第2話 着信音

 うだるような暑さとはよく言ったものだ。テレビカメラからではなかなか表現できず、地表から浮かび上がってくる陽炎に、街を歩く人の苦痛に満ちた表情を重ね合わせたりすることでやっと表現できるくらいであろう。

 特にその年の冬は寒かった。

「今年の夏は、例年になく、暑さが厳しいようです」

 と、この夏の予想をするニュースを見ていたので想像はできたが、七月の声を聞くとともに、それまでのジメジメした梅雨の時期から一変して、カラッと晴れ上がった。しかし、湿気だけは残ってしまい、暑さは最悪の度合いを示していた。

 そんな頃だっただろうか。健太に彼女ができた。

 同じ大学の女の子で、名前を姫島玲子という。

 健太の方からアプローチしたわけではない。友達から誘われた合コンに参加し、その時に知り合った女の子だった。

 合コンに参加した理由は、親友から、

「お前たち、本当に血の繋がりがあるのか?」

 と、妹のことを言われてから、少ししてのことだった。

――あまり意識しないようにしよう――

 と妹のことを、頭の片隅に追いやろうとした。

 しかし、意識しすぎるせいか、なかなかうまくいかない。そんな時、

「合コンやるんだけど、来てくれないか?」

 と言われた。

 今までも、合コンには参加したことがあり、いわゆる「その他大勢」の一人だった。数合わせと言ってもいいだろう。

 そんな合コンだったので、カップルになることはなかった。もしアドレス交換するようなことがあっても、相手から連絡があった試しはない。こちらから連絡するというのも、合コンの時に会話が弾んだのならまだしも、解散間際になって聞かれただけなので、それも何か違うと思えた。

「どうせ、そんな女の子は、他の男性にも聞いてるさ」

 そう言われて、当然のことだと思った。

 そういえば、高校の学園祭の時にも同じように聞かれたことがあったが、連絡はこなかった。その時の記憶はしばらくは鮮明だったはずなのに、途中から薄れてくると、一気に意識から記憶に移ってしまい、思い出すこともなくなっていた。

 玲子がアドレスを聞いてきた時も健太は、

――どうせ、連絡なんかしてこないさ――

 と、簡単に交換した。

「ありがとうございました」

 と、深々と頭を下げてくれたことには好感が持てたが、それ以上を期待するつもりはなかった。

 連絡があったのは、それから二日後のことだった。

「またお会いしたいのですが、よろしいですか? ご迷惑でなければ、予定を合わせますので、ご連絡お願いします」

 というメールが届いた。

 こんなことは初めてだった。健太はさっそく親友に話に行った。気分としては、鼻高々であった。普段の自分と違っていることは意識していたが、どの程度違っているのかまでは分かるはずもない。

「よかったじゃないか。これを機に付き合うようになればいいって俺は思っているよ」

「そうか、ありがとう。何とか頑張ってみるよ」

 と答えたが、今までに大人のお付き合いなどしたことがない健太だったので、どうしていいのか分からない。モジモジしていると、親友はいろいろと教えてくれた。

「ここまで言わないと分からないか?」

 というほど、女性との付き合いに関してはウブだった。

 逆に親友は慣れたもので、こんな自分にまで親切に教えてくれる。

「小五郎、お前だけだよ」

 と、恩に着る気持ちでいっぱいだった。

 親友は名前を坂本小五郎という。名前の由来は、明治維新の元勲「桂小五郎」と、名探偵「明智小五郎」から来ているという。母親がミステリーが好きで、父親が歴史、しかもその中でも幕末が好きだということで、命名には二人の意見が通った形だった。

 彼はその名前にふさわしく、勘の鋭いところは、「明智小五郎」のようで、決断力に長けているところは「桂小五郎」のようだというべきであろうか。

「女の子というのは、おだてに弱いということと、気を遣ってくれる男性には頼もしさを感じるものだ。まずはそこから考えてみればいいんじゃないか?」

 と教えてくれた。

 もちろんそれだけではないはずなのだが、最初はそれだけしか教えてくれなかった。

「最初からいろいろ詰め込んでも、混乱するだけだ」

 と思ったのだろう。入門編としては、これくらいがちょうどいいと、後から思うと感じる健太だった。

 健太は小五郎の「忠告」どおりに、初デートを乗り切った。あまり人に気を遣うことをしない健太には一番の問題だったが、なぜか彼女と一緒にいると、気を遣っているつもりもないのに、勝手に行動していたのだ。

――変に考えない方がいいのかな?

 とも思ったが、それでも最初に他人から意識させられたことがよかったとも言えるだろう。

 だが、逆に相手をおだてるというところは無理があった。どういっておだてればいいのか分からなかったからだ。

「梶谷さんは、兄妹がいらっしゃるんですか?」

「ええ、妹がいますよ」

「そうなんですね。私は兄がいるんですよ。でも、その兄は私が中学生の時に、東京に出てからほとんど連絡をしてこなくなったんです」

「それは寂しいよね」

「ええ、最初は本当に寂しかったんですよ。だからお兄ちゃんになってくれるような男性を求めていたのも事実なんですが、最近では兄がいないことに慣れてきました。だから合コンに出席しても、いつもただいるだけだったんです。それなのに、今回は梶谷さんが気になってしまったんです」

「僕がお兄ちゃんに似ていたりするのかな?」

「体型も雰囲気も似ているという感じはしないんですが、どこか気になってしまうところがあったんですよ」

「僕はお兄ちゃんの代わりということかな?」

「いえ、そんなことはないですよ」

 これ以上、この話を続けるのは無理があると思い、健太は何とかここで話を変えることにした。

「ところで玲子さんは何かご趣味をお持ちですか?」

「私は、これと言ってないんですが、時々思いついた時に詩や俳句を作ったりしています」

「ほう、それはなかなか和風なご趣味ですね。素敵だと思いますよ」

「梶谷さんは?」

「僕は下手な絵を描いたりしています。お互いに芸術的な趣味ということで、合うかも知れませんね」

「ええ、それだと嬉しく思います」

 健太は、詩や俳句の世界に興味があるわけではないが、玲子を見ていると、

――ちょっと興味を持ってもよさそうな気がするな――

 と感じた。

 そういえば、妹の早紀が詩を書いている時期があった。あれは、早紀が中学生の頃だっただろうか。書いているのを見て、

「早紀が詩を書くなんて意外だな」

 というと、

「最初は詩を書くなんて、考えたこともなかったんだけど、ある日急に書きたくなったの。何かのきっかけがあったというわけではないんだけど、何かひらめくものがあったと言うのが一番適切な答えかも知れないわ」

「詩を書いていて楽しいかい?」

「ええ、その時は楽しかったわ。でも、数か月で急に興味がなくなったというか、冷めてしまった気がしたのよね。別に他に興味が沸くものがあったわけではないんだけど、今から思うと、どうして詩を書きたいなんて思ったのか分からないの。でも、一つだけ考えていることがあるの」

「どういうことだい?」

「それは、思春期というのは、無性に詩を書きたくなる時期があって、それは私に限ったことではなく、皆そうだって思っていたのよ。私の知っている友達は皆そうだった。だから私もその中の一人だと思って、別に疑問にも感じずに、詩を書いていたの」

「でも、数か月で冷めてしまったんだろう?」

「ええ、書きたくなったのもいきなり、冷めてしまったのもいきなりだったのよ。どうしてなのか分からないけど、友達に話してみると、『それは、恋愛感情に似たもので、好きになるのもいきなりなら、冷めてしまうのもいきなり、それがあなたの場合の恋愛感情なのかも知れないわね』って言われたの。ちなみにその友達は、今でも詩を書いているわ。冷めかかったことはあったらしいんだけど、いきなりではなかったので、またすぐに書きたくなったんだって」

 その気持ちは健太にも分かった。

 健太も絵を描くようになって何度か、

「やめてしまおうか」

 と考えたことがあった。

 しかし、やめなかったのは、冷めかかった情熱が急激ではなかったので、冷めかかっている中で、描き始めた時の楽しみさがよみがえってきたからだ。

「やめなくてよかった」

 とは、全面的には思っていないが、絵を描いている時、どんどん楽しくなっているのは事実だった。

「楽しければそれでいい」

 という思いが、絵画を趣味にしている一番の理由になっていた。

 しかし、人から、

「どうして、絵を描いているんですか?」

 と聞かれた時、

「楽しいから」

 と答えることに抵抗があった。

 もし、この同じ答えを、詩を書いている妹がすれば、

「それが一番だ」

 と答えるであろうが、自分のこととなると、この返事はまるで何かの言い訳にしか聞こえない。それが嫌だったのだ。

「でも、僕は思春期に詩を書きたいなんて思ったことはないよ」

「そのことなんだけど、私のお友達だから、皆女の子なんだけど、思春期に詩を書きたくなるのって女の子ばっかりじゃないかって思うようになったのよね。実際に、最初にお友達と話をしている時、彼氏のいる友達もいたんだけど、彼氏さんは詩を書いたりはしないって言っていたわ」

