第3話 アナフィラキシーショック
玲子との別れは、思ったよりもスムーズだった。玲子は完全に健太を冷めた目でしか見なくなっていた。そのことを分かっていることで、玲子の方も、別れを切り出しやすいのだろうと思ったからだ。
そこに持ってきて、やっと携帯の着信音を変えた。
「さようなら、ありがとう」
冷めた口調は、氷のように冷たいオンナを演出していた。
――これを待っていたはずなのに――
その思いは、健太の中に若干の後悔を残した。
しかし、それは未練ではない。別れはスッキリとしていたはずだ。だが、どこか、今までに感じたことのある孤独と違った意味での孤独が健太を襲った。ただ、今までで一番軽い部類の孤独であった。
――孤独という言葉を使うまでもないほどの寂しさ――
そう言えたのかも知れないが、孤独は孤独だった。
一人になったことに対して感じる想い、それは孤独以外の何物でもない。
――早紀がいると思っているのに――
それとこれとは違うようだ。
すぐに孤独はなくなったが、その感覚はじわじわと心の中で燻っていた。なかなか消えてくれないものだという意識が残っていた。
――これが失恋というものか――
今までにない失恋への憂い、自分から別れに持って行こうとした報いもあるからだろうか。それを罰だというのであれば、甘んじて受け入れなければいけないと思うのだったが、すぐに消えてくれないことの厄介さが、辛さに変わることを恐れていた。
健太は不覚にも、その時すでに、早紀に彼氏がいたことを知らなかった。どうやら二人は入院中に仲が深まったということだったが、何とその相手が、健太にとって、親友の坂本小五郎だったのだ。
坂本がケガをして入院していたのは知っていた。病院に見舞いに行ったこともあったが、その時は、玲子も一緒だった。しかし、その時すでに玲子との仲はギクシャクしていて、いよいよ「別れ」という言葉が真剣みを帯びてきた頃だったので、健太にとって、まわりのことはどうしてもおろそかになってしまっていた。
坂本は、その病院に早紀が入院していることを知っていた。坂本は早紀に対して、
「親友の妹」
という以上の感情を抱いていたのだが、健太にはそのことを分かっていなかった。
坂本が健太を合コンに誘ったのも、健太の目を妹から離すという、邪な気持ちがあったのも事実だ。
しかし、まさか健太自身も妹に対して、妹以上の感情を抱いているなど想像もしていなかったので、ただ、目を背けるだけでよかった。うまい具合に玲子と付き合うようになってくれたおかげで、早紀に近づくことができるようになったと思った矢先、早紀が交通事故で入院してしまったことを知らされた。
それでも、何とか、
「お兄さんの親友」
という立場を使って、親密になれるのではないかと思っていたが、自分も入院してしまった。
幸か不幸か同じ病院に入院できたことを、坂本はどのように考えただろう?
最初、ケガをした時、
――やっぱり、諦めた方がいいのかな?
と思うようになった。
ただ、親友の健太は自分のことを二の次にして、玲子との関係を育むようになっているのを見て、自分が与えてはいけない相手におもちゃを与えてしまったような感覚に陥っていることに気づいた。
――このままだったら、俺はピエロじゃないか――
それだけは嫌だった。
ここまでくれば、健太に対しての嫉妬や恨み、それは早紀に対しての気持ちを超えるものがあった。
もし、早紀に近づくことがあるとすれば、それは健太に対しての恨みからであって、早紀への思いは二の次である。そんな自分の浅ましさに、一度早紀への気持ちを打ち消そうとした。
それは、同じ恨みを晴らすとしても、早紀をその手段には使いたくないという思いである。
――人を好きになるというのは、そんな気持ちからではないはずだ――
と思い、早紀を諦めようとしたところへ、ちょうど診察に向かおうとした坂本と、表の散歩から帰ってきた早紀とはすれ違ったのだ。
早紀は車いすの痛々しい姿だった。後ろを担当看護婦に押されて、病院の庭を散歩していた。
これはリハビリを兼ねた精神的な休息で、毎日三回は散歩するようにしていたのだ。
医者が立てた療養計画の中に入っていたのだが、一日三回の散歩は、早紀の楽しみの一つだったのだ。
「最近は、お兄さんもなかなか来てくれなくなりましたね」
と、看護婦は心配していたが、まだまだ、玲子との修復を考えていた時期だったので、仕方のないことではあった。
しかし、早紀が寂しく思っていた事実であり、ちょうどそんな時、健太が以前、
「彼は親友の坂本君」
と言って紹介してくれた人が目の前にいたので、嬉しくなったのも当然だった。
「坂本さん? 坂本さんですよね?」
坂本は、早紀に気づいていたが、自分の気配をなるべく消して通りすがろうと思っていたところへ唐突に声を掛けられ、ドキッとしてしまった。
「あ、ええ、坂本ですが」
「私、梶谷健太の妹の早紀です。一度、兄と一緒に家に遊びに来られた時、ご紹介いただきました」
あの時は、健太の家の豪邸に驚いて、何もかもが素晴らしく見えた時だった。その時から坂本は一目惚れしたのだが、半分は、豪邸に見とれた気分で見た彼女だったので、見誤ったかも知れないと思っていた。しかし、その後、彼女は覚えていないようだが、街で健太と一緒の時に一度会っていた。その時に坂本は最初の一目惚れにウソはなかったことを再認識したのだ。
その時、坂本は声を掛けることをしなかった。声を掛けていればよかったと思ったが後の祭りだった。その時に声を掛けることができなかったことで、それ以降、街で見かけても、声を掛ける勇気はなかった。
――そんな相手に限って、街でよく見かけるんだよな――
坂本という男は、相手が男性であれば、自分を目立つようにしようと思い、意見をハッキリと言ったりするのだが、相手が女性だと、なかなかそうもいかない。声を掛ける勇気が持てないのは、子供の頃の記憶が邪魔していたからで、子供の頃に受けたトラウマが今も引っかかっていたのだ。
あれは、小学生の頃だっただろうか。一人で虫を取りに近所の森の中に入った時のことだった。森といっても、それほど大きな森ではなく、神社の裏にある小規模な森で、いつもは友達と出かけることが多かったが、一人で出かけることもあった。
そこで一人の女の子が中学生くらいの男性に森の奥に連れて行かれていた。その様子が異様だったことは子供の坂本にも分かっていて、その子がこれからどうなってしまうのか、興味があったのだ。
二人はまさか坂本がつけてきているなど、想像もしていなかっただろう。今から思えば男の方は、これからの行動に興奮状態になっていて、まったくまわりのことを気にしていなかったわけではないだろうが、それ以上に興奮状態は尋常ではなかっただろう。
そういう意味では女の子の方がむしろまわりを気にしていたのかも知れないが、そんな感情を与えないほど強引に、男は女の子を蹂躙していた。
女の子を大きな木に押さえつけて、今でいう「壁ドン」のような状態から、女の子を動けないようにして、恥辱の限りを尽くしていた。
――子供のくせにそこまで――
と思うほどの辱めを与えていたのだろうが、坂本は女の子のパンツが膝のあたりまで下ろされたのを見たところで、
――これ以上、見るに堪えない――
と思い、その場を後にした。
しかし、気になって仕方がなかったのは、女の子を可哀そうだと感じたからなのか、それとも、その後どうなったのか見てみたいという最低の好奇心なのか、分からなかったが、そのまま帰ってしまうことがどうしてもできずに、元の場所に戻った。
そこには女の子一人が取り残されていて、パンツを下ろされたままの姿で、放り出されていたのを見つけた。
本当は、こっそりと覗くつもりだったのだが、その様子があまりにも酷い状態だったので、自分の姿を消すことを忘れてしまっていた。さすがに女の子も気づいたようで、
「見ないで」
と、大声で叫ばれた。
坂本は、その声に過敏に反応し、
「ごめんなさい」
と言って、走ってその場を立ち去った。
――とんでもないものを見てしまった――
その思いは、自分が見たいと思ったことから生じたことであり、いまさらどうしようもないことだった。
だが、頭の中では後悔とは違う意味で、原因が何だったのかを究明しようと動いていた。
――異様な雰囲気を感じたのは、ここまでとは思わなかったが、自分にも敏感に感じる何かがあったということなのか? もし、そうであるなら、それを確かめたくて仕方がないと思ったのは、好奇心からに違いないが、好奇心を抑えることは本当にできなかったのだろうか?
