝折り鶴〝をみる。方子の父母はヒソヒソ話す。
朝鮮王朝をこころよく思わない朝鮮総督の陰謀では……と。
日韓併合の三年前。朝鮮王朝の王はオランダハーグの国際政治裁判所で訴えていての最中の病気……暗殺? 列車の李垠の元へ、方子はかけつける。
方子は「殿下! こちらのことはご心配なさらないでください! 大王さまのことはお祈り申しあげています!」
「大事にいたらなければすぐに戻ります!」
「殿下もどうかご無事で!」
手をつなぎ、列車は動き……号泣のふたり。それはおふたりの間にさした最初の暗い影でした。李垠殿下の御父上の命はこのときすでになかったのです。
これをきっかけに朝鮮では日本の統治に反対する機運がさらに高まりました。(3・13独立運動)。
方子の父母はこまった。
「困ったことになったなあ」
「……」
「方子はどうしてる?」
「ずっとお部屋にこもったままでございまする」
また脅迫電話が梨本宮家に。
「これだけで何件目?」
「抗議の手紙も何十通も……やはりムリがあるのでは?」
「いや、それだからこその婚儀だ」
「日本からもあちらの国からも感謝されない結婚なんて……かわいそうな方子」
しかし、方子さまはひとりで「……殿下……お帰りをおまち申しあげます」と祈る。
父上をなくされた垠殿下が東京にお帰りになられたのは三月も末のことでした。
殿下と方子、ふたり。おくやみをのべる方子。
「あなたこそさぞ悩まれたことでしょう?」
「いいえ。」
「人民のこころを私はしりません。方子さまを朝鮮人民はどう思うか……」
「わたくしは殿下とともに……朝鮮の母になる覚悟にございます!」
「方子さん……」
朝鮮でいろいろなひとに「日本人の女王など……」「日本の女王に子供ができたら日本の子供になる…」「いけません…」とさんざんいわれたことをふせる李垠殿下。
「方子(まさこ)さん。わたしはあなたを不憫に思います。わたしに嫁いでもいいことはひとつもありません」
「殿下、わたしは国にとつぐのではありません。殿下に嫁ぐのです。どんな国難でもわたしは殿下のお心に嫁ぎたくおもいます。たとえカゴの中の鳥でもふたりが信じあえばちゃんとした夫婦になるに違いありません」
「方子さん」
「殿下。」
ふたりは抱擁した。深い深い抱擁。
「わたしの名前は方子。李方子……韓国語では〝イ・バンジャ〟というのですね」
「お嫌ですか?」
「いいえ。でも、不思議ですねえ」
「不思議? 方子さんは朝鮮が嫌いですか?」
「いいえ。とんでもない。わたしは日本と朝鮮の両国の〝架け橋〟になりとうございまする」
李垠殿下と方子は二人きりになった時に、梨本宮邸の庭先で、話した。
「わたしは方子さんを不憫に思う」
「何故に御座いまするか?」
「わたしは確かに、朝鮮王朝の皇太子ですが、朝鮮を知りません。もし、日本の朝鮮経営が失敗したら、斬首になるやも知れない。そんな男に嫁ぐなど……自殺行為だ」
「殿下。我らは幼い頃から夫婦になる運命で御座いました。その運命にわたしは従いまする。どこまでもついていきまする」
「……方子さん。それでいいのですか?」
「はい。構いません。わたしは朝鮮王朝に嫁ぐのではなく、殿下の志に嫁ぐのでございまする」
二人は笑顔を交わしあう。
すると、短い幹の木の下に、梟の雛が落ちて、ぴいぴい鳴いていた。
「まあ、梟の雛ではありませんこと?」方子は手で拾い上げる。
「先日の台風で巣から落ちたのやも知れない。このままなら雛は死んでしまうでしょう。だが、それもこの雛の運命……」
「そんな運命は……嫌に御座いまする!」方子は抵抗した。
「巣にさえ戻してあげれば、生き続ける運命もあるのでしょう?」
「……確かに」李垠は口を動かす。「なら、雛を巣に戻してあげよう。さあ、ぼくの肩にのって!」李垠は、しゃがみ込む。
「……肩に? でも」
「さあ。早くしないと誰かが来てしまいますよ」
「わかりました。巣に雛を戻します」
方子は李垠の肩に乗り、雛を巣に返した。
と、同時に躰制を崩し、二人は崩れて落ちた。だが、草が緩衝となり、怪我はなかった。
草まみれになり、二人は笑った。
不意に、李垠は方子を抱きしめた。「……ぼくはもう……方子さんを愛してしまった! もうこの愛は止められない!」
「方子も同じに御座いまする! 方子も殿下を好きに御座いまする!」
終冬の冷たい乾いた風が、李垠や方子の頬を掠めた。
だが、お二人は紅潮して、熱い抱擁をするのだった。
方子さまが李垠王子に嫁ぐ日がやってきた。
朝鮮式の花嫁姿の方子に父母は、涙。ここは梨本宮邸である。
方子は「何も心配してません。今日からは殿下のお心によりそってつくしていきたいと思います」
父母は熱い涙を流し、「幸せ、に」
方子「はい」
婚礼パレード。日本中がふたりの結婚を祝福しているよう。しかし、そのときでも不穏な動きが…。爆弾でテロリストが暗殺未遂。テロリストは捕らえられる。
爆弾は馬上で不発。テロリストは日本に留学中の朝鮮人。しかし、この事件は長い間、公にされなかった。晴れやかな婚礼のパレードでこのようなまがまがしい事件があったことを方子さまが知ったのはのちのちの世のことでした。
李王李垠殿下と方子さまの朝鮮式の結婚式。(大正九年四月二十八日)
李方子に。方子さまはチュマチョゴリ姿。方子の女中たちも海を渡った。幸せな新婚生活。
方子、妊娠。
「殿下」
「方子、ありがとう」
ふたりは抱擁する。
李方子は「(反日国家の)韓国で唯一尊敬されている日本人」である。
2006年度のフジテレビのドラマでは李方子役を菅野美穂さん、李垠役をV6の岡田准一さんが演じた。2016年度の韓国映画では李方子役を戸田菜穂さんが演じている。
1920年(大正9年)4月28日、李垠と結婚。婚礼の直前に婚儀の際に朝鮮の独立運動家による暗殺未遂事件(李王世子暗殺未遂事件)が発生した。婚礼に際しては、和装(十二単)・洋装に加え、朝鮮服も準備された。
方子妃は、自分に課せられた日本と朝鮮の架け橋としての責務を強く自覚し、祖国を離れて日本で暮らす夫を支えた。1921年(大正10年)、第一子・晋が誕生する。1922年(大正11年)4月、夫妻は、晋を連れて朝鮮を訪問。李王朝の儀式等に臨んだが、帰国直前に晋は急逝した。
急性消化不良と診断される。李太王を毒殺されたと考えた朝鮮側による報復の毒殺説がある一方で、日本軍部による毒殺説も流布されている。
「殿下! 晋さまが!」荒々しいことばに、方子さまはとなりの部屋に急いで行った。
「まあ!」
晋(しん)(李晋イ・ジン)さまのお顔が青く、苦しそうだ。
「どうしたのでしょう?」
「今さっきから吐かれて、苦しそうになさって…」
「晋ちゃま! 早くお医者さまを!」
だが、第一子の晋は夭折する。病死とも日本国の謀殺ともいわれる。
第一子を失った方子妃は、日本に留学した李垠の異母妹・李徳恵の身辺を親身に世話した。その後、一度の流産を経て、1931年(昭和6年)、第二子・玖(きゅう)(李玖イ・グ)が誕生した。
だが、李方子や李垠が激動の生涯となるのは戦後、韓国人として、である。
日本の敗戦による朝鮮領有権喪失と日本国憲法施行に伴って王公族の身分を喪失し、日本の主権回復とともに日本国籍を喪失した。邸宅・資産を売却しながら、細々と生活を送っていた。
夫妻は大韓民国の初代大統領であった李承晩により帰国を妨げられたまま、李垠が1960年(昭和35年)に脳梗塞で倒れる。李承晩退陣後の1963年(昭和38年)11月21日、大統領・朴正煕の計らいで夫妻はようやく帰国を果たす。夫妻の生活費は韓国政府から支出され、昌徳宮内に住まうこととなった。1970年(昭和45年)、李垠と死別した。
韓国に帰化した方子は李垠の遺志を引き継ぎ、当時の韓国ではまだ進んでいなかった障害児教育(主に知的障害児・肢体不自由児)に取り組んだ。
趣味でもあった七宝焼の特技を生かしソウル七宝研究所を設立し自作の七宝焼の他にも書や絵画を販売したり、李氏朝鮮の宮中衣装を持って世界中を飛び回り王朝衣装ショーを開催する等して資金を集め、知的障害児施設の「明暉園」と身体障害養護学校である「慈恵学校」を設立する。
なお、〝明暉〝は李垠の、〝慈恵〝は方子自身のそれぞれの雅号である。
方子の尽力は韓国国内でも好意的に受け止められており、やがて功績が認められ、1981年(昭和56年)には韓国政府から「牡丹勲章」が授与された。
また、終戦後の混乱期に韓国に残留したり、急遽韓国に渡った、様々の事情を抱えた日本人妻たちの集まり、在韓日本人婦人会「芙蓉会」の初代名誉会長を勤めた。また前述の福祉活動や病気治療のため度々来日し、昭和天皇・香淳皇后を始めとする皇族とも会う機会はあった。
1989年(平成元年)4月30日逝去、享年87。葬儀は旧令に従い、韓国皇太子妃の準国葬として執り行われ、日本からは三笠宮崇仁親王夫妻が参列した。後に韓国国民勲章槿賞(勲一等)を追贈された。
身位は、
方子女王(1901年 - 1920年)
李王世子妃 方子女王(1920年 - 1926年)
李王妃 方子女王(1926年 - 1947年)
李方子(1947年 - 1989年)
女王の地位は皇族との結婚の場合、保持される(親王妃等を参照)。王公族は皇族に準ずる扱いであった。
栄典は、
1919年(大正8年)1月6日 - 勲二等宝冠章
1926年(大正15年)12月21日 - 勲一等宝冠章
で、ある。
李方子さまが亡くなられたのは1989年(平成元年)4月30日(満87歳没)、であった。
晩年期の風貌や外見がどことなく北朝鮮拉致家族の横田めぐみさんのお母上の横田早紀江さんに似ていることから、悪口しか書けないネットの連中から、〝早紀江さんの母親だ〝という馬鹿みたいな悪口もみられた。ネットの世界のかなしい人種である。
悪口しか書けない。かなしいというより情けない人種だ。
だが、このように日韓の歴史にはこのような偉大な李(旧姓・梨本宮)方子さまという誇るべき日本人がいらっしゃったことがわかる。
あの反日一辺倒の韓国人ですら唯一尊敬している日本人。だが、当の日本人は李方子さまのことを一ミリも知らない。無知、無策、無恥、無智……
だからこそのこの小説であり、この物語であった。
何も考えずにわたしが小説の主人公として(李香蘭や毛沢東とともに)知らしめようとしている訳ではない。李方子さまのような誇るべき日本人がいたことだけはわたしは確実に日本人に知らしめたい。ビジネスや商業主義やコンテンツ産業の利益とは違う意味で。
こういう李方子さまのような日韓の架け橋となった日本人が過去にいたのだ、と。
それが現在のわたしの使命のような。少し大袈裟だが(笑)。
李方子さま……どうか歴史の陰に埋もれないで。どうか李方子さまに歴史的な光を!
そう言って、この李方子さまへの応援演説としたい。
朝鮮半島の近代史(朝鮮国の歴史篇)
「朝鮮半島、動乱す!」
ここでは、朝鮮半島の歴史を学んでいこうと思う。
と、いっても、近代史であり、日本で言ったら幕末期以後、であり、百済・新羅・高句麗――などといった朝鮮半島の国家の歴史ではない。
近代史をざっくりと学ぶのが目的である。まあ、そういう半島の古い歴史も、いわば、朝鮮は琉球のように、大陸・中国との属国的な朝貢外交をしてきたので、古くから属国だったのである。そういう歴史観があれば、割とわかったようなものである。
近代の朝鮮の王朝・李氏王朝時代が、いわば朝鮮半島の近代史、である。
日本は幕末の、黒船来航(安政元年(1853))のいわゆる「砲艦外交」で、帝国主義を知るとともに、アメリカ合衆国などの欧米列強に、開国を迫られる。
そのことでの、尊皇攘夷、や、薩長同盟や、戊辰戦争、明治維新――である。
だが、その「砲艦外交」のマネをした。
かつて日本は、西洋列強のマネをして朝鮮に軍艦でのりつけ、砲艦外交を仕掛けた。
明治八年(1875)の「江華島事件」である。
そのときに、朝鮮で、その日本国の対応に当たったのが、李氏朝鮮の王室と、その官僚たちであった。
清を宗主国として仰ぎ、鎖国を続けた朝鮮は、明治九年(1876)、日本より十八年遅れて開国に踏み切っていたが、その国内は乱れに乱れていた。
国王・高宗には政治力がなく、皇后の閔妃(ミンヒ)と父親の大院君、つまり嫁と舅が権力争いを繰り広げ、その結果、閔妃が実権を握っていた。
国民の間には依然、儒教を中心とする伝統に固執し、排外主義ナショナリズムを訴える守旧派への支持が強かった。そんな中で、一日も早く、近代国家を建設しなければならないと主張するグループがあった。その代表的人物が金玉均(きん ぎょくきん、キム・オッキュン、김옥균、1851年2月23日(旧暦1月23日) - 1894年3月28日)である。彼は、李氏朝鮮後期の政治家で、朝鮮独立党の指導者。李氏朝鮮時代の思想家だ。字は伯温(ペゴン、백온)、号は古愚(コウ、고우)。本貫は新安東金氏。開明派(開化派)として知られ、朝鮮半島として初の諸外国への留学生の派遣や『漢城旬報』の創刊発行に協力した。
金は、朝鮮両班(ヤンパン・貴族)出身で、科挙試験を首席で合格、若くして頭角を現し、王朝政府の要職に就いた人物であった。
しかし、そこで見たのは、完全に清に隷属した亡国の惨状だった。
金玉均は、隣国の日本が維新を遂げ、急速に近代化するのを見て、朝鮮もそれに習い、国政を一新し、近代化を進め、独立を達成しなければならないと志を立て、しばしば日本を視察した。そんな金玉均を積極的に支援したのが福沢諭吉で、財界の大物である渋沢栄一や後藤象二郎などに積極的に紹介した。
金は、貴族出身らしい気品を持つ上に、教養は並外れたものがあり、その上に、身長が高く、頑強な体格で、豪傑の雰囲気を感じさせた。しかも、金は日本語が堪能で、話術も相当の魅力があり、彼に合った者は誰もが支援を約束したという。
金は、忠清南道公州に生まれる。1872年に科挙文科に合格し官界に入る。朴珪寿・呉慶錫らの影響で開化思想を抱いた。同じ仏教徒である李東仁の日本留学資金を援助。李氏朝鮮第26代国王・初代大韓帝国皇帝の高宗の王命「勅命」を受けて、1882年2月から7月まで日本に遊学し、福澤諭吉の支援を受け、慶應義塾や興亜会に寄食した。
当時の日本の一部の思想アジア主義を金玉均が独自に東アジアに特化された「三和主義」を後に発案し唱えた。
閔妃が主導する朝鮮政府は、大胆な軍制改革に着手。日本から軍人を招いて、兵隊を近代化することになる。その一方で、あぶれた軍人たちの不満が爆発。
そこで失脚していた大院君が、復権を狙って扇動し、壬午(じんご)の乱が勃発した。
1882年10月、壬午事変後に締結された済物浦条約の修信使・朴泳孝らに随行して、再度、金は日本を訪れた。
福澤諭吉から紹介された井上馨を通じて、金玉均は、横浜正金銀行から運動資金を借款し、朝鮮半島初の諸外国への留学生の派遣を敢行。朝鮮半島で初めての新聞である『漢城旬報』の創刊発行にも協力した。
幾多の功績は朝鮮半島の近代化に貢献した、一部の有識者や福澤諭吉などに「朝鮮半島の近代化の父」と呼ばれる貢献を残した。
金は、清朝から独立し、日本の明治維新を模範とした朝鮮の近代化を目指した。
1883年には借款交渉のため国王の委任状を持って日本へ渡った。が、交渉は失敗に終わり、1884年4月に帰国。清がベトナムを巡ってフランスと清仏戦争を開始したのを好機と見て、12月には日本公使の竹添進一郎の協力も得て、閔氏政権打倒のクーデター(甲申(こうしん)事変)を起こした。
事件は清の介入で失敗し、わずか3日間の政権で終了した。
井上角五郎らの助けで、金玉均は日本に亡命する。
日本亡命中には岩田秋作と名乗っていた。
当時の日本政府の政治的立場から、東京や札幌、栃木県佐野や小笠原諸島などを転々とした後、李経方(李鴻章の甥で養子、日本清国公使官)と李鴻章に会うために、松江府上海県に渡った。が、1894年3月28日に上海の東和洋行ホテルで、朝鮮末期の高官の洪鐘宇に回転式拳銃で射殺された。
金玉均の死体は、大清帝国政府により、軍艦咸靖号で本国大朝鮮国に運ばれた。死後に、死刑宣告され、凌遅刑に処されたうえで四肢を八つ裂きにされ、胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山、片手及び片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道で晒された。
金玉均の書生の日本人少年の和田延次郎は剣客であった。が、暗殺を許してしまった。
暗殺計画は、李氏王朝の陰謀であったが、日本政府はその陰謀を知りながら、放置した。
福澤諭吉は、上海で暗殺された金玉均の供養のために、法名をつけることを真浄寺の住職である寺田福寿に依頼した。福寿はただちに諭吉の要請に応え、「古筠院釈温香」という法名を付け、法要は東京朝鮮公使付通官山崎英夫や朴泳孝などを諭吉邸に招いて営んだ。
遺髪と衣服の一部は、金玉均の護衛であった日本人和田延次郎が密かに日本に持ち帰り、宮崎滔天たちによって浅草本願寺で葬儀が営まれた。
甲斐軍治によっても遺髪・衣服の一部が日本に持ち込まれ、東京文京区の真浄寺にその墓所がある。現在、同じ場所に甲斐の墓もある。
さらに犬養毅・頭山満らの支援で東京の青山霊園の外人墓地に墓が建てられた。
墓碑には朴泳孝の撰文、興宣大院君の孫である李埈鎔の書で以下が刻まれている。また千住の勝専寺には金玉均の揮毫による鐘楼再建記念の碑文がある。
嗚呼、抱非常之才、遇非常之時、無非常之功、有非常之死(以下略)
(ああ 大変な時期に たぐいまれなる才を抱き 大きな功績を残せず 無情の死)
金玉均の愛人の杉谷玉は、函館の芸者で、金玉均の札幌時代に知り合い、金玉均とともに上京した。金玉均が上海へ行ったあとも陰膳をして無事を祈っていた。
が、金玉均の支援者だった宮崎滔天によると、金玉均の葬儀で会ったときはすでに別の男性と再婚していたという。
金玉均の妻子については処刑されたとも、逃亡した、とも噂され行方不明であった。
が、日本は探偵を送ってその捜索を始めた。
1894年12月、当時東学党の乱(甲午農民戦争)を鎮圧中の日本軍が、忠清道沃川近傍で金玉均の妻と女子を偶然発見して保護した。その時の2人は実に憐れむべき姿だったという。後に京城に護送して朴泳孝・徐光範が預かることとなった。が、妻子は金玉均が暗殺されていたことも知らなかった。
金玉均や朝鮮の文明開化による自立を支援してきた福沢諭吉は、1885年(明治18年)2月23日と2月26日の論説に、「朝鮮独立党の処刑(前・後)」という論説では、李氏朝鮮が凌遅刑という残忍な方法で甲申政変後に、金玉均ら開化派の三親等の一族を処刑して、遺体を晒し者にした報を聞いて、朝鮮の体制を激しく非難し、金玉均ら朝鮮開化派の死を涙している。
人間娑婆世界の地獄は朝鮮の京城に出現したり。我輩は此國を目して野蠻と評せんよりも、寧ろ妖魔惡鬼の地獄國と云わんと欲する者なり。而して此地獄國の當局者は誰ぞと尋るに、事大黨政府の官吏にして、其後見の實力を有する者は即ち支那人なり。我輩は千里遠隔の隣國に居り、固より其國事に縁なき者なれども、此事情を聞いて唯悲哀に堪えず、今この文を草するにも淚落ちて原稿紙を潤おすを覺えざるなり
— 『時事新報』1885年(明治18年)2月26日、 朝鮮独立党の処刑(後編)
著名な脱亜論もこの出来事の約3週間後に書かれたため、平山洋は「脱亜論」の内容が「朝鮮独立党の処刑(後編)」の要約になっているとして脱亜論への影響があると分析している。
日本滞在中は頭山満に紹介された本因坊秀栄と囲碁を通じての深い交流があり、本因坊秀栄は北海道・小笠原諸島にも慰問に訪れていた。
また死の直前に友人に贈った碁盤(浮木の盤)は1976年に日本棋院に寄贈されたが、没後100年を経た1995年に韓国棋院に贈呈された。
暗殺された日、親しかった頭山満の夢枕に立ったという。
暗殺者の洪鐘宇は逮捕後に朝鮮政府の交渉により釈放された。
帰国後に高宗から激賞され、守旧派の一員として要職に就き、開化派を弾圧した。だが甲午農民戦争後に日本が圧力を強めたことから、1903年に失脚して済州島に流され、1913年に貧困のうちに没した。
金玉均の墓がある青山の外人墓地では月額590円の管理料金がかかるが、これを5年以上滞納していたために撤去通告が2004年に東京都から出された。通告に驚いた韓国大使館は滞納中の管理料を代納し、移転の危機を免れた。
ちなみに、高宗の父親は興宣大院君・李是応で、若い高宗の補佐役として政治の実権を握っていた。李垠はこの高宗の七男であり、この高宗が子供を産めない身体になったために、1909年に、異母兄の純宗が即位し、その後に、李垠が皇太子になった。
この最後の李氏朝鮮王朝の王・李垠と、日本の宮家の梨本宮家の方子さまが結婚するのである。その後、太平洋戦争後に、朝鮮半島では、韓国が民主化。北朝鮮は社会主義となる。
そうして、当然のように、朝鮮王朝は廃止され、間もなくすぐに、『朝鮮戦争』が勃発するのだった。(過去にさかのぼるが、1392年に将軍・李成桂が高句麗を倒して、新王朝を成立させ、五百年の歴史を重ねた。(「李氏朝鮮」の王朝(李朝))ただし、その歴史はシナ王朝の「属国」としての歴史であった)
北京時代 獄中
*やっと北京留学の春がきたのは自宅静養を終えた頃だったという。
淑子の父親はよく「可愛い子には旅させよ」といったらしいが、生まれてはじめての、しかも見知らぬ土地への、長い旅である。淑子は当然ながら父親がつきそってくれるものと勝手に思っていたが、仕事の都合で先に旅立ってしまい、淑子はひとりぼっちになった。
<奉天は満州一の都会だが、中国大陸最大の故都・北京に比べれば東北の一地方都市にすぎない。それだけでも気遅れするというのに、異国の原野を昼も夜も汽車にゆられっぱなし。十四歳の一人旅だった。
憧れの北京に対する好奇心からいささか興奮もしたけれど、胸中の大半を占めていたのは、〝異郷〝への言いしれない不安だった。>*
『李香蘭 私の半生』(同)参考文献引用
*外国人や上流階級用の特別車両ではなく、一般列車車両はゴミだらけでキツイ臭いがたちこめる。淑子の父は「これからは中国人としていきていくんだ、慣れるように」と、一般列車車両の切符を買ってくれたのだった。母親は奉天駅でこまごまと注意を与えていたのに淑子は上の空だったという。
<硬席車の乗客は、私以外はすべて中国人である。いや、私も中国人のふりをして乗客していた。>*
『李香蘭 私の半生』(同)参考文献引用
一九三四年(昭和九年)五月といえば反日ゲリラや宋慶齢(そうけいれい)らが、反日行動を激化させた年である。また、毛沢東の中国共産党と孫文・蒋介石の中国国民党の「中共合戦」があったころではないか?