「じゃあ、思春期に詩を書きたくなるというのは、女性特有の感覚なのかな?」

「私も最初はそう思ったんだけど、それからしばらくして、他の友達から、その友達の弟が思春期になって詩を書くようになったんだって、それで、友達がその弟に、どうして詩を書きたくなったのかって聞いたらしいの。そしたらね、自分でも分からないって答えたらしいのよ」

「ということは、女性だけに限ったことではないということなのかな?」

「そこが分からないの。その友達のところは、姉と弟が仲が良くて、特に弟はいつも姉の後姿ばかりを見ていたっていうのよね。だから、詩を書いているお姉さんの後姿を見ていて、弟も詩を書きたくなったとしても、それは不思議のないことだって思うのよ。だから、その友達のところが例外であって、本当は、思春期に詩を書きたくなるのは、女性特有の本能のようなものなんじゃないのかな?」

「男と女は、肉体的にまったく違ったものだよね。特に違う部分というのは正反対だったりする。でも、その二つは凸凹の関係であって、合わせると一つになる。それは、一足す一が二になるという単純な算数の計算では説明できない何かがあるような気がするんだ。女性にだけあるそういう習性というのは、男性の存在なくしてありえないものだと考えるのは、お兄ちゃんの考えすぎかな?」

 少しきわどい話になったのを、うまくごまかしながら話したつもりだったが、早紀はその時考え込んでいた。

「確かにお兄ちゃんの言う通りだわ。私もその意見には賛成なのよ。でも、女性には男性にない絶対的なものを持っている。それは良くも悪くも女性だけのものなのよね」

「子供を産めるのは、女性だけだからね」

「でも、そのために、男性には分からない苦しみがあるのよ。月に一度の生理もそうだし、子供が生まれる時の陣痛だったり、産みの苦しみだったりというのは、男性には分からないっていうわ」

「それだけ、女性は男性よりも肉体的には強くできているんだろうね」

「ええ、だから、精神的にも男性よりも女性の方がデリケートにできていると思うの。特にバランス感覚というのは、男性よりもいいんじゃないかな?」

「そのバランス感覚というのは、平衡感覚というだけではなく、精神と肉体のバランスだったり、精神の中でも相反するもののバランスであったり、ジレンマなんかもそうかも知れないね」

「だから、詩を書くという行為が、女性の中で神聖なものとして考えられるのも、不思議なことじゃないって思うの。詩を書く時というのは、目の前にある情景をまず自分ですべて受け入れて、そこから必要なものだけを抜き出すような気持ちになった時に書けるんじゃないかって私は思っているわ」

「僕は絵を描いている時も、目の前の光景をまず遠近感とバランスで考えるんだ。そして省略できるところがあるかどうか、考えるようにしている」

「絵を描くのって、省略しちゃいけないんじゃないの?」

「そんなことはないさ。必要ないと思ったものを省略して描くことだってある。逆に、省略してしまうと、見えていないところを想像して描くことになるので、そのあたりが、個性の発揮できるところではないかって思うんだ」

「お兄ちゃんは、最初に絵をどうして描きたいと思ったの?」

「その時は、何かのきっかけがあったと思うんだけど、今となって思い出そうとすると、どうにもハッキリしないんだ。それに絵を描きたいと本当に思ったのかどうか、怪しいものなんだ」

「でも、どこかで、本当に描きたいと思わなければ、描き始めることはなかったのよね?」

「それはその通りだと思うんだけど、本当に最初に思ったのは、絵を描けるようになれるといいなって感じた程度だったんだ。しかも、それはもっと小さな子供の頃で、そう感じた時もすぐに意識は薄れていった。そのくせ、その時のことは鮮明に記憶しているんだよな」

「その時の記憶が鮮明だから、絵を描き始めるきっかけになったことが曖昧なんじゃないの?」

「そうかも知れない。いや、きっとそうなんじゃないかって、最近はそう思うようになってきたんだ」

 健太は妹を正面から見つめて、そんな話をしたことを思い出していた。

「私も、実はまだ詩を書いているのよ」

 てっきり書くのをやめたのだと思っていたので意外だった。

「細々と書いているんだね?」

「ええ、書き始めた最初は、結構楽しくて、お兄ちゃんにも見てほしいって思っていた李したでしょう? それって結構恥ずかしいものだったのよ。でも、どんな顔されるんだろう? って思うと、ドキドキしていたの。だから見せた人の最初にどんな顔をするかというのが、一番の興味だったのよ」

 さらに妹は続けた。

「私が詩を書き始めた時、これは他の人も皆同じなのかも知れないけど、最初は、どんな詩を書けば皆が読んでくれるのかって考えるのよね」

「うんうん」

「そのうちに、何が書きたいのかっていう思いに変わってくる。そして、最後には、『自分に書けるものを書こう』という風に、気持ちは変わってきたの。つまりは、どんどん焦点が狭まっていくというか、対象がまわりから自分中心に移ってくるのよね。最初にまわりが読んでくれるような詩を書いて、専門家に認められると、それを職業にする人が出てくる。でも、それがダメなら、今度は自分発信で、書きたいものをまわりに見せようと考えるのよ。大体、ここまで来て書きたいものが見つからない人は、そこでやめてしまうと思うのよね。でも、私の場合は、そこからもう一つ焦点を狭めて、自分が書けるものという気持ちで考えると、結構気が楽になってきたの。評論家の人たちは、書きたいものを書けばいいというでしょう? 書きたいものってそんなに本当にたくさんあるのかなって私は思うの。自分発信で、まわりを見るのも限界があるって思うのよね。でも、書きたいものがなくても自分に書けるものってあると思うのよ。そう思うと気が楽になって、細々と続けることができたというわけなの」

「なるほど、早紀の言いたいことは分かった気がするよ。僕も絵を描いている時、同じような気持ちになったことがあった気がしたんだ。でも、それを認めるというのは、自分に描きたい被写体がないことへの言い訳のような気がして、描きたいものがなければやめなければいけないというのも、何かおかしい気がしたんだ。でも、早紀にそう言われると、お兄ちゃんも気が楽になってきた。やっぱり兄妹、考えることは同じなんだな」

 そう言って、ニッコリと健太は笑顔を見せた。

 しかし、その時同時に早紀の顔に翳りが見えたのを健太は分からなかった。いや、違和感は感じていたが、その表情の意味が分からなかったことで、自分では認めたくないという思いから、意識しないようにしていたのかも知れない。

 早紀と、そんな話をしたのを思い出しながら、玲子が詩に勤しんでいるという話を聞いていた。

「玲子さんは、詩を書く目的というのは、何かあるんですか?」

 健太の質問に訝しそうな表情をした玲子だったが、すぐに気を取り直したのか、いつもの表情に戻り、

「目的というのは、ハッキリとはないですよ。別に詩人になろうとか、詩集を出そうとか、同人誌のサークル活動しようかとまでは思いませんからね。たぶん、ずっと続けていると、そのどれかに当たるか、あるいは、コンクールに発表するような作品を作るかのどちらかになるんじゃないですかね。私はそのどれにも興味はないんですよ」

「じゃあ、趣味として細々とという感じですか?」

「そうですね。どこかに発表しようとも思いませんからね。自己満足の類だと思っていただいていいと思います」

 実は、この言葉にはウソがあった。

 ウソというよりも、言っていることにウソはないのだが、言葉が足りないというべきか、他に考えることがあるということである。

 玲子は、高校時代に付き合っている男性がいたのだが、彼が詩に造詣が深かった。同じ高校だったのだが、彼は文芸部に所属していた。その時に書いていたのが、詩だったのだ。

 玲子は文芸部に所属していたわけではないが、彼の詩は知っていた。文芸部で発行している同人誌で初めて彼の詩を見たのが最初だった。

 ちょうどその頃玲子は、

「私は何を書きたいと思っているのか?」

 ということをずっと考えていた。

 詩を書くのをやめようとは思っていなかった。しかし、詩を書き続けるためには、何が書きたいのかハッキリと分かっていないと続けていけないということを、信じていたのだ。

 そんな時、彼の詩を見て、規格外の作品に衝撃を受けた。表現も露骨で、掲載ギリギリの表現に、ビックリさせられた。

――一体、どんな人が書いているんだろう?

 と、まるで鬼畜のような人が書いているんだろうと思い、想像は妄想に変わっていった。

 ふとしたきっかけで、その作者を見ることができたのだが、そこにいたのは、精悍な顔立ちで、笑顔が似合う一目で見て、好青年を思わせた。

――こんな人がどうしてあんな作品を作れるのかしら?