いろいろな思いが頭を巡ったが、結局はトラウマとして残ってしまったのは、
――相手が知られたくないと思うことを、どれほど自分が見極めることができるかということだ――
ということが解決しないと、女の子を意識してはいけないという思いだった。
早紀のことを気にするようになるまで、気になる女の子がいなかったわけではない。しかし、それは中学時代や高校時代で、お互いに成長期ということもあって、特に女性は、男性を必要以上に意識してしまって、まるであの時の、
「見ないで」
と言っていた女の子の感情に似たものを感じさせた。
しかも、思春期の女の子たちからは、微妙な匂いを感じた。
決していい匂いという感覚ではなかったのだが、興奮させられる匂いには違いない。
自分が成長期だから感じたのか、相手が成長期なので、発散させたのか、それとも、どちらもが噛み合って、感じるようになったのかのどれかであろう。
「女性に対して、興奮するような匂いを感じる」
などということを口にするやつは一人もいなかった。
――俺だけなんだろうな――
と思っていた。
その思いを証明するように、数か月もすると、女性に匂いを感じることはなくなっていった。
――やはり思春期特有のもので、自分だけが感じていたわけではなく、何も話さなかったのは、暗黙の了解だったんだろうな――
と思った。
だが、その匂いを何年かして思い出す相手に出会うなど、高校時代の坂本は想像もしていなかった。それが早紀だったのだ。
早紀には、甘い香りが発散されていることを知っていたのは、兄の健太と坂本だけだった。どうやら、早紀の醸し出す香りは、無意識のうちに気になる男性が現れた時、内に籠っている匂いが表に発散させられるものなのかも知れない。
ということは、早紀も坂本のことを気にしていたのだろう。
坂本は早紀の匂いを感じた時、自分の中のトラウマが解消させてくれる相手を見つけた気がした。早紀の方も、今まで兄だけしか見ていなかったのに、他の男性を意識するようになったことを理解するきっかけになったのではないだろうか。
早紀の病院に坂本が入院しているという事実は、運命だと思ってもいいのではないだろうか。運命というのは、お互いにそう思えば、それだけで運命だと二人は思っていたからだった。
早紀に声を掛けた坂本は、勇気を振り絞って声を掛けたことで、自分のトラウマが解消された気がした。早紀の方も、気になっている男性から声を掛けられたのだから、今まで兄にしか向いていなかった目が、他に向いたことはよかったと思っている。その時はまだ健太が玲子とお付き合いをしていたからだ。
――お兄ちゃんから、卒業しないといけないわね――
それは、自分が卒業するという意味と、本当の意味で兄を解放させてあげたいという思いがあったからだ。
――私は、お兄ちゃんを縛り付けているのかも知れないわね――
と思っていた。
自分たち兄妹は、豪邸で育ったこともあって、ほとんど世間を知らない。坂本という男性の存在は、世間知らずの自分を日の当たる場所に連れて行ってくれる初めての男性だということを意識していた。
ただ二人の交際は、そう長くは続かなかった。
病院にいる間に、二人の関係はゆっくりとだは、着実に育まれていた。そして、最初に退院したのは坂本で、早紀の退院を待っていた坂本だったが、一旦自由になってしまうと、坂本は表で、今まで自分が見ていた目線と、退院してから見る目線は、明らかに違っていることに気が付いた。
今までは気にもならなかった女の子にも、目が行くようになってしまい、坂本の視線に対し、相手の女性もそれに気が付いて、視線を気にしている相手を見ていると、ドキドキしてくる自分がいたのだ。
――俺の視線が相手の女性の気持ちを動かしている――
その状況が楽しくて仕方がなくなっていた。
本当ならこんな状況は、思春期の頃に感じるものだったのだろうが、坂本には払いのけることのできなかったトラウマがあったため、思春期には、異性に対して悶々としたものを持ちながら、何一つ先に進むことも、解決させることもできなかった。
おかげで、坂本にとって、今が思春期と言ってもいいだろう。早紀という彼女ができたというのは嬉しいことだが、それと同じくらいに好きになることのできる相手が無数にいることにワクワクした気持ちになっていた。
坂本が退院してから、心境の変化、いや、思春期のやり直しに目覚めたことなど、まったく知らない早紀は、自分も早く退院できることを望んでいた。
ただ、ちょうどその頃、兄がなかなかお見舞いに来てくれないことを気にはしていたが、その時、玲子とのことで、それどころではない状態になっていたことなど、知る由もなかった。
ちょうど、健太と玲子の仲が佳境だった。
――兄が来てくれなくても、私には坂本さんがいる――
と思っていたのは、早紀だけが考えていた甘い思いであることを、誰も知らなかった。
もちろん、坂本本人も自分の心が早紀から離れるなどということはまったく考えてもいなかったし、厳密には別れに至ってからも、早紀から離れたという意識はまったくなかったのである。
健太と早紀は、微妙な違いはあったが、ほぼ同じ時期に失恋していた。失恋は健太の方が早く、健太が一人になってから、早紀が坂本と付き合っていることを知ったが、健太は最初こそ嫉妬のようなものを感じていたが、次第に、二人の仲が長くはないと思い、ホッと胸を撫で下ろしていた。
理由はどうあれ、女性と別れたことで襲ってくるのは孤独感であった。
男性と女性で違いはあるが、襲ってきた孤独感の中で考えることは、少しまえまでの楽しかった日々であり、その頃に想像していた今の自分だった。
別れることなど想像もしていなかった時は、
――次はどこにデートに行こう――
であったり、
――何をプレゼントすれば喜んでくれるだろうか?
