視線の主

三鹿ショート

視線の主

 何時の頃からか、何者かの視線を感ずるようになった。

 人混みの中で感じたのならば、気のせいということも考えられるだろう。

 だが、自室で一人きりであるにも関わらず視線を感じていれば、話は異なってくる。

 私は、超常的な存在に監視されているのだろうか。

 それが確かならば、監視する相手を間違っている。

 私は世界に影響を及ぼすような能力を有しているわけでもなく、複雑な人間関係の渦中に存在しているわけでもないため、眺めていたとしても時間の無駄である。

 しかし、相手の理由など、知ることはできない。

 生活に介入してくることはないものの、常に見られているという状態は、好ましい状況とはいえない。

 他の人間に接触することがあるのかどうかは不明だが、余計なことを報告されては困るために、私は己の一挙手一投足に気を遣う羽目になってしまった。

 悪事に手を染めていたわけではないが、日常の些細な言動にも気を付けていたためか、

「何だか、人が変わったように見えますね」

 そのようなことを、恋人から告げられた。

 確かに、以前の私ならば、彼女に色目を使う人間たちに嫉妬を剥き出しにしていたが、今ではそのようなことをしないようにしている。

 事情を知らない人間にしてみれば、私が大人になったのだと捉えるのが当然だろう。

 だが、今でも私は、彼女が他の人間に奪われてしまわないか、不安だった。

 彼女は抜群の佳人であるというわけではないが、愛嬌の良さや豊満な肉体から、異性の目を惹きつけてやまないのである。

 彼女がそれを自覚していないことが事態を面倒にしているため、私の気が休まることはなかった。


***


 視線を感じていただけでも気が滅入っていたが、新たな問題が加わった。

 私を追いかける不気味な存在が、出現したのである。

 常に地面を這うようにして動くその姿は、何らかの事故に巻き込まれたのか、傷だらけだった。

 腕からは骨が飛び出し、頭部から血液が流れ、上半身と下半身を繋ぐ腸のようなものが見えていた。

 それは私が感じていた視線と同様で、他の人間が目にしているわけではないらしい。

 もしかすると、これまでの視線の主とその追手は、同一の存在なのではないか。

 意を決して事情を訊ねようとしたが、私が一歩近付くと追手は一歩離れ、私が一歩離れると追手は一歩進むという状況であるために、接触することは叶わなかった。

 一体、私は何時までこの追手に悩まされなければならないのだろうか。

 彼女との時間が無ければ、私は疾っくに精神に異常を来していただろう。


***


 私の幸福の時間が無くなってしまうのではないかと考え始めたのは、彼女の言動に変化が見られたためである。

 以前よりも露出度の高い衣服を身につけるようになり、私との外出の頻度も段々と減っていった。

 しかし、衣服の好みは変化するもので、多忙のために私との時間を過ごすことができないという可能性もあるだろう。

 かつての私ならば、そのような脳天気なことを考えていたに違いない。

 だが、今の私は、そうではない。

 そもそも、彼女の変化に気が付くことができたのは、視線が原因で己の言動に気を付けるようになったことが理由だった。

 細かい事物に目を配るようになったことで、他者の些細な変化にも気が付くことができるようになったのだ。

 ゆえに、私の彼女に対する疑いが消えることはなかった。

 むしろ、それが強まったのは、彼女が交際を開始した記念日を忘れていたということだった。

 私は彼女の不貞の瞬間を押さえるために、彼女を尾行するようになった。

 しかし、彼女が襤褸を出すようなことはなく、決定的な瞬間を目にすることは無かった。

 それでも、私が諦めることはなかった。


***


 ある日、私は向かいの歩道を行く彼女を目にした。

 その隣には、見知らぬ男性が存在している。

 互いに笑みを浮かべながら手を繋いでいる姿は、恋人そのものだった。

 これまで襤褸を出さなかった彼女が油断していたことも、無理は無い。

 私が友人の結婚式のために帰省すると告げていたことが理由だろう。

 これで宿泊施設に入っていけば、私に対する裏切りは確実となる。

 果たして、彼女と男性は、宿泊施設へと入っていった。

 私は声をかけるべく、駆け出そうとしたが、

「動いてはならない」

 突然、そのような声が聞こえてきたため、私は思わず動きを止めた。

 次の瞬間、私の眼前を自動車が猛然と横切っていき、やがて近くの電信柱に突っ込んだ。

 先ほどの声に従っていなければ、私は確実に巻き込まれていた。

 声の主に感謝するべく、振り返ると、そこには例の追手が存在していた。

 改めて近くで見たところ、人間の体内にはこれほどまでに長いものが収まっているのかと、感心してしまった。

 だが、問題はそこではない。

 奇妙なことに、追手の顔は、私と同じだった。

 他人のそら似なのだろうかと考えていると、追手は自動車に目を向けた後、自身を指差すと、

「私は、あの事故に巻き込まれてこの世を去った、未来のきみである」

 その言葉を即座に理解することなど、できるわけがない。

 困惑していると、追手は神妙な面持ちで、

「戸惑うことも無理は無い。同じことを言われれば、私も同じ反応をするだろう」

「私を助けるために、わざわざ未来から来たというのか」

 なんとか絞り出すことができた疑問を口にすると、追手は首肯を返した。

「裏切り者の恋人のために生命を奪われるなど、報われないにも程があると思ったのだ。ゆえに、私はこの時代に現われることにしたのだ」

 追手は軽く息を吐くと、

「しかし、この時代に身体が馴染むまで時間がかかってしまった。きみのことを見守ることはできたのだが、姿を見せることもできず、ようやく姿を見せることができたと思えば、声を出すことができず、事故の直後の姿のままであるために、元の姿に戻るまで我慢しようと思ったのだが、そのようなことを言っている場合ではなくなったのだ。危ないところで声が出るようになって良かったと、素直に思う」

 その言葉で、私は納得した。

 視線のみを感じていたことや、不気味な姿で現われたことは、そういう理由だったらしい。

 私が感謝の言葉を伝えると、未来の私は首を横に振った。

「気にすることはない。だが、これから先は、きみ自身の力で生きていかなければならないのだ。私には、事故で助かった未来など、訪れることがなかったのだから」

 そう告げると、未来の私の姿が段々と薄れていく。

 改めて感謝の言葉を述べると、未来の私は笑みを浮かべた。

 未来の私の姿が完全に見ることができなくなると、私はその場を去ることにした。

 裏切り者である彼女に対して思考を働かせることは、時間の無駄であるからだ。

 新たな未来に向けて、私は歩き出した。

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視線の主 三鹿ショート @mijikashort

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