 愛欲に塗れていたり、エログロの世界を短い詩に織り込んでいた。

 玲子は、自分がエログロな世界の作品を毛嫌いしたから、彼に興味を持ったわけではなく、詩のような短い文章で、いかにして誰もが顔をしかめるような印象を与えることができるのかということに興味を持ったのだということに気が付いたのだ。

 最初は明らかに毛嫌いしていたはずなのに、そのうちに彼の才能に魅了されている自分を感じたのだが、少なくとも、彼の雰囲気を見て、自分の見方が変わったわけではないと言いたかった。

 友達のつてを頼って、彼に接近した玲子は、やっと話ができる距離まで近づいた。玲子自身、自分がここまで積極的だったということに、初めて気づいた時でもあった。

「あなたの作品に、興味を持ちました」

 というと、

「女性からはいつも敬遠されるので、そんなことを言われるというのは複雑な気分ですね」

「あなたは、あの作品を誰に読んでもらいたいと思って書かれているんですか?」

「誰に見てもらいたいかって? おかしなことを聞くものですね」

「なかなかあれだけの刺激的な作品を受け入れてくれる人って、限られているような気がするんですよ」

「でも、あなたは興味を持ってくれたんでしょう?」

「興味を持ったというよりも、詩のような文法や文字数の限られた中で、よくあれだけの発想を与えることができるものだって感じたんですよ」

「なるほど、そういうことですね。私は逆に詩だからできたと思っているんですよ。もしあれが、ショートショートの小説だと難しいと思うんですよね。要はアクセントだったり、リズムだったりするんですよ。考えても見てくださいよ。歌詞のある音楽だって、決められた文法に限られた文字数でしょう?」

「でも、音楽の場合はメロディがありますよね。聴覚に訴えるだけの力が言葉以外にもあるんですよ」

「同じですよ。音楽だって、詩に合うメロディでなければ、印象に残ることはない。メロディがあろうがなかろうが、アクセント、つまり言葉の強弱ですね。それとリズムというところに、文法という発想が結びついてくるんじゃないでしょうか?」

「私は、最近まで詩を書いていたんですが、やめようかと思っていたんですよ。でもやめるのをやめます」

 そういうと、彼はニッコリと笑い、

「そういえば、女性は思春期になれば、誰もが詩を書きたくなるというのをご存じですか?」

「いえ、知りません。確かに私の友達は皆、一度は詩に興味を持ったのですが、それは男性も同じだと思っていました」

「確かに、僕のように詩に興味を持つ人もいますが、珍しいくらいですね。詩というのは攻撃的な感覚を持った人にはそぐわないようで、いかに、自分の感情を押し殺して描くことができるかということが一番難しいと思っています」

「なるほどですね。でも、女性にも攻撃的な感覚を持った人はいますよ」

「でも、男と女は絶対的に違うんです。男性にはなくて女性にあるものは結構あるでしょう? 例えば母性本能などそうですよね。つまり、子供を産むことができるのは女性だけなんですよ。そして、母親になれば、まずは子供を守ろうと考える。ここが男性とは違うところですね。女性が攻撃的になるのは、子供に危害が加わりそうな時、危害が加わらないように、外敵に対して攻撃的な態度に出るんですよ。でも、それは稀なことですよね。普段は子供のため、子供ばかりを見ていて、保守的になる。決して自分から攻撃はしない。ここでいう僕の『攻撃的』という意味は、『相手に対して攻撃する』という意味に限られるんですよ。だから、女性で攻撃的な人というのは、ありえないように思えるんですよね」

 彼の言うことは極端な話ではあったが、説得力には十分だった。少なくとも、玲子を納得させるだけの十分な説得力であった。

 そんな話をしているうちに、玲子は彼という人間に自分が興味を持っていることに気が付いた。

 彼には彼女はおらず、まわりからは少々変わり者と思われていることも分かった。

 もっとも、あんな詩を書くのだから、当然であろう。それだけ、彼のことを表面上しか見ていないという証拠であり、彼に限らず、世の中の女性は、皆表面上しか見ていないのではないかということを裏付けているように思えてならなかった。

 玲子が彼に興味を持ったのは、自分よりも女性のことを知っているからだった。それは彼が過去に何人かの女性とお付き合いがあったということかも知れない。少し嫉妬もするか、興味の方が大きかった。

 付き合い始めてから、やはり無理があったようだ。玲子の方から一方的に好きになり、彼はそれを拒否することもなく受け入れ、猜疑心がいつの間にか募っていることに気づいた玲子は、またしても自分の方から一方的に別れを切り出した。これに対しても彼は何も言わなかった。すべてが玲子の独壇場である。

 しかし、付き合っている時、ずっと玲子が主導権を握っていたわけではない。むしろ彼の意見が結構通っていた。我がままなところもある彼の意見をしっかりと聞いていて、献身的な面を持っていたくせに、その反面猜疑心や嫉妬を表に出すこともなく、密かにためていたのだった。

 そんな二人が付き合っていたと言えるのは、半年ほどだった。玲子の方では、

――自分で感じているよりも、長かったような気がするわ――

 と思っているが、彼の方ではどうだろう?

 長かったような気がするということは、まるでホットプレートの上に敷かれたクレープの生地のように平べったく、薄っぺらいものだったに違いない。

 玲子は、彼と付き合っていて、一つだけ知ったことがあった。それを、健太に話してみた。健太には、秘密にしたくなかったので、彼がいたことは話していた。

「前にね、付き合っていた人と一緒にいた時、一つだけ知ったことがあったんだ」

「それはどういうことなんだい?」

「私は彼の影響もあって詩を続けているんだけど、その時『女性というのは、思春期には誰もが詩を書きたい』と思うらしいって聞いたの」

「それは、僕も妹の早紀から聞いたことが話だな」

 健太はそのことなのかと思ったが、どうやらそうではない。玲子はさらに話を続けた。

「それでね。どうして女性が詩を書きたいと思うのかということよりも、まず、どうして女性だけなのかということを考えてみたの」

「それで?」

「女性と男性の大きな違いは、子供を産むか産まないかということでしょう? つまりは母性本能とつながりがあるのかなって思ったの。そして、詩を書きたいと思う時というのは、そのほとんどが思春期に共通していることだということで、その時の感受性と、自分の感性が一番養われる時だと思ったのね。感受性は持って生まれたものなのかも知れないけれど、感性は思春期のような成長期とともに一気に開花する。もちろん、その後もどんどん磨きが掛かってくるものだって思うんだけどね。そして、ここからは、彼と別れてから感じたことになるんだけど、女性というものは、男性に比べて、何かモノを作ろうとする『創造力』が強いと思うのよ」

「なるほど。だけど、男性にも『創造力』に突出した人はたくさんいるよ。芸術家にしても、研究家にしてもそうじゃないかな?」

 健太の言う通り、そんなことは分かっているつもりだった。しかし、玲子の考え方は少し違っていた。

「ええ、あなたのいう通りなんだけど、でもそれは個々の人間という意味ですよね。男性と女性という比較になると、男性全体に比べて女性全体の方が『創造力』に長けているということなんだって思ったんです」

「ということは、女性のほとんどはその『創造力』を持っているということですよね。でも、その力が表に出てきていないということは、せっかくの力を見逃しいているということなんでしょうね」

「ええ、気づいていないんですよ。そして男性のように貪欲になることができないので、せっかくの力を表に出すことができないでいる。そこも、女性と男性の違いと言えるのかも知れませんね」

「僕は、自分の中にあるかも知れない『創造力』を信じているつもりです。だから絵を描いているんだし、芸術家のほとんどは、『創造力』が自分の中にあると信じていないと、長くはやっていけないと僕は思うな」

「そのくせ、健太さんは新しいものに疎かったりしますけどね」

 と、皮肉たっぷりに笑顔で言った玲子に対して、苦笑いを返すことしかできない健太、ここでこの話はお開きになった。

 そんな話をしていた数日後、今年の暑さにうだりながら何とか、七月を乗り切った。まだまだ夏という季節は半分も過ぎていないというのに、健太は夏バテに入っていた。

 今までにも夏バテは何度か経験がある。小学生の時にも、中学時代も、そして高校時代にも一度はあった。大学に入って一年目はなかったのだが、二年目の今年のこの暑さには、健太でなくとも夏バテをしている人はたくさんいたのだ。

 夏バテをすると、今までもそうだったが、健太の場合、食欲がなくなってくる。それも極端で、それでも段階を経ての食欲低下なので、あまり目立たない。それだけに、人から指摘されることもあまりなかった。

 第一段階としては、米の飯を食べなくなる。米の飯というのは、口の中ですぐに粘ってくるので、それが夏の間には苦しくなるのだった。しかも、毎日食べていると飽きるというのも、辛いところであった。

 健太の性格的に、好きなものを集中的に食べて、それは飽きるまで続く。飽きてしまうと見るのも嫌になる性格なので、他の人に比べると、飽きるのも少し早くなっているのかも知れない。

 ハッキリ言って、夏のように食欲が低下する時期は、毎日食べているものは、すぐに飽きが来ていた。それが一番序実に現れたのが、米の飯だったのだ。

「もう、見るのも嫌だ」

 と思いながら、目を逸らしていた。見てしまって今までおいしそうだと思っていた匂いが今度は咽る原因になってしまうのだから皮肉なものだった。

「まるでつわりのようじゃないか」

 妊婦さんが炊飯の匂いで嘔吐を催すというシーンをよくテレビドラマで見たりしていたが、その気持ちは健太には分かる気がしていた。確かにバテている時は飽きがきている時でなくとも、嘔吐を催しそうに感じるのが炊飯の匂いだった。そこに飽きまで加わると、本当に食べれなくなってしまう。