であったり、仲が深まってくれば、
――そろそろキスや、さらにその先のシチュエーション――
を考えてみる時期に入ってくるだろう。
そこには段階があり、段階を進むことが楽しみでもあった。最初は見えていないゴール、人はそのゴールを目指して進むものなのだが、仲が深まってくるにつれて知ることになるのが、
「ゴールなんてないんじゃないか?」
という思いを感じることである。
厳密にいうと、今までのが恋であるとすれば、必ずそこにゴールというのが見えてくるはずである。
恋というのは、不変のモノだと思っている人がいるかも知れないが、決して不変ではない。
健太や早紀のように、失恋する場合もある。それとは別に先に進んでいく恋に、ゴールがないと思っていることが不変のものだとすれば、その考えが違っているのである。
「恋というのは、出世魚のようなもので、恋というのは成就してしまうと、形を変えて、それが新たな進行へと結びついていく。それが愛というものなんじゃないか?」
という話を聞いたことがあるが、その話はずっと昔から受け継がれているものであり、一種の暗黙の了解のようなもので、数十年前のヒット曲にも、同じようなフレーズもあったという。
ただの言葉遊びに違いはないが、「恋」というものと、「愛」というものへの認識が違っていれば、その二人は、いずれ破局を迎えることになるのではないだろうか。
それが、「恋」の段階なのか、「愛」に変わってからなのか、それによって、状況はかなり違ってくる。
「恋」の状態での破局であれば、二人の間だけのことで済む場合が多いが、「愛」に変わってしまってから迎えた破局は、少なくとも二人だけの問題では済まないことが多い。逆に言えば、
「破局を迎えた時、二人だけの問題で済んた時は『恋』の段階で、二人だけの問題では済まず、まわりを巻き込んでしまい『愛』の段階まで進んでしまうと、そこには泥沼の愛憎絵図が待っていることが多い」
と言っていた話を思い出した。
早紀も健太も、二人とも破局は「恋」の段階で迎えることになった。
健太の場合は、破局になって感じたのは、孤立という思いだった。
一人になって思い出すのは、玲子との楽しかった日々であり、その時に思い描いた未来である今の楽しい情景とはまったく違った寂しさが襲ってくることで感じる孤立である。
しかし、それは男性の側から感じることで、女性の場合は、もっとしたたかな場合が多いのではないだろうか。
孤独を感じていると、自分だけが不幸になっているように感じ、自分を慰めてくれる相手が現れれば、誰でもいいと思うことがある。そのために、コロッと騙されてしまう女性もいるようだが、果たしてそれが本当に女性の本能であったり、性なのか、疑問に感じている人もいるだろう。
健太と早紀は、お互いに片方では孤立を感じながら、片方では孤独を感じている。だが、その思いを、相手を見ることで二人は看過していた。
健太も早紀も、相手を見ていて、
「可哀そうに」
と感じていたようだ。
健太は、早紀を見ていて、女性としての悲哀が感じられた。
今まで女性として見たことはなく、妹としてしか見てこなかった相手に、初めて女性を感じた。それは自分が孤立しているからだということに気づいていない。
早紀の方としても、健太に対して孤立していると思っていた。つまりは、自分が感じている孤独とは違うものだと分かっていた。
「私から、声を掛けることはできないわ」
ただ、今の健太に声を掛けることができる人がいるとすれば、自分しかいないと思っていた早紀だった。
理由は、
「自分が孤独だからである」
という思いからであるが、それは正解だった。
孤立している人に声を掛けることは、孤独を感じている人が声を掛けるのとはわけが違う。そのことを早紀は、孤独だと思っているその時には分からなかった。理屈としては分からなかったが、的を得た解釈はできていたのである。
孤立している人間というのは、誰かから声を掛けられるのを嫌っている。
――こんな感覚、以前にも味わったことがあったような気がするな――
健太は感じていたが、最初は思い出せなかった。
なぜなら、その時、自分が孤立しているとは思っていなかったからだ。他の人と同じように孤独に苛まれていると思っていたからだ。
しかし、すぐにその正体を感じることができた。
――ああ、躁鬱症の鬱状態のような感じなんだ――
その思いを感じた時、孤立した気分が、長続きしないことを感じていた。
躁鬱症は、健太にとっての持病のようなものだった。
いつも感じるわけではないが、ふとしたことで陥ってしまう。そして、何度か躁と鬱の状態を繰り返して、気が付けば知らない間に抜けているのだった。
躁と鬱が絡み合った時、
――これを抜けるまでにどれだけ繰り返すことになるんだ?
という気持ちが、それこそ憂鬱な気分にさせる。
持病とはいえ、繰り返しているのは辛いことだが、いずれは抜けると思うだけマシなのかも知れない。
鬱状態の時は、誰からも話しかけられたくない。この思いは、足が攣った時、誰にも触られたくないという、あの時の思いに似ていた。
――孤立無援とはよく言ったものだ――
孤独無縁とは言わないではないか、無縁な状態になるから孤立なのではなく、孤立しているから、無縁になりたいという思いから来ている言葉なのではないか、孤独との差別化という意味での言葉ではないかと勝手に想像していた健太だった。
そんな健太は、早紀にだけは声を掛けてもらいたいと思っていた。
しかし、早紀は、
――自分が孤独な状態なのに、そんな時、兄に声を掛けるのは、迷惑をかけるだけで、余計に孤独を煽ることになる――
という気を遣っているつもりだった。
早紀は、大切なことに気づいていない。
今まで健太は早紀に対して気を遣ってきてはいたが、そのことを早紀に悟られることはなかった。それだけ気を遣うということがうまかった人であることは間違いない。相手に悟られずに気を遣うということがどれほど難しいか、分かる人には分かるだろう。
もし、健太にこのことを言えば、
「いやいや、僕は気を遣ったりなんかしないさ」
というだろう。
気を遣うというのは、さりげなさが命だと思っている人は、却ってぎこちなくなるもので、気を遣うことが嫌いな人間の方が、えてして相手のことを考えているものだ。
それだけ気を遣うということが、
――相手ありき――
だということになり、しょせんは、口では何とでも言えるというものだ。
だからm気を遣っている人間ほど、
「気を遣う」
という言葉が嫌いなのだ。
そんな二人に、いいきっかけが来た。