*鉄道はしばし抗日ゲリラの標的にされたし、奉天駅を出発する頃降ってきた雨がどしゃぶりになっていた。風も強く吹きはじめ、完全な嵐となった。
<夜汽車の車中は暗く、重々しい空気が漂っている。ニンニクのにおいが鼻をつく。軟席車の乗客のほとんどは苦力(クウリイ)や貧しい人々だった。>
轟轟とうなる暴風雨は激しくなり、やがて列車は急ブレーキで止まった。「どこかに雷が落ちたのか」「匪賊(ひぞく)の襲来か」「ゲリラの襲撃か」
車掌がまわってきて説明した。どうも豪雨で鉄橋が一部浸水しているから徐行しながら渡るのだという。ゲリラの襲撃などではなくて、ほっと乗客は息をついた。
<いずれにしても私は、生まれてはじめての大金を所持することで出発駅から緊張していた。「落としてはいけない」「盗られないように」ときどき、そんな文句を口の中で呪文のように唱えては、お腹に手をあてて札束を確認していたのである。>*
『李香蘭 私の半生』(同)参考文献引用
*とにかく、大切な大金を取られてはおわりだ、と淑子はおもって、一人の男が警官をつれて人ごみをかきわけてくるのを見て、あわてて席からたちあがり、列車の便所の戸を開けて飛び込み、内鍵をしめた。キツイ糞尿臭がしたが、とにかく内鍵を閉めて避難した。その後、座席に戻り、淑子は眠ってしまった。目覚めると打って返したような青天である。
<駅には父が出迎えてくれた。アカシア(槐樹)の並木を、洋車(ヤンショ・人力車)を走らせるとジャスミン(茉莉花・まつりか)の香りが春かすみに漂ってきて、私たちを包み込んだ。
「ひとりでよく来たね」と父はおかっぱ頭を撫でてくれた。>*
『李香蘭 私の半生』(同)参考文献引用
大都会・北京でこそ李香蘭こと山口淑子の才能が開花して百花繚乱になることになる。
*<私が戦前の北京でまずなつかしく思いだすのは、城壁と楼門のある古都の姿。とりわけ故梅原龍三郎画伯が好んで描いた紫禁城の見える風景なのである。>*
『李香蘭 私の半生』(同)参考文献引用
*梅原画伯は一九八六年に九十七歳で大往生を遂げられたが、その画伯の作品の中に李香蘭こと山口淑子のいわゆる『姑娘(クウニャン)画』があるという。
山口淑子は中国滞在の梅原画伯のモデルも何回かこなしていて、画伯夫婦とは仲良しであったという。ずいぶん可愛がってもらったのだそうな。
中国人・潘家に養子のような形で寄宿した屋敷は豪邸であったという。日本人シンパの中国人政治家で、父親は淑子を潘さんに預けるとそのまま奉天に帰ってしまった。<北京で知っている日本人は誰もいない。私はここでは、東北地方から親戚の潘家を頼って上京し、養女として栩教(イイチアオ)女学校に通学する中国人、潘淑華(バンシュウホワ)である。>*
『李香蘭 私の半生』(同)参考文献引用
山口淑子に淑華と名付けたのは淑子を活かし、その他に七人の娘さんに必ずついている華をつけたらしい。
*<潘航桂氏は、李際春将軍と同じく父とは古くからの親友で、華北地方政界の大物だった。宋哲元将軍の顧問をしている要人と聞いたが、当時の肩がきを文献で確認したところ<一八八四年生まれ、河北省塩山県出身、日本の早稲田大学を卒業後、蒙蔵院副総裁、国務院参議などをつとめ、平津衛戊(へいしんえいじゅ)司令を経たあと冀察(きさつ)政務委員会政務所長、のちに天津特別区市長>(益井康一著書『漢奸裁判史』みすず書房)とあった。>*
『李香蘭 私の半生』(同)参考文献引用
山口淑子は中国人・潘淑華としてミッションスクールに通いはじめた。北京の洗練された北京官話は淑子を驚かせたが、淑子は、初めはあまり話さない感じの女の子(東北地方からきた田舎の中国人)だと思われていたので言葉で「日本人」とバレルことはなかったという。そのかわり、下校の途中の北海(ベイハイ)公園で『中国語辞典』をひきながら発音や言語を練習したという。けれど、同窓生の女の子たちは非常に人間的なところもあり、薄毛の地理の先生を「三毛児(サンマオアル・頭の毛が三本しかない漫画の主人公)」等といってからかったり、今でいうイケメンの英語の先生に夢中になったりしたという。
*だが、授業をボイコットして小さな政治集会を開き、演説する生徒もいた。満州から南下し華北地方を席捲(せっけん)しようとしていた日本軍に対して反日のムードが盛り上がり、「国民党と共産党が争っている場合じゃない。挙国一致で東洋鬼子(ドンヤングヱイズ・日本人)を排撃しなければならない」と叫ぶ声には、淑子は黙ってうつむかざるをえなかったという。*『李香蘭 私の半生』(同)参考文献引用
*潘家の朝は鳩の大飛来での物音で目が覚めたという。洗面台には洗顔用の洗面器のバケツにぬるま湯がいれられていて、この洗面器のお湯で何人もの人が代わる代わる顔を洗う。
淑子は誰かが洗った後のお湯で洗顔する気にもなれず朝一番におきて洗顔する癖がついたという。豪邸なのにお風呂もない。風呂はいわゆる日本でいう銭湯に二週間に一度いってからだを洗う。大浴場は古代ローマ建築のように豪華なつくりであったという。
潘家にも夫人がふたりいた。義姉たちは「東娘(ドンニャン・東のお母さま)」、「西娘(シイニャン・西のお母さま)」と呼んでいたが、実質的に権力を握っていたのは東娘だった。子供たちは、東娘の許しがなければ食事も外出もできなかった。西娘は、淑子や義姉たちの衣服や食事の世話をしてくれた。いわば東娘が正室で、西娘が側室の家政婦という具合であったという。*
ふたりのヨシコ
「男装の麗人・川島芳子」「李香蘭・山口淑子」
*<ある朝、いつものように乗馬の稽古の帰り道、北海の湖畔にさしかかると、ときならぬ驟雨が訪れ、あわてて亭に雨やどりしたことがあった。そのときである。調教師が「アイヤアッ」と叫んで湖を指さした。大きな亀が忽然と姿を現わし、飛びあがるように一回転し、水中に没した。
北海公園には魚介類も生棲していただろうが、伝説にあるような巨大な亀がヌウッと出てきたのにはすっかり驚き、腰が抜けそうになった。>
淑子はいろいろなひとにその亀のことを話したが、皆が信じられないという。<私たちがみたのは北海の主だったのだろうか。><あの亀は今でも生きているだろうか。><学校帰りに食べるアイスクリームもおいしかった。>*
『李香蘭 私の半生』(同)参考文献引用
現在の中国の『中南海』は政治家たちの居場所で、日本でいう所の国会議事堂や永田町である。しかし、淑子がいた当時は綺麗に整備された桃源郷のような公園だったという。
*淑子たち女学生たちと男子学生たちは中南海公園で「われわれはいかに日本軍と闘うべきか」という自由討論に参加した。参加者の表情は熱気を帯びていて、全員燃えていたという。おそらく淑子だけが、うかぬ顔をし、うつむきかげんだったという。
リーダーの中国人学生が「日本軍は偽満州国をでっちあげ、東北地方からこの北京にせまってきている。もし日本軍が北京の城壁を越えて侵入してきたら諸君はどうするか」
いろいろな中国人が、立ち上がって意見を言いはじめた。「城兵の中には日本兵をひとりもいれさせない」「死ぬまで戦うぞ」などの声が上がった。「しかし、戦うと言っても学生には鉄砲も弾薬もないではないか」
すると「僕は南京に行き国民政府軍に志願する」という学生もいれば「僕は共産軍に参加する」という学生もいる。淑子の番がまわってきた。さきほどから、何をしゃべればいいか考えていたが答えが見つからずにいた。「私は…」と言いよどんでから、
「私は、北京の城壁に立ちます」と答えた。とくに思いつめた結論ではなく、とっさの発言だった。当時の心境ではそうだったのである。<北京の城壁に立てば、外から攻めてきた日本軍の銃弾か、城壁内で迎え撃つ中国側の銃弾か、どちらかの弾にあたって、私は一番さきに死ぬだろう。それが自分にもっともふさわしい身の処しかただと本能的に思ったのである。>
<翌一九三七年(昭和十二年)七月、北京郊外の盧溝橋でついに日中両軍が衝突した。日中全面戦争のはじまりだった。>*
『李香蘭 私の半生』(同)参考文献引用
東娘も西娘も娘たちにおこずかいをちょっとしかくれない。学生時代を経験した方ならご存知だろうが、文房具や衣服だけでなく、レコード(今でいうCD)代やお菓子代や雑誌代等、学生時代は好奇心が最大値にふれる時代でもあるから、おこずかいがなければどうしようもない。そこで、淑子は父親の親友の山家亨さんを「山家のおじさま」と呼んで、幾らかのおこずかいをもらっていたという。
だが、けして売春とか恋愛とか、そういうやましい金ではなかった。「せっかく潘さんの養女として中国人として慣れてきたのだから事情が許す限り今のままでいたほうがよい」山家さんが、あの「男装の麗人」「東洋のマタハリ」として有名な川島芳子の初恋のひと、とははじめ知らなかったという。
*山家亨さんは、淑子がスター李香蘭となってからは借金を淑子から頼んで多額のお金を借りたまま、やがては戦後自殺するのだが、ここではあえて触れない。後述しようと思う。
川島芳子とはじめて顔を合わせたのは天津の日本人租界松島町にある東興楼(とうこうろう)、川島芳子が経営していた中国料理店で開かれたパーティーの席上であったという。
潘航桂氏が天津特別区市長に就任すると東娘は天津の公邸に一緒に移ったが、西娘と月華、英華と淑子は北京の豪邸に残ったという。天津の町並みはごみごみしていて、その裏の中国人居住地はスラム化しており、街を流れる白河(パイホオ)はその名前とは逆に黒く濁り、いつも犬や猫(そしてときどき人間)の死体を浮かべていた。*
『李香蘭 私の半生』(同)参考文献引用
*<背はあまり高くないが、均整のとれた肢体を包む男性用の黒い旗抱姿は、あでやかな女形(おやま)の美しさだった。
七三に分けた断髪、柔らかそうな短い髪が軽くなでつけてあった。視線とともに移動するまなざしや、やや大きめの唇からいたずらっぽい愛敬がこぼれる。
「川島芳子」「金壁(きんへき)輝(き)司令」「東珍様」「顕(けん)氏(し)姫」などの囁きが、人々の間から聞こえてくる。
清朝族第十代粛親王善耆(ぜんき)の第十四王女、愛(あい)新覚(しんかく)羅(ら)顕(けん)氏(し)、字(あざな)は東珍(トウチン)、熱(ねっ)河安(かあん)国軍(こくぐん)総司令、日本名、川島芳子――だった。>
中国には歌舞伎のように男性が女性役(いわゆる女形)をする劇などはあったが女性が男装する宝塚歌劇団のようなものは当時なく、淑子には不思議な少年のように見えたが、実はこのとき川島芳子は三十歳を超えていたという。
父親が自己紹介した後、「長女の淑子です」と、自己紹介した。川島芳子は眉間に少ししわをよせ、中国服の淑子の頭から爪先まで見下ろしてから、中国語で「日本人だったのか」とつぶやいた。*
『李香蘭 私の半生』(同)参考文献引用
淑子は、自分が日本人で、中国人として栩教女学校に通っていること、まだ日本に行ったことがないことなどを中国語でとりとめのない雑談話としてはなした。
*芳子は「ヨシコ? ヨシコとは奇遇だ。ボクと同じ名前だね。よろしく」と、驚いたことに今度は日本語の男言葉で言った。
「ボクは小さいころ〝ヨコチャン〝と呼ばれていたよ。だから、きみのことも〝ヨコチャン〝と呼ぶからな。ボクのことは、〝オニイチャン〝と呼べよ」
川島芳子は、ひとと話す時、まず相手の眼をみつめてから、左頬をすりよせるかのように首をかしげるのが特徴だったという。その愛らしい仕草はゲリラ戦闘で負傷した右耳が難聴だったことによる自然なポーズだと、淑子はあとで知ったという。*
『李香蘭 私の半生』(同)参考文献引用
*潘航桂氏や東娘からみても清朝の元姫君の川島芳子はやんごとのない存在。かつては金壁輝司令として、満州国軍政部最高顧問、多田駿中将という実力者からお墨付きをもらった〝東洋のジャンヌダルク〝である。淑子は少女から大人の女性になる思春期だったから、しっかり信用したものだった。
<しかし、しだいに淑子にもわかってきたのだが、彼女(川島芳子)の生活はすでに金壁輝司令のそれではなくなっていて、自堕落な放蕩三昧にすぎなかった。「東洋のマタハリ」と騒がれた好奇の眼も「東洋のジャンヌダルク」ともてはやされた栄光もすでになく、日本軍からも満州国軍からも、右翼大陸浪人グループからも相手にされなくなっていた。一時は三千人とも六千人とも呼ばれた部下も減り、百人以下になっていた。その部下たちを食べさせるために多田中将に頼み込んで中華料理店を経営していただけだった。そのくせ東興楼は安国軍の天津のアジトとふれまわり虚勢を張った。>
夏の夜の狂宴に何度か参加した淑子は、一時的な好奇心が満たされるとさすがにへきえきしはじめていた。
そんなとき、淑子は潘さんに呼ばれ大目玉を食らった。最初、潘氏も川島芳子を信じていたが、その虚構と嘘に気づき、調べ上げると正体は虚報とペテンでしかないとわかった。そんな人物の店に義理の娘の淑華(淑子)が出入りしていたのである。*
『李香蘭 私の半生』(同)参考文献引用
*淑子と川島芳子の二度目の出会いは、淑子が王府井大街を歩いていたとき、後ろからすーっとフォードがきた。「ヨコチャン」と川島芳子の声。淑子は「しまった」と心の中では思ったが、顔にはださず「おひさしぶりですね」と笑顔をみせた。
「お乗りよ。家で食事しようよ」相変わらずのシックの黒い軍服。だが、川島芳子は淑子の眼前でも、モルヒネの注射を自分のふとももにさして「これをやるからね、ぼくは水を飲んじゃいけないんだよ」と、快楽に酔うのだった。
川島芳子の末の妹の愛新覚羅顕碕(けんき)さんは「モルヒネの注射ばかりしていた」と証言している。(『清朝の王女に生まれて』中央公論社)*
『李香蘭 私の半生』(同)参考文献引用*
中国人スター李香蘭誕生
*<十四歳ではじめて北京へやってきたときは〝恐怖の旅〝だったが、同じ硬席車(一般列車車両)に揺られながらも、こんどは山海関もこわくなければおカネをとられる心配もなかった。
新京駅には、たかが吹きかえ歌手のためにおおぜいの人たちが出迎えにきてくれた。大人たちは、列車からいかにも上品で優雅な李香蘭らしき女性がおりてくると思っていたが、それらしい女性は見当たらなかった。逆に、列車はまた動きだし、みえなくなった。蒸気機関車の煙の後のプラットホームで、ひとりでたたずむおかっぱの小娘がいる………それが李香蘭こと山口淑子そのひとであり、大人は驚いたことだろう。
ただの吹きかえ歌手というのは嘘で、満映は北京官話と日本語がわかり、歌もうたえる満州娘を探していたのだった。
淑子はフィルムカメラの前でいろいろな表情をつくらされたが、「吹きかえ歌手」と聞いていたので、まさかそれがカメラ・テストとは気づかなかった。
<だまされた、と気づいたときは遅かった。カメラ・テストだったのだ。>*
『李香蘭 私の半生』(同)参考文献引用
偶然満州映画のカメラ・テストに立ち寄った映画監督には、強烈な印象を与えた。その監督は当然日本人であった。
彼は、あるとき偶然にふらりと満州映画にやってきた。
そこで、李香蘭を発見していた。
彼は、映画にでる『美人だが、少し頭のお留守なバレリーナ』を探していたという。
そのバレリーナではなく、彼は李香蘭を発見した。
「ちょっとオモチャ箱をひっくりかえしたような顔だけど、まあいいや。うたえるというし。おつかれさん」
病気療養後、淑子はベッドで静養し無理にでも食べ物を口にしたという。その結果、淑子は以前ほどやせこけた体型ではなくなっていた。
それどころか、見るものすべてをひきつけるようなチャームを身につけていた。
淑子は十八歳になり、きらきらした瞳と、気品高い頬骨、すっと細いウエストと手足、そして堂々とした身のこなし……彼女はあどけない妖精のようであった。
すでに世界を魅了する美しさを備えていた。
監督は彼女の美しさに魅了され、当初とは違う役を李香蘭に与えた。
「誰?わたしのこと?」
この映画で与えられた役の科白はそれだけだった。
その自信のない言葉は、当時の淑子の境遇にぴったり当てはまる。ショービジネスで、映画で、舞台で……李香蘭こと山口淑子の夢は大きく膨らんだ。
最初の主演作品は『蜜月快車』である。
満州で撮る訳だから俳優は主演は日本語も出来る日本人か中国人だが、ほとんどの脇役やエキストラは当然中国人である。当初は俳優全員が中国人であったという。
*<日本人スタッフは朝であれ夜であれ「おはようございます」といっていたが、そのうちはしょって「オッス」「オッス」と呼びあうようになった。それを何も知らない若い中国人女優がプロデューサーや監督に「オッス」「オッス」と呼びかける。この珍風景にも中国人であるはずの私は笑ってはならなかった。>*
『李香蘭 私の半生』(同)参考文献引用
「いまにして思えば、あのころ行き詰まっていたのがかえってよかったんだわ。さもないと、大胆に前進することなんて出来なかったでしょうね。わたしはいつだって外向的というより内にこもるほうだったけど、ほんとうにやらなければならないときはそれに向かって進むことができた。自分の将来は楽観的に考えることにしたの。そうでないと辛いから」
山口淑子はある対談でそう語る。
「オーデションから帰って、ベッドで泣いたのを覚えてるわ。……ジャズダンスのステップがどういうものか見当もつかなかった。板みたいに体をこわばらせて、流れをとめないようにするのがせいいっぱいだったわ。こんなことをやって楽しいのかどうかもわからなかった!バレエという芸術とは比較のしようもなかったけど、お金になると思ったの。だってお金はほしくてたまらなかったから。チャンスをものにできなかったのがくやしくて泣いたわ」
李香蘭には、確かにミュージカルとジャズステップの経験が不足していたという。しかし、才能やテクニックで劣る部分は、持ち前の美貌とチャームで補われた。
共同プロデューサーは、オーディションのときの李香蘭の魅惑の表情に注目していた。李香蘭の演技をみた後、彼は紙にこう書く。
……ダンサーとしてはお粗末だが、とても躍動感がある……
彼は即刻李香蘭と契約した。
「あんまり強引だったので、本業のバレエのほうでも話しがきているなんて切り出せなかった。でも最後はこう考えることにしたの。どうせバレエ界でビックスターになれる訳じゃない。せっかく新しい世界でやってみるチャンスが与えられたんだからって」
李香蘭はある対談でそう語る。
舞台の興行が始まって数週間後、日本人プロデューサー、田村泰次郎が李香蘭に注目することになる。
彼は李香蘭のオーラや存在感に圧倒されたという。
本人はある対談で、こう語る。
「ステージを駆けていった少女から目が離せなかった。どう説明すればいいものか。強烈な印象というわけではなかった。ただ、大きな黒い瞳と、舞台で軽やかに跳ねる前髪が記憶に残った」
初期の李香蘭の演技をみたひとたちはみんなそういう感想をもったという。舞台で軽やかに跳ねる鋼のような華奢なボディに美貌、黒い瞳……みんなは李香蘭の虜になっていった。
李香蘭の舞台や映画やレコードや歌謡ショー(今でいうライブ)はそれだけに終わらない。*<先日、田村泰次郎さんの通夜で、丹羽さんが「元気?」と声をかけてくださったが、「この子は中国人だね」といったことはわすれていた。>*
『李香蘭 私の半生』(同)参考文献引用
当時の人気日本人スター長谷川一夫氏と李香蘭ダブル主演での映画『支那の夜』、『熱砂の夜』『白蓮の歌』は「大陸三部作」として、有名になり、李香蘭は日本でも中国でもスターになる。まさに大出世である。その頃、「山家おじさま」こと山家亨少佐は没落していて、何度も淑子こと李香蘭に金をたかりにくるような惨めな境遇まで堕落していた。
努力の結果、舞台や映画は大成功におわった。
李香蘭はくたくたに疲れたが、お金とチャンスが巡ってきたので満足であった。
田村は一年後、同じような舞台や映画を興行しようとしたが、真っ先に出演依頼をしたのが、ほかならぬ李香蘭だった。
「観客は彼女を気にいってくれた」田村は語る。「ショーはスターの総出演だったのに、お客がいちばん長く拍手を送ったのはあのやせっぽちの女の子なんだから」
北京出身の美女、美人女優は李香蘭に嫉妬したという。「出演者の中でいちばん胸の形がいいのはわたしなのに、お客の目がいくのは胸なんてちっともない子なのよ!」
李香蘭はいう。
「たしかに観客はわたしのことをじっと見てた。でも、それはわたしが、背が低くかったからよ!」
李香蘭は美貌であったが、品性と知性も兼ね備えた女性であった。彼女はまだ十九歳だったが、人々の注目と羨望の的になった。
あつらえのスーツを着て、白い手袋をはめた華奢な美女は、人々の〝理想〝とまでなった。いままで自分の殻に閉じ籠っていた少女が、突然、人々の目に晒されるのはどんな気持ちだったであろうか?
映画『白蓮の歌』では、出演者たちとも仲良くなり、今までのようにまっすぐ母の元へ帰ることもなくなった。そして、そんな彼女に猛烈にアタックしてくる男性も現れる。
中国のポピュラー歌手で共演者でもあった男である。
だが、そんな男は、所詮は、顔だけの男、でしかない。
この頃、山家亨少佐はある中国人女優・李なんとかという女性と恋人関係にあった。が、その頃、放蕩空夢の中の川島芳子はその女性を「李香蘭」だと勝手に誤解して「李香蘭の奴、売れっ子の映画スターになってつけあがり、ボクを馬鹿にしやがって!」と、酷く恨んだ。
川島芳子は李香蘭こと山口淑子にいわれない『濡れ衣』を着せようと画策したが、日本軍(いわゆる大陸の関東軍)はそんなことは御見通しであり、芳子の評判はまたも下がった。
川島芳子は戦後、日本に味方した漢奸として中国国家の軍事裁判にかけられて処刑される運命だが、まだここでは触れず後述しようと思う。
日本敗戦 川島芳子(愛新覚羅顕氏)『漢奸罪』で処刑
満州建国博覧会の満映代表の日満親善女優使節として、淑子さんと孟虹(モンホン)さんが選ばれたとき、淑子さんは「生まれて初めて祖国に行けるんだ」と思って、飛びあがらんほどに興奮したという。*<憧れの日本! 私は未知の祖国日本を文化と教養の先進国だと思い込んでいた。>
引率は俳優養成所の所長の近藤伊与吉さんと山梨稔さん。ルートは、新京→満州国境町安東(現・丹東)→鴨(おう)縁(りょう)江(こう)を渡り→朝鮮半島の釜山→さらに関(かん)釜(ぷ)通路船→山口県下関入港、という長旅であった。
下関に入港する前夜、淑子さんは興奮のあまり一睡もできなかったという。やがて、水上警察の係官の検閲がはじまった。最初は日本人、次に外国人、何故か中国人と思われたのか山口淑子さんは外国人扱いだった。一人一人、入港し、タラップを降りていく。淑子と孟虹は警察官の前に立った。
<孟虹は、パスポートを見せるとすぐに下船を許された。ついで私がパスポートを見せ、警官がうなずき、行けという身ぶりをしたので通りすぎると、「おい、ちょっとお前、戻ってこい」と呼び止められた。「もう一度パスポートを見せてみろ」
旅券をさしだすと、警官は私の顔と見くらべながら吐きだすようにどなった。「貴様! それでも日本人か!」。私の旅券には<山口淑子、芸名・李香蘭>と記載してあったのである。「おい、その恰好はなんだ、ええ?!」彼は私の中国服を指さして舌うちした。
「いいか、日本人として恥ずかしくないのか?! 日本人は一等国民、中国人など三等国民だ! 支那人(中国人)みたいなカッコしやがって! 馬鹿野郎」>
淑子さんにはその日本人の理屈がよくわからなかった。*
『李香蘭 私の半生』(同)参考文献引用
『蜜月快車』を皮きりに、たてつづけに四本の映画に出演する淑子。その中でも五本目の*『白蓮の歌』以降は、『黄河』(一九四二年)、『萬(ばん)世流(せいりょう)芳(ほう)』(一九四三年)をのぞき、全作品が日本映画といってよい。日本での李香蘭ブームもすごくて、淑子はファンたちにもみくちゃにされながら乃木坂の帝国ホテルに落ちついたという。何から何まで中国とは違い戸惑うばかりの淑子。最初の頃の日本滞在は頭痛や嘔吐感や腹痛など何故か体調が悪いのだが、中国に帰るとケロッと治ってしまう。
<「やはり中国が故郷なんだね」としみじみ言ったものである。>
帝国劇場にはファンの列が七輪にもなった!という。*
『李香蘭 私の半生』(同)参考文献引用
大俳優・長谷川一夫との共演で、その大物に演技指導まで直伝され、手取り足取り演技指導を淑子にほどこした。だが、のちに恋愛沙汰の醜聞と騒がれたがそのような「やましいこと」は一切なかった。日本人俳優・長谷川一夫といえばある暴漢に道で頬を切りつけられた事件で有名だが、その傷跡は濃いメイクで隠していた。
(中国人だと思って)李香蘭に演技指導をする姿に、淑子は崇高な〝プロフェッショナルの俳優の真摯さ〝を見た思いになったともいう。
なお、満州といえば愛(あい)新覚(しんかく)羅(ら)溥儀(ふぎ)(清朝最後の皇帝一九〇六~六七年<彼の自伝は『我的前半生(ウォデチエンバンスエン)』(北京・群衆出版社)>)や甘粕元・大尉など、映画『ラスト・エンペラー(最後の皇帝)』で有名だが、ここではあえて触れないでおこうと思う。ちなみに映画では、日本国敗戦を知った坂本龍一演ずる甘粕元・大尉が、「拳銃で自殺」する設定だった。だが、本当の甘粕氏は毒物を飲んで服毒自殺したのである。
*<「満映の父」といわれるほど甘粕理事長は満映運営に辣腕(らつわん)をふるい、かつ業績をあげ、社員の信望を集めたが、そのほとんどは根岸寛一筆頭理事の内助の功に負ったことを私は知っている。
甘粕さんがテロリスト、軍国主義で信長的性格だったとすれば、根岸さんはヒューマニスト、自由主義で、信長に仕えた秀吉的な存在だった。人材の登用、機関改革、映画政策など、企画面の大筋は根岸さんが打ちだし、甘粕さんは政治力を発揮し、その政策を積極的に実行していった。二人が〝形影(けいえい)相伴うがごとく〝の関係にあったからこそ、満映は円滑に運営できたのだった。>*
『李香蘭 私の半生』(同)参考文献引用
*<また愛新覚羅溥儀(最後の清朝皇帝)の弟の溥傑氏と日本人の浩さんは結婚していたが、浩さんがいかに溥傑さんにつくしていたかは当人の溥傑さんも認めていた。
一九四五年(昭和二十年)八月九日ソ連軍が進攻しはじめ、皇帝一家が新京を脱出する前夜に、溥傑夫婦は吉岡中将の邸宅を訪れたが、その際、溥傑氏は洗面場でピストル自殺を図ろうとした。その気配を察して、とっさに飛びこみ、阻止したのが吉岡中将だった。
溥傑さんと浩さんの長女の慧生さんは、いずれ日中友好のかけ橋に、と期待されていた。だが、戦後、一九五七年(昭和三十二年)学習院大学在学中、男友達にピストルで脅迫されて伊豆・天城山中まで連れ出され、不幸にも十九歳の若さで命を奪われた。(最近の研究では心中事件ではなかったのか?と疑問が呈されている。演歌で有名な心中曲『天城越え』の原題となった事件である。ちなみに私長尾 景虎は一九七〇年生まれなので知らない。)>
*『李香蘭 私の半生』(同)参考文献引用
日本軍はパールハーバー奇襲攻撃以来、太平洋戦争は敗北の連続であった。
泥沼の戦争で国民は飢え、物資や食料は手に入らず、屈辱的な無差別空襲、沖縄進攻・占領、そして広島長崎への(人体実験における)原爆投下で、ある。
戦争の悲惨さや、A級戦犯論、天皇論、などは他の戦争もの小説やノンフィクションで触れているのでここでは述べない。詳しくは他の私の著作物を参考にしてほしい。
*<川島芳子さんは、一九四〇年(昭和十五年)ごろから天津の東興楼、北京の邸宅、博多のホテル清流荘の三カ所を行き来しながら、鬱々と楽しまない日々を送っていた。
ふだんは、東興楼の経営をひとにまかせ、北京の自宅にひきこもっていたが、ときどき福岡を訪れるのは、右翼の巨頭、玄洋社の頭山(とうやま)満(みつる)氏と会っていたからだった。笹川良一氏とのつきあいもこのころからはじまったらしい。>*
『李香蘭 私の半生』(同)参考文献引用
笹川良一氏といえば「世界はひとつ、人類皆きょうだい」等とテレビコマーシャルで偽善の御託をならべて、自分のカネでもない博打の〝テラ銭〝を世界中に寄付して「ノーベル平和賞受賞」を目論んでいた博打屋(日本の競艇ギャンブル)の胴元のおじいさん。と、して、我々世代にはよく知られている人物だ。笹川良一のドラマチックな半生を描いた山岡荘八著書『破天荒――人間笹川良一』(有朋社)が有名な参考文献である。
川島芳子を邪魔になった日本軍が多田中将に川島芳子を消せ(つまり殺せ)と命じられ、なんと山家さんが暗殺の実行をまかされた。でも、さすがに殺せなくて、そんな川島芳子を笹川氏が命を助けた、という小説家脱帽の真実があったという。よくわからん。生まれる遥か昔であるし(笑)。
*<川島さん――彼女にこれほどまでに人間くさい印象を受けたのははじめてであった。
「キミとボクは生まれた国は違うが、共通点が多く、名前まで同じで、いつも気にかかる存在だった。キミのレコードはしょっちゅうかけて聴いている。とくに『支那の夜』などは何百回もかけ、レコード盤が白くなってしまった」
私は「支那の夜」を映画の中でうたったが、レコードは渡辺はま子さんが吹きこんだものだった。>
川島芳子は終戦を北京の自宅で迎えたのだという。
九州から北京に戻れたのは、東条英機夫妻に近づき、その取り計らいだったともいう。東条首相がバックにいればさすがの関東軍も暗殺できない。芳子は北京の自宅で愛猿とたわむれ、平穏な生活をしばらく送った。
川島芳子が中国政府に逮捕されたのは一九四五年(昭和二十年)十月十日の北京の自宅である。北京第一監獄に囚われの身になり、漢奸の罪状(祖国を裏切った罪)で裁判にかけられた。一九四七年(昭和二十二年)十月二十二日死刑の判決を受け、翌四八年(昭和二十三年)三月二十五日、北京監獄刑場で銃殺刑に処された。*
川島芳子の生涯については、裁判のもようや銃殺刑の様子を含め『川島芳子――その生涯の真相と謎』や『男装の麗人・川島芳子伝』(上坂冬子著書、文藝春秋)などにくわしい。
*<「愛新壁臺妙芳大姉(あいしんへきたいみょうほうたいし)」という位牌の前には、川島芳子が獄中で着ていた中国服やズボン、使用した魔法瓶などが安置されていて、ひときわ目立ったのは、まだ手をとおしたこともないらしい白羽(しらは)二重の晴着だった。処刑の直前、最後の希望をたずねられて、「獄衣ではなく、せめて和服姿で死なせて」と願ったが叶えられなかったという。
遺体は顔面が銃弾でメチャクチャに崩れて、本人の面影を残していなかったことから、「スリの女とすりかわった」などといった替え玉説が飛び交ったという。>
<川島さんは一九〇六年(明治三十年)五月二十四日生まれなので、死刑になった時点では満四十一歳十か月だった。それなのに、一部の外電が三十歳とか三十一歳などと報じたのは、彼女自身が「十歳」若く〝サバ〝を読んでいたからだった。>
笹川良一氏も年齢を十歳若くいっていたそうだが、その場合は女心がそういわせたらしい。
川島芳子が年齢を十歳若く裁判でいったのは満州事変(一九三一年)当時十六歳以下であれば未成年であり、漢奸罪にならず無罪あるいは減刑を勝ち得る為の策略であった。
さらに戸籍上日本人ならば漢奸罪には適合しない。
だが、義父の日本人・川島浪速氏が日本人として戸籍をとらず、(若い頃この義父親が王女の貞操を乱し(つまり強姦し)その為に川島芳子が男装することになるのは前述小説に詳しい)、裁判中も一貫して川島芳子に救いの手をさしだすことはなかった。
つまり、戸籍上、川島芳子はずっと〝日本人・川島芳子〝ではなく、〝中国人・愛新覚羅顕氏〝であり続けたことになる。
ちなみに李香蘭こと山口淑子は戸籍上日本人であった為に漢奸罪の適用を逃れ、裁判では無罪であった。
戸籍謄本という一枚の紙切れが、まさに生殺与奪(せいさつよだつ)の権を握っていたのだった。*
『李香蘭 私の半生』(同)参考文献引用
最終章 さよなら、李香蘭・李方子
「さよなら、李香蘭」「さよなら李方子」
*<山家亨さんは、川島芳子さんの死の二年後、一九五〇年(昭和二十五年)一月末、山梨県の山中で自らの生命を絶った。二人は、ともに中国大陸を舞台に諜報謀略工作に従事しながら、愛と憎しみの関係を保ちつづけたが、一人は刑死、一人は自殺と、いずれも非業の最期を遂げている。
山家さんの実家は静岡市にあるのだが、山家さんの姪の山家(取材時)智(ち)嘉(か)さんによれば「山家」家は旧幕臣の家系であったという。>*
*前述したように山家亨氏は、李香蘭こと山口淑子が映画スターになる前ははぶりがよかったが、淑子が映画女優として稼ぎ出した頃になると、没落して、みすぼらしい身なりでお金を借りにきたという。
淑子は随分とお世話になった方なので力になりたかった。が、そのころ淑子たちの当座の生活だけでまだまだカツカツの状態であった。淑子の肩に、両親の生活費と妹弟七人の学費がすべて、淑子一人の肩にのしかかっていた。淑子が謝ると、
「わかりました。それではどうしようもないですなあ。それではそのかわりにといっては何ですが、娘の博子を預かってもらえませんか?遠出しなければならない用事ができましたもので」
「お預かりしたいのですけれど、年ごろのお嬢さんだけに責任もありますし、私たち一家だけでかつかつの生活で……」
「気の強い娘でしてね。今の女房のいうことを聞こうとしないんですよ。小さいころからあなたを慕っているので、預かってもらえれば」
山家さんは、戦後すぐに遠縁の女性と再婚していたが、博子ちゃんは十六歳の多感な年齢で、義母との折りあいがうまくいってなかったらしい。
一九五〇年(昭和二十五年)一月二十八日に、李香蘭こと山口淑子は松竹大船撮影所で三船敏郎との共演の映画『醜聞(スキャンダル)』という黒澤明映画の作品をつくっていた。
夜十時すぎに、大船駅前の大仏旅館に泊まっている淑子に、毎日新聞社会部から電話がきたのだという。
「山家亨という男を知っていますか?」といきなり切りだされた。
「ええ、よく知ってますが」
「山梨県の山中で自殺したんです」
「えっ!」
「夫婦心中です。二人で松の木に体をしばりつけ、それぞれ睡眠薬一びん分の錠剤を粉々に砕いてジュースにまぜて飲みほしたらしい」
「遺書が六通あって、五通は警察と債権者あてのお詫びですが、一通は、あなた宛てで、『娘の博子をくれぐれもよろしく』とあります」
電話口の新聞記者はつづけて質問する。「あなたと山家さんはどういう関係ですか?」
「どういうって、中国にいたときにお世話になった知人です」
「お世話になった?」
「父が存じあげていまして、私もいろいろお世話になりました」
「いろいろお世話になった?――そこらのことをもう少し詳しく教えてくださいませんか?」
ここまでの質問で新聞記者が、山口淑子と山家さんとの間に男女関係があり、山家博子は山口淑子と山家亨氏との子供である、と誤解しているのに淑子も気づいたという。だから、その辺の事情をくわしく説明して誤解を解いたという。「そうですか、十三歳で出産したことになりますね」といい、こうして、新聞記事の『山口淑子に遺児残し自殺』の見出しはとりやめになったのだという。
<一九五〇年(昭和二十五年)渡米した際、私はニューヨークで彫刻家と知り合い、翌年結婚した。>*
『李香蘭 私の半生』(同)参考文献引用
ちなみに山口淑子が一度目の結婚をした相手は世界的な彫刻家で日系人のイサム・ノグチ氏である。また、李香蘭こと山口淑子はハリウッドでも「シャーリー・ヤマグチ」の芸名で短期間だが、活躍した。その後、団塊の世代の奥様方にはお馴染みの芸能ワイドショー番組『3時のあなた』(フジテレビ)で、「共同司会兼女性リポーター」を淑子はつとめている。
それは後述しよう。
*いずれにしても山家博子は、マンダリン・クラブのホステスになった。
だが、男運が悪く、バンドのドラマーの男や銀行マンなどの男を転々とし、遊ばれては捨てられて…やっと放送局の記者と結婚した。その頃、山口淑子はニューヨークで暮らしていたが、博子ちゃんと同い年の、阿佐谷の家の同じ部屋で暮らしていたこともある妹さん(誠子さん)によれば、「今度こそ落ち着いた生活、普通の生活がしたい」とうれしそうに語り、メキシコ・オパールの婚約指輪を太陽にかざしてみせた、という。
男運もまともな幸運もなかったひとで、何度も自殺未遂を繰り返し、四度目に本当に死んでしまったという。その死は、ジュースに粉状にした睡眠薬を一びん分いれて飲みほして、ガス管をくわえての自殺で、父親と同じように睡眠薬による自殺であった。*
『李香蘭 私の半生』(同)参考文献引用
(戦後、睡眠薬での自殺がひんぱつしたことから、薬事法が改正され、一般薬局では「致死量にいたらないレベルでの睡眠薬販売」に規制された。だから、現在、薬局で睡眠薬を大量に買って飲んでも死なないシステムだ。私長尾景虎自身も睡眠薬で一九九一年に自殺未遂したが、喉がからからになっただけで死ななかった。鬱病で処方された睡眠薬でも(一九九七年二度目の自殺未遂)死ななかった。それに「ひろこ」ときくと、親戚の男運のない元・水商売の不幸なおばさん「故・ひろこおばちゃん」を何となくイメージしてしまう(笑))
李香蘭こと山口淑子は、戦争負傷者の慰問活動にも熱心にとりくんだ。
*<私は「あなたのお名前は?」「どこからおいでになりましたの?」「日本のお国はどちら?」といろいろたずねてみたが、(少尉は)涼しげな顔を悲しげな表情にかえるだけで、返事がかえってこない。
「お母さんが日本にいらっしゃるのでしょう?」「オ・カ・ア?」「おかあさん、あなたのおかあさんよッ!」
すると少尉は、「オ・カ・ア・サ・ン」と一語ずつかみしめるように発音した。しかし、この青年将校がしゃべったのは、この「オ・カ・ア・サ・ン」だけだった。彼は、北京に到着するまでに、ついに記憶を取り戻すことはなかった。>*
『黄河』は、野心的な、セミ・ドキュメンタリーとして評判になった。映画である。だが、この傑作の筈の映画『黄河』は李香蘭こと山口淑子の「幻の作品」になるのである。
日本ではすでに大陸ブームは去っていたし、映画『黄河』には貧しい農民の姿や苦しい戦闘が描かれていたからかも知れないと自伝で山口淑子さんは分析している。
映画『黄河』は、一部の映画界のひとに評判になっただけの作品でおわる。
大陸映画の時代はもう、おわっていた。
李香蘭を捨てよう、満映を退社しよう、と淑子は心に決めた。
(もっとも、満州国という日本の傀儡国家はすぐに崩壊、消滅していた)
*<十八歳のとき、はじめて訪れた日本の下関で、日本人から「日本人のくせに」と面罵された。いま北京では、中国人から「中国人のくせに」と批判された。そして素直に謝罪すると、大部分の記者は、私が日本人であることを疑っていながらも、拍手してくれる。
李香蘭を捨てよう、と思った。>
裁判では漢奸罪(祖国を裏切った罪)に問われたが、前述した通り、日本人の戸籍謄本で助かるのである。「若かったからとはいえ、考えが愚かだったことは認めます。申し訳なく思っています」素直に裁判で陳述する。と、裁判長は「よろしい、無罪。さっそく、国外退去の手続きをとる」といい、ハンマー(ギャベル)を鳴らすのだった。*
『李香蘭 私の半生』(同)参考文献引用
*そして、中国大陸から祖国日本へ引き揚げる日にちが一九四六年(昭和二十二年)二月二十九日にときまった。勿論、現代のような飛行機・旅客機など普及していないから蒸気船での引揚げだった。検閲では浮浪者のような恰好でいって、男女に分けられ口腔まで調べ上げられたが「日本国民、佐賀県出身、山口淑子、二十六歳」と記された引揚げ許可書に<検閲了>の印が押され、無事にパスした。
あとは翌日に引揚船に乗るだけである。やがて引揚船に列をなしてグループ分けされて帽子をふかくかぶり並んでいると、次は淑子の番、で、顔を上げると女性係官が淑子の顔をにらみつけていた。彼女は、名簿と許可書と淑子の顔を順に、何度も視線の三角形を描いてから、「李香蘭!」と言う。周囲の日本人たちも小声で「リコーランだってさ」「リコーランが日本に脱出しようとしてつかまった」などとささやいていた。
淑子の恩人の川喜多さんが「彼女はすでに憲兵の取り調べを受けて、裁判所からも国外退去の帰国許可がでている」と淑子の引揚げ許可書をふりかざした。だが、相手も「そんな話は聞いていない。李香蘭は中国人だろう?」
「いや、日本人なんだ」
「上司に報告してあらためて指示する。あなたがた三人は乗っていい」
「いや、ぼくらも残ろう」
他の引揚げ者は、検閲がすむとつぎつぎに乗船していく。野口さんと小出さんは乗船し、川喜多さんが残ってくれたという。
やがて、許可が下りる。やっと淑子は引揚げ船に乗れた。
<そのとき、思いもかけず船内のラジオから上海放送の音楽が聞こえてきた。そのまったくの偶然に、私はデッキの手すりを握りながら体が震えだした。私のうたう「夜来香」のメロディーが流れてきたのである。運命をつかさどる神が、私の出航を祝うために、わざわざ〝別れの歌〝を奏でてくれたとしか思えなかった。
山口淑子にもどった私は「さよなら、李香蘭」とつぶやいた。「さよなら、私の中国」
両目から熱いものがあふれてきて、はらはらと涙が頬をつたって落ちた。
「さよなら、李香蘭、さよなら中国」>
死刑から逃れ、無事に帰国の船に乗船できてほっとしたところへ、自分自身の歌が聞こえてきたためか、私は感情の整理ができないで泣きじゃくってしまった。
日本は戦争に負けて、これからどうなるのか。私は、もう二度と中国に帰れないのか。
さよなら、撫順、奉天、北京、天津、新京、ハルビン、大連、上海………。さよなら、さよなら、中国、さよなら李香蘭。こうして、李香蘭としての物語がおわった。*
〝抵抗できない相手をいじめるようでは、真の人格者とはいえない。弱い人々、よるべない人々をしいたげる連中は、臆病者のひとでなしだ。昔からいわれているように、卑劣漢はひっくりかえしただけで暴君に早変わりする。心の正しい人は、力があってもその使い道をはっきりと自覚しているし、力を用いる際にも慎重な配慮をけして忘れはしない。
こう考えると、やさしさと思いやりが、人間の人柄を判断する重要な決め手といえそうだ。真の人格者は、他人の行動をコテンパンに批判して事態をさらに悪化させるより、自分が多少傷ついても辛抱するほうを選ぶ。また、自分より恵まれない境遇にいるひとや失敗や過ちには寛大な心で接しようとする。富や力や才能におごらず、成功しても有頂天にならず、失敗にもそれほど落胆しない。他人に自説を無理に押しつけたりせず、求められた時にだけ自分の考えを堂々と披露する。人の役に立とうという場合でも、恩着せがましいそぶりはみじんも見せない。
これが真の人格者である〝
S・スマイルズ「自助論」より
李香蘭と別れて「山口淑子、李方子、最後の日々」
李垠殿下と夫婦となった梨本宮方子こと李方子は、長男の晋(しん)を産む。
だが、長男の晋(赤子)は、朝鮮王朝への旅先で、病死した。
遺体にすがって号泣するお二人。
「どうして?! どうして晋ちゃまが死ななければならないの! わたくしが晋ちゃまの代わりに死ねばよかったのよ! 晋……ちゃま! ……晋ちゃまあ!」
「……方子。方子。……」
だが、その悲しみを抱えて抱擁し号泣したお二人は、絆を深めた。
例の関東大震災では、日本人の中に悪辣なデマを流した人間らがいて、「朝鮮人たちが井戸の中に毒を入れた。朝鮮人たちが騒動に便乗して略奪放火の限りを尽くしている」とのデマが瞬く間に蔓延し、在日朝鮮人たちへの虐殺行為が横行した。
それを知った李垠殿下が、屋敷から出て、虐殺を止めようとする。が、使用人たちが必死に止めた。御用使用人の高義敬などは殿下の前で、土下座までしたという。
「殿下! 大変に危険でございまする。ここは我慢して、お屋敷におとどまりください!」
「しかし………朝鮮の同胞たちが……」
「殿下! おとどまりを! おとどまりを!」
こうまで、泣きながら土下座されて、それでも、ということではない。
李垠王子は、思いとどまった。
もし、殿下が、関東大震災の災害現場に行って、殺されでもしたら、歴史はどうなっていたか。
また、方子の妹君でもある、梨本宮規子(のりこ)女王の結婚相手が決まった。
お相手は、宮家で、パイロットもしていて、それ故に、『空の宮さま』とも世間で呼ばれていた高貴なお方であった。だが、破談になった。
相手がもっと美人な女性を好きになったためである。
そのために、規子女王は、旧・大名家の華族身分の侯爵との結婚をすることになった。
すぐに、歴史的な激動があった。
大正天皇崩御、である。そうして、昭和という時代が始まった。
大磯の別荘には、方子・伊都子・李徳恵が集まっていた。李王邸ですごしていた李垠の妹の李徳恵(イ・トク)女王は、のちの朝鮮王室最後の皇女であり、韓国映画『ラストプリンセス~大韓帝国最後の皇女~』(2016)で、女優のソン・イェジンが演じた女性である。
映画では、徳恵は反日活動家と恋に落ちたり、銃撃戦をしたり、スパイまがいの行動をとったり、まあ、娯楽映画なので仕方ない。史実の李徳恵は、壱岐の元・大名家の華族・宗武志(そう・たけゆき)と結婚し、韓国に渡り、戦中戦後に、精神を病み、韓国の精神科閉鎖病棟に収監されて、そこで、生涯を終えることになる。
李王家と李徳恵の縁談は、そういう悲劇の結末で、ある。
方子さまの最初の子供の晋は、夭折するが、その後の流産を経て、李王と方子の間には、玖という子供・男の子が生まれた。伊都子も、方子も、玖くんを可愛がった。
その興奮も冷めやらぬ中、天皇家に、明仁親王(のちの上皇さま)が誕生された!