 そうなると、何を食べるかといえば、冷やし中華やそうめんなどのような、夏独特の食べ物である。ダシには軽く酢ものが入っていて、あまり強いと嘔吐を催すので、高校時代までは苦手だったが、大学に入ってからは、冷やし中華など好んで食べるようになった。

 高校時代までにはなかった一段階が、大学に入ると存在する。さすがに冷やし中華が飽きるということはなくなっていた。

 しかし、それでも次の段階には高校時代までと同じで進んでいた。

 それは一日の食事の回数が減ってしまうことだった。

 元々、一日二食が主食だった。

 朝食を摂ることはしない。それは、米の飯を飽きるようになった理由の一つでもあるが、子供の頃、中学時代まで毎日のように決まって朝食というと主食は、

「ごはんと味噌汁」

 だったのだ。

 味噌汁はいいとしても、白米だけはすぐに飽きてしまった。

 ふりかけを掛けても、みそ汁を口に含んでごはんをかきこむというようなこともしてみたが、同じだった。

 悪あがきをすればするほど、白米に対しての飽きに拍車がかかり、

「見るのも嫌だ」

 という寸前まで行っていた。

 中学時代の途中から朝食を食べないようになって何とか、米の飯を嫌いになることはなかったが、飽きがくるまで食べなければいけなかったことへの思いは、一種のトラウマのようになっていたのだ。

 そんなわけで、中学時代の途中から、一日二食になった健太だったが、朝食を食べないからと言って、昼までに猛烈に腹が減るわけではなかった。むしろ、一日三食を食べていた時の方が余計にお腹が空いていたような気がするくらいだ。

――これなら最初から、朝食を食べなければよかったんだ――

 どうして、皆三食にこだわるのか分からなかった。

 そもそも、起きてからすぐなど、食べれるわけはないのだ。いくら歯を磨いたり、目を覚ますようにしていたとしても、口の中はまだまだ眠っていた時のままである。そんな状態に米の飯を詰め込むのは、少し無理があったのではないかと思っている。

 特に健太のところの米の焚き方は、水分が多く、柔らかめだった。起きてすぐの口の中では、今から冷静に考えると、気持ち悪さだけが残ってしまうように思えて仕方がなかった。

 昼食と夕食のどちらが食欲が湧くかというと、やはり夕食だった。夕食から次の日の昼食までの方がはるかに時間が経過しているのに、おかしなものだ。

――眠っている時間があるからだろうか?

 と思ったが、その考えも釈然としない。自分を納得させられる意見ではないような気がしたからだ。

 それが夏になると、夕飯が今度はきつくなる。

 昼食に、学食で冷やし中華を食べると、夕飯の時間まで腹持ちがよくなってしまっているからか、食欲が湧いてこないのだ。

 夏というのは、夕方になると一気にその日一日の蓄積した疲れを感じてしまう。

 夜になると、少し回復してくる気がするのだが、食欲だけは湧いてくることはなかった。

 夏に限らず夕方、いわゆる「夕凪」と言われる時間は、一日の疲れを一番感じる時間帯だった。それまでに、これでもかというほど差し込んでいた西日が建物の影に隠れてしまい、建物の後ろから執念深く空を照らしているのを感じると、そのうちにそれまで感じていた風を感じなくなる。無風状態を「凪」というのだが、普段であれば無風状態というものをあまり感じることもなかった。

 それなのに、無風状態を感じる時というのは、今度は夏に限ってのことなのだが、身体にベッタリと汗を掻いている時であり、いつの間にか、汗が冷えてきていて、下着が身体に纏わりついてくるのを感じた時である。

 自分では身体を動かしているつもりなのに、纏わりついてくる汗を払いのけることができず、まるで水の中でもがいているかのような無駄な動きのせいで、いつもより疲れを感じてしまう。

 意識はしていても、疲れをどうすることもできず、この気持ちをどこにぶつけていいのか考えていると、目の前のうっすらとオレンジ色に変わっている空にぶつけるしかないことに気づく。

 夕凪の時間に疲れを感じてしまうのは、そんな状態に陥った時だ。身体に纏わりついた汗が、風のあることを敏感に教えてくれるが、逆も真なりで、風のないことも教えてくれる。だから、夕凪という時間に敏感になれるのだ。

 風がないというのは、抵抗もないが、風による恩恵も得ることができない。疲れを感じている時に恩恵を受けることができないことを感じると、無性に諦めの境地が働くのか、身体の力が一気に抜けてしまうのだろう。

 疲れはそんな時に感じる。一日のうちで一番疲れを感じる夕凪の時間は、日中の疲れの蓄積を感じることで、やがてやってくる夜に備えるという意味もある。夜になってまで疲れを残してしまうと、睡眠に影響してくることを分かっているからだ。疲れたまま睡眠時間を迎えると、深い睡眠に入ることはできず。浅い睡眠の中で、普段は見ることのできない夢を見るだろう。

 そんな夢に限って怖い夢に決まっている。

「夢というのは、深い眠りの時に見るもので、浅い眠りの時に見る夢は、ろくなことはない」

 と感じていたのだ。

 夕凪の時間を夏の間は、ほとんどと言っていいほど感じてしまう。

 ただ、夕凪の時間を感じるのは、表にいる時だけだった。建物の中にいる時は、当然風のあるなしや、建物の影から空を照らす薄っぺらいオレンジ色の光を感じることができないからだ。

 それでも、食欲は湧いてくることはない。一日中表に出ることのない時は別だが、大学生が一日のうち、太陽が沈んでからしか出かけないなど考えられないと思っていた。

 ただの貧乏性なのかも知れないが、大学時代というのは、今までにないほど一番時間を無駄にしたくないと思っている時期だった。

 しかし、それは矛盾でしかなかった。

 大学に入って、それなりに遊びも覚えたし、

「無駄なことをしている」

 という意識を持った時間も存在する。

 存在するというよりも、そんな時間ばかりだと言ってもいい。それはなぜなのか、ずっと考えていたが、結論として湧いてきた考えは、

「これから先、何をしていいのか分からない」

 という考えがあったからだ。

 暗中模索という言葉があるが、大学生のように時間に余裕があり、社会人のように結果をすぐに求められるわけでもなく、その結果によって評価されるわけでもない四年間。自分でも、ぬるま湯を意識していた。

 もっとも、就活時期はそうも言っていられないし、テスト期間中は、真剣にテストに向き合う必要があるが、それ以外はぬるま湯でしかない。

 そのため、テスト期間中もぬるま湯体質が抜けていないような気がしていた。それによって自分の立ち位置が分からなくなり、先のことを考えるのが怖くなってしまっているのではないかと思うようになった。

 分かっているくせにどうすることもできない自分に苛立ちを感じ、まるで夕凪の中をさまよっているような気がしてくるのを、自覚していた。

 大学時代は、自分の甘い考えや、失恋などの、自分では納得できないことが生じると、その都度夕凪を意識し、最後には夕凪のせいにしていた健太が、夕凪の時間に疲れを一気に感じるようになったのも、その報いなのかも知れない。そのせいで食欲の低下にも繋がっているのであって、夏はほとんど毎日夕凪を感じるのだから、食欲がないのも当然だったのだ。

 そこに持って来ての今年のこの暑さ。猛暑を通り越して酷暑という言葉を、

「まったくその通りだ」

 と言わんばかりである。

「猛」と「酷」、どちらかが辛いのか、なかなか事例がなければ分からない。それは数の単位であったり、容量の単位にも言えることで、それだけ今まで馴染みのなかったものが、最近では恒例化してきたということであろう。

 以前はお風呂に入るのも、浴槽に浸からないと我慢できなかったが、今は浴槽に浸かるのが辛いほど、身体に熱を持っている気がする。シャワーで済ませる毎日が続き、

――浴槽に浸かりたくなった時が、酷暑を抜ける時なのかも知れないな――

 実際の体調もそれに比例し、食欲も少しは増してくるのではないかと思っている。

――そういえば、酷暑というのを体験したのはいつが最初だったのだろう?