「早紀もだいぶよくなってきたし、今度のお休みから、二人で別荘に行っていらっしゃい。早紀の学校には、療養を理由にお母さんが申請しておきます」
と言って、別荘にひと月ほど滞在できるように、母親の方で手配してくれたのだった。
子供の頃のように、数人の執事と、数人の家政婦がついてきてくれているので、安心だった。
「それにしても、お母さんは勘が鋭いわね」
早紀が移動の車の中で健太に言った。
「そうだよね。僕たちの孤独を分かってくれていたんだろうと思うよ。でも、早紀はともかく、僕の場合は見ていて分かったのかも知れないな」
「そうね。お兄ちゃんの落胆は半端ではないような気がするものね。よほど玲子さんが好きだったの?」
「別れてすぐには、そんなことはないと思っていたんだ。それなのに、どうしてあんなに落胆したのか、自分でも分からない。落胆というより、一人でいるのが怖かったというのが本音なのかも知れないな」
「私は、坂本さんとずっと気持ちは一緒だと思っていたんだけど、そうではなかったということだったのよ。親友のお兄ちゃんには悪いことをしたと思っているんだけど、でも、私とあの人では、求めているもんが違ったのではないかと思うのよ」
「求めていたものが違っていれば、一緒にいることが辛くなることもあるのよね。自分も相手の負担にはなりたくないと思うからかな?」
「そうなのよ。でもね、相手の負担になりたくないという思いは、自分を打ち消すという意味でもあり、相手に重たさを感じさせないようにしようと思うと、自分の存在を消そうと考えてしまって、それが嵩じると、孤独の世界に足を踏み入れてしまうこおとになってしまう気がするの」
「自分から孤独の世界に足を踏み入れてしまうと、なかなか抜けることができなくなってしまう。それは、自分から孤独を引き寄せたのと同じで、それを『孤立した』というんじゃないかって思うんだよ」
「私は、お兄ちゃんを見て、『孤立』を感じたの。そこがお兄ちゃんの苦悩なんじゃないかってね」
「確かにそうだったのかも知れない。早紀はよく僕のことを分かってくれているんだね?」
「だって、二人きりの兄妹だもん。それに、私の身体の中にはお兄ちゃんの血が流れているのよね」
「ああ、だいぶ、僕が輸血したからな。でも、あの時僕は、お前のSOSに気づいてあげられなくて悪いことをしたと思っているんだよ」
「もう、それは言わないで。しょうがないことだったのよ」
健太は、それ以上口を開くのをやめた。
早紀もそれ以上何も話そうとせず、車窓を流れる景色に目を奪われていた。考えてみれば、車での遠出など、最近ではなかなかなかったことだったからである。
電車での移動も考えたが、今の二人であれば、あまり他の人と関わりたくないという思いが強いのではないかという思いを察して、これも母親が手配してくれたものだった。
別荘までは車で三時間程度のものだ。その間、二人は何度か会話を交わしたが、先ほどの会話以外は、ほぼほぼ思い出したような会話であり、他愛もない内容だった。それ以外は車窓を見ている時間が続き、運転手も若干の気を遣わなければいけない時間だった。
今回の運転手は、だいぶ前から屋敷にいた人で、二人が子供の頃、家族で別荘に行った時、運転してくれていた人だった。健太は、最初分からなかったが。運転手の後姿を見ていると、急に思い立ったように、そのことに気が付いた。
運転手の名前は、桂といい、
「そういえば子供の頃に別荘に行った時、運転してくれていたのも、桂さんじゃなかったのかな?」
唐突に健太がそういうと、ミラーに写った桂の顔は満面の笑みに変わり、
「覚えていてくれたんですね? 光栄です」
と、
――運転手冥利に尽きる――
と言わんばかりの表情をした。
そのしたり顔を隠そうともしない桂は、健太に対しては、あまり自分の気持ちを隠すようなことをしなかった。
健太は、そんな桂が好きだった。子供の頃から、両親に内緒にしておきたいことは、桂にだけ話をしていた。そんな相手がいたことを健太は覚えていたが、この時の満面の笑みを見て、またしても、その時の相手が桂であることを確信したのだった。
今度は、桂にそのことを告げなかった。何も言わなくても、阿吽の呼吸を感じることができることを分かっているからで、
――この人なら、早紀と二人だけでも大丈夫だ――
と思ったほどだ。
移動中に早紀と話が弾まなかったのは、少し残念だったが、目的地までは当初の予定通り、約三時間で到着した。その三時間も、最初の一時間が結構時間を費やしたように感じたのに、その後は気が付けば過ぎていた。
――最終的には、三時間という時間が妥当な時間だった――
と感じられた。
別荘は、子供の頃に感じていたよりも、小さなものだった。
「子供の頃は、まるでお城に来たような感覚だったのに」
その言葉を聞いた早紀も、ニッコリと頷いた。
早紀はそのことに敢えて答えることはなく、
「空気がおいしいわ」
と、背伸びした姿を見ると、
――そうだ、精神的なリハビリが目的だったんだ――
と、改めて別荘に来た目的を再認識した。
部屋に入って少し休憩すると、すぐに夕食の時間だった。
相変わらず、大きな食卓に二人だけ少し離れた場所に腰かけた。どうして、席を離さなければいけないのか分からなかったが、別に席を離さなければいけないという決まりがあるわけではない。分かってはいたが、慣習に逆らう気もなかったので、二人は指示された場所に腰かけた。
食事を初めてから少しして、思い出したように早紀が口にした。
「そういえば、前に来た時、この別荘でハチに刺されたことがあったわ」
健太にとっては唐突だった。
「そうだっけ? お兄ちゃんは覚えがないな」
それには早紀も意外そうな顔をした。
しかし、早紀は子供の頃を思い出しながら、
「そういえば、あの時結構たくさんの人が来て騒ぎになった気がしたんだけど、その時、お兄ちゃんの姿はなかったような気がするわ」
兄のことを一番気にしている早紀が、兄のいなかったことを不安に感じなかったというのはおかしな気がする。
しかし、考えてみれば、
――ハチに刺されて少し醜くなった姿をお兄ちゃんに見られたくない――
という思いがあったのも事実で、お兄ちゃんがその場にいなかったことに安堵したのを思い出していた。
「ハチってどんなハチだったんだい?」
健太が聞くと、
「確かスズメバチだったって聞いているわ。かなり痛かったのを覚えているわ。その日だけで痛みが引いたという気はしなかったから」
――そんな数日も痛みが残ったような時期、早紀の異変に気付かなかったというのもおかしなことだ――
と健太は考えていた。
――数日間、僕は家族と離れて、どこか他に行っていたのだろうか?