日本中が、そのお祝いに、歓喜したという。
だが、時代は暗黒の戦争、へ。
それは流転の王妃・嵯峨浩さんの悲劇をも孕んでいた。
その後、日本は真珠湾攻撃を断行、一か八かの悲惨な大戦争に乗り出した。
最初のうちは日本軍の勢いが強かった。だが、すぐに戦況は日本の大敗北になっていく。
無論、日本の大本営放送は〝偽の大勝利情報〟を繰り返す。
提灯行列、万歳三唱、天皇陛下万歳……だが、食糧難で李王邸(東京)でも、テニスコートをつぶして畑にする有様であった。皇族出身の方子さままで畑仕事をしようとする。
「日本は……この戦争に負ける」
「朝鮮にお戻りを! 玖さまとご一緒に朝鮮へ!」
「……何故、方子のことをいわない?」
「おわかりで……ございましょう?」
李垠は苦虫を嚙み潰したような顔をする。
戦時下、李垠邸に、朝鮮からの修学旅行の女学生たちが訪れる。
「朝鮮にお戻りください!」「どうか、朝鮮へ!」その中の一人の少女が天喜の孫で……天喜は昨年、病死したのだと。部屋を離れ、物陰で慟哭する李垠殿下。方子さまも。
日本国は敗戦の色が濃くなる。太平洋上の海戦で敗北、インドネシアやフィリピンやグアムやマリアナ諸島、台湾もとられ、ついに、日本中が空襲にあう。
そして、沖縄戦、広島長崎への原爆投下……敗戦。
日本の敗北とともに、朝鮮王室も廃止になり、朝鮮半島の北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と韓国(大韓民国)が独立した。
王家の身分を失った李垠殿下や方子さまは、家を売ったり、財宝を売ったりして日銭を稼ぎ、細々と生活した。日本での戦後の生活は悲惨だった。
日本敗戦の五年後には朝鮮戦争が勃発する。
だが、李垠も方子も国籍がない。朝鮮王朝も廃止されたため一平民である。
そのため、次男の玖さんの米国大学留学にともなってアメリカに住んだ。
一九五一(昭和二十六)年、父・守正王急逝(満七十六歳)。
戦後のGHQ(連合国総司令部)の皇室改革で、宮家や華族制度は廃止され、伊都子たちは平民(一般市民)となった。戦後に、朝鮮王朝までも廃止、韓国では朴正煕が、北朝鮮では金日成が統治し、朝鮮戦争まで勃発した。方子たちは平民となり、暮らしにも困窮。
旧・宮家も邸宅を切り売りするなどして、カツカツの暮らしとなった。
李垠や方子は、息子の玖とともに、米国に移り住んだ。
MIT(マサチューセッツ工科大学)を卒業した玖は、ニューヨークの建築会社に就職し、蒼い眼のアメリカ人女性と結婚した。平凡な顔の庶民の女性だった。
が、伊都子はもう驚かなかった。
自身も、渋谷の大邸宅を東海銀行に売って、八畳くらいの終の棲家を手にしていた。
皺くちゃの眼鏡の老婆になった伊都子は、テレビをつけて、おおきな溜息をついた。
皇太子の明仁親王が、あろうことか、民間人の女性と結婚するというのだ。
日清製粉のお嬢様で、平民であるが、知性のある丸い顔の貴婦人のような容貌である。
女子大学を首席で卒業したのだという。テニスコートの恋だという。
名前は確か、正田美智子とかいう。
伊都子は、眼鏡をかけ直し、日記帳をたぐり寄せて、抵抗の言葉を書く。
「もうもう朝からご婚約発表でうめつくし、憤慨したり、なさけなくなったり、色々。日本ももうだめだと考へた」――――――――
昭和四十四年(一九六九)年十二月李方子六十歳。
お二人はその後はじめて一緒に、韓国を訪れる。李垠は病床のベッドで寝たきりのままだった。記者会見が空港である。
李方子「今日はあいにく雨がふって済州島も見えませんし…。浦島太郎のような感じで何でも珍しく見えております。新しい韓国・経済大国韓国を目にしましてただうれしいということしかございません」
李垠は脳血栓で意識がないままだ。
やがてふたりの永遠の別れがやつてくる。
昭和四十五年(一九七○)年五月一日(李垠 永眠(享年七十二歳))
「殿下! 殿下―!」
次男・玖(きゅう)さん「母が泣きじゃくって殿下殿下と叫びながら遺体に取りすがっておりましたので、それを見たときに父はずいぶんと苦労をしたけれどもこんなに愛されて男の人として幸せだったなと、つくづくその光景を見て私は思いました」
一九五八(昭和三十八)年、李垠は、脳血栓に倒れ、一九七〇(昭和四十五)年に、李垠死す(満七十二歳)。
一九七六(昭和五十一)年、伊都子死去(満九十四歳)。
李垠の死後、方子は昔の日本での邸宅を訪れた。李方子はそこで漢詩を残す。
〝短いあいだであったが新婚当時は春のようだった。昔のままの家と蕾をみていると恋しい思いが次々と沸いてくる。愛しい殿下の姿と笑顔は今どこに……〝
一人となった李方子さんは韓国で、知的障害や身体障碍者のための福祉養護学校などを開学。韓国の障碍者医療の道をすすまれる。多くの、障碍者に職業訓練をし、韓国人からも尊敬される〝日本人のオモニ(お母さん)〟となった。
平成元年(一九八九)年四月三十日李方子死去(享年八十七歳)
激動の時代を生きた昭和天皇の死から、数か月後、李方子さまも旅立たれた。
そして、次男の玖さんも二○○五年(平成十七年)七月十八日、日本の赤坂プリンスホテルの旧館(旧・李王邸)の見える別館十九階の部屋の浴室で、遺体で発見された。心臓発作(享年七十三歳)。
李殿下と李方子さまの魂は天で再会していることだろう。
もはや二人には別れがない。李殿下よ、李方子さまよ、永遠なれ!
こういっておわりたい。
ニューヨークで著名な彫刻家イサム・ノグチと結婚した山口淑子は、憧れのセレブ生活を満喫しつつも、ハリウッドで短期間ながら〝シャーリー・ヤマグチ〝の芸名で活躍した。
だが、幸せな結婚生活など永くは続かない。すぐに倦怠期がきて、淑子はイサム・ノグチと離婚した。その後、一九五七年(昭和三十三年)、外交官だった大鷹弘氏と再婚し、日本に凱旋帰国した。
凱旋といっても、そんな華々しい成果はハリウッドではなかったのが結果で、あった。山口淑子はフジテレビのワイドショー『3時のあなた』で、共同司会兼女性レポーターとして団塊の世代の奥様方(マダム)のシンボル的な存在になる。
ジャーナリストとして、日中国交正常化取材(田中角栄首相+周恩来首相(肩書きは当時))、日本赤軍の取材やベトナム戦争取材、安保闘争の志士達(笑)の取材など功績は多岐にわたるともいう。70年代から90年代のこれは長期間だが、参議院議員をつとめた。「女性問題」「女性の地位向上」「男女共同参画」「従軍慰安婦」が主な活動テーマであった。
女性ジャーナリストがまだ珍しい時代にベトナム戦争や中東パレスチナ等に何度も取材にいき、弱い立場の人々を取材したという。
パレスチナ難民キャンプでは彼女のことを、親しみ込めて「ジャミーラ(美しいひと)」と呼んだという。
早稲田大学客員教授の谷川健司氏によればパレスチナ取材は、イスラエル=満州のような反ユダヤ人じゃないけど、そういうシンパシーがあったんだろう、と。
山口さんはいう「私は、自分の心の傷をいやすためにわざわざ戦場にきているのではない。その傷をもうこれ以上増やさないために、もう、あの中国大陸の戦場から逃げ出した時の傷を、新しく生まれた戦場の上に傷跡として残したくないために来ているのだ」
何よりうれしかったのは89年と07年に、自身の半生をドラマ及び映画という形で映像化してもらったことだという。まずは89年、日本の民放フジテレビが、当時人気絶頂にあった美人女優・沢口靖子を李香蘭役に、川島芳子役を山田邦子などでテレビドラマ『さよなら、李香蘭』が制作放送された。私もテレビ放送を観た口である。
サブ・タイトルは〝最後の女優(ラスト・アクトレス)李香蘭〝(前篇)〝さよなら李香蘭〟(後篇)………当時人気の映画、『ラスト・エンペラー』をもじったものだった。ミュージカルもあった。
2007年にはテレビ東京ドラマ『李香蘭』が放送される。主演は国民的美少女として華々しくデビューした女優・上戸彩(李香蘭役)であった。中国語も下手糞だったが、当時は絶大な人気をほこったアイドルだから文句はなかったろう。だが、このドラマも同じように伸び悩んだ。要するに「李香蘭って誰?」ということだった。
もはや、李香蘭、山口淑子は、過去のひと、であった。
一時的な引退のような形で、夫の大鷹弘氏死後、山口(本名・大鷹)淑子が東京の自宅にとじこもっていた頃、恩人がまだ生きていることが判明した。
淑子はある対談でいう。
「ひとからは死んだってきかされていたのだけど、なぜか私はその言葉を信じようとはせず、独自に調査していたの。それでアイルランドのダブリン近くに住んでいることがわかった。恩人のおじさまに会いにいったのは、そのころで最高に幸せな出来事だったわ。でもそこに、現実がたちはだかったの。再会したおじさまは、とてもよそよそしかった。おじさまの新しい人生に踏みこんでしまって、とても悪い気がしたわ。長いあいだ望んでいた再会は、人生最大の失望にかわってしまった。わたしたちはたいして言葉を交わさなかった。それからは連絡をとってないわ」
淑子はそんな心労を紛らわそうと、亡くなる前の夫とともに旅行にでかけることにした。
その頃、淑子のもとには、自身の半生(李香蘭時代の)映画化で助演(脇役)しないかというオファーがきていた。
山口淑子と大鷹弘はロケ地に旅行に出掛けた。
淑子はある対談でいう。
「夫と一緒にロケ地までかけていったの。それからはわたしたちが待ち望んでいた時間だったわ。結婚してはじめて、ほんとうの奥さんになった気持ちだった。やっと誰かを支える役目がまわってきたんですもの。ずっとあこがれていたのよ…」
流産によるトラウマ(心の後遺症)はまだ続いていた。
淑子は飼い犬のヨークシャーテリアに愛情をそそいだ。それは、限度を越したような愛情のぶつけ方であり、それは現在でいうならPTSD(心的外傷ストレス障害)のようなものであったらしい。とにかく、精神の安定を、飼い犬にもとめていたのだった。夫は、本でも読んだらどうかとアドバイスした。
それは、しんとした感傷だ。
「淑子…頑張れ!ぼくのことは気にするな!」
夫は妻を励ました。弘は末期ガンでもう長くはなかった。淑子は空虚な落ち込んだ気分だった。今の彼女のポケットには大金がある。嬉しくてうきうきでいいはずなのに、なぜか憂欝だった。「勝利。勝利はいいものだわ。でも……」弱々しく続けた。「わたしは何もしてない。台本通りに動いただけ…」夫は自分がそばについていることを思いださせようと彼女の肩に触れた。それは優しく暖かいものだった。彼女の崩壊を防ぐ唯一の感触だった。
「……あなた…」
彼は無理ににやりとした。「君の『李香蘭』の次は、ぼくらふたりの『李香蘭』だ!」「…そうね」
「これでふたりとも大儲けだ!」
夫が笑うと、淑子も微笑んだ。
李香蘭の愛よ、永遠なれ
山口淑子は、一九九七年に女優引退を決意し、引退した。しかし、なにもしないのにも関わらずに復帰の待望論が強く、とうとう数年後、映画『李香蘭』という映画で復活する。淑子も年をとり、皺も目立ち始めていた。が、熱演した。
女優は五十歳頃で、なんらかの転機があるという。ただ若いとか、ただ綺麗というだけでやっていけるのは〝若いお嬢さん〝のときだけだ。
映画『李香蘭』は別にどうってことない映画で、売れなかった。
淑子は決心する。もう映画に出ないというのと、ユニセフへの活動への協力であった。一九九八年、もう子供の産めない女性、子供の頃に飢餓を経験した女性は、ユニセフの仕事に全勢力を傾けると決めた。
淑子は子供と特別のつながりをもてる性格だったので、世界の恵まれない子供達を救うユニセフ(国連児童基金)は、まさにうってつけであった。
淑子には〝癒し〝の力があった。子供ともうまく心をつなげられることができた、と、あるひとはいう。
だが、淑子とユニセフの関わりは突然はじまった訳ではない。
以前から国連の機関から「協力」の要請がきていて、山口淑子は暇をみつけては活動に協力していたのだった。しかし、今度は全面的に活動して、飢餓地帯にも出向き子供達とも触れ合いたいと思ったのだ。山口淑子の血管を思い出が駆けめぐった。幼い頃の、母、父、レジスタンス、飢餓、演技…すべての思い出が走り、立ち尽くした。……遠い昔に忘れてしまったような思いでが、愛と安らぎに満ちた思いでが、全身に広がった。
山口淑子はいう。「アンネ・フランクは殺されたけど、私は生き残った。自分に出来ることはやらなければならないのよ」
そして、続ける。「もとはといえばすべて戦争のせいなの。あの頃はみんな飢えていたわ。それにもちろん、精神的な苦痛もあった。でも、肉体的な苦痛を知ってもらいたい。食べるものといえば、チューリップの球根だけだったの。わたしがユニセフに親しみを覚えるのは戦争のあとユニセフに助けられ、初めて食べたのがユニセフのチョコレートだったからよ!」
ユニセフ活動と並行して議員として、同じ世代の女性として、山口淑子さんはいわゆる『従軍慰安婦問題』にも取り組んだ。まあ、朝日新聞の誤報で『慰安婦』はいたが、強制連行でのいわゆる『従軍慰安婦』はいなかったのだが。
東京大学名誉教授の大沼保昭さんとともに『従軍慰安婦問題』に取り組んだ。
実は映画『支那の夜』のロケを遠くから元・慰安婦の女性が見ていたのだという。
それが縁で、もうこれ以上慰安婦問題が悪化しないようにと山口淑子さんは全力をかけた。
次世代への遺言のような言葉を山口淑子さんは残している。
「私たちみたいに戦争の真っただ中で矛盾に満ちた人生と違いますから、これからは皆さん方戦争を知らない世代の方は本当に本音で話をして、戦争の話をぶつけ合ってそれでそれは乗り越えて、本当の友情をつくっていってほしいというのが私の願いです」
母を亡くした淑子は、今こそ世界の子供達のためになにかやるべきだ!と悟った。
淑子は「自分にできること以上の仕事はやりたくない」といったという。
しかし、それはなにも自分の出来る以外のことはやりたくない…などというものではない。自分に期待しているひとたちの気持ちを裏切りたくないということだった。
淑子たちは飛行機に長く乗って睡眠を少しとり、化粧もせず皺を晒し現地を何時間も歩いてまわった。「南米にいるストリートチルドレンをご存じですか?路上で暮らし、路上で死んでいく子供達は一億人にものぼります。子供達が命をおとす原因は汚染された水です。汚染された飲み水が原因で下痢を起こし、脱水症状で死んでいくのです」
山口淑子は世界に訴える。
彼女は、ユニセフの特別親善大使に就任した。山口淑子はいう。
「去年、わたしたちはバングラディシュに五千二百万冊の教科書を送ったの。この八年に掘り当てた井戸は二十五ケ所にものぼるわ」
山口淑子のユニセフへの関わりは、たんなるカクテル・パーティのチャリティというレベルではなかった。「昔のスターがかき集められて、お金持ちの連中の前にひっぱりだされるの。彼らはスターの顔の皺を間近で見る代償を、それも半端な金額ではない代償を支払わなければならないのよ!」
一九六六年から淑子が過ごしてきた東京にある〝平和の家〝、大鷹家自宅は、山口淑子の死に場所として申し分ないところだった。
二〇一〇年、ソマリアから戻ってから二ケ月後、山口淑子は結腸ガンと診断された。彼女は、アフリカにいるときから激しい胃痛に悩まされていた。帰国してから医師に病状を訴えたが、このときはアメーバ感染症が疑われた。十一月、手術を受けてガンが発見されたが、医師たちは開いた腹部をそのまま閉じた。もはや転移がはじまっていて、どうしようもなかったのだ。
治療を受けていたロサンゼルスから、山口淑子は東京の金持ち専用の医療機関病院に運ばれた。病気は淑子を一進一退しながら、蝕んだが、何年か小康状態が続き、大好きな大好きな石造りの家に車椅子でもどることができた。
山口淑子は激痛にも弱音を吐かず、声を荒らげることもせず、落ち着いた態度を保ったという。この数年前、偶然、山口淑子は『天使』の役で映画に出演していた。
ある日本人某監督が二〇一一年につくったメロドラマ映画である。山口淑子は天使役で主人公に助言する…。評論家の絶賛も興行収入もいまひとつだったが、この映画は李香蘭こと山口淑子にスクリーンであえる最後の映画となった。
「霊感は神の息づかいなの」
天使はそういう。
そして、ついに山口淑子は二〇一四年九月七日(平成二十六年)、大好きな自宅で亡くなった。それは、優雅さと威厳を保ったままの最後であった。享年九十四歳、こうして李香蘭こと山口淑子の波乱万丈の人生は、完全に、おわった。
李香蘭よ、山口淑子よ、李垠殿下、李方子さま、永遠に!そういって筆をおさめたい。
おわり
この物語は、史実を基にしたフィクションです。歴史上の事実とは一切関わりがありません。架空の物語としてご了承下さい。
第二章 ジャーナリズム・パート
~朝鮮半島、拉致問題、慰安婦問題、韓国北朝鮮と日本~
池上彰のニュースそうだったのか!! どうなる日韓関係スペシャル(2022年3月12日土曜日テレビ朝日放送分)Ⓒ池上彰 Ⓒテレビ朝日(当時の記事です。内容を尊重してそのまま掲載いたします)
日韓関係がかわる? 尹錫悦(ユン・ソクチョル/ユン・ソギョン)新大統領の誕生で日韓関係が変わる!? 韓国人若い女性「大統領が代わっても何も期待していない」「若者は大ブーイングよ」おばさま「日本は非常識! だからあまり好きじゃない」
隣の国同士の仲が悪いのは日本と韓国の他に、中国とインド、インドとパキスタン、ロシアとウクライナ、ブラジルとアルゼンチン。日本と韓国(文在(ムン・ジェ)寅(イン)大統領(当時))との関係は戦後最悪といわれてきたけど、違う政党のひとが新大統領なら期待できる?
韓国人おじさま「新しい大統領になったら日本との関係はよくなると思うよ」
若い女性「日本がケンカ腰だから、大統領が代わっても仲良くならなそう」
若い男性「関係を直すのはいいけど、日本は過去を謝ってから」
韓国の民主化は1987年。韓国で民主化宣言。1987年以前は軍事独裁政権が長かった。日本ともめるようになったのも最近で、民主化で国民が主張できるようになってから。
韓国の歴代の大統領の歴史を見てみよう。
韓国第一代~第三代 李(イ・)承晩(スンマン)氏。(1948・7~1960・4)。(日本では50年~60年代高度経済成長期)(1958年東京タワー完成)〝日本から竹島をうばった大統領(70年間不法占拠)〟→『李承晩ライン(1963年まで)』。(1952年~65年)→日本漁船約230隻約2800人をだ捕。及び日本人漁民を射殺。韓国の刑務所に日本人漁民をぶち込む。
1954年サッカーW杯予選日本VS.韓国。(二度とも日本で。大統領が日本人の入国を認めなかった。「やっと日本人を追い出したのに」と。)
選手に大統領がかけた言葉「負けたら玄界灘に身を投げろ(試合は一勝一引き分け)」
退任後、ハワイに亡命。息子一家が自殺。
韓国第四代 尹潽(ユンボ)善(ソン)氏。(1960・8~1962・3)(任期一年七か月)退任後は懲役三年。(60年~70年代 東京オリンピック(1964)大阪万博(1970)カップラーメン発売・マクドナルド一号店(1971))
韓国第五代~第九代 朴(パク・)正煕(チョンヒ)氏。(1963・12~1979・10)〝日本と仲良くなった大統領〟朴「過去のことは水に流して国交正常化がいい」と1965年日韓国交正常化。(~1984年まで軍事独裁政権)(1973年金大中氏拉致事件(日本のホテルに泊まっていた民主化運動リーダー金大中氏が韓国の特殊部隊に拉致された事件))
日韓請求権交渉(1965年)で、〝完全かつ最終的に解決〟と請求書面に明記。この交渉で日本側からの国家としての謝罪をして、賠償金も五億ドル(当時の金額で一千八百六十億円・現在の価値では七千七百億円)を韓国政府に払っている。だから、日本側の主張は「韓国政府に払った金額の中から、慰安婦や徴用工の賠償問題はその中から韓国政府が払ってね」
という話であり、最近になっても何度も韓国人は蒸し返すが、呆れまくるしかない。
謝罪も賠償金もとっくにおわっているのに、無知な韓国人の一部が「日本はまず謝罪と賠償金だ」という主張は、違うし、韓国人の一部はまったく歴史を学んでいない。
在任中に朴正煕暗殺。妻も暗殺(旦那の方を狙ったが妻に弾丸が当たってしまった)。
韓国第十代 崔(チェ・)主(ギュ)夏(ハ)氏。(1979・12~1980・8)退任後、何もしていないので何の罪もない。
韓国第十一代~十二代 全斗煥(チョン・ドファン)氏。(1980・9~1988・2)(1982年歴史教科書問題)(侵略を進軍と。誤報)→中国や韓国で大規模デモ。(『近隣諸国条項』近隣アジア諸国との近現代の歴史を国際協調の視点から配慮)91年「アジア諸国に迷惑をかけた」→「たえがたい苦しみを与えた」と変更。でも朴氏からも〝親日〟ではなく〝用日(日本をうまく利用しよう)〟。退任後、死刑求刑(後に恩赦)兄弟逮捕。
韓国十三代 盧(ノ・)泰(テ)愚(ウ)氏。(1988・2~1993・2)(民主化初の大統領)(1987年韓国民主化宣言)(1988年ソウル五輪1992年新興宗教団体集団結婚1989年ベルリンの壁崩壊1991年冷戦終結・ソ連崩壊・バブル経済)(91年従軍慰安婦裁判1993年河野官房長官談話・謝罪2015年10億円支払う(韓国と日本で財団を作って〝不可逆的に解決〟→政権が代わって財団解散))退任後は懲役十七年(後に恩赦)逮捕。
韓国第十四代 金泳三(キム・ヨンナム)氏。(1993・2~1998・2)(反日パフォーマンスのはじまり)(1993年Jリーグ(サッカー)開幕。コギャル・ルーズソックス・プリクラ)(93年河野談話95年村山談話)→旧朝鮮総督府の建物を解体(反日)*台湾は親日なので旧台湾総督府の建物はいまも使用している。退任後は逮捕。
韓国第十五代 金大中(キム・デジュン)氏。(1998・2~2003・2)(歴代イチ親日といわれている)(日本の漫画・アニメ解禁へ。1996年日韓パートナーシップ宣言(日本・小渕恵三首相(当時))韓国経済危機(1997年アジア通貨危機)韓国エンタメ産業(韓国人口六千万人)(日本人口一億二千万人))退任後、三人の息子が収賄容疑で逮捕。
韓国第十六代 廬武鉉(ノ・ムヒョン)氏。(2003・2~2008・2)(文在寅の師匠)(親日派狩りを主導)(小泉首相と〝シャトル外交〟)島根県の竹島の日制定で〝反日デモ〟。(親日派狩り)→(親日行為を通じて築いた財産を子孫から没収できる(2015年までに91件))
退任後、自殺(家の裏山から飛び降り自殺。兄が逮捕)(2003年ドラマ『冬のソナタ』)ヨン様ジウ姫。韓流ブーム。
韓国第十七代 李(イ・)明博(ミョンバク)氏。(2008・2~2013・2)(日本を一番怒らせた大統領)(2010年K-popブーム・KARA・少女時代・東方神起)(竹島に上陸)(日本の天皇に謝罪を要求)(1910年韓国併合1905年竹島編入)退任後は、収賄などの罪で懲役十七年。
韓国第十八代 朴(パク・)槿(ク)恵(ネ)氏。(2013・2~2017・8)(就任当初から〝反日姿勢〟)(2015年日韓合意 安倍談話)(「被害者と加害者の関係は100年経ってもかわらない」「首脳会談はしないほうがいい(日韓首脳会談は三年間実現せず)」)(途中で辞めさせられた)
退任後は、懲役二十二年(後に恩赦)弾劾で罷免。
韓国第十九代 文在(ムン・ジェ)寅(イン)氏。(2017・5~2022・5)(日本製品不買運動)(レーダー照射事件)(元・徴用工問題)
韓国第二十代 尹(ユン・)錫(ソク)悦(チョル)氏。(2022・5~)〝親日〟ではないが、日韓パートナーシップ宣言の復活(1998年金大中+小泉首相(当時))日韓の協力関係改善。
北朝鮮に関しては*完全な非核化措置が進むまで経済制裁継続*北への先制攻撃をできる能力を経て戦争抑止。つまり、『保守(北朝鮮に対して厳しい・南北統一は同じだが)』(盧泰愚・金泳三・李明博・朴槿恵・尹錫悦)
文氏が『進歩(革新)(北朝鮮に対して優しい)』。(金大中・廬武鉉・文在寅)
韓国の大統領が何故、退任後、逮捕されたりするのか? 大統領には強い力があり、甘い汁を吸おうと悪い輩がやってくるからだ。〝困ったときの反日〟(〝反日〟をすれば支持率回復?)