 何十年か前に酷暑というのが話題になってから、数年おきに襲ってくるという酷暑。地球温暖化の影響なのかも知れないが、

「冬と夏のどっちがいい?」

 と聞かれた時、

「冬の方がいい」

 と答える健太にとって、酷暑というのは地獄以外の何物でもなかった。

 玲子と知り合ってからの健太は、それまでの孤独な時と違い、季節の変わり目や、身体に影響を与える変化などには敏感になっていた。したがって、数年前に感じた酷暑の時よりも、今年の方が辛く感じられる。それでも、玲子の前では痩せ我慢していたが、そんな様子は相手にも伝わるもので、

「暑い時は我慢しなくてもいいんですよ」

 と言ってくれた。

 しかし、それは同時に、自分が我慢するということは、相手にも同様の我慢を強いていることに気づかなかっただけだ。そんな簡単にことに気づかないなんて、信じられないことだったのだが、それを暑さのせいにしようとしたことで、余計に暑さが身に染みて感じられるようになってしまった。

 夏も八月になると後半である。

 七月はなかなか過ぎてくれなかったにも関わらず、八月の声を聞くと、そこからは結構早かった。あっという間に一週間が過ぎていて、街のあちこちで週末には小規模な祭りがあったりしている。

「昔はお盆を過ぎれば結構涼しくなったものなのにね。今は九月に入っても猛暑日が続いたりするでしょう?」

「そうだね。八月はただの通過点でしかないのかな?」

 そんな会話を早紀としたりしていた。

 朝からセミの声で起こされる毎日だった。部屋はずっと冷房を入れていて、窓は締め切っているのに、セミの声は響いている。

――夢を見ていても、聞こえていたのかも知れないな――

 と感じるほどで、

――セミの声で目が覚めたという夢を見ていたのかも知れない――

 と思った。

 やはり、締め切った部屋で冷房も入れている状態で聞こえてくるセミの声で目が覚めるなど、考えにくいことだった。セミの声で目が覚めたという夢を見ていると考えた方が、よほど理屈に合っているというものだ。

 その年の八月六日は土曜日だった。

 夏休みも半ばに入り、街に出ると、家族連れなどの群れの中に入り込んでしまい、人に酔ってしまうのも分かっていた。当然行楽地も同じで、こんな時は、映画でも見るのが一番いいのかも知れない。

 さすがに普段と比べて映画館も客は多かったが、満員というほどではない。クーラーも効いた中で映画を見ていると、表の暑さを忘れられそうで、健太は好きだった。昼頃から上映の映画を見て、軽く昼食を摂り、余った時間どうしようかと思っていると、

「美術館にでも行きませんか?」

 という玲子の誘いに、目を輝かせて、

「はい」

 と答えた健太だった。

 自分で絵を描くのと、美術館に芸術家の絵を見に行くのとは、健太の中では別次元のものだった。別にプロになりたいわけではなく、

「わが道を行く」

 という意識の強い絵画を趣味にしていたので、今までも美術館に近寄ることすらしなかった。

 したがって、デートの計画をする時、頭の片隅にも浮かばなかった。

 だからと言って、美術館に行くことに違和感があるわけではない。自分から率先して行こうとは思わないだけで、芸術家の絵を見るのは嫌いではなかった。

 ただ、自分の作品の参考にはしないというだけである。

――彼らとは、次元が違うんだ――

 と思っていたが、もし、自分と同じような考えを持っている人であれば、美術館には近づきたくないだろう。なぜなら、自分の作風に余計な影響を与えるからである。

 健太も、自分の作風に影響を与えることになると思う画家の絵は見たくないと思っている。しかし、自分の作品が我流で、基本的な考え方が違っているから影響を与えることはないと思っている。

 基本的な考え方として、「バランス感覚」と「遠近感」という発想に変わりはないのだが、それ以降の発想が違っていれば、健太は、

――基本的な考え方が違う――

 と認識していた。

 それは、相手の作品を見れば分かる。分かるようになったと言った方がいいかも知れない。

 これは最近会得したものだった。ただ、友達の作品に対しては百発百中で分かったのだが、他の人に通用するかは確証がない。しかしそれでも健太が、

――僕の中での才能――

 と感じていることが大切だった。

 その才能というのは、

――絵を見ただけで、最初、どこに筆を落としたか分かる――

 というものであった。

 中心部から描いたものなのか、端の方から描いたものなのか、分かってしまうのだ。

 他の人の作法は分からないが、健太の場合は、その時々で筆を落とす場所が違うということはなかった。

 もっとも、最初に絵を描くことができず、悩んでいた時、最初に描けるようになったきっかけは、

――筆を最初に落とす場所が確立されたからだ――

 と思っている。

 それまでは、同じ場所を何度も描こうとしても、途中で納得できずに諦めてみたり、描き上げても、最初に描いたものとまったく違っていたりと散々だった。

 違っていても一本筋が通っていれば、それでいいのだが、どうにも納得できるものではなかった。

――どこが違うんだろう?

 結構悩んだような気がした。

 しかし、それでも諦めなかったのは、

――あと一歩何かが分かれば、すべてが繋がるんだ――

 と思ったからだ。

 それが何なのか、最初は分からなかったが、それが最初に落とす筆だと感じたのは、何を隠そう、学校から美術鑑賞で見に行った芸術家の絵を見た時だった。

――俺なら、最初にここから始めるな――

 と、美術に興味も何もない連中が勝手なことを言いながら、芸術家の絵を見ていたその時の言葉だったのだが、

――何を勝手なこと言ってるんだ――

 と思いながら、何かモヤモヤしたものが頭の中にあり、それが晴れるのを待っている自分がいるのに気が付いた。

――これだ――

 と思って、目からうろこが落ちたかのように、絵を描くことができるきっかけをつかんだ瞬間だった。

 だが、この時の出来事は、絵を描くことができるようになっただけではなかった。実はこの時に感じたことがきっかけで、骨董の世界を垣間見たような気がしたのであった。

 そんな大事なきっかけがあった美術鑑賞だったのに、すっかり美術館にはご無沙汰していた。どうしても、

――我流の自分が余計な影響を受けてしまうのではないか?

 と考えたからで、今回玲子と美術館に立ち寄る前がいつだったかというと、記憶にないほど前のことだった。

――ひょっとすると、大切なきっかけを与えてくれたあの時以来なのかも知れない――

 と感じたほどだった。

――そういえば、早紀が興味深いことを言っていたな――

 というのを思い出した。

 詩を書いている早紀は、

「書きたいものを書くんじゃなくて、書けるものを書く」

 というような話をしていた。

 それは、健太が絵を描くのも同じで、もし、描きたいものがあって、それを目標に描いているのであれば、美術館に展示されている絵は参考になるかも知れない。しかし、健太は描きたいものがあるわけではなく、描けるものを描いているという妹と同じような感じで絵を描いていた。

 早紀には、

「お兄ちゃんも同じなんだよ」

 と言えなかったが、早紀が言わなければ、健太の方から、

「お兄ちゃんの描いている絵は、描きたいものがあるから描いているわけではなく、描けるものがあるからそれを描いているだけなんだ」

 と言っているだろう。

 ただ、その続きとして、

「絵を描くということが新鮮で、気持ちに余裕を与えてくれるから、それが好きなんだ」

 というに違いない。

 そういう意味では、本当に早紀が言っていた、

「書けるものを書く」

 という言葉と同じなのか、疑問であった。

 健太が美術館に立ち寄らなくなったのは、他の人の作品を見て、自分の作品に「迷い」が生じるのが怖かった。

 描きたいものを描いているのであれば、そんな気持ちにはならないかも知れない。しかし、少なくとも描きたいものではないものを描いているのだから、まわりの影響を受けないとも限らない。特に「芸術家」として名の売れた人たちの作品だということを先入観として埋め込まれて見てしまうと、自分の作品に劣等感を感じるのは必至ではないだろうか。健太はそのことが怖かったのである。

 健太も最初は、絵を描くための入門書や、ハウツー本を買ってきて、読んだりしていた。中には参考になることもあったが、どうしても客観的に見てしまい、それだけ狭く感じられた。

――どうしてその手法を用いなければいけないんだ?

 と疑問に感じることも多かった。

 画家の中には、そんな手法など関係なく、自分の感性で描いている人もいるはずだ。特に芸術家というのは個性が重要で、判で押したような標準的な話は、どこか筋違いに感じられた。

「芸術は爆発だ」

 と言った芸術家もいたが、まさにその通りだ。

 一つの型に押し込められると、爆発してしまう。そんな迫力がなければ、画家としてやっていけないだろう。

 入門編はあくまでも入門編で、学校で習う基本を書いているだけであろう。そう思えば参考程度に考えて、騙されたと思って本の通りにやってみると、意外と描けなかった人は描けるようになるのかも知れない。

 健太は、どうにも考えが飛躍しすぎるところがある。飛躍しすぎて疎まれるところもあるが、同じように思っている人たちからすれば、自分たちは控えめなのに対し、真っ向から言いたいことを言う姿勢の健太は、頼もしく見えることだろう。

 ただ、それも内輪のことで、絵に興味のない人に言っても、右から左で聞き流されるに違いない。

 健太はそれでよかった。サークルに入らずとも、絵を描く同人に知り合いが多かったのも、そのあたりが原因なのかも知れない。

 そんな健太の一面を知っている人はごく少数だが、少なくとも妹の早紀は、兄を見ていて、頼もしく思えているようだった。

 健太は美術館の絵を見ながら、どうして久しぶりになったのか、考えながら回っていると、時間が経つのが早かった。実際には一時間近くも中にいたのに、気分的には十五分程度しかいなかったように思えた。玲子は健太が一生懸命に見ていたからだと思っただろう。しかし、当の本人は、久しぶりに来たことから自分のことを考えていたなど、まさか思いもしないに違いない。

 表に出ると、日差しはさらに強くなっていて、意識が朦朧としてくるのを感じた。

「プルルルル、プルルルル……」

 電話の呼び出し音が鳴っているのに気が付いた。

――あれ? 僕の携帯かな?