確かに、離れていた時期があったのを思い出してきたが、その時の心境を思い出すことはできない。
――事実としての記憶を思い出すことはできるんだけど、意識の記憶を思い出すことはできないんだ――
と、自分の中の記憶装置が中途半端な状態なのかと、疑いたくなった。
すると、今度は違った意識が生まれてきた。
――思い出したくない記憶なので、敢えて思い出さないようにしているのかも知れない――
と感じた。
健太は、自分が誰かに誘われて出かけていったのだが、その時、後ろに視線を感じていた。その視線を子供心に、
「怖い」
と思った。
なるべく早く、相手から逃れたいと思う一心で、急いでその場から立ち去ろうとした意識があった。
自分を誘い出した人も、そんな健太の様子を見て、最初はビックリしたようだったが、健太が嫌々ついてきているわけではないということが分かっただけで安心したのだった。
健太は、自分の過去の記憶と、早紀がハチに刺されたことの記憶とがどこかでシンクロしているのを感じた。健太は忘れてしまったことを思い出そうとしていたが、思い出すことが果たして健太にとっていいことなのかどうなのか、一体誰が分かるというのだろう? 記憶というものが、意識を凌駕するのか、意識が記憶を凌駕するのか、健太が記憶を引き出そうとする思いは、その答えを求めているように思えてならなかった。
「そういえば私、ハチに刺されたという記憶、最近思い出したような気がするの」
「どういうことだい?」
「私も、さっきから考えていたんだけど、分からなかったの。実は、ここに来てすぐにハチに刺されたことをハッキリと思い出したんだけど、それまでは漠然としていたのね。それがある程度分かってこないと、口に出してはいけない気がしたのよ」
「じゃあ、ある程度分かってきたのかい?」
「ええ、まだハッキリとまではいかないんだけど、実は交通事故で記憶が欠落したと思った時、ハチに刺されたという意識がその時に飛んでしまったのよ。それを思うと、あの時の交通事故も、それから記憶が欠落したことも、何か今に繋がるための前兆のようなものだったんじゃないかって思うのよ」
「ということは、これから何かが起こる前触れとでも言いたいように聞こえるんだけど?」
「そうなのかも知れない。そうじゃないのかも知れない。でも、私は少なくとも、記憶があの時に欠落していたというのは、何か意味があったんじゃないかって思うのよ。少しの間忘れてしまうことがあったり、思い出せないことがあったのなら、そう簡単に思い出せない気がするはずなんだけど、思い出してしまうと、どうして思い出せなかったのか、自問自答を繰り返す自分がいるのを感じるの」
「あまり思い詰めない方がいいんじゃないかな? せっかく別荘のような自然の中で過ごせるところに来たんだら、ゆったりとした気分でいればいいんだよ」
「そうよね。でも、自然というのが、本当は一番怖いと思ってしまう。これも私の悪い癖なのかも知れないわね」
早紀に言われて、ハッとした。
確かに、自然というのは相手が人間と違って、忖度してくれるわけではない。それだけに早紀のセリフには説得力も重みもあった。そう思うと、早紀が思い出したハチに刺されたという経験が、この後のここでの生活にどのような影響を及ぼすのか、考えなければいけないと思った。
健太も、この別荘で起こったことをすべて覚えているわけではないという疑念は元々持っていた。今回、早紀から聞かされたハチに刺されたことがあったということを覚えていなかったのは、その疑念を裏付けるものとなってしまった。
――他にどんな重要なことを忘れてしまっているのだろうか?
今回のように、
「そういえば……」
と言って、相手から教えてもらえるのであればいいのだが、教えてもらえない時は、永遠に分からないままなのかも知れない。
しかし、果たして思い出すことが本当にいいことなのだろうか?
――忘れてしまった。覚えていない――
というのは、忘れてしまいたいという自意識が、無意識のまま記憶を封印させてしまうのか、あるいは、
――墓場まで持っていくんだ――
と言い聞かせているのか、そのどちらかの意識が、自己防衛に繋がり、記憶と意識を都合よく結びつけることに成功するのかも知れない。
健太は最近、自意識で圧し潰されそうになっている夢を見ることがある。それは怖い夢であり、どうしてそれが怖い夢なのかが分かるのかというと、
「もう一人の自分」
が出てくる夢だからである。
小さい頃から、もう一人の自分が出てくると、起きた時にもう一人の自分が夢に出てきたことを覚えていることで、背筋が寒くなるのを感じるのだ。
夢を見ていたのが子供の時であっても、もう一人の自分が子供だったとは限らない。大人の人が現れて、一言も口を利かず、自分を見つめている。恐怖に身体を動かすことができないでいると、相手は
「してやったり」
という表情になり、そこから表情が変わることはなかった。
もっとも、その表情が出た時が夢の終わりの前兆であり、普段の怖い夢であれば、夢から覚めるのを待っているのだろうが、もう一人の自分の出現の時だけは、夢から覚めても怖い気持ちは完全には抜けないことが分かっていた。だからこそ、
「怖い夢の代表が、もう一人の自分が夢に出てきたのを感じた時だ」
と、常々思っているのだった。
――ハチに刺されると痛いんだろうな――
早紀の言葉が頭に残っていて、自分の気になる人が味わった辛さを、自分も分かち合いたいと思うことがあったが、気になる人の代表が早紀であり、玲子と別れてから、
――自分が気になっているのは早紀以外にはいない――
と思うようになっていた。
ただ、健太には医学の知識が少しだけだがあった。スズメバチに刺されたというのがどういうことなのかも、分かっているつもりだった。
「スズメバチに刺されると、一度ではなかなか死なないが、二度目以降の死亡率は格段に上がる。だから、二度目は危ない」
と言われているのも、もちろん知っている。
身体の小さな鉢の毒くらいでは、なかなか人間くらいの大きさの動物に対しての殺傷能力は低い。二度目以降に刺されると死亡率が格段に上がるのは、
「人が死ぬのは、ハチの毒によるものではないからだ」
ということであった。
では、一体何によって死ぬのか?