おわり
激動する北朝鮮情勢 米朝首脳会談のすべて (当時の記事です。内容を尊重してそのまま掲載いたします)
会談をやらないと言っていたけど、結局、米朝首脳会談を開催したのはなぜか ?
もともと、トランプ大統領(当時)が、北朝鮮の金正恩委員長との米朝首脳会談を一時期「中止する」といったきっかけは何だったのか ? その発言を問う。
5月16日。金桂冠(キム・ゲガン)第一外務次官「一方的な核放棄を強行するなら(中略)会談に応じるか再考せざるを得なくなる」(北朝鮮の談話)
5月24日。崔善姫外務次官「(ペンス副大統領は)愚鈍な間抜け」「米国に物乞いのように対話を求めない」
「アメリカ合衆国が、核放棄しろ、核放棄をしろ、核実験をやめるように、と、ばかり言うのなら会談をやめてもいい」「シンガポールでの米朝首脳会談をやらなくてもいいんだぞ」(談話。オフィシャルだけど、一外交官の意見というという感じ。)「誠意を見せてよ!」
これは外交のプロなら、「また北のいつもの揺さぶりだ」とわかる。
しかし、トランプは本気で怒った。というより怒ったふりをしていたのか。トランプ大統領(当時)は歴史を何も知らない無知であるから。
そこで、トランプ氏の書簡。「最近の声明に示された、大きな怒り、と、明らかな敵意を見る限り、今回の会談を行うには、残念ながら不適切であると考える」(やらないよ、会談、と。)
しかし、この発言は、いつものツイッターではなく、書簡(手紙)としてアピールされた。
しかも、あて先には、金正恩閣下(His Excellency(閣下)Kim Jun gun.)。「気が変った場合はためらうことなくに連絡してほしい」一連の駆け引きであった。これによって、北朝鮮側は態度を軟化させた。5月25日。金桂冠第一外務次官「トランプ大統領(当時)が、首脳会談という、重大な出来事をもたらすために努力したことを、内心では高く評価してきた。我々はいつでもいかなることでも向かい合って解決する用意がある」(あれれ? 物乞いはしないんじゃないの?)北朝鮮は下手にでた。トランプ大統領(当時)の戦略が功を奏した瞬間であった。
このようにして、トランプ大統領(当時)の策略が決まり、米朝首脳会談が行われた。
では、なぜ、米朝首脳で話すのに、第3国のシンガポールでだったのであろうか ?
史上初の米朝首脳会談の開催国シンガポール。何でシンガポールだったのか ?
首脳会談であるならば、アメリカでも、韓国や日本でもよかったのではないか? まあ、アメリカだと金正恩氏が出向いたことになる。韓国だとトランプ大統領(当時)のメンツが立たない。じゃあ、両国ともに、いい関係の国……で開けばいいのではないか? ということで、 2018年6月12日の、シンガポールでの歴史上初の〝米朝首脳会談〟が開かれることになった。
シンガポールはマレー半島の先の東京23区くらいの島である。シンガポール共和国。面積東京23区とほぼ同じ大きさ。人口約561万人。約7割が中華系。マレー系インド系も。観光立国。ビルが高くそびえている。有名なのがマーライオンの噴水である。
シンガポールはFine Country(ファイン・カントリー)。ファイン(動詞)「すばらしい。すてきな」(名詞)「罰金」……ごみを捨てれば罰金! ガムを捨てれば罰金! 罰金でできている国。それが、シンガポールといわれている。
治安もいいシンガポールは、米国・北朝鮮とも良好な関係を築いている。2015年11月に行われた中台首脳会談も歴史的だった。台湾の馬英九総統(当時)と習近平国家主席(中国)との首脳会談である。シンガポールには、北朝鮮の大使館もある。大使館があるなら、「盗聴の危険」はない。北の飛行機は、イリューシン62という、旧ソ連のかなり古い飛行機であったので、米朝首脳会談では、中国のチャーター機にのって金正恩はシンガポールへやってきた。シンガポールのチャンギ国際空港にである。北はホテル代が払えないといっていた。金正恩委員長の泊まったホテルは一泊80万円。ホテル代が払えない、ということで、 NGOのI CAN(アイキャン・核兵器禁止条約NGO)がホテル代を払うってことになった。
米朝首脳会談は、シンガポールのセントーサ島・カペラホテルにおいて行われた。
シンガポールは治安もよく、カペラホテルの周りには、テーマパークもカジノもある。
また治安も良いため、メディアも安心して取材ができたのであった。
2017年までは「戦争になるのではないか ? 戦争になるのではないか?」
と、トランプ大統領(当時)をはじめ、世界中が恐怖していた。実際、トランプ米国大統領と金正恩委員長は、舌戦を繰り拡げてきた。
トランプ大統領(当時)(2017年9月19日国連演説)「ロケットマンは自滅の道を突き進んでいる」金正恩委員長(2017年朝鮮中央通信)「老いぼれの狂人を必ず火で罰する」トランプ大統領(当時) (2017年11月12日ツイッター)「私は彼を〝チビでデブ〟とはけして呼ばない」金正恩委員長(2018年1月1日新年の言葉)「核のボタンが私の机の上に常にある」トランプ大統領(当時)(2018年1月12日ツイッター)「私の核ボタンの方がはるかに強力」金正恩委員長(2018年1月20日労働新聞・電子版)「馬鹿につける薬はない」。
朝鮮戦争。1950年六月、朝鮮戦争勃発。三十八度線は朝鮮戦争の休戦ライン。北は、アメリカが介入しないだろう、として、韓国に攻め入った。しかし、アメリカは韓国に協力して、北朝鮮軍を崩壊寸前まで追い詰めた。北朝鮮は、アメリカが怖くて怖くてたまらない。世界一強いアメリカ軍と対抗できるとは思ってはいない。しかし、核兵器を持てば、アメリカからの攻撃を止められる、と考えた。アメリカは北の挑発や核や対話を無視していた。
北からの譲歩を待っていた。しかし北は、 2008年から経済制裁をやられていて、抜け道もあったが、経済制裁には困惑させられた。制裁が効いたので、経済制裁解除のために、北朝鮮の金正恩氏は、対話ムード、に転じた。北は「(朝鮮)戦争を終わらせたい」「経済制裁を解除したい」ということであった。
トランプ米国大統領は、北が、何かをやると、頻繁に反発した。それは歴史を何も知らないからであった。北朝鮮の金正恩委員長は「しめた」と、思った。無視じゃない。
北朝鮮の謀略が決まった瞬間であった。トランプ大統領(当時)は対話に応じて、北の謀略に見事にはまった。アメリカにも反対がいた。しかしトランプ大統領(当時)は押し切った。
当然、北朝鮮にも米朝首脳会談に反対するものもいたが、金正恩氏はそれらを粛清した。
アメリカ軍の最高司令官はトランプ大統領(当時)である。トランプ氏は、米国空母の派遣をやめて、「新体制」をとろうとしていた。北は焦った。トランプ氏は「歴史に自分の名を残したい」。 ライバルのオバマ大統領(当時)は、 2009年に、演説により「ノーベル平和賞」を受賞した。ライバルに勝ちたい。トランプ大統領(当時)は、北朝鮮との対話によって、自分の名を歴史に刻める、と思った。「何としても自分の名前を歴史に残したい。」トランプ大統領(当時)の願望であった。ノーベル賞も無理ではない。トランプ大統領(当時)の夢は果てしなく広がった。
結局、北朝鮮の金正恩委員長との米朝首脳会談の成果は、ゼロに等しかった。が、トランプ大統領(当時)は「大成功だった」と、美辞麗句で成果を強調した。トランプ大統領(当時)が、自らのハードルを下げたのだ。非核化も、ミサイルの撤去も、具体的な非核化の動きも見られなかった。が、トランプ大統領(当時)は成果を強調する。では、トランプ大統領(当時)と金正恩委員長とのディール(取引き)を見てみよう。金正恩委員長の見返り。①「体制の保証」「人権問題拉致問題の無効」「朝鮮戦争の終結」(戦争をやめたらすぐに戦争ができないってことである。)
但し、北朝鮮の非核化ということであれば、「リビア方式」でという話である。が、リビアのカダフィ大佐のように、最後は、殺されて終わりということでは金正恩は納得しないだろう。ただし、北が、リビア化、するとき、北の後ろ盾の中国がいる。リビアみたいに北が崩壊するのは、中国が反対するだろう。(中国が米国との緩衝地帯の北朝鮮をもとめているから)また、これまでのように交渉後、また核実験や悪辣な約束違反を北朝鮮がやる、ということへの抑止力はあったのだとは思う。トランプのしっぺ返しを恐れての抑止力だ。
「経済制裁の緩和」「朝鮮戦争をやめよう」という「条約」。日本も「サンフランシスコ平和条約」という例がある。
「人権問題拉致問題は解決済み」と北は言う。拉致問題は、日本と北朝鮮との間で解決するしかない。拉致問題について、北朝鮮側は「解決済み」という姿勢をとって、一向に具体的なことを発表しないままになっています。おそらく、すでに存命ではない人や、墓もなく生死が定かではない人もいて、満足できる説明ができない、というのが本音でしょう。
また、存命であれば日本に帰した後に何を言われるのかわからないので公表したくない、という意図もあると思います。いずれにせよ、1年以内に解決すると言っておきながら、急に「日本の態度が悪いから」と難癖をつけてくる国ですから、この問題を日本が望むような形で解決することは、かなり難しいと思います。
「経済支援」「経済制裁の解除」…これを北朝鮮の金正恩委員長は望んでいる。
「平和条約を締結する」と。
金正恩氏の交渉は「サラミ戦術」だ。「今度は核を作らない」と持っている「核の段階的な放棄」「査察の受け入れ」「ICBMの放棄」すべて段階的に小出しにして、その都度、見返りをもらう、という皮算用が、金正恩氏の態度からどうしても透けて見えてしまう。
南北統一の可能性は ? 北は「南北朝鮮統一」というが、それには大金がいる。それを、日本から引きだそうということである。また、北朝鮮の「完全なる検証可能かつ不可逆的な非核化(CVID Complete, Verifiable and Irreversible Denuclearization.)」を実行する、ということになると、少なくとも、6年から10年~15年という、とても長い時間が必要になる。また費用も10年で200兆円かかるのではないか、といわれている。非核化するのには、何年もかかるということだ。そのことを、トランプ大統領(当時)が、最近知ったということで、最近は、トランプ大統領(当時)もCVIDのことを、あまりいわなくなったのだ。北の非核化の金は、中国韓国と日本。お金がとにかくたくさんかかる。
北朝鮮との歴史は「裏切り」との歴史であった。①金日成 1992年朝鮮半島の非核化に関する共同宣言。やっと、査察で核兵器を放棄すると約束したが、秘密裏にソ連の原子力関係の技術を移植し、核兵器開発を続行していた。②金日成金正日カーター元大統領。1990年米朝共同交渉。核施設の凍結と解体。北朝鮮の要求。原子力発電のための原子炉と重油の提供。③2003年6カ国協議(中国、アメリカ、ロシア、日本、韓国、北朝鮮)。核兵器開発の放棄を表明。アメリカが朝鮮半島に核を持ち込まず攻撃もしないということ。初めての核実験。④2012年米朝合意。ウラン濃縮で核実験やミサイル発射などの中止。アメリカから240万トンの食糧援助。北朝鮮は2カ月後、長距離ミサイル発射。ミサイル発射を偽って人工衛星の発射とした。
北の目標は、アメリカまで届くICBM(大陸間弾道ミサイル)、核ミサイルを保有して、アメリカに攻撃されたくないということだ。ICBMはあと一歩ってところである。北は ICBMは成功したというが。ICBMはワシントンDC 、1300万キロメートルを射程にしている。日朝首脳会談で、国交正常化をして、戦後賠償の大金を得たい。それが、北朝鮮の金正恩委員長の狙いである。
トランプ大統領(当時)は、「不動産のディール(取引き)の天才」。「北朝鮮は一度きりのチャンスを逃すな」。トランプ大統領(当時)は「おれに任せておけ」と、シンガポールでの米朝首脳会談に意欲を示した。が、実際には、何の成果も得られずに終わった。これが歴史的な事実である。
非核化をどうやって実施し、チェックするのか? 世界の求めているのは「完全で検証可能かつ不可逆的な非核化(CVID)」である。
核開発をやめて、元に戻すのではなく、絶対的に核を持つことがないようにする、そういう状態にすること、である。もとに絶対に戻れない非核化。これが、CVIDである。
*核施設・核計画の申告(嘘はないか?)*核施設の停止解体*核施設機関査察・核機関の施設の非核化*査察による検証。これは国際原子力機関(IAEA)が検証する。
今まで非核化した国は、1993年の南アフリカ。ウクライナ(旧ソ連の核ミサイル廃棄)。ブラジル・アルゼンチン(1990年冷戦終結のため)
とにかく、CVIDにはそれなりの時間とそれなりの大金がかかる。
トランプ大統領(当時)は無論、その金は日本や中国にださせる〝腹ずもり〟である。
米朝首脳会談では、「何の成果もなかった。成果ゼロ、だった」ということである。
トランプ米国大統領が「すばらしい会談だった。」と美辞麗句を駆使しても、ごまかせない。
確かに準備不足もあったろう。だが、あんな会談は所詮はノーベル平和賞狙いの『政治ショー』でしかない。「成果はゼロだった」これが米朝首脳会談の結果、で、あった。
(池上彰「学べるニュース」テレビ朝日番組参照)
日本周辺の国際環境は大きく変化してきています。国内で意味のない議論をしている暇などなく、中国、韓国・北朝鮮、ロシアの動向に注目すべきです。
特に、この数週間で韓国と北朝鮮が急激に接近したことは、日本への影響も非常に大きいと思います。北朝鮮と韓国は2018年10月1日から、軍事境界線がある板門店(パンムンジョム)の共同警備区域(JSA)にある地雷除去に着手しました。先月、双方の国防相が署名した「軍事分野合意書」履行の第1弾とのことです。
これは文在寅大統領と金国務委員長も同意していることですから、両者の距離はかなり大きく接近していると見るべきです。
韓国の文在寅大統領は国連総会で、金委員長を信頼できる人物だとし、北朝鮮との祖国統一について熱弁しました。
国連は、北朝鮮が対する完全かつ検証可能な非核化をしない限り、制裁を継続するとしていますが、それも棚上げにして「祖国統一・民族統一」を信じて欲しいと訴えました。
もちろん、国連の北朝鮮に対する制裁決議には文在寅大統領も賛成したのですが、手の平をひっくり返したのですから驚くばかりです。
米トランプ大統領(当時)は北朝鮮への制裁は継続するという姿勢です。しかし「非核化はスケジュールを決めてやるものでもない」と発言し、そのタイミングは急がないとしました。
その間に韓国と北朝鮮は急接近しました。先日の国連総会で日本の河野太郎外相は、北朝鮮の制裁解除について「完全かつ検証可能な非核化が絶対条件」と演説しましたが、
このような意思表示をしたのは日本だけでした。
2ヶ月前までは各国の意志は一致していたのに、状況がガラッと変わってしまいました。
北朝鮮と親密になる一方で、文在寅大統領は「反日」の姿勢を強めています。韓国南部・済州島で11日に開かれる国際観艦式で韓国側が日本の海上自衛隊の護衛艦に旭日旗を掲げないように求めていた問題について、岩屋毅防衛相は5日、護衛艦の派遣を中止すると発表しました。日本側の対応は当然です。
小渕恵三元首相の頃に解決したはずの問題を、今頃になって持ち出してきています。
自衛艦旗の旭日旗を日本軍国主義の象徴などと難癖をつけているのです。
たしかに韓国国内に旭日旗に反対する人はいましたが、船が寄港できないというような問題になったことはありませんでした。
また従軍慰安婦問題についても、最終的かつ不可逆的な解決をしていたはずが、文在寅大統領はひっくり返しました。
日本が10億円を拠出した従軍慰安婦のための財団を、日本に断りもなく勝手に解散させました。文在寅大統領曰く「国民の理解が得られない」とのことですが、国と国が約束をし、
資金の一部もすでに支払われているものを、勝手に反故にするのは理解できません。
もう文在寅大統領は完全に向こう側(北朝鮮側)の人物であり、説得しても無駄だと私は思います。もはや「日米韓」という発想は文在寅大統領の頭にはないでしょう。
逆に、いかにして米国を騙して「祖国統一」を実現するかを考えているはずです。
現状、このような韓国の動向に対して中国とロシアは静観しています。
米国は長期的に見れば日本側ですが、この2~3週間で極東において日本は孤立無援状態になっています。極東アジアにおいて、大きく地政学的状況が変化したことは非常に重要だと思います。(大前研一氏談話)
戦後賠償問題 「謝罪」と「賠償金」の問題(池上彰著作本参照引用) (当時の記事です。内容を尊重してそのまま掲載いたします)
古くから経済的にも深いつながりのある日本と中国、韓国。その一方で、政治的には冷めた関係が続いています。戦争賠償金の問題が発端となっています。
最近「徴用工問題」、「慰安婦(従軍慰安婦)」である「戦後賠償」に関して、戦争被害国と日本との間で、国際的な問題となっている。確かに謝罪の問題は「心の問題」で、足を踏んだ側が「謝罪」をし、足を踏まれた側が「賠償を求める」のは当然の心理である。
しかし、たしかに私も、昔、「日本は侵略戦争を起した被害国に謝罪をし、賠償金を払うべきだ」と煽ったのは反省をしています。(日本軍=悪、侵略・虐殺は自虐史観。確かに悪いこともしただろうが、戦争下のことであり、すべて悪の東京裁判史観だけでは甘い。むろん戦争を美化する気はさらさらない。が、自分で資料に当たって「日本軍=侵略戦争を犯した」というみかたが正しいのか自分の頭で考えて貰いたい。例えば「南京大虐殺で30万人」も、「数が例え百人でも人を殺せば虐殺」とか。死者数が30万人でなければ間違っているということ。当時、南京には20万人以下しか中国人はいないのに、どうやって30万人殺したのか?従軍慰安婦の強制連行は正しいのか?「連行がなくても強制性はある。」とかふざけるな!数十年前の、「日本軍が何もかも悪かった」という嘘はもう通用しない。なら原爆や大空襲の米軍の虐殺行為は悪ではないのか?頭を使って考えて!自虐史観などに騙されないで!)
しかし、1972年、日本と中国が国交正常化したとき、戦争賠償金の問題が早期提起された。その後、1978年になって「日中平和友好条約」が結ばれました。このとき、中国は日本に対して「戦後の賠償金を請求しない」ということで合意しました。なぜなら日本が中華民国(中国国民党・現在の台湾)と「平和条約(日華条約)」を結んだとき、中華民国が、日本に対する戦争賠償金を放棄したからです。
つまり、中国共産党政権になる前の、中国を支配していた中国国民党の中華民国が、そのトップの蒋介石氏が、戦争賠償金を放棄したからです。これによって国共内戦で勝利した中国共産党の中華人民共和国が、その当時、当事者が「賠償を戦争賠償金を請求しない」といったので現在の中国が請求するわけにはいかなくなったという背景があります。
日本としては、中国から、「賠償金を請求しない」と言われたから、その代わりとして何らかの形で罪を償わなければならないと思いました。そこで、日本は 1978年から ODA(政府開発援助)という形で、 1978年から 2018年までの40年間で、中国に無償給与という形でODA総額 3兆6500億円ものカネを、中国に渡しました。
これが、日本からの戦後賠償金と同じことになります。しかし、日本としては中国が賠償しなくていいといったから賠償はしていないが、代わりに援助金を渡してきたという思いがあり、一方で、中国の若者は「日本は戦争の責任を取っていない! 賠償金を払え! 謝罪しろ!」という、経緯を知らない中国人の若者が、反日活動にいそしむようになりました 。
これは、歴史を知らないことへの教訓なんだと思います。
日本としては、戦後賠償という形でODAを3兆6500億円も払ってきたわけですが、その経緯を知らない中国の若者が、「日本は謝罪しろ! 賠償金を払え!」と言っているわけです。つまり、日本の戦後賠償ということを提起するならば、賠償金は、中国政府に払った ODA 3兆6500億円の中から、中国政府が肩代わりとして払えばいいだけの話なんです。
しかし、中国とは「戦略的互恵関係」で繋がっています。友好関係であり大事なパートナーといっても過言ではありません。ただし戦略的互恵関係といっても、要は、「嫌いだけれども、ビジネスで重要な関係にあるから、仲良くやっていこう」と云うような話しです。
また、尖閣問題で日中関係が冷ややかになったこともありましたが、今は落ち着いていると言いえます。
また、日韓関係もあまりうまくいっていません。「戦後賠償」の問題。「徴用工問題」「慰安婦(従軍慰安婦)問題」。これに関しても、中国の若い人たちと同じように、韓国の若い人たちも「日本は謝罪をしろ! 賠償金を払え!」というふうに主張しています。
つまり反日活動です。
しかし、日本と韓国は 1965年六月に「日韓基本条約」を締結。同時に「日韓請求権並びに経済協力協定」その後「日韓国交正常化協定」を結んでいます。これは、日本が韓国に経済援助することで、「両国間では請求権の問題が解決された」ことを確認したというものです。
「韓国が「戦後賠償」を個人的にも政府的にも請求しない」ということに伴って、日本は賠償しない代わりに 1965年にまず無償給与という形で 3億ドル(1080億円・当時)と、低金利での貸し出しという形で 2億ドル(780億円・当時)を韓国政府に供給しました。また、日本の民間企業が、韓国政府・韓国企業に 3億ドルの資金融通もしました。当時の価格で5億ドル(1860億円・現在の価値で約7500億円(韓国の国家予算3.5億ドル・約5300億円))また韓国は過去50年間の内で今、経済が一番低迷しています。反日の運動での被害は33億円くらいなのですが、文在寅政権(第19代2017年~)の失策『最低賃金の引き上げ』(2018年16.4%増2019年10.9%増)でです。経済学のイロハで、最低賃金を一挙に上げすぎると不況になる……という常識的な知識ですがそれがわからなかったという。それで韓国の若年層の失業率(15~24歳までOECDデータを元の算出)は10.4%、日本3.9%です。韓国の知識人層で、『反日種族主義』という本がベストセラーで、韓国人の中にも〝反日教育の間違い〟に気付きはじめたひとも多くなっているそうですが、現状はお寒い限りです。
この資金援助によって韓国は『ハンガン(漢江)の奇蹟』ともよばれる経済発展を遂げたのです。しかし、そうしたことを知らない韓国の若い人たちは「日本は謝罪をしろ! 賠償金を払え!」と、何度も何度も蒸し返し、ゴールポストをそのたびに移動してきたのです。
政治的には、1965年の「協定」において、日本は「完全かつ不可逆的に請求権問題を解決した」という立場です。
だが、韓国大統領府は強引に『慰安婦財団(2015年末の日韓慰安婦合意に基づいて、日本政府が10億円を拠出し、韓国政府が設立した「和解・癒やし財団」を解散するというのだ)』の解散を実行してしまいました。これは日韓首脳会談で合意して、(韓国国内の)慰安婦への賠償と謝罪という意味ですでに10億円も拠出していました。だが、また韓国が一方的にゴールポストを動かした、という事です。
また、韓国国民内でも、「請求権問題」「賠償金問題」というものが何度も何度も蒸し返されていますが、日本政府が韓国政府に渡した5億ドルのうちから、韓国政府が日本政府に代わって賠償金を 5億ドル渡したうちの中から、肩代わりして払えばいいだけの話しだと思います。また、竹島(韓国名・ドクト)領有権をめぐって対立しています。が、これは国と国との問題です。しかし、国際的には竹島は「韓国が実効支配」をしているのですから、外野から何を言っても「負け犬の遠吠え」と同じことです。また難しい「慰安婦問題」ですが、確かに、風俗業としての慰安婦、というのは存在したのでしょう。
しかし従軍慰安婦と呼ばれる、まるで「ナチスのユダヤ人狩り」のような、当時の日本軍人が、トラックで街に何度も繰り出して、美女や若い女性をトラックに詰め込み「従軍慰安婦」と呼ばれる「性奴隷」にした、というような事実はありません。
もし、そのようなことを行ったのであれば「証拠の資料」があるわけで。もちろん、すべて焼き払った、みたいな反論もあるでしょうが、「ナチスのユダヤ人迫害」のような「資料」が、「従軍慰安婦としての資料」がゼロであることは、おかしいとしか思えません。
確かに慰安婦・従軍慰安婦問題が本当におこったことであるならば、きちんと謝罪をし、賠償金を払うのは当然です。が、これもまた難しい問題です。確かに風俗業としての慰安婦は存在しましたが、「強制連行」という形の「従軍慰安婦」は信ぴょう性が低いのではないか? と。
またこの問題について「日韓基本条約などで解決」というのが日本の認識です。一方、韓国では、日本政府に謝罪と賠償を求める声が何度も何度も上がっています。
2015年「慰安婦問題に関する合意」がなされ、慰安婦支援の財団を設立することが決まりました。しかし、2018年になって韓国側が「2015年の合意は、真の解決にはならない」と表明するなど、問題はくすぶり続けているというわけです。また、北朝鮮の問題では「拉致問題」というのも大きな問題です。もちろん、北朝鮮の「核ミサイルの問題」「軍事独裁」
そういったものも問題なのですが、日本人が「人さらい」にあって被害を受けた「拉致問題」というものの問題解決が、まず第一でしょう。今から40年前、中学生の少女であった横田めぐみさんが、新潟県で拉致された事件なども、悲惨な、シンボリックな事件でありました。
この拉致問題解決も、日本政府にとって非常に重要な問題であることは間違いありません。
また、2019年8月、日本政府が韓国を『ホワイト国』から除外することを閣議決定しました。難しいことを簡単に説明すると、いままで自動車の免許がゴールド免許だったのが事故を起して、普通の免許になるようなものです。
韓国の〝ホワイト国〝認定は2004年の小泉政権のときで、北朝鮮のこともあるので日本との貿易を優遇するというもの。ですが、日本からの輸入品を第三国に流出させているのではないか? と、日本側は「第三国への輸出管理を厳格化してほしい」というお願いというか。
韓国が半導体メモリィ(サムスン電子・SKハイニックス)や有機ELパネル(サムスン電子・LGディスプレイ)などスマートフォンやパソコンやテレビをつくるとき、日本からの輸入品(レジスト JSR、信越化学工業、東京応化工業)(フッ化水素 ステラケミファ、森田化学工業)(フッ化ポリイミド JSR)の化学物を使用していました。
その化学物質は猛毒サリンやVXガスなど、化学兵器にも転用されるものなので、韓国には、「その管理を徹底して厳格化してほしい」というのが日本の主張なんですね。
それがなされていないから〝ホワイト国〝から除外する……ということなんです。
でも、東南アジアとか普通の国は〝ホワイト国(輸出管理の優遇対象国)〝じゃあないから普通に戻すだけなんです。実際は輸出規制ではなく、韓国の企業も国民もわかっています。
騒いでいるのは韓国や日本の政治家や文在寅大統領だけ。韓国人は日本が好きだし、日本製品も好き。日本に観光にいきたいんですね。徴用工問題や慰安婦問題……さまざまな課題はありますが、日本は『惻隠の情』で、対応して欲しいですよね。
1965年の日韓国交正常化協定・日韓請求権協定において、日本国は5億ドル(1860億円・現在の価格で7700億円)を事実上の戦後賠償金として韓国政府に支払い、国家としての謝罪もおわっています。
何度も言いますが、韓国人が正しい歴史を学んでいないというか、韓国人に都合のいい歴史しか学んでいない。勉強不足だから、未だに1965年の事実も知らず、「日本政府は謝罪しろ! 賠償金を支払え!」みたいなトンチンカンな発言やデモになるんですよ。
韓国政府も協定を認めていたのに、大法院(最高裁判所)の判決で、また〝ちゃぶ台返し〝をする。その後の時系列を2019年だけで観てみると、*(1月3日)、韓国の最高裁で元・徴用工(当時、日本へ強制的に連れて行かれ強制労働をさせられた韓国人たち)の裁判で、賠償金の支払いが認められた。(日本企業の資産差し押さえ)。
*(1月10日)、文大統領「(最高裁の判決に)政府は介入できない。日本は大法院の判決に従え」と無責任発言。
*(1月21日)、韓国軍、日本の自衛隊機にレーダー照射問題。韓国は「照射していない」「照射は遭難船の捜索のため」「(日本の自衛隊機が)低空飛行で威嚇してきた」「日本が謝罪しろ!」
*(2月7日)、韓国・文喜相・国会議長「日本の天皇が謝れば問題解決」発言→辞任。
*(2月8日)、日本側「二国間協議提案」韓国応じず。
*(2月22日)、「竹島の日」を廃止しろ、と韓国。「独島は韓国領土」と。
*(5月1日)、日本企業の資産を現金化(元・徴用工裁判で)
*(6月19日)、韓国「両国の企業が資金を出し合って、問題解決を(1965年の協定無視)」日本側、「応じられず」拒否
*(6月28日)、G20大阪会議、文在寅大統領と安倍晋三首相、握手だけ。
*(7月3日)、慰安婦財団、正式解散(日本側が10億円を払って慰安婦問題を〝最終的克つ不可逆的に解決〝したのをすべてなかったことに。金は返さず)
*(7月4日)、日本製品の不買運動
*(7月24日)、日韓国際会議で泥沼化。日本側「もう愛想が尽きた」「相手にしてもいられない。馬鹿馬鹿しい」
*(8月2日)、韓国を「ホワイト国」から除外。日本製品不買運動。両国交流中止。
(グループA「ホワイト国」27ヶ国)(ベルギー・ブルガリア・チェコ・デンマーク・フィンランド・フランス・ドイツ・ギリシャ・ハンガリー・アイルランド・イタリア・ルクセンブルク・オランダ・ノルウェー・ポーランド・ポルトガル・スペイン・スウェーデン・スイス・イギリス・カナダ・アメリカ・オーストラリア・ニュージーランド・アルゼンチン・(韓国)*アジアでは一ヶ国だけであった)
(グループA「ホワイト国」アメリカ、イギリス、など)(グループB、トルコ、南アフリカなど。韓国ここに)(グループC、ロシア、中国、インドなど)(グループD、北朝鮮、イラン、イラクなど)
文在寅政権では「反日」を叫べば支持率があがるが、日本と悶着して経済が悪化したことで、「日本を敵視して、愛国を訴える前に両国の話し合いや関係改善を!」という世論がでてきた。これは大きい。韓国人もわかってきた層が増加したのだ。
2010年の中国の尖閣諸島領海侵犯では、中国を日本がWTO(世界貿易機関)で訴えて、中国が日本へのレアアース禁輸に踏切った。が、日本側が「中国以外の国からもレアアースを買おう」という行動で、結果的に中国のレアアース市場は減り、中国は大損した。
日本の〝フッ化水素〝の純度は9.99999999999%(トゥエルブ・ナイン)だが、中国の〝フッ化水素〝の純度はわずか9.99%(スリーセブン)と、純度が恐ろしく低い。
韓国が中国から輸入して、半導体をつくるのは無理。日本製が無い限り、品質のいい製品は出来ない。韓国人は「韓国だけでやっていける」というが土台無理な話だ。非現実的だ。
強く輸出規制をすると、制裁が制裁を呼ぶというのがセオリーとして過激化もする。
韓国は何度も何度もゴールポストを移動させますが、怒るのは大人げない。
もっと冷静にいきましょう。歴史的にも近い国同士ですから話せばわかり合えるはずなんです。
河野外相(当時)みたいな駐日大使を一喝するようなのが一番駄目ですね。もっと冷静に。
反韓活動で、「韓国が日本のためになっていると語るのは、韓国を認める行為、すなわち国益に反する行為だ」「韓国を否定しない者は敵だ」というのがある。他人にまでヘイトを強いる発想に、心が寒くなる。ネットや一部の雑誌には韓国を敵視して、ヘイトを煽る記事でいっぱいになっている。前に、愛知県での表現展で、「展示をやめろ!」と抗議と危害行為の恫喝や脅しが相次いだ。これは、日本国に対する名誉棄損(きそん)であり、国益に反するものだ。危害行為による脅迫自体が、威力業務妨害であり、放置しては法治国家の根幹が揺らぐことになる。
もちろん、「嫌韓」を声高に叫んでいるのはごく一部だろう。だが、黙認するひとも賛同しているのとかわりがない。「犯罪行為はいけないが、韓国の味方のような展示はいかがなものか」「最近の韓国は国際法を守らない。もう、反日デモは限界! 韓国に強く抗議し、容認すべきではない!」いじめを〝見て見ぬふり〝をする連中と、どこが違うのか?