 と感じたが、それより一寸早く、玲子が自分のカバンからスマホを取り出して、電話を取った。

「もしもし」

 と、玲子は相手と話し始めた。

 話が込み入りそうなので、玲子は少し離れて電話をしていたが、その時の健太は、すでに気を失いかけていた。

――耳鳴りがする――

 電話は玲子が出たので、呼び出し音がしているはずはないのだが、耳の奥に残っているようで、それが次第に消え入りそうになってくるのを感じた。

 目の前が真っ暗になってくる。目を瞑ろうとすると、毛細血管がまるでクモの巣のように目の前に張り巡らされていた。

――僕はこのまま気を失ってしまうんだろうか?

 と感じた時、膝から崩れ落ちるのを感じた。

 あとは、まわりの声が聞こえてきた。それは慌てふためいていて、尋常ではなかった。しかも、自分の顔に覆いかぶさるように数人の顔が見えていた。

――やめてくれ。このままならパニックになってしまう――

 そう思った瞬間、完全に意識がなくなってしまったようだ。気が付けば、さっきまでいた美術館のソファーの上に寝かされていた。さっきまで見えていた人たちの顔はなくなっていたので、まるで夢でも見ていたかのように思えたのだ。

「僕はどうしたんだろう?」

 と、頭に濡れタオルが置かれていたので、起き上がろうとした時、スルリと滑り落ちそうになったのを、かろうじて手で捕まえた。

「大丈夫? どうやら、立ちくらみを起こしたようなの。この暑さで参ってしまっていたのね」

 そう言って、ソファーの横で見守っていてくれた玲子がいるのを感じた。

「君が介抱してくれたんだね? ありがとう」

 と礼をいうと、玲子は恐縮したように、

「いえいえ、まわりにいた人が気が付いてくれて、皆でここに運んでくれたのよ。誰かが救急車を呼ぼうと言っていただけど、あなたが必死に、呼ばなくていいように言ったので、とりあえずここで休ませてもらうようにしたの。他の皆さんは、ここまであなたを運んできて、少ししたら顔色がよくなってきたのを見て、皆それぞれ安心して行ってしまったのよ。でもありがたいものよ。私一人だったら、あなたをここまで運べないから、救急車を呼ぶしかないものね」

 と言っていた。

「そうなんだ、本当にありがとう。僕もよく分かっていないんだけどね」

 とニッコリ笑うと、

「笑顔が出るようなら安心だわ」

 と言ってくれた。

「でも、おかしなものなんだ。僕は気を失っている時、救急車のサイレンを聞いたような気がしたんだ。てっきり救急車で病院に運ばれたんだって思ったけど、まさか救急車を拒否したとは思わなかった」

 そのことが、偶然とはいえ、健太に救いようのない後悔を与えることになったその時、一つの救いになるなど、その時は夢にも思っていなかったのだ。

 美術館のロビーで横になって天井を見ていると、

「こんなにここが気持ちいいなんて思いもしなかった」

 と感じた。

 美術館や博物館というところは、無駄に広くて、音響効果は抜群であるという認識はあったが、それ以外には、

――空調は整っているんだろうけど、どこか空気の流れはあんまりよくなく、息苦しさすら感じてしまう――

 と感じていた。

 しかし、今まで遠いとは思っていた天井だったが、意識して見たことはなかったので、こんなに遠いのに、手を伸ばせば届くのではないかと思えるような錯覚を感じるとは思ってもいなかった。実に不思議な空間なのだ。

 しかも、最初は空気は通らないもので、風は感じないと思っていたが、横になって天井を見ていると、自分の顔を撫でる心地よい風を感じることができる。息苦しさはなく、意識不明の状態から回復していく感覚が味わうことができるので、気持ちいいくらいだった。

「ありがとう、だいぶよくなったようだ」

 そう言って起き上がろうとしたが、

「まだいいわよ。もう少し横になっていた方がいいわ」

 と、手で起き上がる健太を制すると、健太の頭を自分の膝に持って行き、膝枕の体勢を取ってくれた。

「頭に血が昇らないように、こっちの方がいいかも知れないわ」

 後頭部に暖かく柔らかい太ももを感じると、心地よさから、睡魔が襲ってくるような感じだった。

 立ちくらみは何度も起こしていたので、立ちくらみを起こした時の記憶は、落ち着いてくるにしたがって、ある程度までは思い出せる。

 玲子に膝枕されながら、美術館の天井を見つめていると、天井が落ちてきそうな錯覚に襲われ、ドキッとしてしまった。その感覚が意識を取り戻すにはちょうどいい働きになったようで、意識は次第に前に遡って行った。

 表情が少し訝しくなっているのは分かっていたが、記憶を遡らせる時はいつもそうなので、それは仕方がない。玲子も敢えて健太の顔を見下ろすようなことはなく、館内を眺めていた。

――そうだ、携帯の呼び出し音が鳴ったんだ――

 そこまで思い出した時、自分の携帯だと思って取ろうとした時、自分よりも少し早く玲子が取ったので、

――玲子も同じ着信音を使っているんだ――

 と感じた。

 そして、玲子が電話を取るところの意識がないことから、健太はその時すでに意識が朦朧として、その場に崩れ落ちていたに違いない。

――待てよ――

 健太は、通常の着信音など、他にはなかなかいないと思っていたことから、携帯電話の音は自分に違いないと思って、取ろうとした。その時に迷いがあったわけではない。それなのに、携帯を取るのは明らかに玲子の方が早かった。今から思えば、電話が掛かってくるのを予期していたような感じだった。

「さっきの電話」

 健太は、天井を眺めながら呟いた。

 まさか、他の男からではないだろうか?

 そんなことを感じたために、言葉に出てしまったのだ。

「ああ、さっきの電話ね」

 玲子は、館内を見渡していた顔を下げ、優しく健太を見下ろした。

「うん」

 玲子には悪びれたところはないので、健太の思い過ごしだろうか?

「あれは、お父さんからの電話だったのよ。ここの美術館でデートするって話したら、お父さんも絵に興味があるみたいで、どの絵がいいのか分かっていたみたい。それで絵の感想を聞きたかったみたい。でも、本当は私のことが心配だったというのも本音なのかも知れないわね」

 と言って、笑顔で答えた。

 玲子の父親が娘を気にしていることは以前から聞いて知っていた。玲子としては、家族のことを知っておいてほしいということで結構早いうちから教えてくれていたので、意識しないといえばウソになるが、必要以上に気にすることはなかった。

「お父さんは、私が選んだ相手なら、問題ないって口では言ってるけど、内心は心配なんだって見ていれば分かるわ。でもね、お父さんもお母さんと結婚する時、おじいちゃんにも同じことを言われてずっと気にしていたらしいんだけど、実際に家に行くと、優しく迎えてくれたんだって、自分もそうなりたいって、いつも話してくれているわ」

 そういう話を聞くと、少し安心する。

 健太はその話を思い出しながら、玲子の言葉に安心していた。

――相手が他の男だったらどうしよう――

 などと考えてしまっていた自分が恥ずかしかった。

 玲子に膝枕されながら、自分の荷物を確認してみた。横には自分がいつも持っているお気に入りのショルダーバッグが置かれていた。

「あれ?」

 よく見ると、開きかかったカバンの中が点滅しているのが見えた。

――そうだ。あの時、電話に出ようとして、ショルダーバッグのファスナーを開けたんだった――

 すると、そこに光って見えるのは、携帯電話ではないか?

「カバン取ってくれるかい?」

 と、玲子に言うと、

「はい」

 と言って、玲子はカバンを渡してくれた。

 膝枕から起き上がった健太はカバンの中をまさぐりながら、携帯電話を見つけ、取り出した。

 パカっと開けると、そこには着信が一件あった。

「誰からだろう?」

 着信履歴を見ると、それは自分の母親からだった。ビックリして、リダイアルを押した。

着信はしているようだが、すぐには出てくれなかった。

――どうしたんだろう?

 気になって、一度切ったが、それから少しして折り返し掛かってきた。その声の慌てようは尋常ではなく、事の重大さを感じさせるものだった。

「健太、あんたどうして電話に出てくれなかったんだい?」

 血相を変えて食ってかかってきた。

「ごめん、実はちょうど立ちくらみを起こして、意識を失っていたんだ。でも、もう大丈夫だ」

「ああ、それならよかった。大至急、県立病院の救急センターまで来てくれないかい?」

「救急センター?」

 県立病院のしかも救急センターとは、確かに尋常ではない。

 しかし、家族の中に急病で運ばれるような病気を患っている人はいなかったはずだ。誰かが事故にでも遭ったのだろうか?