それは、アレルギーである。
ハチの毒にもアレルギーがあり、一度ハチに刺されると、人間はハチの毒に対しての抗体を作る。
二度目以降に刺された時は、一度目に刺された抗体がハチの毒を追い出そうとする。その時にハチの毒と反応して、アレルギーを引き起こすのだ。
それを、
「アナフィラキシーショック」
というのだが、これが人間を死に至らしめるのだ。
早紀は一度スズメバチに刺されている。だから次回は本当に危険であった。
考えてみれば、以前ハチに刺されたことを忘れていたというのは恐ろしいことだ。いくら子供だとは言え、親には説明しているはずである。
ただ、健太の親は、時々肝心なことを忘れてしまうところがあった。それが早紀にも影響しているのかも知れないが、健太にはそんなところはなかった。それだけに、客観的に見ても恐ろしい限りだ。
健太は執事を別部屋に招いて、二人きりで話をした。
「あなたは、早紀が以前ここでハチに刺されたというのをご存じだったのですか?」
悪びれることもなく、直立不動の状態で聞いていた執事は、
「もちろん知っております。あれはお嬢様が家政婦の手を離れて、お庭の花壇に入った時のことでした。急に泣き声が聞こえ、その声が尋常ではないことで、ビックリして皆庭に飛び出しました。腕を抑えて苦しんでいるお嬢様のお手を見ると、真っ赤に腫れあがった状態が見えましたので、すぐに氷で冷やして、医者の手配をしました。こちらに来た時の救急にということで、近くの病院を主治医のような形で手配しておりましたので、すぐに来ていただきました。スズメバチに刺されたということで、緊急手当てを施してもらって事なきを得たんです。その時にできる最善の治療だったと思います」
「そうですね。スズメバチと言っても、最初なら刺された時は痛みは数日続きますが、命に別状はありませんからね」
「よくご存じですよね。確かにその通りです。だから、必要以上に騒ぎ立てなかったのを覚えていますよ」
「僕は、おじさんから以前、唐突にハチの毒について教えてもらったことがあったんだ。その時は、『どうして今こんな関係のない話をするんだろう?』って思いましたけど、今から思えば、早紀のことを考えて、僕に教えてくれたんでしょうね。ちょうど僕も中学生になっていましたから、理解できないことではないと思ったんでしょう」
「なるほど、その時、おじさんにはお坊ちゃんが、この時の事情を知らないとは思っていなかったんでしょうね」
と言いながら、執事の少しため息交じりだった言葉が気になった。
「僕はどうして一体覚えていないんだろう?」
「本当に覚えておられないんですか?」
「ええ」
「じゃあお教えしましょう。あの時坊ちゃんは、お嬢様の制止を聞かずに、ハチの巣に近づいて行ったんですよ。お嬢様はその時、本当は大人の人を連れてきたかった。でも、坊ちゃんは自分の尊厳を見せたかったんでしょうね。果敢にも近づいていった。でも、一匹出てきた瞬間、恐ろしくなって、お嬢様を置き去りにして逃げ出した。もちろん、ハチは追いかけてきます。坊ちゃんはそのまま池に落ち込んだので、ハチに刺されることはなかったんですが、お嬢様が刺されてしまった。坊ちゃんは、池で溺れたその時に、一時的な記憶喪失になったんですよ」
「そんな……」
子供ならあり得ることかも知れないが、今までの自分たちの関係を考えると、自分の人生が覆されそうな話だった。
「坊ちゃんには辛いお話ですが、これが真実です」
健太は、それ以上、何も言えなくなってしまった。
いくら子供だったとは言え、自分の軽率な行動が妹をひどい目に遭わせた。しかも、そのことを覚えていないという自分勝手な事実に驚愕とともに、何をどうしていいのか分からないパニックに陥ってしまった。トラウマというには、都合がよすぎる。これから妹にどう接していいのか、考えれば考えるほどド王道巡りを繰り返すことは分かっていた。
「しばらく一人にしてくれないかい?」
「分かりました。私も坊ちゃんなら大丈夫だと思ってお話いたしました。だから、坊ちゃんも自分に自信を持ってください」
「分かった。ありがとう」
「では」
執事は扉を閉めて出て行った。部屋に一人取り残された。いや、一人閉じこもった健太は、一人で考えていた。
――このまま同じことを考えていては、後悔が堂々巡りを繰り返すばかりだ――
そのことが分かっていたので、健太は少し考え方を変えてみた。
――その時の状況というのを覚えていないので何とも言えないが、自分なりに想像することはできる――
と思い、なるべく客観的に考えるようにしようと思った。
――僕はずっと妹の早紀を守っていくつもりでいたので、早紀のことを包み込むように見ていた。それが兄としての目であり、慕ってくれている妹に対しての最善の態度だと思っていた。でも、こんな気持ちになった最初っていつだったんだろう?
そんなことを考えたことはなかった。
生まれた時から感じていたわけはないので、自分が兄として自信を持ったのか、あるいは、誰か友達の姿を見て、兄というものに目覚めたのかなのではないかと思った。
しかし、過去を思い出しても、きっかけになるようなものは思い浮かばない。健太の性格から考えると、よほど印象に残ったことがなければ、自分に思い立たせることはできないはずだ。何か自分を納得させるもの、つまり自信を持たせるようなことである。
今までは、それまで嫌いだった勉強をするようになったきっかけ、異性に興味を持った時のきっかけ、思い出そうとすればできることだった。
それなのに、絶えず気にしている妹のことを、自分から気にするようになったきっかけを思い出せないことが不自然な気がした。
――もっと他に、肝心なことで思い出せていないことがあるのかな?
とも思ったが、
――それよりも、この「ハチに刺された」という事実を忘れていたということが、自分の中で妹への思いに繋がって行ったのではないか?
と感じた。
それは、申し訳ないという懺悔の念と、その時に自分が子供だったこともあるが、何もしてあげられなかったことが原因ではないかと感じたからだ。
もう一つ気になることがあった。
この別荘にいる時、普段とはまったく違う人間になったような気がしてくることだった。別荘に来るのはいつも決まったメンバーだった。家政婦さんが三人と、執事関係の人が二人であった。この五人は、自分と妹が小さかった頃から変わっていないような気がする。だから、先ほど一人の執事に、ハチに刺された妹のことを聞いたのだ。
――それにしても、あそこまでハッキリと言わなくても――
と思ったが、今度はまた別の疑念が浮かんできた。
――普段は、あんな言い方をしないはずのいつもは優しい執事が、どうして急に態度を変えたんだろう?
確かに、いずれは話さなければいけないことだったに違いないが、それにしても、言い方というものがあるだろう。あれでは、相手にショックを与え、いくら事実とはいえ、必要以上に、相手に事実を押し付けているようじゃないか。
――おや?
そう思うと、また違う疑念が浮かんできた。
「木を隠すには森の中、一つのウソを隠すには、九十九の本当の中に紛れ込ませればいい」
とよく言われる。
また、手品師のやり方として、
「右手を見ろと言われると、そちらを見てしまう。そんな心理をうまく使うのが手品師だ」
という話も聞いた。
いわゆる、「ブービートラップ」というものであろう。
さっきの話の中で、あれほど強調して、事実という言葉を言ったのは、それが事実ではあるのだろうが、その中に何か欺瞞が含まれていて、それを知られたくないという思いがあったのかも知れない。
強くいうことで、相手の心理をミスリードしていると言えるのではないか。
――しかし、僕が覚えていないというのは、どう解釈すればいいんだろう? 記憶を失うほどショックなことがあったからなんだろうが、執事の話はなるほどショックではあったが、記憶を失うほどではない。一人でしばらく考えれば気持ちも落ち着いてくるからだ――