「いうべきことを言う」というのは、相手を罵倒したり、馬鹿にしたり、憎み、ストレスを発散させるものではない。それはただのいじめでしかない。
他国を憎んで、罵倒しても意味がない。「嫌韓」を声高に叫んでいるもの、「黙認」しているもの、「共感」しているもの、すべて同罪だ。
交渉とは〝武器を持たない戦争〝〝スーツを着た戦争〝である。戦争に必要なのは、情報、であり、頭脳、であり、冷静な判断、であり、お互いの利益と意見を調整する調整力だ。
外交交渉は〝昨日の敵は今日の友〝ですよ。恨んでも憎んでも意味がない。
〝兵は詭道なり〝ですよ。
北朝鮮×米国 米朝首脳会談後の情報 (当時の記事です。内容を尊重してそのまま掲載いたします)
2018年6月12日、ドナルド・トランプ米国大統領と、北朝鮮の金正恩委員長の初会談が行われた。シンガポールでだった。国際政治での存在感が一気に増した2018年からの金正恩氏。しかし、就任後 6年間は、父・金正日総書記時代の幹部の粛清・更迭や、異母兄・金正男の暗殺(北朝鮮は否定)、核開発など、国内の支持基盤固めに奔走していた。なぜ大きく動き出そうとしているのか?
「27歳の独裁者が誕生した」
2011年12月19日、朝鮮中央テレビが、17日に金正日総書記が急性心筋梗塞でなくなったと伝えます。後継者に指定されたのは、弱冠27歳の、三男・金正恩です。金日成主席が死亡した時には、息子の、金正日が、後継者としての地位を確立していました。ところが、
金正日は急逝したため、金正恩への権力継承の準備は、できていませんでした。
金正恩とはどんな人物なのか? 金正恩は金正日の三男です。朝鮮半島は、伝統的に、儒教社会です。家督は長男が継ぎます。金正恩には、二人の兄がいました。長男は、異母兄の金正男(キム・ジョンナム)。二男は、金正恩と同じ母親から生まれた、金正哲(キム・ジョンチョル)です。
なぜ長男の金正男ではなかったのか? 金正男は、偽造パスポートで日本に入国したことで逮捕され、国外退去処分になりました。そういう過去があります。「東京ディズニーランドに行きたかった」取り調べに対し、そう答え、日本のメディアにその姿を撮影されてしまいます。父の金正日は、この無謀な行動に関して、激怒。金正男の後継者の芽は、なくなったといわれています。さらに、二男の金正哲は、病弱で、政治に興味がなかった、といわれています。対して、金正恩は気の荒い性格などが、父親似であり、金正日が、後継者として気に入ったといわれています。かくして謎のベールに包まれた 27歳の独裁者が誕生します。
金正恩は、2011年4月に開かれた朝鮮労働党の党大会で、総書記のポストを「永久欠番」にします。金正日を「永遠の総書記」として祭り上げたのです。
自らの肩書きを、「第一書記」と。第一書記のポストを新設し、就任します。続いて、朝鮮人民軍の最高司令官。さらに、国家の最高機関である国家安全委員長の「委員長ポスト」を永久欠番にし、国防委員会に、2016年、国防委員会に改善、第一委員長を新設し就任します。
偉大な父や祖父が付いていた最高権力者のポストを、「永久欠番」にすることで、先人か
ら敬意を払う若いリーダー、というイメージを作り、党幹部たちや国民の支持を得ようと考えたのでしょう。金日成は「偉大な首領」金正日は「偉大な将軍」。金正恩は「敬愛なる元帥」と呼ばれるようになります。
さらに、金正恩は、髪形を、金日成に似せようとしました。金正恩には、経験が、何もありません。伝説の将軍であり、北朝鮮の建国者であり、偉大なる首領でもある祖父をまねることで、偉大なる首領・金日成の血を引き継いでいることをアピールします。
北朝鮮はソ連によってつくられた社会主義国です。ソ連も、中国も、トップの座にいるときは独裁に近い形になることがあります。が、世襲制ではありません。権力の座が世襲になるということは王国くらいなものです。
なぜ、北朝鮮だけが、このような異形な国家になったのか? 建国時の指導者だった、金日成の晩年の心配は、「後継者」のことでした。
ソ連のスターリンは、死後、独裁者として、厳しい批判にさらされました。中国の毛沢東も独裁者として、後継者に、一度は、指名した林彪(リン・ピョウ)が、クーデターを企てたとして、逃走中に、飛行機が墜落(撃墜)してしまいます。
金日成は、死後に、自分の名誉が失われたり、批判を浴びたりすることを恐れたはずです。結局、自分の子供しか信用できなかったということです。
父親から息子へ権力を継承するきっかけは、1970年2月に開かれた、朝鮮労働党中央委員会総会にありました。この大会で、金正日の処遇が話題になった時、金日成は「息子はまだ若いから、政治局員にするのはやめておこう」といったところ、金一(キム・イル)政務院総理(金日成とは無関係)がこう言ったといいます。「金正日同志を党中央委員に迎えることは、革命のあかしであり、革命の全人民の熱望するところです。若すぎるとはおっしゃいますが、主席も金正日同志と同じ年ごろに、朝鮮革命を北朝鮮の建国に、祖国を導いたではありませんか。革命は運命にかかわる問題であるので、首領の考えを改めていただきたい」
(重村智計『最新北朝鮮データブック』)
首席に反対しているように見えて、実は、子供を後継者にしたい金日成への、ゴマすりでした。
金日成は「青年たちは革命を引き継ぎ、代を築いて、指導者にならなくてはならない」と言いだします。
金正日への権力の継承を進めました。また、金日成にしか使われてこなかったかつての「指導者」という言葉が、金正日にも使われ出します。1990年7月、金日成がなくなると、金正日が北朝鮮という「王朝」を、父から譲り受けたのです。2代目の金正日が死去すると、「王朝」は「3代目」の金正恩が、急ピッチで権力をにぎり、「権力の座」に就いた。金正恩は金正日時代の幹部たちを、次々と、粛清していきます。
2011年12月28日に行われた、金正日の国葬では、金正恩と7人の幹部が、霊柩車を囲んで行進しました。その、7人のうちなんと5人が、2年後には、粛清もしくは更迭されてしまいました。驚くべき速さです。とりわけ驚愕的だったのは、金正恩の後見人、と、みられていた張成沢(チャン・ソンテク)の処刑でした。張成沢は、金正日の妹と結婚していて、金正恩は甥(おい)です。金正恩政権の実質的なナンバーツーとみられていました。ナンバーツーはいかにしてつまずいたか?
かつて、張成沢は金日成死後に、金正日体制になった時、秘密警察を指揮して、 1万人を処刑し強制収容所に 25000人を送ったといわれています。その張成沢が、粛清され、処刑されたのです。
金正恩が、トップの座に就いてから、5年間で粛清された数は340人に上ったそうです。自分の周りをイエスマンで固める。独裁者の常道手段です。2017年2月18日に、またも衝撃的な映像が、世界を駆け巡ります。
マレーシアのクアラルンプール国際空港で、金正恩の兄・金正男が、二人の女性によってVXガスによって、殺害されたのです。VXガスは、皮膚についただけで死んでしまうという猛毒です。
北朝鮮は否定しますが、金正恩が命令して、北朝鮮工作部隊が、金正男を暗殺したことは間違いありません。
マレーシアは、北と仲のいい国でしたが、事件後は国交断絶するような悪化の関係になっています。金正恩は、国際社会に対し、挑発行為を開始。2012年四月と十二月に、〝人工衛星〝と嘘をいって、ミサイルを発射してしまいます。
2013年二月には「地下核実験」を強行。朝鮮戦争の休戦協定の白紙を通達。オバマ大統領(当時)を、非難しはじめます。北朝鮮は、核ミサイル、ICBMなどで、世界を恫喝していました。そんな中での、トランプ米国大統領と金正恩朝鮮労働党委員長との、「米朝首脳会談」だったわけです。確かに、成果は何もありませんでした。が、会談を行ったことは、
それなりに評価してしかるべきだと思います。「北朝鮮」ではなく、「朝鮮半島の非核化」「北朝鮮の体制の保証 」「ICBM核ミサイルの廃棄」「CVID非核化へのロードマップ」「朝鮮戦争の終結」「戦後賠償」……そういったことがこれからの課題となります。
(池上彰『北朝鮮情勢』より参照)
米朝首脳会談米朝共同声明骨子
*北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長は朝鮮半島の完全な非核化への約束を再確認
*トランプ米国大統領は北朝鮮に安全の保障を提供すると約束
*米朝は朝鮮半島で持続的平和体制を構築するため努力をする
*会談は、何十年にも及ぶ緊張や敵対行為を克服するための画期的な出来事
*会談結果を履行するためにさらなる交渉を開始する
*朝鮮戦争の戦没者米兵の遺骨収集で協力を約束
(四月の「南北首脳会談」で証明された「板門店会談」の上書きに過ぎない。ここから先が長い。)トランプ氏 「拉致問題提起」(共同声明には盛り込まれず。)
共同声明 「具体策ゼロ」「非核化CVID成果ゼロ」
史上初の米朝首脳会談後の交渉は継続へ。
「北朝鮮体制の保証」「経済の支援」(北側が何もしていないのに「体制を保証した」と、それと「経済支援の約束」。だが、調整できず、与えなかったトランプ大統領(当時)にも理がある。金正恩「してやったり」。トランプ「戦争ゲーム(米韓合同軍事演習)を中止。」具体性なし。在韓米軍撤退。「米韓合同軍事演習」は、中国向け北朝鮮向け、である。中止したら「圧力」がかけられない。在韓米軍は28000人駐留している。核ミサイルを積めるB-1爆撃機。要人暗殺の訓練も。原子力潜水艦。段階的に非核化……少しずつ進め、「見返り」を、その都度、得る。
日本は、拉致問題を、日本と北朝鮮との間で独自で進めるしかない。米国に頼まず、自力でやれ。北朝鮮の金正恩委員長は、これまで、何度も、中国の習近平国家主席と会っている。
ロシアのサッカーワールドカップでも、金正恩は、北朝鮮の金泳南(キム・ヨンナム)副首相を派遣し、プーチン大統領にゴマをすっている。
アメリカ……「一括で速やかな非核化」。「具体策ない」「ロードマップ(工程表)もなし」ポンペイオ国務長官(当時)は、釈明に、追われていた。「共同声明にはないが多くの一致があった」
「2年以内に……(CVID)」
トランプ大統領(当時)「非核化が20 %進めば後戻りができない。」(トランプは会談決裂を恐れたのであった。)北朝鮮は「段階的非核化」と、判断した。
何の具体性もない『政治ショー』。ただし、会談で流していたプロモーションビデオは、「武力軍事攻撃」へのブラッフ(脅し)であった。北の経済を立て直すためには、金正恩が、
経済制裁を解除してもらうために話し合うしかない。ちなみに、6月25日は、朝鮮戦争開戦の日であり、反米闘争の日で、あった。確かに、米朝首脳会談の成果はゼロであった。が、このあと、金正恩が暴発して、また裏切りのようなことをやると、今度は、「トランプ大統領(当時)のしっぺ返し」があるだろう。その報復が怖い、ということでは「抑止力」とは言えるんだろう。
金正恩委員長は、カジュアルな服装で、中国との国境付近を精力的に「視察」しているようだ。が、「したしみやすさ」をアピールしているに過ぎない。南北朝鮮の艦艇間交信も10年ぶりに再開させた。一方で、北朝鮮の秘密施設で「核燃料増産か」という。米国の報道機関のスクープだった。また「拉致問題」(小泉の電撃訪朝で、被害者五人帰国。その後、日本政府が認定した拉致被害者17人のうち、残る12人について北朝鮮は「8人死亡(横田めぐみさんも死亡と)、4人未入国」の立場を変えず、膠着(こうちゃく)状態。14年のストックホルム合意で北は一旦被害者の再調査に応じたが、16年2月に一方的に打ち切った)
だが、繰り返し述べるが「日本国と北朝鮮」とでの話である。トランプ氏は自分を『ディール(取引)の天才』というが、「個人的なうぬぼれはもっとも害」(英国歴史家ニコルソン「外交」より)というものだ。日経もいうように「日本が闇雲に対話を求めても足元をみられるだけだ」とくぎを刺すしかない。トランプ氏が米朝会談で拉致問題に言及したことを安倍首相は「外交上の成果」と宣伝するが、早計でしかない。
もっと冷静になってほしい。
(毎日新聞記事参照)
NHKスペシャル 「金正恩の野望 第一章」
そこに、記されていたのは、金正恩の野望だった。机の上の書類。ある北朝鮮元幹部が残した極秘メモ。金正恩の野望。「金正恩は、戦争も辞さない〝狂気を持った人間〝だと思わせておいて、突然、百八十度方向を変えて、「平和を追求したい」と、一歩出てきたとしたら、いったいどうなるのか ? 世界はその深刻な戦略の渦に、巻き込まれていくだろう」
数年前に書かれた、この書類は、まるで今の現状を予告するかのような内容だった。
2018年「米朝首脳会談」が行われる前に、金正恩委員長は、中国を訪問して、習近平国家主席と、何度も会談した。中国は〝北朝鮮の後ろ盾〝だ、ということを示した形である。
突然、外交に動いた金正恩。北朝鮮から動くことなかった6年間。何をしていたのか? 金正恩の野望とは ? 独裁国家の誕生から70年。北朝鮮の動向が、再び、世界の注目を浴びてきている。金正日の死。金正恩の登場。サイバー攻撃。金正男、暗殺。金正恩は、人民を救う改革者か? 狂気の独裁者か?
北朝鮮元高官「金正恩は、クレージーだとか、理性がない、とか言われますね。しかし、密な戦略を立て、すべて「計算通り」に進めています」
さらに金正恩が 、6年間で発した膨大な命令を、AI人工知能で分析しました。これまでの政権とは、全く違う戦略が、見えてきた。
日本の心理学者「〝直感型〝ではなく〝思考型〝」北朝鮮研究者「〝実務的〝というか〝現実主義〝」ベールに包まれた、若きリーダー知られざる実像に迫る。
北朝鮮のトップ、金正恩氏。政権発足から6年がたったが、その主張は、謎に包まれている。詳しい経歴や、正しい年齢さえわかっていない。実績がない若者が、どうやって国家を支配したのか? 金正恩の、当時8歳の写真がある。太った顔や体に軍服で、鉛筆を持って何かを書いている。極秘にされていた幼少期がみられる。宮廷で、英才教育を受けていたとされる写真である。母親は、大阪生まれのコ・ヨンヒ氏。(母親・コ氏 父親・金正日)。コ氏が、大阪出身、ということは伏せられている。今も多くの人民はそのことを知らない。
金正恩の母親が日本人であることは、限られた幹部しか知らない。8才の子供を〝大将〝と呼んでいたという。叔母たちは、のちにこう言った。「周りの人間が権力者のように接するのを見て、彼が、普通に成長するのは不可能だと思った」ベールに包まれた金正恩の研究を、いち早くしたのは、韓国政府だった。
2012年当時。李明博(イ・ミョンバク)韓国大統領(当時)。国家安保戦略研究所ナム・サンウク所長(当時)。ナム氏は「金正恩の性格や、経歴や、思考を探る密命を受けていた」ナム氏「彼に会ったことがあるという意見で、多かったのは、普通の人間であった、とのことである。では、狂人ではないのか ? 正常な人間かどうか、一番の興味分野でした。韓国の将来にかかわる大問題だったからです」
突破口は、金一族が、世界を学ばせるために、舞台にした、スイス・ベルンだった。金正男15歳。 1986年当時。金正男は流ちょうなフランス語を話していた。金正恩も、12歳のとき、スイスに留学していた。スイス留学時の金正恩の写真。やせている少年。
最高指導者の子供だという出自を隠し、パク・ウンと名乗っていた金正恩。
元学友「彼は、バスケットボールが得意でした。でも、うまくいかなかった時は、急に、不機嫌になって、大声を出すこともありました。覚えているのは、金正恩の負けん気の強さと、失敗を繰り返さない周到さだった」「学習能力の高さは抜きんでていた。遊びだったバスケットボールでも、一つ一つのプレーを真剣に考え、取り組んでいた。その姿が印象に残っています」
当時の担任は、金正恩の適応能力の高さを口にした。スマホで、金正恩の、当時の顔写真を見せる。クラスの生徒全員の名前を覚えるために撮影した写真です。「彼は、長く、スイスにいたわけではありませんでしたが、本当に、流暢なドイツ語を話していました。かなり努力しなければ、あれほどの成績を収めることありませんでした。流暢なドイツ語をいつも話しました」
こうした情報をもとに、韓国政府は、若きリーダーの資料を作り、報告書にまとめました。ナム氏「国家を指導していく知的能力をもっていることがわかりました。性格面では、特に、主観が強く、頑固で、自分の興味分野に没頭するという面が強く見られました。相手の意見をききだしながら、何らかの意見を述べながら、自分の主張をとおすことができる人物だという判断でした。しかし、スイスでの経験が、のちにどう影響したのか? ということは明らかにはならなかった。社会主義国家でありながら、〝金王朝〝の三代世襲がなされている。社会主義国家北朝鮮。金日成主席(1912年~1990年)金正日総書記(20年の世襲。1942年~20 11年)。金正日は核ミサイル開発など、先軍政治をおしすすめた。権力基盤を固めた。しかし、60代で、脳こうそくで倒れる、と、後継者問題が浮上。金正日の急死で、金正恩が、突如、出てきた。実績もなく、幹部たちよりはるかに若い三男の世襲。長男・金正男。二男・金正哲。どうやって党や軍。2500万人の人民を支配していたのか ?
金正恩の6年間を、独自に調べ上げた北朝鮮の元幹部。金正日の元部下で、指導者とあおがれたエリートが、金正恩の 6年間に迫った。
ソン・ミンテ氏(2000年脱北)(2017年死去。生前に秘書に遺品のすべてを託していた)「海外の北朝鮮外交官に、金正恩は、トラブルになって困る国と、トラブルになってもいい国とに分けている。北は、ベトナムでマネーロンダリング(資金洗浄)をしている。金正男を、2017年VXガスで暗殺。(マレーシアクアラルンプール国際空港で。)6年間の独裁支配の足固め。金正恩は思考戦が得意。外交で戦争をちらつかせ、平和を、という対話のエサに、だまされることだろう。体制の不満者はすべて暗殺する。」
秘書「先生が使っていたものです。北朝鮮ついて誤った憶測ばかりがあふれ、だれも真実を知らないと話しているのを思い出します」
ソン氏が残した内部資料や分析書は2000点余り。地下核実験。不安で怖い。金正恩の映像や、北朝鮮の核実験や、テロなどの軍の動きとか、北朝鮮の内幕が記されていた。その多くは、韓国政府に提出された。北朝鮮戦略の貴重な資料とされた。
金正恩は、どうして北朝鮮を統治しているのか? それを読み解くカギは、北朝鮮の経済成長だった。
ソン氏のメモを読む。「金正恩の弱点は、自らを神格化させる時期と、条件が、あまりに不足していたことだ。祖父・金日成や、父親・金正日は、数10年かけて、血統を継承の正当性を主張し、権力基盤を固めることができた。そこで、金正恩が目をつけたのが、父親・金正日の時代に衰退していた経済の立て直しであった。
北朝鮮の90年代。配給停止。飢餓。自然災害。冷戦終結で社会主義国家からの支援などが滞り、食糧難など大変な経験をした。北朝鮮は経済破たんをし、配給がストップ。ワイロや犯罪が横行した。経済は崩壊し、絶望が北を襲った。さらに、自然災害が追い打ちをかけた。
一説では、2000万人を超える人が餓死したという。人民の不満が、危機的な数にあった。
しかし、金正恩時代に「経済」が建てなおる。人工衛星で見ても 2011年~2017年で、市場が大きく増えた。経済も(もっとも平壌付近だけだが)たて直った。経済成長率も、食糧生産状況も向上した。
金正恩が現れてから、市場は以前よりも拡大し、住民の生活が改善されている様子が見られる。その方法をつぶさに見てゆくと、金正恩独自の「統治戦略」が見て取れるのだ。重要なのは、住民たちの中に、民政の力を根付かせ、それを強化している点にある」
私たちは、経済制裁が厳しくなる前の、北朝鮮の映像を入手した。そこには、資本主義経済のような「競争原理」が記憶されていた。タクシーのノルマは、1日に125ドル。ノルマ以上の儲けは、自分たちのものになるという。競争原理の導入で、みんな、よく働くようになったという。金正恩は〝自強力〝という言葉で「豊かさとは与えられるものではなく、自ら勝ち取るもの」と。市場では〝値切り〝合戦が繰り広げられる。
北からの脱北者で金正恩時代を知る(2010年脱北女性。いわゆる瀬取りの漁民。子供の将来を考え、脱北した。)女性「父親の金正日のころには、国の仕組みがいい加減で、商売をするには、世のすべてが賄賂でした。でも、金正恩に変わると、わいろが禁止されました。
途中で、お金を奪う人を取り締まって、国にもっとお金が入るようにしたわけです。私が働いていた港でも、昔は、地元の警察が、突然、「許さない」とか「非社会主義だ」とか因縁をつけたくさんお金を取られました。金正恩時代になると、私たちの組合では、何年間500ドルという決まった額を国に納めれば、手元に残ったお金は、すべて利益になりました。私たちに堂々と商売をさせることで、金正恩は「国の収益」を上げるということを考えたのだと思います。脱北してからわかったんですが、あれはまるで、資本主義のような仕組みでした」
経済を刺激する一方で、規制が厳しくなった、という脱北者。
(2015年脱北)女性「一言で言うと、規制が増えました。例えば、以前は許されていたところでの商売は、禁止され、市場でも、決まった場所でしかものが売れなくなり、ほかのところで品物を広げていたら、即没収です。許されるスペースは、一人たった40センチで、時間も限られ、10人が交代で使うようになりました。それでも、前みたいに飢え死にする人はいなくなったので、国や警察に抵抗する人も減り、みんな従順になったように思います」
東京渋谷。6年の政権での命令をAIで読み解く。AI分析。父・金正日と息子・金正恩。AI分析で、金正恩は、金日成・金正日のような支配。〝首領様〝〝将軍〝〝イルクン(幹部)〝〝大会〝〝社会主義強国建設〝〝戦闘準備〝(「同盟」「同盟員」「青年同盟」)
〝同盟〝が多い。金正恩は組織が好き ? 個人主義ではなく団体主義。人民を団体につけさせコントロール下に置く。心理学者「非常に能動的。背景的な言葉で鼓舞する。国民に主体性を持たせる。自助の精神を植え付けるときに使う言葉が巧みである。これまでの政府による、上からの経済の体制ではなく、ボトムアップを狙っているのかもしれない。(人心を動かす?)」
金正恩の言葉のうち、30 %は現地の視察でであった。思考やイデオロギーの時代ではない、と。実利主義。他国に譲らない。自強力。
ソン氏「金正恩の経済政策は、集団主義であり、祖父や父を超えるために、経済発展を使っている。自強力である。自分に従う人間の創造。「金正恩は自由経済の人間ではない。」
「金正恩の核実験と拘束米国人の釈放。金正恩は恐るべき人。彼は自由世界の弱点を知っている。自分のために」
金正恩は、資本主義経済の「競争原理」や「働く気分」や「自助の精神」は知っている。
しかし、所詮は、搾取経済である。統制経済や社会主義経済はうまくいかない。経済がうまくいき、望んでいるような「経済成長」を達成するためには、「経済制裁の解除」が必要になる。それと、西側諸国からの「経済支援」である。確かに馬鹿ではない。恐怖先行統治。核開発ミサイル開発などの、先軍政策。反対者を次々と処刑する残忍性。だが、独裁者であり、狂人であるということにかわりはない。
(「NHKスペシャル」より参照)
金正恩の野望 第二章
秋田県沖男鹿半島。2018年、数多く見つかった北朝鮮からの漂流難民。しかし、月14人は初めてのことだった。寺で葬式。家族のもとに帰れない自死北朝鮮人。
北朝鮮の事情通「北朝鮮の漁民は、海に出て、漁を取り、沖で、中国船に魚を売る。魚が取れないと、次回海に出られない」
大規模な経済制裁の中で、なぜ、核開発やミサイル開発などの、〝金王朝〝のぜいたくな、潤沢な、資金が尽きないのか? 北朝鮮権力の財源に迫る。
私たちはその像に迫った。「North Korea inc. 〝Office39〝」朝鮮労働党39号室。金正恩は、自ら、39号室という外貨獲得の秘密機関を組織して、外貨を集めていた。その39号室の真実に迫る。39号室にかかわった、元・39号室の幹部に迫った。
元39号室幹部「これは、堂々と表に出せる組織ではないのです。ですから39と名前をつけて、部屋番号で呼ぶのです。
三世代の世襲ができたのは、 39号室のおかげだと思います。39号室は、制裁逃れの手立てを必死に探すだろう。39号室は金正恩の金庫を満たして、カネを生み続ける任務を狙っているからだ」(元労働党幹部)
アフリカ大陸南部に存在するナミビアのウィントフックに、 39 号室が管理しているとされる工場を訪ねた。しかし、誰もいない。数カ月前にいなくなったという。マンスデ創作社。アフリカで銅像を作っていたという。しかし、世界的な経済制裁で逃げていった。そのマンスデ創作社は〝クラトン〝という麻薬を売っていた。39号室の活動は、〝金一族〝の金のパイプラインであった。世界中にひろがる、元39号室の幹部の6人に聞いた。
元・幹部同党最高幹部A「北朝鮮では、多くの国家機関が運営会社を持っている。民主主義国家のように、各機関に、予算がついて活動がなされているのではなく、北では、貿易会社が稼いだ金で、各組織を運営するのだ。金正恩は、各組織拡販の外貨を稼ぐように要求している。世界に点在する貿易組織。各国に贈り物。労働者・建設作業員…こうした人たちが稼ぐ奴隷賃金。そうして、北朝鮮レストランの従業員や、観光会社の職員も動員される。
外貨を稼ぐのは内閣の国家機関だけではなく、機関の強力な組織も外貨を稼ぐ。
それが39号室という組織である。最高指導者・金正恩がトップを務める、朝鮮労働党の秘密機関である。
正確には、39号室は、党の内部にある部署の一つだ。ここは党の外貨稼ぎを継承している。北朝鮮にたくさんある貿易機関の中で、最も「隠し資産」があるとされている。つまり、貿易の関連する名義の機関の正面に立って、活動しているわけだ。北朝鮮の数ある輸出品の中でも大きな稼ぎになっているものは、どれもこれもすべて管理し扱っている。それが党の秘密外貨獲得組織39号室だ」
この組織の詳細を知る人物が、アメリカの首都・ワシントンDCで見つかった。
元・39号室主席代表・リ・ジュンホ氏。長年39号室の秘密貿易会社で代表を務めてきた人物だ。39 号室は、強力な北朝鮮の海外貿易と、恫喝の執行部であるという。その傘下では数十万人が働いています。
(39号室。年間300億円~ 600億円。あらゆる外貨稼ぎの機関。あらゆる資源を輸出。+偽札+武器輸出+麻薬+サイバー攻撃+北女性売春+瀬取り+サイや象牙の密輸+密輸ブランド品偽物+北朝鮮の労働者奴隷+偽たばこ)たくさん稼げば、党の覚えがめでたく、稼げなければ無能。そうして、核開発、ICBMミサイル開発、ということである。
「39 号室組織図」
「39号室」(革命資金)金正恩個人資金(年間300億円~600億円)
……金剛(クガン)総局〝金の生産〝
……大興(テクン)総局〝松竹海産物〝
……大聖(テソン)総局〝貿易指導・朝鮮人参・宝石〝……
……大聖(テソン)銀行〝貿易資金管理〝
……牡丹(モラン)指導総局〝食料品・酒・タバコ〝
……先鉾(ソンポン)指導総局〝原油〝
……楽園(ラグオン)指導局〝百貨店〝
……大径(テギョン)指導局〝日本向け海産物〝
*外交官で、麻薬で、2年で、2億円稼いだ人もいた。非合法でも、片足を刑務所に入れて外貨稼ぎをしているといわれている。
*金正日は「革命資金」をばらまいたりして求心力を強めた。1970年代に39号室がつくられた。金日成から息子金正日への世襲協力の金のためにつくられた。
社会主義化の北朝鮮では、カネを部下が管理するシステムである。そこに、秘密資金の作る意味があることはあった。そこで、39号室は「革命資金」を作ることに成功した。独裁権力をかためるために作った。当時、金正日は、ライバル金平一(キム・ピョンイル)がいたが、革命資金を使って、幹部に、ベンツや大金をばらまいた。国内に、銅像をいくつも作り 、プロパガンダにも努めた。結果、金正日はライバルに勝利した。
国民数万人が餓死しても、金正日は革命資金を使わなかった。成果としては得られず消えるだけだったからである。金正日は「2400万人の国民より、自分に忠誠を尽くす、60万人の労働党員がいればいい」といったという。党幹部になれば、何でも支給される。
南北からの手紙。欧州のブランド品。高級たばこ。高級自動車…すべてである。
2012年、金正恩政権発足。だれも金王朝の王さまに文句が言えない。いえる人はとっくに処刑されている。相続した革命資金は3000億円。使うのは50億円。総資産6000億円。革命資金で、「三代世襲」に成功した。
金正恩が金正日死後、指導者として登場してきたとき、革命資金の資金力は絶大だった。
金正恩は、特に、経済問題も政治も門外漢であったから、金正恩は叔父の張成沢に、権限のすべてを渡していた。しかし、張成沢は、39号室の金を狙った。そのため、金正恩は張成沢が邪魔になり、政権発足二年で、処刑した。金正恩は、自分の地位が安泰なら、どうでもいい事であった。しかし、国民は、改革開放経済には熱狂的に切望していたため、部分的な導入を指示した。金正恩にとって、39号室は、権力の源泉であった。体制維持のために39号室は必要であった。
金正恩は、「国民の支持を得るのは経済を豊かにすること」という。しかし、39号室という「世襲をうまく動かす錬金術の資金」には手を触れずにいた。それは可能なのか?