「ああ、詳しいことは来てから話すが、早紀が交通事故に遭って、病院に搬送されたんだよ。急いできてほしいのよ」

「分かった。とにかくすぐに向かうよ」

 県立病院までは歩いて行ける距離ではない。タクシーを拾うしかないのだが、うまく捕まればいいが……。

 事情を玲子に説明すると、

「それは大変、私も一緒に行くわ」

 と言ってくれた。

 玲子のことは家族皆知っていて、今日がデートだということも分かっていたので、玲子が来ても別に問題はなかった。

「美術館の表にタクシー乗り場があるけど、タクシーがいればいいんだけど」

 時間的に、夕方になっていたので、閉館時間がそろそろだった。タクシーが待機していてもいい時間ではあった。

 思った通り、タクシー乗り場に向かうと、そこにはタクシーが二台ほど待機していて、二人はそのうちの一台に乗り込み、

「すみません、県立病院の救急センターまで」

 と言って、タクシーを走らせてもらった。

 県立病院は、かなり広いので、目的の場所を言わないと、見当違いのところで降ろされたりする。しかも、総合受付のある正面玄関から緊急センターまでは少し歩かなければいけない。建物の中を行ったことは一度だったが、その時の記憶は相当昔のものなので、今では自信がない。表から行こうとすると、かなりの遠回りを余儀なくされるようだ。

 そのことも分かっていたので、健太は、的確に救急センターと告げることができた。運転手も分かっているようで、何も聞かずに車を走らせた。

 幸いなことに、美術館から病院までは大きな公園の中の施設になっていて、裏道を通れば、信号に引っかかることはない。ただ。それぞれに正反対の場所にあるので、歩くには無理があったのだ。

 約五分もあれば、到着した。

 タクシーには、先に玲子に乗ってもらい、自分が後から乗った。普段は逆なのだが、緊急事態ということで、このあたりは阿吽の呼吸だった。

「玲子、すまない」

「いいわよ」

 と言って、支払いを玲子に任せ、建物の中に一目散で入った健太を、両親が神妙な面持ちでソファーに腰かけて待っていた。

「ああ、健太。早紀がね。さっき交通事故に遭って、この病院に運ばれてきたんだよ」

 お母さんは慌ててそういったが、お父さんは無言だった。

「それで?」

「さっきまで、緊急手術が行われていたんだけど、とりあえずは成功したのよね。でも、血液が必要らしくて、あなたが来るのを待っていたの」

「僕の血液でいいなら」

 と言って、健太は母親に連れられて、病室に入った。

 痛々しい姿でベッドで眠っている妹は、本当に重病人だった。頭や腕に包帯が巻かれていて、片方の腕には輸血が、反対の腕には天敵が施されていた。見るに堪えない姿だった。

 担当の看護婦さんが、健太の血液を採血し、検査を行った。

 そして、

「こちらへどうぞ」

 と招かれて入った部屋で、血液を抜かれるようだ。

「献血などで気分が悪くなったことはありますか?」

 と聞かれて、

「いいえ」

 と答えた。

 しかし、よく考えてみれば、さっき立ちくらみを起こしたばかりではないか。このことは言っておかなければいけないことなのではないだろうか?

 健太は迷ったが、結局何も言わなかった。

 献血用の血液採取がまもなく行われたが、終わってから担当の医者に、

「今日明日くらいは、あなたも安静にしてください。献血の比ではないくらいに血を抜いていますからね」

「はい、わかりました」

 と言って、

「あの、妹は大丈夫なんでしょうか?」

 と、一番気になっていることを聞いてみた。

「ええ、もう大丈夫です。最初は血液が足りなくてそれが気になっていたんですが、あなたが来てくれたので、その心配もなくなりました。あとは回復に向かうばかりですから、安心してください」

「それはよかった」

 というと、医者は、

「では、あなたもお大事にしてください」

 と言って、踵を返し、部屋を出て行った。

 健太が血を抜かれた部屋は処置室のようで、ベッドがあと二台あったが、誰もそこにはおらず、部屋の中には健太一人が残された。

 やっと冷静になって考えることができた。すると、記憶は、自分が立ちくらみを起こしたあの時に戻っていたのだ。

「あの時、玲子の電話だと思っていたけど、ひょっとすると、一緒に僕の電話も鳴っていたのかも知れないな」

 と思った。

 健太の電話は、何度かコールを繰り返すと、自動で留守番電話に繋がる仕掛けになっていたので、一度留守電になってしまうと、二度目からはそちらにしか繋がらない。そう思って自分の携帯を見てみると、確かに留守番電話に掛かっていた。内容は残されていなかったようだ。

 留守番電話に掛かる時は、二、三度のコールで留守番電話になるので、玲子も電話に気づかなかったのかも知れない。もし、気づいていたとしても、二、三度のコールで切れるのだから、大した用事ではないと思ったことだろう。玲子を責めることはできない。

「それにしても、間に合ってよかった」

 健太は、ホッと胸を撫で下ろした。

 そこまで考えたところで、扉がガラガラと開いて、誰かが入ってきた。

「大丈夫?」

 その声は玲子だった。

「ああ、大丈夫だよ。結構血を抜かれたけどね」

「えっ? 大丈夫なの? あなた、さっき立ちくらみを起こしたばかりなのよ」

 立ちくらみの場面を目の当たりにした玲子だから言えることだろう。当の本人は、意識がなくなり、倒れ込んだので、どれほどの状態だったのか、想像もつかない。

「うん、大丈夫。ゆっくり寝ていればいいらしい。ところで早紀の方はどうなんだろう?」

 医者の話で大丈夫だということは分かったが、実際にさっきの痛々しい姿を見ているので、本当の安心には至っていない。

「ええ、大丈夫。さっき少し意識を取り戻して、ご両親と、そして私のことは分かったみたいだったわ。その時、『お兄ちゃんは?』と言ったんだけど、お父様は、『そこまで分かっているんだから、大丈夫だと』と言ってくださったの」

「それはよかった。僕が別室にいることは?」

「ええ、伝えているわ。健太さんも起きれるようになったら、行ってあげてほしいわ」

 そういって、玲子はニッコリ笑った。

「今すぐ行ってみたいない」

「大丈夫?」

「ああ、車いすでもあれば、行けるだろう」

「私、聞いてきますね」

 玲子は、ナースステーションに車いすを聞きにいった。そして帰ってきた時には、看護婦と車いすを伴って帰ってきたのだ。看護婦に手伝ってもらって車いすに移動してもらうと、車いすを玲子が押してくれるということで、

「じゃあ、後はお願いします」

 と、看護婦は玲子に告げ、自分の仕事に戻って行った。

「車いすに乗るなんて、初めてだな」

 というと、

「やっぱり違う?」

「ああ、世界が違って見えるようだ」

 ウソではなく、本心からの気持ちだった。

 車いすというのは、思ったよりも振動があるようで、結構腰に感じるものがあった。段差などがあれば、結構響くようにできているのかも知れない。

 妹は手術も成功し、意識も取り戻したことから、集中治療室から、個室へと移動していた。輸血した場所からは結構離れていたので、普通に歩いても遠く感じたであろうが、車いすでの移動であれば、さらに遠く感じられた。

 病室に行くと、扉は少し開いていて、そこには見慣れない男性二人組が、妹に向かって話しかけていた。その様子は見ていてあまり気持ちのいいものではない。どこか事務的なものを感じたからだ。

 しかし、それでいて顔は真剣そうに見えた。一体、どうしたことなのだろう?

 両親は表で中の様子を心配そうに見守っていたのだが、車いすに乗った健太を玲子が押してくるのを見て、そちらの方が心配になったのか、

「あなた、大丈夫なの?」

 母親は、すかさず健太に近づいた。

「ああ、大丈夫だ。結構輸血が必要だったようで、少しフラフラすることもあって、車いすを使っているだけさ」

 夕方、立ちくらみ起こしたことは電話で話していたが、あまりの状況の変化に、そのことはすでに覚えていないかも知れない。

 それならそれでよかった。妹のことに加えて自分のことまで余計な心配を掛けたくなかったからだ。ただ、父親は母親よりも冷静なようで、

「なるべく栄養のあるものを摂った方がいいぞ」

 と、普段はあまり口出ししない父親が口を開いて忠告してくれた。

「うん、分かった。ありがとう」

 と言って、今度は母親の心配そうな顔を見ていた。

 やはり冷静になっているであろう父親が、またしても口を開いた。

「中にいるのは刑事さんなんだ。どうやら、早紀はひき逃げにあったらしい。警察の方としても、早紀の意識が戻るのを待っていたようで、それで事情を聴いているんだ」

 なるほど、そういうことであれば理屈も分かる。

 妹の早紀は、結構慎重派なので、普通に交通事故に遭うというのもおかしな話だと思った。

 車同士の衝突事故に巻き込まれるか、あるいは、飲酒や酒気帯び、最近であれば、携帯やスマホを弄りながら運転していた運転手の運転ミスか、そのどれかが原因ではないかと思えた。

 ひき逃げということは、やはりそれだけ運転していた本人も、捕まると困る何かがあったに違いない。同情の余地のない相手だが、警察の捜査で捕まえてくれればいいと思った。もし、警察が捕まえられなければ、絢太は車を運転する人皆を憎むようになるかも知れない。