と感じていた。
何といっても、
「いまさらどうしようもないことじゃないか」
と言えばそれまでだからだ。
これから先をどう接すればいいかということだけで、それこそ少し冷静になって考えれば、そんなにショックが尾を引くことでもないはずだ。
そう思っていると、子供の頃にkの別荘に来た時、家政婦の一人に、中島せつさんという人がいるが、その人といつも一緒だったような気がする。自宅にいる時は、いつも妹の方の世話ばかりしている人で、顔を合わせることすらレアだった。自分たち兄妹は、両親がかなり高齢になってからの子供だったので、親が可愛がってくれるよりも、子供の方とすれば、どこか距離を感じてしまっていた。その分、別荘に来てから中島せつさんと一緒にいる時が、本当に母親といるようで楽しかった。
「健太坊ちゃんは、大人になったら、どんな人になりたいですか?」
とせつさんから聞かれた時、
「お父さんやお母さんを大切にできる大人になりたい」
と答えた時、何とも悲しそうな表情をしたせつさんを思い出した。
だが……、別荘での小さい時の記憶は、そんなに残っているわけではない。楽しかったという印象はあるのだが、印象があるだけで、その時々に何があったのかということはなぜか記憶から遠くにあるような気がしていた。
――それだけ、毎日の暮らしとはまったく違っていたのかも知れないな――
と感じた。
――せつさんがお母さんだったらな――
別荘にいる時はいつもそう思っていた。
しかし、家に戻ってからのせつさんは、あまり好きではなかった。妹の世話をしてくれているのだが、妹に対しては自分と一緒にいる時のような楽しそうな雰囲気は感じられず、いつも悲しそうな表情をしていた。
それは、健太に哀れみの気持ちを起こさせるほどのもので、健太としても、
――お願いだから、こんな気持ちにさせないでよ――
と言いたいくらいで、いつも悲しくなってしまうのだった。
そういう意味でも、別荘での暮らしと家での暮らしはまったく違っていた。だから、子供の頃の記憶、しかも別荘での記憶はほとんどなかったのだ。
――早紀がハチに刺されたという事実の記憶がないというのも、そんな別荘での暮らしの中の一つとして、記憶がなくなっていたんじゃないか――
と考えられるのではないだろうか。
健太は、自分の中に一つ大きな疑念があるのを感じていた。しかし、これは決して口に出してはいけないことではないかと思っていたが、理由はそのことを考え始めても、堂々巡りを繰り返すだけで、どんどん苦しみのアリジゴクに嵌り込んでしまうことを感じたからだ。
この思いは、本当は墓場まで持って行かなければならないことではないかとも思っている。自分の思いが本当であれば、苦しむのは自分だけではないということが分かっているからだ。
そんなことを考えながら、ボーっと窓から表を眺めていると、どこからともなく悲鳴が聞こえた。
「キャー」
とっさに、その声の主が妹であることはすぐに分かった。
そして、その後に、別の家政婦の声、あれはせつさんとは違う声だった。健太は思わず携帯の着信音を思い出した。
――あれもどこから聞こえるものなのか、分からないよな――
と思いながら、部屋を出て、急いで表に出た。声が表からしたのを感じたからだ。
「お嬢さまが、お嬢様が」
と慌てている家政婦に、執事が訊ねた。
「どうしたんだい、一体」
「お嬢様が、ハチにお刺されになって……」
家政婦は腰を抜かして、苦しんでいる妹に指差した。
「とにかく病院だ」
と言って、落ち着いている執事が携帯で医者に連絡をしている。
救急車が呼ばれ、急いで近くの病院に搬送された。子供の頃診てくれた当時の医者が呼ばれたのはいうまでもないことだった。
運ばれた病院で、すぐに集中治療室が用意された。
「二度目にハチに刺されたって? じゃあ、これはアナフィラキシーショックということかい?」
「ええ、そういうことです。だから、早急な対応が必要です」
救急センターの先生は、かつて一度目に治療した医者からそう言われて、急いで治療に当たっていた。表では執事や家政婦も心配しながら中を見ていた。誰も口を開くものはおらず、じっと見守っている。
しばらくすると、主治医の先生が健太のところに来て、
「健太君、ちょっといいかい?」
と先生に呼ばれて、診察室に入った。
「輸血が必要なんだけど、お願いできるかな?」
「ええ、いくらでも抜いてください」
「ありがとう。助かるよ」
言葉少なに、主治医は妹のところに戻って行った。その後で健太は看護婦に指示されるまま診察ベッドに寝かされて、輸血用の血液を採血されることになった。
時間的には数十分だったが、採決が終わり、
「だいぶ抜いているので、しばらくは身体を起こさない方がいい。立ち上がってもフラフラするはずだからね。でも本当にありがとう」
と言われて、
「いえ」
と横になって答えるのがやっとだった。
確かにこれでは起き上がってもフラフラするだけだった。
それでも、一時間もすれば起き上がれるようになった。健太は妹が心配で仕方がなかったからだ。
――だが、本当にそれだけ?
そんな思いが頭をよぎった。
健太は集中治療室の前まで行くと、
「坊ちゃん、大丈夫ですか?」
と執事がビックリしたように言った。
「まだ少しフラフラするけど、大丈夫だ」
「そうでしょう、相当採血されたというお話でしたからね」
「ところで、早紀はどうなんだい?」
「ええ、峠は越えたとのことでした。一度スズメバチに刺されて、もう一度刺されると、二度目は本当に危ないと言いますからね。よく持ち直したというものですよ」
「それはよかった。僕の血液が役に立ったのかな?」
「それはもちろんですよ。さすがご兄妹の絆がそれだけお強いということの表れなんでしょうね」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
とは言ったが、心の中には複雑な思いが渦巻いていた。
「もうすぐして、先生からのお話があるそうですが、坊ちゃんは大丈夫ですか?」
「うん、僕も一緒に聞くことにしよう」
そう言いながら、集中治療室を見ると、先生同士が顔を見合わせ、不思議そうな表情をしているのが印象的だった。
しかし、それでも回復に向かっている時に見せる表情なので、事なきを得ていることは分かっている、ただ、健太はその表情を素直に喜べなかった。
――これから行われるという医者の経過発表。それが自分の運命に大きな影響を与えるのではないか――
と健太は感じていた。
それは危惧であり、決して安心できるものではなかった。そういう意味で、血を抜かれた身体には、少し毒ではあったが、事実が分かるということであれば、それなりに気持ちが高ぶってくるというものだった。
「スズメバチに二回目に刺されると、本当に危険な状態に陥るということか……」
独り言ちた健太だったが、医者の発表を今か今かと待っていたのだ。
「どうぞこちらに」
部屋の中には、ある程度回復していた早紀が、ベッドで横になり、皆を待っていた。
部屋に招かれたのは、その時に別荘に来ていた全員だった。そして、説明するのは主治医の先生だけだった。
「これからお話することは、本宅のご主人様、奥様にも了承の上でのことです。だから皆さんにもご承知願いたい」
と言って一同を見渡したが、最後に見つめたのは、せつさんだった。
せつさんは顔を伏せたまま、ずっと恐縮していた。しかし、それが恐縮ではなく、本当に怯えていたのだということに、それから少しして健太は知ることになる。
「何からお話すればいいのか……」
先生は迷っていたが、すぐに意を決して話し始めた。