北のサイバー攻撃で、バングラデシュ中央銀行から6000億円が搾取された。サイバー攻撃によって、北朝鮮は、公に、資金を得ているということである。北朝鮮はサイバー攻撃を否定するが、バングラデシュ中央銀行からサイバーテロで 6000億円が引き出されたことは間違いがない。それを、マネーロンダリングして費用として核開発やミサイル開発にいそしんできた。
(「NHKスペシャル」より参照)
金正恩の野望 第3章
金正恩が、「すべての核実験や核ミサイルの実験を停止する」と北朝鮮が発表した。
しかし、衛星写真では、核実験場がまだ稼働していることが分かった。
元・労働党幹部「金正恩は核ミサイルを持ち続けるという野望を捨ててはいません。」
ウクライナのロケットミサイルの設計図を盗作。北朝鮮はどうやって短期間で核開発やミサイル開発ができたのか ? そこには、ウクライナの技術者をリクルートして、また、パキスタンや中東での技術者のリクルート、そうして、闇市場で技術を大金で買ったり、サイバー攻撃によって情報を得たり、していたことが分かった。ウクライナの旧ソ連の核ミサイル実験場。その取材が許された。冷戦時代、ここにはソ連の 100発のICBM核ミサイルがあった。このウクライナの機密が、北朝鮮に流れたのか?
ミサイルに詳しい元技術者「ウクライナの技術者を北に引き抜いていました。難解な設計図を読み解くためには必要であったのです。」
ウクライナに北朝鮮が入ったのは、2016年ころ。ロシアが、ウクライナのクリミアに侵攻して、内戦になった。その時期に、技術を大金でかったか盗んだりしたのだ。
インターネットを通じて、必要な高度技術を吸収した。そうして収集した。サイバー攻撃で韓国にアクセスして、原子力発電所の機密情報などを盗んだ。これによって、ウランやプルトニウムの量産化、原子炉の建設設計、メンテナンスなどを行えるようになった。
2017年の核実験の規模は、広島長崎の原爆の 10倍の威力をもっている。
金正恩「 20世紀までのスパイ活動には限界がある。そこでサイバー攻撃ネット諜報ということになったのだ。」
核爆弾を作る原子炉や研究所も稼働中の北朝鮮。非核化などウソである。
2018年6月12日の米朝首脳会談での行為など全く具体性がなく、成果はゼロであった。
しかし、トランプ米国大統領と金正恩北朝鮮委員長の首脳会談には、一定の意味、は、あった。北朝鮮を止めることができるのか? 我々は、北が核をいくつもっているのか、わからない。すべての核を廃棄した、ということは確認できないし、すべての核兵器の廃棄を確認するのは不可能だ。今回の首脳会談でも、CVIDに関してはロードマップ(工程表)を含め、何の成果も得られなかった。対話がストップして「戦争しかない」ということでは駄目である。金正恩の謀略にだまされては、何もならない。北朝鮮に条件を付けていきながらも、まともに金正恩を信じるべきではない。
今こそ、新しいアプローチ、というものが必要であろう。
北朝鮮の核廃棄。そうして、核開発核ミサイル開発の廃棄。無効化。拉致問題の解決。すべては戦略次第だ。米朝首脳会談後、また北が裏切れば、今度は「トランプのしっぺ返し」「米軍の鉄の鉄拳」が、そうして戦争勃発の火種になり得る。もう、金正恩も馬鹿は出来ない。
戦略を持って、北朝鮮の金正恩と対峙し、より良い成果を探っていこう。
(「NHKスペシャル」より参照)
核・制裁 危機の繰り返し(『毎日新聞記事』参照)
朝鮮戦争から冷戦後までの米朝関係 *肩書きは当時
1945年8月 日本の敗戦と朝鮮半島の開放
1948年8月~9月 韓国(八月)北朝鮮(九月)の樹立
1950年6月 朝鮮戦争勃発
1953年7月 朝鮮戦争休戦
1960年2月 北朝鮮が寧辺原子力研究所設立
1968年1月 米情報収集艦「プエブロ号」が拿捕
1969年4月 北朝鮮機が米海軍偵察機を撃墜
1970年9月 北朝鮮がIAEA加盟
1976年8月 板門店で北朝鮮軍が米軍士官を殺害
1985年12月 北朝鮮がNPT署名
1990年9月 ソ連・韓国の国交正常化
1992年8月 中韓国交正常化
1993年3月 北朝鮮がNPT脱退を表明
1994年6月 カーター元米国大統領が訪朝
1994年10月 米朝枠組み合意が成立
2000年10月 北朝鮮の趙明録・国防委員会第一副委員長が訪米
2002年1月 ブッシュ米大統領が北朝鮮を「悪の枢軸」と非難
2002年12月 ケリー米国務次官補が訪朝
2003年8月 6か国協議スタート
2005年9月 6カ国協議が核計画放棄を含む共同声明を採択
2006年10月 北朝鮮が最初の核実験
2007年2月 共同声明履行の「初期段階の措置」採択
2007年10月 第二段階の措置で合意
2008年12月 6か国協議首席代表会合(以降を開かれず )
2009年1月 オバマ米大統領就任
2009年4月 長距離弾道ミサイル発射実験
2009年5月 2度目の核実験
2011年7月 ニューヨークで米朝高官協議
2011年12月 北朝鮮の金正日総書記死去
2012年2月 核施設運転とミサイル実験中止で米朝合意
2012年4月 長距離弾道ミサイル発射実験(失敗 )
2013年2月 3度目の核実験
2017年1月 トランプ米政権発足
2018年6月 米朝首脳会談
2019年 米朝首脳会談
2020年6月 金正恩重病死亡説流布・北朝鮮、南北ケソン共同連絡ビル爆破
薄氷の南北休戦協定(『毎日新聞記事』参照)
第二次世界大戦で 1945年8月15日、日本が敗北し、 35年間に及ぶ朝鮮半島の日本植民地統治がおわった。朝鮮半島は 38度線を境に、北側をソ連(現・ロシア)、南側を米国が、それぞれ軍事統治することになった。
当初は、国連監視下で、総選挙を実施して、半島全体に政権を樹立することがきめられた。が、北側を統治していたソ連が、国連の立ち入りを拒否。南側地域だけで、選挙がすすめられた。その結果、李承晩(イ・スンマン)が初代大統領にえらばれ、 48年8月15日には、
韓国・大韓民国の樹立が宣言された。9月9日に、北側でも朝鮮民主主義人民共和国・北朝鮮の樹立が宣言された。
それぞれソ連が、北朝鮮から12月に、 49年6月に米国が、韓国から、撤退している。
38度線全線で、北朝鮮軍が韓国に攻めこんだのが、 1950年6月25日未明のことであった。朝鮮戦争が勃発した。北朝鮮の金日成朝鮮人民軍最高司令官は、祖国統一をしようという野望もって、韓国に攻め入った。朝鮮半島を統合しよう、しかも武力で、と考えた。最初のうちは、北朝鮮が有利に展開した。
トルーマン米大統領は、国連安全保障理事会の開催を要求するとともに、陸海空軍の派遣を命令。アメリカは「国連軍」として、韓国支援に乗り出した。イギリスやアメリカ、オーストラリアなどが参加する国連軍が結成された。
韓国の90パーセント以上がその時点で、北朝鮮軍支配下に置かれていた。マッカーサー氏指揮下の国連軍の韓国派遣により、北朝鮮軍の優位性は崩れ、 9月15日に国連軍が上陸作戦線を執行する。と、形勢は逆転。同28日には、首都ソウルを奪還した。
李承晩大統領は韓国有利となった後、北朝鮮政権の崩壊が必要との立場をとった。同調した米国が、安保理に語った。「ソ連軍が拒否権を行使しているが、米国は、国連総会での採択を提案して、38度線を突破することが肝要である」。
北朝鮮軍をアメリカ軍は中国国境まで追い詰めた。そのころ、北朝鮮の金日成主席と仲の良かった毛沢東は、中国共産党大会において、中国共産党軍ではなく中国義勇軍という軍を組織。北朝鮮軍を支援し、それによって韓国軍・国連軍と、北朝鮮軍・義勇軍の兵力は、38路線で一進一退の状態となった。
国連軍のリッジウェー総司令官が休戦交渉の開催を呼び掛けて、戦争が長期化する中で、中朝が応じて、51年7月10日、交渉が始まった。交渉は難航したものの、 53年7月27日に双方は休戦ラインを想定しで、合意した。
休戦協定が板門店で締結された。中朝代表して朝鮮人民軍の代表の南日(ナムイル)氏が、国連軍を代表。米国のハリソン氏が、それぞれ署名した。お互いの顔も見ず、握手もせず退席した。署名に参加しなかった金日成最高司令官と、彭徳懐・中国人民義勇軍、クラーク国連軍総司令官は、それぞれ後方の司令部で署名。韓国軍は署名を拒否し、義勇軍撤退、北朝鮮軍の武力解除、国連下での半島全体での選挙実施、を求めたが、協定は、同日中に発行し、休戦状態に移行し朝鮮戦争は休戦した。
1968年1月23日に起きた「プエブロ号」事件。休戦協定終結から約15年後、米朝は再び軍事衝突の瀬戸際に陥る。長崎佐世保から出航し、ソ連の潜水艦探知や、北朝鮮の通信傍受にあたっていた米情報収集艦プエブロ号は、北朝鮮の元山(ウォンサン)沖の洋上で、北朝鮮軍に領海侵犯を理由に、拿捕されたのだ。82人が身柄拘束をされ一人が死亡した。
空軍に戦闘準備を命令、航空機 200基を乗せた空母部隊が、日本海に展開して、米政府は北朝鮮に圧力をかけた。が、北朝鮮軍は、乗組員解放要求をはねつけ、謝罪を求めた。
ベトナム戦争拡大中の時期でもあり、謝罪することを選んだ米国。事件発生から11カ月後の十二月、乗組員は解放された。乗員解放の翌年には、さらに米朝関係の緊張が高まった。
69年4月15日、厚木基地飛行場を飛び立った米軍米海軍偵察機が、ソ連の国境に近い北朝鮮沖で撃墜された。ニクソン米大統領は激怒する。これによって、「全面戦争に発展する可能性がある」と米国大統領ニクソンは発言して、北朝鮮の攻撃を含めた作戦実行を計画したという。しかし、ニクソン大統領は攻撃作戦をあきらめた。
キッシンジャー氏はこう言った。「同じことが起きたら北朝鮮は対価を支払うべきだ」
報復攻撃の必要性を書きしめしている。
冷戦終結 深まる孤立(『毎日新聞記事』参照)
北朝鮮の核開発は、ソ連、ロシアのドゥブナ核研究所を創設参加のための協定を1956年三月締結し、科学技術者の研究を始めたのが発端である。
64年二月に、寧辺(ニョンビョン)原子力研究所が設立され、 74年九月に、国際原子力機関 IA EAに加盟。 85年十二月に、核拡散防止条約NPTに署名した。
80年代、ソ連などの社会主義諸国の経済停滞が深刻になる。社会主義体制の存続さえ脅かされる事態となり、89年、東欧の社会主義国の崩壊が始まると、北朝鮮も深刻な打撃を受けた。92年八月には、中国が韓国と国交を結び、北朝鮮の国際的安全保障的な孤立は、決定的となった。冷戦終結後の北朝鮮は、孤立の一方だった。
日朝国交正常化交渉や南北対話を中断。北朝鮮は交渉相手を「アメリカ」に絞ることになった。カードに使ったのが核開発である。
86年十月、金日成主席が、ソ連共産党のゴルバチョフ書記長と会談した。金主席は、「あの男(ゴルバチョフ)では、ソ連も悲惨な末路になるかもしれない」と漏らした。
北朝鮮は秘密裏に核開発計画を持っていた。ソ連に駐在し、北朝鮮の研究者たちは、非軍事の研究機関で学んでいた。北朝鮮は、米国との取引きのために、核開発ICBMミサイル開発に拘泥した。
「アメリカとの交渉には核兵器を持っていた方が有利に働く」と思ったからである。
北朝鮮はNPTからの脱退を表明し、「第一次核危機」が始まった。アメリカでは、クリントン政権が誕生したばかりだった。
北朝鮮の核施設を攻撃する計画を米国が浮上させた。それが1994年六月であった。
「国防長官に就任した時、大げさではなく、第二次朝鮮戦争がはじまるかもしれない状況にあった」クリントン政権二人目の国防長官ウィリアム・ペリー氏はこう当時を振り返る。
だが、訪朝して、金主席とカーター元米国大統領が会談したことで、危機は、交渉面で転換された。「北朝鮮が核廃棄・開発計画凍結の用意があるならば新たに交渉に臨むことがある」と米国は表明した。合意が達成されたのは94年十月だった。
米朝枠組み合意とは、北朝鮮がプルトニウムの抽出が容易な原子炉の建設運転を凍結する代わりに、米国が、軽水炉建設を支援し、完成までの代価エネルギーとして年間50万トンの重油を供給する、というものだ。2003年を目標に、米国は、北朝鮮の核施設および関連施設を軽水炉に転換することを約束。北朝鮮には、軽水炉が完成するまでの間、発電用として、重量が提供された。
ブッシュ政権が発足する直前の 00年まで、クリントン政権は、北朝鮮との平和条約構築に向けた秘密交渉を詰めていた。その大役を担ったのが、ペリー氏だった。
しかし、北朝鮮はまたも裏切りというか、秘密裏に、核開発をしていて、しかもICBMミサイル開発をも秘密裏に行っていた。交渉は決裂した。そうして、クリントン政権は幕を閉じ 、01年には W・ブッシュ政権が誕生した
裏切られた国際合意(『毎日新聞記事』参照)
W・ブッシュ(子)米国大統領は、就任2年目に、北朝鮮をイランイラクとともに「悪の枢軸」と呼んだ。2002年一月のことであった。米朝関係は、1990年代前半に続く「第二次核危機」を迎えていた。まず浮上したのは、新たなウラン濃縮技術取得疑惑であった。
パキスタンから技術を導入した、またもの核開発だった。北朝鮮の脅威は明らかであった。
当時、米国務副長官だったアーミテージ氏は、「パキスタンのC130輸送機が平壌空港に着陸している衛星写真を、パキスタンのムシャラフ大統領に突き付けた」と振り返る。
核濃縮技術を伝授したのはパキスタンだった。パキスタンは 80年代後半に、核開発にこぎつけたものの、ミサイル開発では、ライバルのインドに負けていた。北朝鮮のミサイル技術を導入し、そこで、そのため、北朝鮮から中距離ミサイルの「ノドン」の調達を決めた。この年の六ヶ国協議では、「北朝鮮のすべての核兵器や、既存の核計画を廃棄する。米国は、
核兵器や通常兵器で北朝鮮を攻撃侵略することがないようにすること」を、確認。「米朝協議の上、国交正常化。北朝鮮にエネルギーを支援する」。
六ヶ国協議の合意文書には、それらの項目が盛り込まれた。
数日後、ところが、共同声明採択に向け大詰めの作業を進めていた北京に、ワシントンから衝撃的なニュースが飛び込んできた。北朝鮮が、秘密裏に核開発ミサイル開発を進めているというのだ。ことの重大性を把握したアメリカや6カ国協議の参加国は、またしても北朝鮮にだまされた。反対意見や不満が爆発した。
2006年10月9日。北朝鮮は地下核実験に乗り出した。六カ国協議の共同声明の条件を全く無視した、約束違反の行動であった。
その後も、北朝鮮は、核ミサイル開発核兵器開発 ICBMミサイル開発を進めた。
ブッシュ大統領は、これを受けて、北朝鮮に対する「テロ支援国家指定解除」を解除し、「北朝鮮への経済制裁」を強めた。しかし、任期残りわずかなブッシュ大統領は、それ以上の北朝鮮への「経済制裁」に踏み切ることはなかった。核開発疑惑には一歩も立ち入れず、プルトニウムによる核兵器開発の現象さえ宙に浮かせたまま、その後、ブッシュ政権は終わった。
2009年、オバマ大統領の政権時代。北朝鮮は、 6カ国協議から離脱宣言し、「すべての行為に拘束されない」とした。
オバマ大統領は批難した。が、北朝鮮の暴走は止まらなかった。そうして、2011年、北朝鮮の金正日総書記が急死する。と、突如、金正恩委員長が、北朝鮮のトップとして、あらわれ核開発やミサイル開発・ミサイル発射などへ、唐突に、舵をきり始めた。
そうして、突然の対話路線へ転換した。そうして、その成果として、米国のトランプ大統領(当時)との「米朝首脳会談」(シンガポール2018年6月12日)が行われた。
その会談前に、トランプ氏は、「金正恩氏と会談する用意がある」と語り、北朝鮮側も、トランプ氏を「賢明な政治家であり、先見の明のある大統領である」と評価し、双方が対話への期待感をにじませてた。だが、その後、対話に向けた雰囲気醸成はすすまなかった。北朝鮮側・トランプ政権側も強硬姿勢に危機感を抱いた。が、北は、 16年から17年には核開発のスピードをさらに加速させた。トランプ政権も、国際社会を巻き込んで「経済制裁」を強化した。ところが、2018年一月、金正恩が、新年の辞で「宥和姿勢」に転じると、対話ムードが一気に広がり、そうして、シンガポールでの米朝首脳会談開催にこぎつけた。確かに、成果はなかった。が、会談をしたことついては歴史的なことであり、意義はあった、と、いうことである。
北朝鮮ICBM発射(『毎日新聞記事』参照)
ソ連製スカッドミサイルを改良して北朝鮮は、 1980年代から弾道ミサイル開発に乗り出し、90年代に中距離「ノドン」(射程約1300キロ)等の発射実験を実施。2011年末に指導者となった金正恩氏は開発を加速し、12年に長距離「テポドン2」改良型。16年に中距離「ムスダン」を発射。2018年一月には ICBMの発射実験準備が「最終段階」にあると表明し 2月と五月に新型中距離ミサイルを相次いで発射した。
いつまでも米国が、軍事行動を起こさないということはありえない。ミサイル実験は、とうの北朝鮮だけでなく、日本や韓国にとっても極めて危険な行為だ。いったん軍事行動が始めれば、当然のことながら、北東アジアが戦乱に巻き込まれる。だから、国際社会が北朝鮮の行動をどこかで止めるということに尽きる。
北朝鮮の核開発問題をめぐる6カ国協議に参加している、米国、日本、韓国、中国、ロシアについても、「違う思惑」で動いているふしがある。だが、北朝鮮を除く5カ国が「強い連携」を保たない限り、絶対にうまくいかない。各国は、本気になって「北朝鮮の核問題」に真剣に向き合わないといけない。必要なのは、国際社会の連携だ。連携して、北朝鮮に対して「ミサイル実験は許されない」という意思表明をすべきだ。5カ国が「共通のシナリオ」を持つことだ。当然、軍事的な解決は避けなければならない。6か国でちゃんとしたシナリオや戦略を持って、北朝鮮にあたることを望みたい。枠組み作りに努力してきた日本が、北朝鮮問題の出口へのシナリオを提示することを期待したい。
北朝鮮の目標は、一貫して、「米国に届く核ミサイルの開発」という、明確な目標であった。核ミサイル開発が完了した、といえる一方、実戦配備されていないことなどから、国際社会は「まだそこまでは言ってない」と考えている。クリントン政権も、ブッシュ政権も、オバマ政権も、いずれも北朝鮮の体制覚悟を、外交上のしぶとさを、過小評価したもので、そのあいだに北朝鮮は着々と目標へ近づきICBM発射という結果を生んだ。
北朝鮮がこのレベルに達すると、本気で圧力を加えるためには、米国や国際社会が相当の覚悟をしなければならない。軍事行動をとれば、北朝鮮はかなりの確率で反撃してくるだろうから、その覚悟を決めることは容易ではないだろう。ICBM発射などがトランプ政権にとっての「レッドライン」と思われていた。が、レッドライン(赤信号)を超えた場合の準備ができていなかったし、覚悟もできていなかった。一方、中国は北朝鮮という国をコントロールする難しさを理解している。圧力をかけて追い込めばすべていうことを聞く、とは思っていないし、米国のような力ずくで短期的な結果を求める国とは異なる。そこに、朝鮮半島の非核化を目指す中期長期的な戦略が見え隠れする。
国際社会に反発して強気の行動を続けるのは、弱気な面を隠すため、という北朝鮮の解釈があるが、全く違うと思う。おそらく米国は、ミサイルや核開発の比率を客観的に認め「放棄要求」から「管理する戦略」に移行するとみているのではないか。
日本政府の反応も鈍かった。ICBMであることを認めると国内に混乱を招きかねない、というプレッシャーがあったからだろう。トランプ政権や安倍政権は、中国に過度の期待を寄せていたが、効果が薄いことが分かってきたはずだ。やはり、米朝会談や日朝協議を再開させて、安保理対話で進めていくしかない。
脱北者がみる北朝鮮の今は、情報がアキレスけんである。国連が覚醒し、不満が高まれば、北朝鮮の金正恩体制は「崩壊」へと向かう。電力不足も北朝鮮にとっては問題だ。
今回の史上初の米朝首脳会談を「自ら成し遂げた」と強調することで、トランプ大統領(当時)は、自分のレガシー(政治的遺産)にしたい。関心は、米朝首脳会談という『政治的ショー』を派手に見せることだけだった。トランプ氏は16年の大統領選挙時から、「金委員長との対話に何の問題もない」と公言してきた。大統領に就任してから、約1年間は、その機会はなかった。北朝鮮が弾道ミサイル発射を繰り返し、17年九月には 6回目の核実験を強行するなどして緊張が高まっていたからだ。トランプ政権は「最大の圧力」によって金委員長に、核ミサイルの放棄を迫り、米朝首脳会談へと持ち込んだ。
北朝鮮を弱い立場に追い込んだことで、首脳会談に持ち込むことができたという考えは、むしろ間違いである。トランプ氏は北朝鮮から事前に実質的な譲歩を引き出すこともなく、首脳会談に臨んでしまったととらえるべきではないか。北朝鮮は「核抑止力」を手にしたうえで核実験場を廃棄している。米国に追い込まれているわけではない。
北朝鮮は、トップ会談で求めてきても、すべて手に入れた状態では、現時点で、大幅な譲歩をする必要に迫られていない。トランプ氏の最大の失敗は、米朝首脳会談に先立ち「最大限の圧力という言葉を使わない」と明言したことだ。トランプ政権の間は北朝鮮が挑発行為を控えると少なくともみられ、圧力を再び強めるのは困難だ。トランプ氏は、同盟国に何の相談もせずいったん首脳会談の中止を画策するなど、韓国や日本の事情に配慮していないことは明らかだ。
世界で唯一いまだ冷戦構造が終結していない北東アジア。史上初の米朝首脳会談は北東アジアにおける「冷戦の終結」という現代史の大きな流れの中に位置付けられている。
米朝首脳会談は、首脳同士が、互いに信頼できる相手かどうかを確認し、次に繋げるという階段にとどまったのではないか、と考える。北朝鮮が、 2017年十一月に、「核戦力の完成」を宣言し、米国に対する交渉カードを手にした段階で、対話路線に転換するのはわかっていた。韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領はまんまと利用されたということだ。
日本は拉致問題という個別の問題を抱えている。北朝鮮に拘束された3人の米国人は解放されたが、日本の拉致問題とは状況が全く違う。アメリカ本土には届かないが、日本には射程距離内の北朝鮮保有の短・中距離ミサイルの問題もある。日本との和解がないまま防衛力を簡単に放棄することはできないというのが北朝鮮の立場だろう。
日本は原則を変えたり、あわてたりする必要はないが、取り組むべきことはたくさんある。非核化というゴールがぶれないように米国に働きかけることも必要だ。
結局のところ、そのうえで拉致問題というのは、日本と北朝鮮との問題であるのだから、日本独自で戦略を練って対話を重ねるしかない。
共同声明の道理は、北朝鮮側の主張である「朝鮮半島の平和体制を構築することで、非核化が導き出せる」という構造になっている。「非核化を実現すれば、平和が訪れる」という米国の従来の主張とはずいぶんと異なる。「朝鮮戦争の終結宣言」を盛り込まなかったが、米国側が最終段階で思いとどまりポンペイオ国務長官が、今後、北朝鮮と交渉するということで継続事になった。これまでも北朝鮮は、核施設を爆破したりミサイルのエンジン実験場の廃棄を約束したりしているが、一方的に行っているだけのことで、交渉の成果が実を結んだということではない。最大の問題はCVIDのVの部位にあたる「検証」というプロセスである。
最終的に目指すのは、北朝鮮が独立した核保有国であり、核保有を宣言してはいないが「事実上の核保有国」とみられているイスラエルのような「イスラエル方式」を狙っている可能性がある。北朝鮮が一番嫌っているのが「リビア方式」である。リビアでは、大量破壊兵器の放棄をして一度は国際社会に迎えられたカダフィ大佐が、アラブの春後、悲惨な最期を遂げた。
トランプ大統領(当時)は「本当に成果があった」と、米朝首脳会談に満足していると言っているが、トランプ大統領(当時)の思考は「それが米国にとってどれだけ得になるか」ということだけだ。
非核化を進めてくれればトランプ氏の功績にもなり、大統領選へのキャンペーンにも使えるから、米朝首脳会談を2回でも3回でも何度でも行うだろう。
敵対関係が解消されるに合わせ、その分だけ、非核化するということだから北朝鮮は、いけるところまでそれでいこうと考えているのではないか。北朝鮮が非核化を進めていくとしても、核廃棄にしても、「核による自衛」を目指している以上、最後には小規模の核が残る。
これは彼ら自身に廃棄してもらうしかない。経済改革が成功し、さらに南北が長期にわたって安定的に共存していける体制になったならば、核廃棄も考えられるとしても、少数の核が残る可能性はぬぐえない。
北朝鮮に対する抑止力をすぐに取り払うと、むしろ不安が増すことになるから徐々に平和体制の構築へと米国はかじを切っていくことになるだろう。
また、米国で政権が変われば政策も変化するのではないか? という不安を北朝鮮は持っている。トランプ政権の間でできるだけ話しを進めていこうと熱心に取り組むかもしれない。
日本の最優先課題は「拉致問題」だが、北朝鮮にとっては「国交正常化」「戦後賠償」という主張である。日本が交渉のために優先順位を再考するぐらいの覚悟が必要ではないか。
当時と比べて、日本には巨額の資金を出す余裕がなくなった。また、中国や韓国・ロシアの存在感が北朝鮮にとってずいぶんと大きくなっており、日本からの支援がなければ先が見込めないという状態ではない。
米中のバランスの中で、経済的に中国との関係を新しく設定し、そこに北朝鮮も関与させるという仕組みの中で、日本の戦略は、北・韓国経済の活路を見いだし、日本の経済発展を遂げ、南北対応もすすめていこうという戦略・考え方があると思う。米朝会談開催という例しかなかった気もする。よかった悪かったということは別として、今になってみれば、これは歴史の流れだったのかもしれない。
*「キーワード」** *CVID「完全(Complete)かつ検証可能(Verifinable)で不可逆的(Irreversible)な非核化(Denuclearization)」
*米朝枠組み合意……1994年十月に米朝間で合意された核開発凍結と引き替えに、北朝鮮に軽水炉2基と、年間50万トンの重油を提供する合意である。北朝鮮はNPT(核拡散禁止条約)にも加盟した。が、その合意が破棄されたことで事実上崩壊した。
*「リビア方式」……核廃棄を制裁解除に先行させる方式。リビアのカダフィ政権は、2000年十二月、米英の圧力を受け、核兵器を含む大量破壊兵器開発計画の一括廃棄を表明。国際原子力機関(IAEA)の査察を受け入れた。しかし、「アラブの春」ごろ、リビアが内戦となり、カダフィ大佐が反体制勢力に暗殺されて終わった。
*「日朝平壌宣言」…… 2002年9月12日、北朝鮮に訪問した小泉純一郎首相と金正日総書記が署名した文書。「日本による植民地支配に対するおわび」や「国交正常化後の経済協力」「拉致問題の解決」などを合意した。その結果、拉致被害者5人が日本に帰国したことがあったが、その後、低迷した。
「非核化の具体的なプロセス」が米朝首脳会談の共同声明に盛り込まれなかったことで、「北朝鮮外交の勝利」という見方があるがさてどうか。小手先の外交術を駆使し、時間稼ぎをしたところで国際的孤立から抜け出せるわけではない。危機はいずれ再熱する。北朝鮮の謀略など結局のところ最後には「負けてしまう」のだ。
共同声明には、米国が北朝鮮の安全の保証を約束すると盛り込まれ、トランプ氏は記者会見で「対話継続中は米韓合同軍事演習を中断する」と明言し、北朝鮮側に有利な条件が整った。
「朝鮮半島の完全な非核化への確固」と共同声明ではしている「偽のない約束をする」にとどまり 、4月27日の南北首脳会談で発表された板門店宣言から進展はなかった。韓国の元統一相はこういう。「北朝鮮は何も損をしていない。共同声明は彼らに満点の内容だ。」
2007年南北首脳会談の時、文氏は会談推進委員長を務めた。鉄道との連結や黄海の平和水域設定など南北が発展する壮大なロードマップを描いた。が、米朝関係の悪化を契機にとん挫。今度は大統領として南北と米中の間を取り持とうとしているが、すべからく失敗に終わっている。文在寅大統領は、金大中氏のように「だまされ続ける」ことだろう。現在南北朝鮮の両輪はうまく回っている。ただし、金正恩が約束をちゃんと守ったとしてのことだ。また裏切りや謀略があれば、今度こそ「アメリカのしっぺ返し」があるだろう。
北朝鮮では、北朝鮮の大学生が「アメリカへの警戒感」を緩めてはいない。が、本音では、「金王朝独裁国家・北朝鮮の崩壊」を望んでいるだろう。北朝鮮の独裁体制が崩壊し、「民主主義経済・民主主義国家」へと北朝鮮がなることを望んでいるに違いない。しかし、本当のことを言えば、反体制的なことを行動すれば、暗殺される、死刑になる、だけなので金正恩を支持しているにすぎない。
「シンゾー(安倍晋三首相・当時)に言われたことは全部、金正恩朝鮮労働党委員長にいってきた。対話は断らないと思うぞ」トランプ大統領(当時)はシンガポールでの米朝首脳会談を終えた後、大統領専用機エアフォース・ワンから電話を、安倍首相にかけた。トランプ氏は「対話にオープンだった」と説明した。但し、「拉致問題」は日朝間の問題であり、日本と北朝鮮が対話をするしかない。
独自で拉致問題を、日本人として解決するしかない。
小泉政権時代、北朝鮮は安全を確保するためには「保険」を日本に求めた。いま北朝鮮が「保険」をかける相手は米国だ。日本が相手にしてもらえるのかというと状況は厳しい。拉致・核・ミサイルを一括解決したうえで国交正常化するという方針に資するなら、十分柔軟性は持つべきだ。日本側にも「柔軟な対応が必要」との意見がでるようになっている。すべて戦略次第なのだ。
非核化・財政支援法立案者のルーガー米上院議員は、トランプ大統領(当時)に 25分ほどあった。「我々が、冷戦終結後の旧ソ連諸国で取り組んだ「大量破壊兵器の管理・廃棄支援計画(CTR)」について説明した。CTRは体系的で包括的な取り組みであった。旧ソ連の核兵器やミサイル、生物・化学兵器、原子力潜水艦、戦略爆撃機などの解体を手掛けた。北朝鮮が保有する核兵器の正確な数は、だれにもわからないが、多くの専門家は 60から80発程度とみている。だが、旧ソ連の保有数は1万発以上だった。兵器を解体する手法、作業に従事する人の確保、資金の手当てはもちろんのこと、大量破壊兵器の開発や研究に携わった科学者や技術者の雇用確保も課題だった。彼らが国外に流出すれば技術が拡散し、世界がより危険になるからだ。
米国がその存在すら知らなかったロシア東部の町に、大量のミサイルや化学兵器が保管されていた例もあった。北朝鮮でも、同様のことがあるに違いない。世界は北朝鮮のどこに何があるのかそのすべてを知っているわけではないからだ。
日朝会談の前にも、中国・韓国・米国と事前によく相談することだ。日本は関係国の中で最も立場が弱い。拉致問題を含め、どんな問題でも、一国だけで実施して実を得ることは困難である。
米韓合同演習が中止になった。日本は安全保証への影響を懸念したが、米朝協議の行方は不透明なままだ。金正恩は、またも訪中し、習近平国家主席と会談を重ねた。戦略を練っているものとみられる。
米朝首脳会談を終えた首脳同士が最も大事だったことは、会談が開かれて、両首脳が悪態をつかずに終わったことだろう。もしかしたら、両首脳が非核化について口約束をしたのかもしれない。が、個人的には懐疑的だ。北朝鮮が核兵器を廃棄するなら、それは、米国と非対称の立場に置かれることを意味するからだ。北朝鮮が核兵器を廃棄するとき、これは後戻りできないとの説だ。一方で、トランプ米大統領は自分の好きな時に決定を覆すことができる。どうすれば口約束だけで終わらず、信頼を醸成し、課題に取り組むことができるのか想像もできない。大切なのは首脳間の信頼ではなく、課題に取り組む「政府間のメカニズム」を作り上げることだ。アメリカ・北朝鮮はいいとしても、これからロシアが積極的にこの問題に介入していくことはありえない。ロシアとして見れば米国と地域でも争いたくないし、ましてや北朝鮮をめぐってはまっさらだ。ロシアは平和裏に問題が解決することを望んでいるだけである。
今回の首脳会談でのトランプ米大統領の発言から読み取れることは、政治的意味合いの大きさだ。北朝鮮の非核化に関する過去の失敗について、すべて民主党政権のせいにした。経緯をよく知る人たちから見れば、これは間違いなく言い過ぎであろう。しかし、それを言い切っているのだから逆に言えば、政権が変わった時には、様々の約束が再検証されることがあり得ると暗示している。今回の会談は「力の外交」ということが見え隠れした。米国は、「制裁の効果によって北朝鮮に非核化を受け入れさせた」とみる。一方で北朝鮮から見れば「核とミサイルを保有したから米国が対話に乗ってきた」ということになるだろう。どちらから見ても「力の外交の勝利」との位置付けだ。非核化は順調にいっても、短期間でできるものではない。10年から15年かかるといわれている。もちろん50年ということでは困るが、時間がかかるのが確実だ。「完全な核放棄」にたどり着く前に、北朝鮮を国際社会に徐々に受け入れさせていくプロセスが想定される。このために必要な時間をどの程度、我々が許容できるかは、北朝鮮の体制なり外交姿勢なりが、同時並行的にどの程度変化してゆくのかによるだろう。
単純に比較はできないが、イランの核開発への米国の反発の強さは米国やイスラエルから見て「イランの外交姿勢が納得いくものではない」ためだ。北の核そのものが 8~9割にせよ、1割は北朝鮮がどういう外交姿勢を持っているかにかかっている。北朝鮮の姿勢が、我々にとって好ましいものへと変化するよう働きかけていく必要がある。
将来的な経済協力については、朝鮮半島北部の開発は、歴史的に中国東北地方・ロシアの極東地方、そうして日本の日本海側と密接に結び付いてきた。それを拒んできた「冷戦構造」。これが解けていけば、北との協力も環日本海の地域開発の一環とみなすことができるようになる。そうした発想の一大転換がもっとも必要だ」(ルーガー上院議員談話)
トランプ米大統領は、2018年6月23日に放送された TBNテレビのインタビューで、「12日の米朝首脳会談によって北朝鮮の核ミサイルの脅威が緩和された」ことを強調したうえで「日本では、私は、世界的な英雄だと思われている」と主張した。「アジアの人たちはよくわかっている。彼らは感激している」と指摘した。
また南北朝鮮の両首脳は協議し、国境をまたぐ列車の連結について合意した。米朝首脳会談の費用は 13億2000万円かかった。が、シンガポール政府が全額負担した。使途とは明らかになっていないが、予定では16億円かかる算段だった。ポンペイオ米国務長官は「北の非核化に期限を設けない」と発言。また北朝鮮の高官は「日本は首を突っ込むな」と、スイスの軍縮会議で述べている。
毎日新聞は 23日、24日両日に、全国世論調査を実施した。それによると、日朝首脳会談による日本人拉致問題の解決に「期待できる」は16パーセントにとどまり、「期待できない」が66%に上った。
米朝首脳会談は共同声明には2005年に確認した「北朝鮮核問題」をめぐる六ヶ国協議の 「9.19声明」の水準に全く達していない。「9.19声明」には、検証可能な非核化を目標に、北朝鮮が「すべての核兵器と既存の核計画を放棄し、国際原子力機関(IAEA)の保障措置への早期復帰」が明記されていた。
が、「完全かつ検証可能で不可逆的な非核化(CVID)」の中身を明示するのに、今回は、失敗した。非核化の懸念が、米朝で食い違っているなら、安全保障や平和協定・制裁解除に至るロードマップ(工程表)作成は相当に難しいだろう。
トランプ氏の致命的な失敗は、「米韓合同軍事演習の中止」と「将来的な在韓米軍撤退」という最後の交渉カードを見せてしまったことだ。演習が挑発的でカネがかかるからだと、しかも、米韓同盟の存在意義を否定し、台無しにした。
米朝の今の交渉のやり方を見ていると、米国に届く大陸間弾道ミサイル(ICBM)の脅威さえ解決すれば、トランプ氏は日本や韓国の懸念が残っていても、妥協する可能性がある。CVIDの看板を下ろさないが、恒久平和と同じように究極的な課題として掲げるだけにし、短・中距離ミサイル開発は韓国と日本、それぞれが北朝鮮と交渉するしかないだろう。
枠組み(六ヶ国協議の)を再び使う必要はない。 IAEAと米国を中心とした核保有大国が協力し話し合いを進めるべきだ。中東・アフリカ諸国との関係が北朝鮮は深い。北朝鮮指導部は長年、米国の宿敵だったイラクとリビアは核を放棄したために体制が崩壊したと信じてきた。即座に改めるとは思えない。金正恩朝鮮労働党委員長の任期は決まっていないが、トランプ米大統領には任期がある。
北朝鮮はトランプ政権後まで視野に入れ、交渉をのらりくらりと続けることも考えられる。政権の座にトランプ氏があるかぎり、実はどのような国際合意も意味をなさない。この現実をもっとも痛感しているのがイランだろう。
イランは米朝首脳会談後、すぐに北朝鮮に「トランプ氏を信用するな」と警告し、金委員長も頭に入れているはずだ。北朝鮮の脅威が低下した場合、仮に、トランプ氏は「残る脅威はイランだ」と考えるかもしれない。だがイランは中東の地域大国であり、経済規模など多くの点で北朝鮮とは全く異なる。米国の思い通りにはならない。
一方で、トランプ氏が北朝鮮同様にイランとの電撃的和解に踏み出すことはないだろう。イランの宿敵であるイスラエルやサウジが反対するからだ。だが、金委員長が対米関係改善に本気ならば、アサド氏を受け入れない可能性がある。その意味でアサド氏訪朝の可否は北朝鮮の「本気度」を測る羅針盤にもなるだろう。
金正恩は軍高官をまた処刑した。核開発をおわらせ不要になったからだという。韓国の趙明均(チョ・ミョンギョン)統一相は、北朝鮮との経済協力の象徴であったが操業が停止されていた「開城(ケソン)工業団地」の再開に意欲を示した。
「米朝首脳会談の声明に非核化が盛り込まれている。だが、中身が乏しい。いかにも抽象的だ。韓国との間で署名した 1992年発効の「朝鮮半島の非核化に関する共同宣言」で 使い古されたフレーズだ。金正恩朝鮮労働党委員長がトランプ米大統領を手玉にとったすると、会談はもっとも嘆かわしいものになる。米大統領との会談は北朝鮮が米国と同列に扱われてるということを意味し、究極の目標だった。米韓軍事演習の中止も引き出した。制裁が事実上、解除される状況も勝ち取った。北朝鮮への実質的な制裁は国境を接する中国の関与なしでは成り立たない。中国はもう制裁を支持しないだろう。米韓軍事演習の中止も中国では大きな利益だ。
米国側は金委員長を過小評価していたように思う。金委員長は有能だと聞いている。戦略的に物事を考え、話しはポイントを付いており、情報を仕入れて事前によく学んでるという。
多くを学び、経験を積むことに能力を発揮している。有能な側近を抱え、助言にも耳を傾けている。側近が金委員長の耳もとでささやく姿は、父の時代には見たことがない。側近の李容浩(リ・ヨンホ)外相は元駐英大使で、欧米がどのような手を打つかを読むことができる頭の切れる人物だ。
トランプ氏は北朝鮮に最初から大きな成果を与えてしまった。首脳会談・軍事演習中止も、切り札となる交渉カードであったが、すでに切ってしまい、長期化する可能性のある交渉では手持ちのカードが少ない。
今後のカギは、北朝鮮が完全な核関連施設のリストを提出するかどうかだ。過去の交渉では、不完全なリストを提出し、それが問題となり決裂している。米国側は、人工衛星で監視しているが、山や洞窟もありすべてを把握できない。北朝鮮の今後の出方を見ない限りは、判断は難しい。完全な非核化に希望を持っているが、状況は深刻さを増している」(専門家談)
米朝首脳会談からだいぶ時間が過ぎた。だが、非核化の入り口すら遠いっていう状態だ。遺骨返還協議も北朝鮮が欠席し、全く進んでいない。また、アメリカの雑誌は 2003年から平壌郊外にウラン施設があり、それが稼働しているという情報を流した。つまり、「米朝首脳会談の成果はまるでなかった」ってことだ。
もし、北朝鮮の金王朝が崩壊するなら、韓国・ロシア・中国も虎視眈々とその機会を狙っている。韓国はすぐの「南北朝鮮統一」を望んではいない。統一すれば韓国の財政負担が大きいからだ。一人当たりのGDPが 1千ドルくらいで国と(北朝鮮)、2万ドル近い国(韓国)では、差がありすぎる。この差がある程度縮まるのであれば「植民地」のような「安い労働力」で活用し、韓国が自国の力をつけてからの「統一」となるだろう。
中国も北朝鮮より人件費が高くなってきた。北が倒れたら「安い労働力」を活用したいというのが中国の本音だ。もちろん中国として、アメリカとの間に「緩衝地帯」をおくことも忘れてはならない。ロシアも「極東ロシアの開発」で人手が足りないから、「北の安い労働力」を利用するであろう。隣国はすでに、「北朝鮮の崩壊」を絶好の好機と狙っており、邪魔なのは金王朝だけである。金王朝が崩壊しても、北の国民には職もあり、恐怖から解放されて安心して過ごせる。その後、北朝鮮の生活レベルが上がって、「統一ドイツ」のように「統一」するということがあればそれはいいことだ。そのとき誰かが、「統一ドイツ」時のコール首相のような立場で、動かなくてはならない。それは誰かわからないが、歴史的な活動として、そのような立場をとる人間がいなければならない。
(『毎日新聞記事』参照『大前研一ニュースの視点』参照)
第二回の米朝首脳会談は2019年2月27日28日ベトナムのハノイで開かれた。今度は二回目なので「ただ会うだけ」という訳にもいかなかった。「具体的な成果」こそ欲しかった。
何故ベトナムだったのか? まず北朝鮮にとってベトナムは、金正恩のおじいさんの金日成時代からの友好国であり、またアメリカにとっても「ベトナム戦争」のかつての相手である。
ベトナム戦争後、ベトナムはドイモイにより経済成長を遂げて、経済発展の国となった。
その経済成長に「アメリカの経済協力」が裏であった。
「北朝鮮の将来像こそベトナムである」アメリカの思惑はそこであった。
北朝鮮の金正恩も「軍事より経済成長」という。その視点から軍縮担当官も交代させた。頭の固い軍人から外交官に代えた。「核施設などの査察・廃棄」「非核化の工程表」「ICBMの廃棄」「全核・長距離ミサイル廃棄」「完全なる非核化」(簡単なものから難易度の高い順序)
一方のアメリカの交渉カードは、「連絡事務所設置」「人道支援」「(朝鮮戦争の)終戦宣言」「南北の経済協力」「制裁緩和」「体制の保障」。結果は、非核化での合意に至らず、今後も協議に期待……ということだった。また、トランプさんは「(合意に至らずなのに)交渉の進展はあった。首脳会談が開かれたことこそが成果だ」と強調した。
まあ、米国が安易な譲歩をせずよかった。非核化は、やはり、難しい。交渉はイタチごっこの有様だ。決裂は駄目。
まあ、韓国は「がんばれ、北朝鮮」だろうが、日本は「協力・譲歩に警戒」という。
アメリカのとっては米国に届くICBM核ミサイルを封じればいいだけだが、日本にとっては日本に届く中距離ミサイル「ノドン」が数百発あり、拉致問題もある。問題山積なのだ。
だが、北朝鮮の金正恩にいえるのは「ベトナムを目指せ」ということ。
北朝鮮は米国を挑発するように米国国務長官(外相)を否定し、戦略的兵器実験をした。
あまり、アメリカを、トランプ大統領(当時)を舐めないほうが身のためだ。
アメリカが本気になれば金正恩の首などいくらでも取れる。惨めな暗殺でおわるより、「目指せ、ベトナム」と核放棄・武力放棄を決断することだ。
『第三回の米朝首脳会談』はトランプ大統領(当時)のツィート(呟き)から始まった。
2019年6月30日の前日、日本の大坂でのG20サミット(G20大坂サミット)出席後の米国トランプ大統領(当時)は、次の日に、朝鮮半島の36度線・板門店(パンムンジョム)に行った。韓国の文在寅(ムンジェイン)大統領の案内とともに、トランプ大統領(当時)は板門店に足を踏み入れる。北朝鮮側では金正恩(キムジョンウン)委員長が出迎え、戦後、米国大統領として初めて、北朝鮮の地に踏み込んだ。
金正恩委員長とトランプ大統領(当時)は板門店で握手、『第三回の米朝首脳会談』に臨んだ。
しかし、これで朝鮮半島の非核化や、拉致問題の解決、北朝鮮の制裁解除……そんなものが実現する訳もない。結局、第二回の会談が〝物別れ〝だったので、選挙対策としてトランプ氏が〝政治的アドバルーン〝を派手に打ち上げたに過ぎない。
首脳会談とは、双方の交渉官僚などが何度も話し合い、交渉し、首脳は最期に双方の合意点を確認、署名するということだ。トランプ氏と金正恩氏がただ会ったからとて何がかわるだろうか? 所詮は、政治的なパフォーマンスに過ぎない。
選挙で大統領二期目を決めたいトランプ大統領(当時)と、制裁解除してほしい金正恩氏……
こんなふたりが合意できることなどある訳がない。所詮は政治ショーだ。
ノーベル平和賞狙い、でしかない。選挙対策、でしかない。
こんなことで騒ぐマスコミも馬鹿にされている。低レベル。低次元の政治ショーだ。
日米韓の軍事情報包括協定のGSOMIAの破棄は、今は、凍結されている。韓国側は日本のホワイト国認定の無効で、GSOMIAを破棄しようとした。が、怒ったアメリカ側に忖度した形である。韓国の経済は低迷し、日本と韓国の失業率は同じくらいなのに、韓国人の若者の失業率が群を抜いて高い。文在寅政権の最低賃金引き上げがやり過ぎたせいだ。
反日デモや日本製品不買運動や、徴用工や慰安婦のデモも続いている。だが、韓国では韓国の〝反日教育のペテン〟を扱った学者たちの本『反日種族主義』が大ベストセラーだという。
だが、それでも、「日本人は過去の過ちを認めて、韓国に謝罪し、賠償金を払え!」という無知が韓国人に多い。まだまだ、勉強不足、ということだ。
金正恩委員長(朝鮮中央通信・報)が核・大陸間弾道ミサイル(ICBM)実験の一時停止を撤回したことがわかりました。
金正恩委員長は党中央委員会総会で、「公約に我々が一方的に縛られている根拠がなくなった」と述べ、「世界は遠からず朝鮮民主主義人民共和国が保有することになる新たな戦略兵器を目撃するだろう」と語った。何度も「正面突破」という単語を連呼し、威勢のよい強気の姿勢を示し続けた。「今後は自分たちだけが制裁を受けるのを受け入れない」と。
しかし、ソレイマニ司令官(イラン)が米国のドローン攻撃であっさりと殺害されてしまい、今はすでに雲隠れ状況になっています。
韓国の新聞でも、金正恩委員長が「よほど衝撃を受けたのだろう」と報じました。
米国は、各国の要人がどこにいるかを、つぶさにチェックしていることが伺える。つまり、(金正恩委員長を暗殺する)「斬首作戦」も余裕で実行できるのだ、ということでしょう。近い距離からドローンを飛ばして、ターゲットを狙う場合には、かなりの精度で本人を確認することができるようです。
北朝鮮の体制の保証を主張してきた金正恩委員長に対して、米国のボルトン前大統領補佐官は、「斬首作戦もあり得る」と述べてきました。その言葉の意味と重みを、金正恩委員長は痛感していることでしょう。
米国を怒らせたら、死、がまっている、ということをです。米国は世界中のネット回線などから情報を得ています。盗聴も盗撮も情報取得も、今回のイラン司令官のような〝暗殺〟も可能なほどの〝情報網〟です。
「アメリカを舐めてかかると殺される」金正恩委員長は隠れ家で、ブルブル震えているでしょう。アメリカ側のメッセージを、正面から受け取ったからこその恐怖なんだと思いますね。
一部の権限を、妹の金与正(キム・ヨジョン)に移行したのも、その恐怖の一環です。
ここで、世界を影で操っている『彼ら(世界一部の為政者・権力者やCIAやMI6やモサド中国や北朝鮮の情報部などの諜報機関)』の意見を載せよう。
但し、彼らにもプライバシーがあり、生活も、守秘義務もある。ある国際ジャーナリストみたいな「CIAやモサドの俺の友人がこう言っている」みたいなことは真似出来ないが(笑)、 文章もかえてニュアンスだけで伝えればこういうことだ。「今はコンピュータのインターネットやSNSやらで情報は溢れて、誰でも世界の情報が得られるかのように思う。
果たしてそうだろうか?
確かに情報が得られるがそれはフェイクニュースだったり、我々が意図して流した〝情報〝だ。スノーデンで有名になったように、我々は、特殊なシステムで、〝世界の情報〝を得ている。そうして、その〝情報〝によって世界を影で操っているのだ」
「でも、例えば『JFKの暗殺』とか『スノーデン事件』とかそれこそ『ロッキード事件』や『カルロス・ゴーン事件』でも、〝すべての情報〝のようなものがネットでも簡単に〝その情報〝が検索すれば出るが……?」
「それらの〝情報〝も、我々が意図して流したものだ。ほんとうの〝情報〝はあんなものじゃない。本当の〝情報〝は簡単には集められない。だからこそ、本当は〝情報〝は〝カネ〝になるんだ」
世界は謀略や陰謀で満ちている。すべては情報次第。今こそ情報、そうして自分の頭で考えて、決断するのが、時代の趨勢でもある。
現在、北朝鮮が弾道ミサイル(宇宙空間まで飛び、そこから地上の標的に落ちる)や巡航ミサイル(無人の爆弾を積んだ飛行機みたいなもの。低空飛行)などを多数撃ち込んでいる。これは、まあ「アメリカと交渉したい」ということだ。北朝鮮はラブコールを恫喝でやる国だから。経済制裁を解除して欲しい、と。
だが、弾道ミサイルはアメリカに届いても、巡航ミサイルの射程は1500kmくらい。
日本や韓国には届くが、アメリカにしたら米国に届かないので「関係ない」。
また、韓国や北朝鮮が「朝鮮戦争終戦」を結ぼうとしているが、これは北朝鮮の思う壺。
朝鮮戦争が休戦状態でも続いているから〝在韓米軍〟が韓国に駐留している。
戦争が終わったら、もう在韓米軍は必要なくなる。ということは、在韓米軍も、日本に配置するという〝他人事〟ではなくなる話しだ。
巡航ミサイルにしても、宇宙空間に届かない短距離ミサイルにしても、日本にとってはミサイルディフェンス(MD)の問題もある。弾道が短かければMDの効果がない。
また、アメリカのバイデン政権の支持率も下がってきている。米国民は『米軍のアフガン撤退』には賛成していたが、〝撤退〟がバタバタして、〝逃げた〟ようになり(2021年)、結局、アフガニスタンでは武装勢力のタリバンが政権を奪取した。
これでは、二十年間のオペレーションが、無意味になった。完全な負けである。
中東のアフガンへの介入は、無駄骨におわったのだ。
それも含めて、それも時代の趨勢と人々は言うだろう。
それこそ決断であり、英断であるべきだ。
今だ、決断をしぶる金正恩よ、決断の時はまさに今だ。
『反日種族主義』『日本人が知っておくべき 嘘つき韓国の正体』『日本人が知っておくべき 『慰安婦』の真実』SAPIO編集部(小学館)
ここでは、『反日種族主義』『日本人が知っておくべき 嘘つき韓国の正体』『日本人が知っておくべき 『慰安婦』の真実』などから、要点をかいつまんで紹介したい。
だが、勘違いして欲しくないのは、これは『反韓主義』でも『嫌韓主義』でもないし、ヘイトスピーチでもない。ネットに大勢いるような偏見の誹謗中傷のいじめ記事では断じてない。そんな連中と一緒にしないでください。慰安婦、竹島、ウリジナル、パクリ産業……すべての妄言をここに暴く。されど、いじめでは決してない。
二〇十三年五月、降ってわいたような慰安婦問題の業火は、国内のみならす世界世論に、「日本はけしからん」という痛恨の炎を広めてしまった。
まずその火は、当時の橋下徹・日本維新の会共同代表(大阪市長、当時)だった。
橋下氏は、当初、これほど問題が大きくなると考えていなかったようである。記者会見で唐突に(本人には文脈があったのだろうが、そもそも大阪市政にも維新の政策公約にも全く関係のない話しである)、「慰安婦は必要だった」、「当時の欧米の軍隊でも同じような制度はった」と発言し、余計なことに「米軍にももっと日本の風俗を活用するように云いました」等とか、軽口を伝えたことで、火の手は一気にあがった。
その後も、かつての欧米軍の公娼制度を列挙したり、「風俗業がだめだというのは、風俗嬢に対する差別になる」と、マスコミかみついたり、全く無残な和訳英語抗議文をだらだらと、ネットに上げ、あーだこーだ、と、ステートメント発表したことで、もはや、世界的な批判の業火の炎上は消火不能に当時、なった。
政治家の発言は、内容が正しければよいというものではない。為政者が持つ権力とは、有権者が持つ意見を、代理で行使しているに過ぎない。その言動には常に、有権者の代表としての節度を持つべきだし、結果として、有権者に不利益や不当な非難(この場合は「日本人はセックスにだらしがなく、女性を性の対象と見る不届きな民族だ」という評価)をもたらしたのならば、その責任を負うべきなのである。
当時、橋下氏自身は、「僕の弱点は英語ができないこと」と語っていた。が、英会話以前に、自分の言動がどのような結果をもたらすのかを予見する想像力と、主張を相手に受け入れさせる総合的な説明力が決定的に不足していた事が、致命傷になった。
橋下氏はもう民間人の弁護士だが、当分、この問題では口をつぐみ続けるべきだろう。
『日本が知っておくべき 竹島尖閣の真相』(小学館)に詳しいが、最も、もともと自分たちの領土であるものを、日本が軍国主義によって強奪し、その後、日本の敗戦によって取り戻した……というのが韓国の理屈である。
そこに橋下氏の当時の慰安婦発言は、もっけの幸いであった。
「なんと、日本は今ごろになって、世界が非難する慰安婦問題の存在すら否定しようとしている」。とんでもない時代錯誤と、歴史ねつ造だ、というわけである。
揚げ足取りであるが、この手の主張は国際世論的には通りがよい。就任し、訪米した韓国の朴槿恵大統領(当時)は、ここぞとばかりに、米議会での講演で、「昨日してきたことを正しく認められない国や民族に未来はない」と皮肉たっぷりに日本をこきおろした。
第二に、アメリカを中心に、国際社会が中韓のプロパガンダに、一定程度、理解を示したことを直視しなければならない。
アメリカ政府は、さすがに尖閣や竹島の問題で中韓にくみすることはなかった。が、慰安婦問題については、橋下氏の発言を、国務省報道官が厳しく指摘し、米国軍の風俗利用について、軍が正式に「とんでもない言動」と当時、切って捨てた。
アメリカ政府の反応やアメリカの報道で、ヨーロッパ各国からも、日本を攻める声が上がったことは痛恨の極みである。これまでも、世界は、日本の慰安婦問題を完全に誤解してきた。そのうえ、とんでもない政治家がとんでもない暴言を吐いたという歴史的事実が積み重ねられてしまったために、慰安婦問題の解決はさらに難しくなったといわざるを得ない。やはり、橋下氏の当時の罪は重い。
とかく「アメリカは、同盟国アメリカ人は「友達」」と強調するが、日本の保守派と親しくかかわってきたそれらアメリカの勢力は、旧日本軍が「戦争」を仕掛けて敗れた相手そのものである。彼らにとって、現在の日本が「戦前の大日本帝国」と全く別の国であることは間違いない。が、こと、話しが戦時中の出来事に及べば、「敵国」である日本の主張を、今は同盟国だからといって、簡単に受け入れる土壌はないと考えた方がよい。
アメリカ人の多くは、過去、特に保守派は、「昔の日本人は真珠湾を奇襲した卑怯な連中」と考えている。「日本軍は、強奪、虐殺、強姦を繰り返した非人道的軍隊だった」というのが一般的な認識なのである。中韓も、「戦勝国」として、そのように国民を教育してきた歴史を持つ。過去、それと同時に、「敗戦国」である日本に対しても、旧日本軍を「極悪非道な「野蛮な集団」」と教え込む戦後教育を徹底し行ったのだ。
多少、うがった見方をすれば、彼らが、対日戦争に置いて、現代の常識からすれば圧倒的に、許されない非人道的作戦を容赦なく取ったことも関係しているのかもしれない。
広島と長崎への原爆投下では瞬時に30万人もの民間人の命を奪い、その他、沖縄戦では 20万人、東京大空襲では10万人が犠牲になった。いずれのケースも、標的になったのは非戦闘員であることは当たり前として、子ども、女性、老人、病人らに対する配慮されない無差別攻撃だった。ちなみに、それ以外のあまたの空爆でも、米軍捕虜が収容された施設はモ標的から外す戦術がとられていたことを比較すれば、米軍は日本の子供や女性を狙いうちにしたと糾弾されても仕方がない。もし、米軍が戦争に負けていればそうなっただろう。
彼ら、じゃなく、我々も、たいてい日本はもっとひどいことをしていたという論理に取り憑きやすいのだ。
事実、彼らにとって、世界で唯一の核兵器使用国という十字架は、非常に重い。その為に、その悲惨さを極力、国民に考えさせないように情報操作をしてきた。
で、アメリカ政府は自ら使った兵器の非情さを隠す一方で、日本は酷い国だったから、核によって多くの国と人民が救われた、というレトリックを徹底的に国民に植え付けた。
今でも、多くのアメリカ人はいまだにそう信じている。そのレトリックを補強するためには、旧日本軍が強奪、虐殺、強姦を繰り返した、というストーリーはまことに都合がよい。
中国韓国が、いつまでも日本を加害者にたとえることも、ある面では、自分たちの贖罪のために心地よいことなのである。
あまりインテリジェンスの高くないアメリカ人や、社内的に恵まれずに排外的思想もつアメリカ人や、田舎から出ずに一生をおわる内向きのアメリカ人たちの中に、残念ながら、軽蔑と差別が生き続けている(さすがに、日本人の前でそういう態度を取る者はまずいないが)。
在日米軍で不祥事が絶えないのは、「風俗利用」などとんでもないと怒る一方で、兵士は日本女性にセクシャルハラスメントや性犯罪を繰り返していること。そして、世界に類を見ない「地位協定」や「思いやり予算」によって、米軍に治外法権や遊興費や高速道路の金まで、日本人の税金で払ってやるという厚遇(こう書くことをどういう言葉で済むのかを禁じえない)も、その目には「戦勝国」と「敗戦国」という、動かしがたい歴史的な両国の国民的感情があるからである。
慰安婦や慰安所や公娼制度もっていた。それがなかった旧ソ連などは、行く先々で強姦事件を起こした。建前上、慰安場を作らなかったアメリカ軍の場合、占領日本でも、あのノルマンディー上陸作戦で多大の犠牲を払って奪還したフランス領土でも、次々と、女性を強姦して憎悪を受けた。
しかし、現代においては、先進国でそうした行動は決して許されない。
橋下氏は、米軍の怒りを買ったことに対して当時、「キリスト教的にそういうことは駄目なのでしょうけど」という言い方をした。が、それは訳知り顔の誰かから教えられた耳学問の間違いだ。キリスト教が理由なら、宗教的にもっと厳格だった昔の戦時下のほうが、規律は尊重されていたはずだが、現実は逆だ。今の先進国で、性のモラルが高まっているのは、多人種が共に働く、「ダイバーシティー社会」が、女性を性の対象と見る男性は「野蛮人」のらく印を押されるようになったからである。
おそらく、それと無関係ではなく、日本が性風俗に対して寛容なことも、諸外国から奇妙にみられている。売春は、世界最古の女性の職業といわれるように、犯罪であって違法であっても、世界中どこにでも存在する。もちろん、アメリカにもヨーロッパにも売春婦は今でもいる。しかし、日本のように、それが公然と商売になるようとして認められていたり、普通に繁華街や住宅地のすぐ近くで、店舗を構えて、営業していたりする光景はまずない。
「ああ、でも、俺は、欧米を旅行して売春しているキャバレーやダンスバーに行ったぞ」
というひとは、それがいつだったかをよく思い出しもらいたい。「ダイバーシティー社会」はここ、20~30年で、急速に進んだ。それと並行して、性風俗産業は一気に排除されていったのである。例えば、ニューヨークではほんの10年ほど前は、観光客ににぎわうタイムズスクエアの周辺には、確かに、いかがわしいキャバレーなどが軒を連ねていた。しかし、最近、彼の地を訪れた人ならわかるはずで、今はそうした店は一軒もない。
当然、立派な会社に勤めるビジネスマンが、性風俗に通うとか、売春行為(日本では「風俗で遊ぶ」という)などということはありえない。欧米では、日本の風俗店のような店も、ほとんどなくなった。アメリカでは、「ピアノバー」とか「ホステスバー」などとよばれて大都市にまだ存在するが。たいてい、客の多くは現地在住の日本人ビジネスマンである。
そういう環境の中で、当時、橋下氏が「風俗は使うべき」などと言えば、「性にだらしない民族性の象徴」と、みられることは当然だった。何でも外国に合わせるのがよいことではないが、世界の常識と非常識を、一概に、ビジネスマンでも政治家でも、世界と渡り合う日本人として知っておく必要があるのではないか。
『反日種族主義(トライバリズム)』は10万部のベストセラーだそうだ。が、一方で、著者たちは韓国国内でツバを吐きかけられたり、命も狙われたりしたという。本当のことでも、「反日教育はおかしい」といえば暴力の対象になる。これでは北朝鮮と何が違うのか?