「まず、早紀さんの容体は大丈夫です。アナフィラキシーショックは起こしましたが、収まりました。確かに一時期、危ない状態でした。アナフィラキシーショックを引き起こして、意識も失っていましたので、私もダメだと思って諦めかけたくらいです。でも、しばらくしてから、意識を取り戻し、それからは回復に向かっていったんですよ。私がお坊ちゃんに採決をお願いした時は、回復に向かっている状態の時でした」
「だったら、教えてくれればいいのに」
と健太は少し不満だったが、
「いや、こんなことは本当に稀で、普通なら考えられないような回復劇だったんですよ。だからこれからも何が起こるか分からない。迂闊なことは医者として言えるわけはありませんでした」
それなら分かる。健太は黙って続きを聞くことにした。
「それで、何が原因なのか分からないまま状況を見ていると、輸血が必要だということだけは分かりました。でも、輸血をお願いできる相手を考えていたんですが、その時に執事の方が、お坊ちゃんにお願いすればいいと教えてくれたんです。お坊ちゃんはこの一年以内くらいに、早紀さんが交通事故に遭われた時、輸血をなさったそうですね?」
「ええ、今日もあの時を思い出して、頭の中がフラッシュバックしていました」
「そうでしょうね。それで少し早紀さんがどうして回復したのか、分かったような気がしたんです」
他の人は何となく分かっているかのようだったが、健太と早紀だけには、どういうことなのか分かっていなかった。
「よく分かりません」
と健太が言うと、医者は健太に聞いてきた。
「お坊ちゃんは、ハチに刺されて死ぬというのは、ハチの毒で死ぬと思っていませんか?」
「違うんですか?」
「違います。いくらスズメバチの毒が猛毒と言っても、人間ほどの大きな動物を殺傷できるほどの毒は持っていません」
「だから、一度目では死ななくても、二度目の毒で死んじゃうんじゃないんですか?」
「そう思っている人が多いようですが、実は違います。二回目にハチに刺されて死ぬ時というのは、アナフィラキシーショックというアレルギーによって、人は死に至ることになるんです」
「アナフィラキシーショック?」
「ええ、アナフィラキシーショックというのはアレルギーの一種なんですよ。人間は一度目にスズメバチのようなハチに刺されると、非常に痛みを伴いますが、死に至ることはめったにありません。治療で何とか回復します。刺された時、人間はハチの毒を覚えているので、今度刺された時には、その毒で死なないように、抗体を作るんですよ」
「はしかやおたふく風邪に罹った時のように免疫ができるということですか?」
「ええ、そういうことです。だから人間は二度目に刺された時、その抗体が働いて、毒素を取り除こうとするんですよ。でも、その時、身体の中のアレルギーと反応して、ショック状態を引き起こす。それがアナフィラキシーショックと言われるものなんです」
「じゃあ、身体を守ろうとする自分の機能、いや本能が仇になるということですか?」
「その通りです。だから、一度でもスズメバチのようなハチに刺された人には、医者は説明していると思います。もっとも早紀さんの場合は子供の頃のことだったので、両親にしか話していませんけどね」
「じゃあ、早紀は今回、そのアナフィラキシーショックに遭ったと?」
「そうです。でも、早紀さんの中の生命力のようなものが強かったんでしょうね。死の淵からよみがえったという感じです」
医者は続けた。
「早紀さんの血液型も、お坊ちゃんの血液型も、お二人とも特徴のあるもので、何も知らない大学病院の医者は、早紀さんに対してお坊ちゃんの血液を通り一遍の検査だけで輸血を施したんでしょうね。私だったら、恐ろしくてできません」
「どうしてですか?」
「ここからは、本当に今まで秘密にされていたことだったんですが、実は、お坊ちゃまと早紀さんは、本当は血の繋がりはないんです」
「えっ?」
健太と早紀は同時に声を挙げ、健太は恐る恐る早紀の顔を見た。早紀の方はすでにこちらを向いて、目をカッと見開いていた。
――可愛い――
不謹慎にも、そう感じてしまった。
血が繋がっていないと聞いた瞬間から早紀への見方が完全に変わってしまっていた。
――早紀もそうだったら嬉しいな――
健太は、この大事な衝撃の事実の告白シーンで、そんなことを考えていたのだ。
――早紀を好きになっていいんだ――
玲子と別れた原因も曖昧に思っていたが、
――ひょっとすると自分の目が玲子を見ているつもりで、玲子の後ろに早紀を見ていたのかも知れない――
と感じていた。
「でも、輸血はうまくいきましたよね?」
執事が口を開いた。
「ええ、それが不思議だったんですよ。普通なら輸血の時に、拒絶反応を示すかも知れないはずだからですね。何しろ、早紀さんには以前ハチに刺されて、抗体を持っていたので、普通の状態ではなかったはずですからね。そういう意味では奇跡だったと言えるかも知れません。でも、そのおかげで、今回の輸血がうまくいくことになった。本当に命が危なかったアナフィラキシーショックを引き起こしていた時にですね。だから、最初の輸血で、早紀さんの血液に変化が起こったんじゃないかって思ったんですよ。それは二人が奇しくも珍しい血液だったことが幸いしているんでしょうね。そういう意味でも、ご両親に、二人にもそろそろ本当のことを言ってみてはいかがかって話してみたんですよ」
「じゃあ、知らなかったのは、僕たちだけ?」
「そういうことだ」
さすがにショックは残ったが、早紀に対して自分が正直になっていいと分かると、安心した。
「でも、僕の本当の両親は?」
「お父さんは、もう亡くなったんだけど、お母さんはちゃんと生きているよ」
と言って、せつさんを前に出した。
「彼女が君のお母さん」
せつさんは涙を浮かべている。本当は抱き着いて、親子の名乗りを涙で演出したかったが、涙が出てくることはなかった。分かっていたような気がしたからだ。
家では自分を避けていたのだから、分かってしまうと、
――やっぱり――
とすぐに納得できることだった。
とにかく早紀とは血の繋がりはないのだ。
「ところで早紀さんの身体なんだけど、今は特殊な身体になっています。つまり、アナフィラキシーショックの状態のままだということです。でも、次第に症状は薄れていきます。今の状態でも、別に問題があるわけではありません。逆に危険な状態を脱しているという意味ではいい状態だと言えるでしょう。あと一つ言えることは、彼女や健太さんのような特殊な血液を持った人がたまに記憶が欠落したような状態になることがありますが、その時は、アナフィラキシーとは限りませんが、アレルギーのショック状態だと言えるかも知れません。でもそれも気にすることはありません。本当の記憶喪失のようなことではないので、いつかは思い出します」
健太は、自分が骨董が好きなのを思い出した。ガラケーに興味があったり、それも何かのショックなのかと思っていた。
健太は、自分が骨董が好きなのを思い出した。ガラケーに興味があったり、それも何かのショックなのかと思っていた。
それから二人は急接近したが、ある時を境に、恋愛感情が冷めてしまっていた。
「ハチって、人を刺すと、すぐに死んじゃうらしいわ」
とふとした話から早紀に言われて、ハッとした。それが気持ちを冷めさせることになるとは思ってもいなかった。
本当は、ハチが刺して死ぬのは、ミツバチであり、その中でも一部だけだという。別荘のお姉さんから聞かされたことだと、後から思い出したが、後の祭りだった。
この思いも、ハチの毒で死ぬわけではなく、抗体と反応して引き起こすアナフィラキシーショックという皮肉めいた結果になるのと似ているのかも知れない。
「何にしても、スズメバチに二度目に刺されることは、絶対に避けなければいけないことだ」
そんな教訓を死ぬまで忘れることのない健太であった……。
( 完 )
二度目に刺される 森本 晃次 @kakku
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