『嘘をつく国民』として、「韓国の嘘つき文化は国際的に広く知れ渡っている。2014年だけで韓国の偽証罪は日本の四百三十倍になる」「韓国の歴史学や社会学は嘘の温床。韓国の大学は『嘘の製造工場』」
慰安婦問題が広く知られるようになって20年以上が過ぎた。残念なことに、勉強不足から慰安婦問題については、「韓国側の主張が正しい」と思っている日本人も少なくない。
その熱を、歴史を説明する。
2009年ごろから、慰安婦問題がまた騒がしくなった。これで4度目だった。
最初に問題が浮上した1991年から、私は慰安婦という歴史的事実はあったが、慰安婦問題はないと言ってきた。それは、 1965年の日韓請求権協定交渉があったためだ。
捏造1 吉田清治の体験本
捏造2 朝日新聞の大誤報
捏造3 外務省の詭弁と河野談話
韓国政府が、「とにかく強制連行を認めてくれ。そうすれば、これ以上、外交問題にしない」と、水面下で求めてきたことに迎合して、外務官僚と河野洋平官房長官(当時)が国を売ったのだ。外務官僚らは、「本人たちは慰安婦になりたくなかったのだから、強制連行あった」という詭弁を弄して、政府としてのドクトリンを表明した。河野談話を、93年八月に出した。
対日論争は、この談話に力を得た国内の抗日学者らが、中学校歴史6カ所に慰安婦の強制連行を描いた頃から始まった。大きな論争となった。
捏造4 日本人弁護士のロビー活動
捏造5 国連人権委員会特別報告書
日本統治下、韓国の土地の四十パーセントを日本が収奪したという作り話。なら、日本敗戦後、返還運動が各地でおこったハズだが、それはなかった。
独島(竹島)は歴史的に日本の領土。日本が領土に組み込むとき、朝鮮は異議をとなえなかった。反日の象徴になっているため、譲歩できない。
従軍慰安婦の問題が韓国でクローズアップされるようになったのは90年一月からである。
反政府系の『ハンギョレ新聞』に、尹貞玉(ユン・ジョンオク)梨花女子大教授(当時)の「『挺身隊』怨念の足跡取材記」という記事が連載されたことがきっかけとなった。
その後、慰安婦を主人公にした韓国ドラマがテレビ放送され、人気を博して、一般の関心がより高まった。
一方、日本では、五月の盧泰愚大統領(当時)訪日の際、要請された「朝鮮人労働」の戦時動員の調査が進められていた。六月の参議院予算委員会で、社会党の議員が、「強制連行された人々の中には従軍慰安婦もいたのではないか」と、政府に質問した。その際、答弁に立った労働省局長の不用意な発言が、事態を悪化させる機会となったのである。
局長は当時、「慰安婦とかについては、古い人の話しを総合してみると、民間業者がそういう人を連れて、ある時点をその関係については事情を明らかにすることができかねる」と答えた。
こうした日本政府の答弁に対し、先の韓国の女性団体などから激しい抗議の声が上がり、韓国の反体制系女性団体党が結束し、日本政府に交換書簡送り付けた。
日本政府の答弁は、「事実関係の確認ができない」という返答だったため、韓国側の反発をさらにあおる結果となってしまった。
日韓マスコミが混同する、挺身隊と従軍慰安婦。
悲しいことではあるが、戦前の日本には公娼制度があって、売春は公認され、管理されていた。全国各地に「女郎屋」と称された売春宿があり、それが軍部専属となったのが、従軍慰安婦である。ところが、韓国ではマスコミや政府の一部までもがそれを混同し、国家総動員法に基づく女子挺身勤労令によって、慰安婦が強制されたと主張している。
後日、最悪の記事を書いた韓国人記者に対し、私が「人種差別ではないのか」と追窮するこの問題は「闇が」ある。彼女らが、朝鮮人の民間業者によって慰安所に連れていかれたことが、取材を重ねて分かってきた。自分はもう、この問題で争う事はやめたと語った。
実は、この挺身隊と従軍慰安婦の混同は、日本のマスコミからの盗用なのである。
慰安婦は、日本軍によって強制的に連行されたとの主張を前面に掲げ、 1997年3月31日の紙面で大キャンペーンを打った朝日新聞。はたして、この朝日の主張は、客観的な歴史の事実に基づくものなのか? はたまた日本おとしめるための手段にすぎないのか。
朝日を中心とした従軍慰安婦報道は、簡単に、「戦前の日本が韓国人に一般女性を強制的に「性奴隷」にするという罪を犯した」、と告白して告発しているわけだ。
そこで、私が「被告「日本国」」の弁護士になろう。弁護士の姿勢は、「被告は無罪」すなわち「強制連行による従軍慰安婦は存在しなかった」である。
私が、日本のこの点に関しては、「無罪」と主張する最大の根拠は、藤岡信勝氏らがすでに指摘しているように、韓国が戦後、この慰安婦強制連行について、少しも問題にしてこなかった点にある。韓国が問題にし始めたのは、 90年代に日本のマスコミが取り上げて以降のことなのである。
補足しておこう。韓国には、いま強い反日感情がある。その国民が、もし自分の国の女性が強制連行され、性奴隷にされていたという事実があったなら、戦後50年近く黙っているわけがないではないか。本人が恥ずかしくても、訴えられなくても、日本軍が公然とやっていたことなら、その両親や、兄弟や、恋人や、同胞が黙っているはずがないだろう。必ず、「日本はわが国の女性への謝罪と賠償金を!」と抗議し、問題にするはずである。
これだけでも「被告「日本」」は十分無罪だ。
昔、こういう冗談があった。日本軍に打撃を与えるためには、何を盗めばいいのか?
答えはハンコである。今一番忘れられていることは、日本軍、過去の陸軍は巨大なお役所であった、という事実だ。何事も責任者のハンコがなければ動かないのだ。
ところが、韓国人はこの問題について頬かむりをしていた。そして、ごまかしきれなくなり、次のように書いた。
「まもなく、この証言を証明するようにとの声が上がった。しかし、証言を裏付ける「証拠」は出ておらず、真相は確認できない」朝日新聞97年3月31日付朝刊
「真相が確認できないならば、それは偽情報であることが確認できたのである」。
あまりにも量が膨大なので、詳しくは図書館などで読んでいただくのが一番いい。
まず指摘したいのは、「「強制連行」がなくても、「強制性」があれば同じことだ」、と問題をすり替えている点だ。
そうではない。大問題になったのはあくまで、「強制連行」による「性の奴隷」だったからである。
「強制連行の立証」は不可能だと見るや、「強制性があれば同じことだ」というのがもっとも卑劣なやり方である。
では、名乗り出た従軍慰安婦たちの証言はどうなるのか?
これも裁判ならば、私は、「被害者証言をうのみにはしない」だろう。本当かどうか? 検証するだろう。それについては秦邦彦氏が、「慰安婦身の上話し」を徹底検証する(諸君09年12月号)で述べているから、読んでいただきたい。結論を言えば、朝鮮半島においては日本の軍関係による慰安婦の強制連行はなかったと断言してもよいと思うのである。
なお、慰安婦問題を主張する派閥には 3つがある。
1 必要悪派 戦争や公娼制度などを知る元・兵士や老人など男女の老齢世代が中心であるが。戦争平時でもそうでしたが、戦場で兵士たちがレイプから相手国の良家の女性を守るために、軍幹部が、遊郭(今だとソープランド)の戦場版である慰安所を開設。高収入に魅力をひかれた業者と売春婦が集まった。兵士たちは、彼女らの収入の十分の一の給料で、命をかけて戦い、多くは戦死したり餓死したり、苦労しましたが、慰安婦にしてもらった感謝の気持ちを忘れていません。敗戦で彼女らの稼いだ紙幣が紙くずになってしまった事をかわいそうに思っています。
2 フェミニズム派 いわゆるウーマンリブにかかわっている中年女性が主体ですが、女性の中にも、異国の女性問題であるがゆえに共感し、参加する人が少なくありません。一部の男性も変わっています。
3 反体制派 この派は、政府や体制を困らせる為なら何でも利用する立場ですから、政府声明に正面切って賛成しにくい。
慰安婦問題は絶好の攻め道具です。以前は国内だけしか通用したかったのですが、アジア諸国の軍事政権が次々に倒れて民主化が進み、反体制組織が生まれて、外国政府に対して政府を突き上げるのが可能となりました。
さて、わが国で慰安婦問題が噴出したのは 1992年の初頭のことです。
スリランカのクマワスラミ女史(当時)が、「具体的証拠は見つかっていないが、この談話を読むと日本政府は強制連行の事実を認めた」と解釈して、謝罪と補償と該当者の処罰を勧告する報告書を、国連人権委員会に指定したのは 96年二月です。
600万人のユダヤ人大虐殺・ホロコーストを同様に、事後法立法で処罰というのは、人権無視で、この暴論に、法律専門家の日弁連会長は賛同し、少なからぬマスコミの社説やカトリックの日本の政治勢力までもがもろてをあげて賛成していたので当時、私も驚きました。
日本政府は、国家補償はしないなら海外に『アジア女性基金』という民間組織を作り、国民から集まる寄付を、名乗り出た慰安婦たちに配る構想を立てました。
設立から1年後の96年八月、元・慰安婦の3人が 200万円を固辞した(その2倍の価値があった)のですが、日本韓国対話などの資産支援団体は「筋の通らない金を受け取るな」と、「あくまで国家補償で」というキャンペーンを続けています。
「お金をもらうな」と圧力をかける支援団体も不思議な存在ですが、彼らの憎悪は、途中で抜けて、基金へくら替えした人たちに向けられました。
例えば、インドネシアでは日本軍による慰安婦被害者が2万2千人、名乗り上げているそうですから、かけてみると100兆円を優に超えます。
国際常識に照らして、払うべきものを払わなければなりません。が、我々も慰安婦の大嘘や、反体制派の諫言や魂胆に乗らないように、真実に目を見開くべきでしょう。
強制徴用は虚偽であり、神話。証拠につかわれている『旭川新聞』に掲載された写真は実は日本人。朝鮮人の賃金は日本人の半分、も嘘。平均的日本人と同等だった(日韓の研究結果)。
慰安婦も強制ではなかった。その後、韓国軍慰安婦、米軍慰安婦として存続し、むしろ朝鮮戦争のときは植民地時代の十倍になった。すべては吉田清治の本(1983年)以降の大嘘。
日本が土地(農地や独島)、食糧(米)、労働力(強制連行・徴用工)、女性(慰安婦)を収奪、も大嘘。
日帝時代の朝鮮の一人当たりの生産性比率は2.3%(高度経済成長と評価)。日帝時代の29年間で、朝鮮人の身長も2.2センチのびた。
朝鮮王朝最後の二世紀(十八~十九世紀)は借金大増、身長も縮み、死亡率も高くなっていて、地獄の時代(飢餓も蔓延)。反日種族主義者は、映画『鬼郷』の殺人、少女略奪、レイプ、強制連行(日本軍人による)を大嘘だと認めたというのだ。
慰安婦とは風俗業の女性だった、とも。すべて認めた(研究では)。
(『慰安婦』)彼女らを連れていった業主者は、慰安婦の就業理由書、戸主の就業同意書、戸籍調本、印鑑証明書、警察署長の旅行許可書などを備えており、合法だった。
(慰安婦=風俗業女性)
「日本の官憲が女性を拉致・連行したわけではないが、慰安婦は行動の自由が奪われた性奴隷であり、日本軍の戦争犯罪被害者である」も大嘘の大間違い。公娼制が軍隊内で再現されたに過ぎないとわかった。(『慰安婦研究』より)(『韓国人による研究』により)
「韓国人は嘘ばかりつくので、もう付き合わなくていいのではないか?」
その主張については、もう少し待ってください。韓国を嫌っても何も出てこない。
まずは冷静になろう。
だが、例えば領土問題。中国が尖閣諸島の領有権を主張する最大の根拠は、明の時代の海図に同諸島が記載されていることだ。この海図の解釈や日本の古い文献などから比較すれば中国の主張は通らない。が、少なくとも明代の海図は存在する。
が、韓国の主張は「韓国の海図に独島(竹島)が存在する」というが、まったくの捏造だということ。独島(竹島)とされる島は、なんとまったくの別の島(鬱陵島)を記した海図だった。慰安婦も「日本軍により強制連行された」のではなく、実際は「軍の依頼を受けた業者が売春婦として募集した女性たち」だった。「20万人の少女たちが性奴隷になった」も大嘘。日本人以外の女性で、慰安婦(風俗嬢)は最大でも1万5000人程度。
空手、剣道、生け花、折り紙など日本古来の文化や武道を、「教えたのは韓国」と主張する。中国にも韓国人は、「漢字を発明したのは韓国人」「漢方医学はもともと〝韓方医学〟だった」と主張し、激怒させた。また、「サッカーは韓国が発祥だ」と主張して、国際社会の顰蹙を買った。
「法隆寺の金堂壁画は朝鮮人の作(大嘘)」、「孔子は韓国人」……もうギャグの域だ。
韓国の経済も質が悪い。「日本から学ぶものはもう何もない!」といきがるが、部品一つつくれない。テレビのドラマも番組もアニメ番組も、パクリまくり。
「ライダイハン問題(ベトナム戦争時の韓国軍人のべトコン女性強姦による混血児・認知せず、存在自体認めていない。ベトナム語で「ライ」は混血、「ダイハン」は大韓。最大3万人)」にはすべて目を伏せて、日本統治時代に〝未開地・朝鮮〟を近代化し、発展させた〝日本の恩恵〟はすべて否定する。
1965年の日韓請求権協定での5億ドル(1860億円・現在の価値7700億円)の賠償金や国家としての謝罪もすべて「なかったこと」にし、ひたすら「謝罪しろ!」「賠償金を払え!」と主張するだけ。「5億ドルの説明」をすると、今度は「え? でも……金を払えばいいってことじゃないし」と嘯く。
戦争殺害から従軍慰安婦問題まで、中国で土下座した「戦争の語り部」同胞の大嘘をあばこう。
――南京大虐殺を実際に見たわけではない
すでに80代後半から90代、100歳代とする前の戦争の元兵士は、中国で「戦争の語り部」となった。ほとんどの元・兵士は亡くなった。その当時の、「おわび行脚」のような「戦争の語り部」の嘘は、我々の未来に禍根を残していった。
――あなたが中国に行った時の報道はすごいですね。
「ああ、まあ30人ほどに取り込まれて追いかけられたよ」
――盧溝橋事件では、日本が悪かったとあなたが言ったと報じられています。
「1937年でしょう。私は新聞社に勤めていましたが 中国側がまず発砲した、という報道には疑問を持っていた」
――南京大虐殺があったと発言されていますが、実際に城内でみたのですか?
「当時、実際に見たわけではなく、知らなかった。これまで4回、ピースボートの水先案内人(講師)で南京に行ったとき、大虐殺があったと聞いただけだ」
――銃剣で中国人を刺して、川(長江)に落とした、という話しもされてようですが、それは長江のですか?
「そんなこともあったな」
元・兵士(当時・故人)とのやりとりは禅問答のようなもので、都合の悪い質問ははぐらかす。
親族からも「祖父には虚言壁があります」なる言葉が返ってきた。
彼の発言をつぶさに検証しても、到底、真実には近づけない。矛盾だらけなのだ。
「台湾人の通訳はいたが」
元・兵士(故人)もこういう。
――中国語を勉強されたのですか?
「いやいや、何もしていない。中国はまったく。これから少し勉強しようかなと思ってるけれども。本を読んでいたが事実だ」
ならなぜ、中国人の慰安婦少女たちと身の上話しができたのか甚だ疑問だ。
会場では、壇上から張りのある声で、もう故人となった元兵士が語っていた。
「(中国人を)ぐさっと銃剣で一突き、真赤な血が、両手にべっとりついた」
クライマックスになると、一段と抑揚をつけたダミ声で、「戦場で、死ぬ前、決して父ちゃんとは言わない。みんな、母ちゃん、といって死んでいくのです」
女性の中には、ハンカチで目頭を押さえすすり泣く人もいた。二千回の講演は、当時、一人の講談師を作ったようだったという。
またぞろ従軍慰安婦問題が恒例のように息を吹き返した。アメリカ議会は、この点について謝罪を求める決議案をその当時、安倍晋三総理(当時)訪問後に採択したという。
だが、安倍総理(当時)が、「今年は米下院で決議が通っても、謝罪することはない」と言い放った。
もっとも、朝日新聞の広報が公の談話を引き出してのことである。
アメリカの意見としては、「シンゾー・アベは拉致問題に熱心だが、従軍慰安婦問題には無関心だ」という指摘があった。
だが、拉致被害者と従軍慰安婦問題の共通問題の一致点などはない。それこそ信用問題である。北朝鮮による日本人拉致は全く違法で、極めて悪質な犯罪行為である。被害者への人さらいの人権問題であって、無論、従軍慰安婦問題とは何の関係もない。
結局、どちらも人さらいの強制連行、拉致・性奴隷というはなしではないか、ということだがそんなことはだ絶対にない。
戦後の報道では、日本統治時代の朝鮮半島は、「軍隊が極悪非道で警察も機能していない暗黒時代そのもの」のように批判されてきた。が、実態は違う。
当時の朝日新聞の朝鮮版を読むと、朝鮮の町の治安だけではなく、国際列車の中まで監督がいきとどいてきたことがわかる。朝日新聞朝鮮版を閲覧して気づくのは、戦時下ゆえに軍事関係の当局発表の記事が散見されていること。内容は、国内の新聞と大差ない点だ。
むしろ、今に比べて凶悪事件の報道は少ない印象すらある。若い女性への声掛けすら犯罪で認識される治安の良さであった。
また、中学生の喧嘩でさえ報道された。それだけ治安が良かったといことだ。
従軍慰安婦問題では、朝鮮半島の女性たちを強制連行し、「性奴隷」にした犯人が、日本軍であると断じられていた。各方面での幾万もの努力によって、ようやくこれが、「何の根拠もないこと」が証明された。が、それでもまだ、日本人の間接犯罪を主張する者がいる。
様子見に、日本軍は慰安婦の徴用について、朝鮮人民間業者にアウトソーシングしたのだから、その罪にはいささかも変わらないと。
果してそんなものがあるのだろうか?
朝鮮併合ということは、朝鮮人を「日本人」として扱うことだ。つまり同じ日本人、ということである。形式的な同じ国民としての権利は保障されている、ことになる。普通選挙が実施されれば、原則的には日本国民として、選挙権も被選挙権も持つことになるのです。
だったからこそ戦前に朝鮮人の国会議員がいたのです。
付け加えると、朝鮮人議員は朝鮮名のままで、日本天皇の名前を名乗らず国会議員になっている。日本名の強制がよくいわれるが、強制ではなかったという証拠です。
さて、国民にまでしている人たちの娘に銃剣を突き付け、連行し、売春を強要するなんてことが普通に考えるのでしょうか。形式的とはいえ同じ日本国民なのです。軍という国家機関が絡んでいる可能性は低いと言わざるをえません。
慰安婦の多くが、好んで慰安婦になったとは思いません。甘言によるものがほとんどで、自ら選んでの場合でさえ、背景には貧困があります。豊かな日本のいわゆる風俗嬢の場合でもそうなのです。まして大国間の利害にほんろうされた当時の朝鮮なら猶更でしょう。
(ここで、小林よしのり氏と女性団体との討論の抜粋を)
花房 まず慰安婦設置ですが、業者が作ったのではなく、軍が作った
小林 そうでしょうね。
花房 次に慰安婦集めは民間業者だけがやったのか。警察主導で、という資料もある。
小林 警察主導の元で? そんなこと書いてないでしょう。
花札 まあその部分、書かれていませんが
小林 じゃ、わしはこちらから資料を見せるけど、これをあなた方の味方の中央大学教授の吉見義明さんが紹介している連合国側が直接慰安婦に尋問した資料です。「が、慰安婦たちは通常、個室がある二階建ての大規模家屋に住んでたびたび物品を購入する。お金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きは良かった。彼女たちは、将校と一緒にスポーツ交流をして、楽しく過ごし、ピクニック、演芸会、夕食会、に出席した」とあります。慰安婦はこう答えているわけです。
松岡 18歳の時に連れて来れば、「着物もいっぱいある。腹いっぱい食べさせる」と騙して、どこに連れて行ってやれ、と誘われた、人生を最悪にされた」という証言がある
田原 誘ったのは業者ですか?
花房 これは民間人です。
小林 やっぱり業者でしょう。
花房 先を聞いてください。そして、風呂もない粗末なわら小屋に入れられ、軟禁状態に置かれた。拒否すれば暴行受けるので、兵隊の欲求を拒絶できなかったのです。
小林 だが、慰安婦が悲惨な目にあったという証言を信じるには、裏付ける証拠が必要でしょう。それなら又、連合国側の証拠を持ち出すけど、慰安婦に対する結婚の申し込みの事例はたくさんあり、実際に「結婚」したとか、慰安婦は借金を返済し終って、特定の慰安婦には帰国を認める旨の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰えることを許されたと書いてありましたよ。
木村 その慰安婦はどこの国のお方ですか。
小林 10人の朝鮮人や二人のいい日本の民間人から得た情報となっています。
木村 なんで国や軍に慰安所があるんですか。
小林 いると言わざる得ない。今の感覚で考えたらだめですよ。例えば、当時ソ連は共産主義国で公娼制度は認められていなかったのですよね。だから、ソ連兵の侵攻によって、ベルリンの住人の女性の50%が強姦された。そこで、日本軍でも兵隊が現地で強姦するのを防ごうと考えたわけです。だから、ドイツと日本は慰安所をつくった。当時の日本の倫理観では、公娼制度があり、女性を買うという行為はすごく健全だったんですよ。
木村 健全ではないでしょう。
田原 健全かどうかという話しは抽象的だけれども、少なくとも合法だった。
小林 戦時下ということを考えれば、軍が現地を支配してきた国が村の女性を強姦していたら、みんな命懸けで反抗してくれでしょ。
秋月 あなたは、戦時下は犯罪者は処罰されたといったじゃないですか。なのになぜどんどん強姦できるのですか。
小林 あなた本当におかしいよ。たとえば、アメリカでは一秒に一回、強姦が起きてるけど、見つからなければ処罰できないでしょ。
木村 レイプというのは女性の被害の問題ですよ。
小林 公娼制度はレイプですか?
木村 そうでしょう? 望まない性交渉ですから。
田原 それを言い出したら始まらない。昭和33年まで公娼制度はあったんですから。
木村 いいたいのは慰安婦が公娼制度ですらなかったということです。公娼制度では、廃業の地位をも認めていた。公娼制度では女性ははたらくときには警察で手続きが必要だった。
踏まえると、慰安婦慰安所は軍が公娼制度に関して作った行いになりませんか。
小林 慰安所は公娼制度という価値観があり、しかも合理的だから、それに準じて作っちゃったんでしょうね。
秋月 合理的にやるなら公娼制度並みの規則を作ってやればいいのに
小林 戦時というのは非常時なんだから、戦線がどこに拡大していくかもわからない状態でいちいちそのたびに法律まで考えてやれないともいますよ。そもそも私がすごく不思議に思うのは、一体あなた方は、なぜそこまでして自分たちの祖父の世代を、犯罪人に、強姦魔に追い込もうと考えるのですか?
花房 そこは全然違う。わたしのおじいさんたちは、アメリカ兵には1年に一回ぐらいをリクリエーションとか、夜中に抜け出して呑むような余裕がなかった。そういう無謀な戦争を進めていた軍の上層部の責任、政府のありようを問題にしているんです。
田原 花房さん、今の話をきき、疑問があるんだけど。アメリカ、みたいに待遇が良ければ戦争してもよかったんですか?
花房 戦争のことでなくて、慰安所をつくらなければ強姦は防げない状態にありますから。何故、戦争を続けなければいけなかったのかということをいってるんです
小林 戦争をやらなきゃいけないように、日本国民全員で貶めたんじゃないですか。
秋月 じゃないでしょ。
Qそもそも従軍慰安婦という言葉は、戦時中には使われておらず、この言葉を世の中に広めたのは朝日新聞である。ここでは慰安婦とは何かについて説明する。
戦時の兵士による強姦や略奪が起きてるのが常で、旧日本軍はその防止のために外地の駐屯地に慰安所を設置した。そこで売春に従事した婦女子を慰安婦と呼んだ。
Q強制連行貼ったのか?
元慰安婦として最初に名乗り上げた金学順さんは、養父から入所をされた女性であり、これを強行と報じた朝日新聞の記事は歪曲されたものだったことが判明している。
Q狭い意味での強制と公儀での強制の違いとは?
慰安婦の中には、貧しいの村から連れ去られた不幸な女性が多数含まれていたのは事実であり、一部には民間業者による詐欺や誘拐で連れてこられた人もいたはずである。
だが、日本軍が慰安婦狩りを指示した命令書のような客観的な証拠は、何一つ存在していない。
唯一、旧日本軍に連行されたオランダ人女性がいるが、彼女を慰安所に連行した将校や軍属11名は、日本軍の方針に反する犯罪により、戦後の軍事法廷で死刑などを極めて重い処罰を受けている。この重罰は、旧日本軍は強制連行の慰安婦制度を行っていなかったことの証拠ともいえる。
Q慰安婦たちの証言は嘘?
メディアの前で泣き叫びながら自らの不幸を訴える元慰安婦たちの証言は、どこまで信用できるのか。前日した金学順さんの場合、実際に慰安婦だったことは確かのようだが、証言に論理的矛盾があることは、従軍慰安婦問題を厳しく批判する吉見教授も認めている。
アメリカでも議員立法で慰安婦問題が取り上げられているが、とんでもないことである。
中国系ロビー団体の強力な働きかけにより、五人の米国人捕虜たちが、在米日本企業に対して、総額一兆ドル(約120兆円)の集団訴訟を起こしていた。が、これは原告の訴えを棄却された。サンフランシスコ講和条約で、決着済みということである。国際法上考えられない暴挙である。
アイリス・チャン(04年死去)の『レイプ・オブ・南京』や、抗日連合会は盛んに日本によるホロコーストとイメージを作り上げ、「日本=ナチス論」を仕掛け続けている。
しかしこれはプロパガンダ(大衆操作)でしかない。日本はあくまでも、歴史の真実に言いきかし依存した「ホワイトプロパガンダ」で反論ができる。最後の勝利は日本の手にある。
もう韓国人の反日は病気にちかい。日本をスケープゴートにして、攻撃することで、韓国国内の問題から目をそらさせる為だけの〝反日〟なのだ。
しかし、韓国人の大嘘を〝病気〟としても、恨んだり憎んだりしてもいけない。
それよりも、日韓はいまこそ対話モードになるべきだ。領土問題はオランダの国際政治裁判所ハーグで争えばいい。大嘘をつくからと、罵倒しあっても意味はない。
外交というものが少しでもわかっているなら、日本人は大人になるべきだし、韓国人にも大人になるように促すしかない。どちらが悪い、憎い、ではない。
国際外交は好き嫌いではなく、利害関係の一致を図ること。お互い、〝大人〟になろう!
<参考文献>
なお、この作品の参考文献は、NHKBS1スペシャル『〝韓国の母〝になった日本人~朝鮮王朝最後の皇太子妃・李方子』フジテレビドラマ『虹をかける王妃 李方子』、ウィキペディア、張赫宙(ちょうかくちょう)著作『李王朝悲史<秘苑の花>』、「李香蘭 私の半生」著者山口淑子+藤沢作弥・新潮社、「オードリー・ヘプバーン」ダイアナ・メイチック著作、藤井留美日本語訳・ベネッセ出版、『李王家の縁談』林真理子著作(文藝春秋)、落合信彦著作、藤子不二雄(A)著作、さいとう・たかを著作、司馬遼太郎著作、堺屋太一著作、童門冬二著作、映像資料「李香蘭映画」、「さよなら李香蘭」(フジテレビ)、映画「李香蘭」(主演・上戸彩)、あまたの李香蘭の著作本、「そのとき歴史が動いた」「歴史秘話ヒストリア」、「歴史秘話ヒストリア『満州国プリンセス浩と溥傑』」、藤子不二雄Ã著作『毛沢東』からです。参考文献の引用をどうかお許しください。毎日新聞朝刊、小学館SAPIO誌などです。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作、無断転載ではなく「引用」です。裁判とか勘弁してください。
朝鮮燃ゆ 李方子~朝鮮の母となった日本人~ 長尾景虎 @garyou999
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