 今はアルバイトをして、免許取得のための教習所代を稼いでいる途中だったが、この事故の健太に対しての精神的な影響はかなり大きなものだった。刑事が犯人を捕まえられるかどうか、大きな問題なのだ。

「お疲れのようですので、今日はこの辺りにいたします。もし、また何かありましたらお伺いします。そして、梶谷さんの方からも、何か思い出されましたら、遠慮なく私どもの方にご連絡ください。それではお大事にしてくださいね」

 そういって、刑事は一通りの聴取を終えたのだろう。部屋を後にした。その様子を見た健太は、

「犯人逮捕の方、どうぞよろしくお願いいたします。僕は、犯人が許せません」

 というと、刑事は笑顔で車いすの健太の型を軽く叩いて、

「お兄さんですね。お気持ちはよく分かります。ここから先は警察にお任せください」

「頼みましたよ」

「かしこまりました。それでは」

 と言って、二人の刑事は帰って行った。今の段階では、あの二人に任せておくしかないのだ。

 妹の身体は、思っていたよりも回復が早かった。それよりも妹によってはリハビリの方がきつかったようで、

「リハビリって、甘く見ていたけど、結構大変なのよね」

 と、口ではそう言いながらも、汗を掻くことにあまり抵抗はないようで、見た目のきつさよりも、本人にとってはそうでもなかったのかも知れない。

 数か月ですっかりよくなった妹は、後遺症も残っておらず、医者からも、

「もう安心ですね」

 というお墨付きをもらっていた。

「あんた、本当に大丈夫なの?」

 という母親の心配をよそに、妹は元気に回復していた。

 母親の心配については、健太にはその理由は分かっていた。交通事故に遭った時の状況はほとんど分かっていないからだ。警察から犯人が逮捕されたという話も聞かないし、何よりも、目撃者がほとんどいないところでの事故だったのだ。車の急ブレーキの音と、妹の悲鳴で駆け付けたのが最初の発見で、現場に第一発見者が駆け付けた時には、すでに車は立ち去っていて、倒れている妹が取り残されただけだった。まわりには血痕が飛び散っており、悲惨な状態だったに違いない。

 警察の人に捜査をくれぐれもお願いしたが、実際の状況を後で聞いたところでは、

――これでは、真犯人を見つけ出すのは、ほぼ困難だ――

 としか思えない状況で、健太も家族も状況の好転には期待していなかった。

 健太は、まわりの人のことよりも、自分のことが問題だと思っていた。

――あの時、立ちくらみを起こしてしまったことはしょうがないとしても、携帯の着信音に気づかなかったのは、僕の不覚だった――

 まさか、玲子が同じ着信音にしていたとは思わなかったが、それよりも、電子音の特徴に気づかなかったことが問題だったのだ。

「電子音というのは、どこから鳴っているのか分かりにくい特性があるんですよ。だから、同時に同じ音が鳴り始めると、一緒に鳴っているという意識はなく、ステレオ効果になっていることに対し、別に疑問を持たなくなる。それが問題なんじゃないですか?」

 と、その時の状況を話した人にそう言われた。

「携帯音を別にしないといけないですね」

「そうですね」

 そう言って、健太は携帯の着信音を別のものに変えた。ただ、スマホにする気にはなれなかったので、ガラケーのままで着信音を変えた。

 着信音は、かつて妹とカラオケに行って歌ったことのある曲だった。それは、健太が高校時代に流行ったバラードだった。

「携帯の着信音、変えたのね」

 玲子は、静かにそう言った。

「ああ、妹が好きだったんだ。この曲」

「そう。妹さんが」

「うん」

 その頃には、妹が交通事故に遭った時のような感情が、玲子との間にはなくなっていた。今から比べれば、その頃は熱愛だったと言ってもいい。今は会うことも少なくなってしまい、冷え切った関係と言ってもいいだろう。

 早紀が交通事故に遭った時から、お互いにぎこちなくなってはいた。

 玲子は玲子なりに責任を感じていたようだ。それは着信音が同じことで、健太が電話に気づかなかったことを分かっていたからだ。

 しかし、健太はそのことに触れようとはしなかった。もちろん、玲子が悪いわけではないので、健太がそのことで玲子を責めるというのは筋違いなことなのだが、玲子としてみれば、何も言われないのも、息苦しさを感じていた。

 健太は何かというと、

「妹が心配だから」

 と言って、二人で会っていても、妹のことを心配していた。

 付き合い始めから分かっていたことだが、ここまで妹に肩入れしている健太を見るのが次第に疎ましく感じられるようになっていたのだ。

 健太の方も、玲子と一緒にいながらでも妹のことを気にしているのは、玲子に悪いという意識はあった。しかし、それでも妹のことを気にしないではいられない自分の性格が健太には溜まらなく自己嫌悪に陥るところだった。

――俺はどうして、こんなに妹のことが気になるのだろう?

 医者からも、

「回復は順調です」

 と聞かされているのに、この心配症は妹に関して異常であることは分かっていた。

 まわりの反応も芳しくなかった。

「あいつは、妹に対して異常なほど意識過剰だ」

 と言われていたが、事情を知っている人は、健太に同情的だった。

「携帯の着信に気が付かなかったことが、あいつの負い目になっているのかも知れないな」

 しかし、その反面、着信音をそれからも変えなかったことに対して、まわりの人は不思議に思っていた。一番最初に対応すべきことなのに、なぜかしばらくは普通の着信音だった。着信音の特性に気づいていないわけはないはずなのに、どうしてなのか、誰にも健太の心の奥が分からなかった。

 そのことと直接の関係があったのかどうか分からないが、早紀は短い間、記憶が欠落していた。欠落していた記憶は実に限られたものであって、そのことを知っていたのは、健太だけだった。

 早紀が記憶の欠落があった時期というのは、三か月ほどのことだった。しかも、その欠落していた内容は、そのすべてが、健太と二人しか知らないことに限られていたのだ。だから、他の人は誰も早紀の記憶が欠落していたなどという事実を知らない。健太もすぐには気づいたわけではなく、早紀と一緒にいて、微妙な違和感が襲ってくるのに気づいたことで、何かの虫の知らせでもあったのか、子供の頃の二人しか知らないような話をしてみると、早紀はすっかりその内容を忘れていたのである。

 いや、忘れていたというよりも、最初から記憶されていなかったようであった。

――記憶喪失なのか?

 と思うほど、記憶にないことへの違和感が、早紀の態度から感じられなかった。

 健太にとって、早紀との子供の頃の記憶は神聖なもので、他のどんな記憶よりも新鮮だと思っていた。もちろん、それは早紀も同じことで、早紀が覚えていなかった記憶の話も、去年、思い出したように話をして、盛り上がったのを覚えていた。それをまったく覚えていないというのは、信じられることではなかった。

「目の前にいるのは、妹の早紀ではない」

 と言われた方が、よほどマシだと思ったほどだ。

 あれは、健太が高校生になってから少ししてからのことだったから、早紀はまだ中学生になった頃くらいだったのではないだろうか。近くを流れる大きな川で、毎年恒例の花火大会が行われた時だった。

 毎年、場所の確保は執事が手配してくれていて、車の中から見ることのできる場所をキープしてくれていた。

 本当のベストポジションではなかったが、それでも、人ごみに紛れて苦痛の中見ることがない分、楽ではあった。

 本当は高校生や中学生であれば、友達と仲間で行くのが楽しいのだろうが、一緒に行くような友達が二人にはいなかった。いつも兄妹一緒だったからだ。

 健太は、そんな人混みが大嫌いだった。うるさいだけで、何がそんなに楽しいというのだろう? 会話を聞いていても低俗な話ばかりで、どうしても冷めた目でしか見ることができなかった。

 実際に冷めた目で見ていると、いかに自分たちが狭い範囲で好きなことを言っているだけなのか分かっていないことがハッキリと分かる。

――あんな連中と、僕とは違うんだ――

 この思いは妹の早紀に対してもあった。

――僕があんな低俗な連中から、妹を守るんだ――

 と思っていたからだ。

 早紀を見ていると、健太ほど、まわりに対して偏った目で見ているわけではないが、少なくとも冷めた目で見ていることは確かだった。

――早紀の目には、何が見えているんだろう?

 と感じずにはいられなかったが、どんな時でも早紀の表情と目は、まっすぐで、疑念を感じさせるところは一つもなかった。

 それこそ、「お嬢さま」と言われるにふさわしい女性だと信じて疑わなかった。

 その時の花火大会で、早紀は初めて、

「もう少し近くで見てみたい」

 と言い出した。

 執事は最初は反対したが、二人きりではいけないので、もう一人の執事と二人が一緒についていくことを条件に、渋々であったが、賛成してくれた。

 車を河川敷の定位置に置いて、少しだけ河原に近づいた。その場所は、他の人が入ってくる場所ではなかったので、人ごみに揉まれることはなかった。ただ、スタッフが忙しく立ち回っているところであったので、邪魔にならないようにしないといけないし、その中で二人を警備しなければならなかった。

 健太は、そんなことまでは分からなかったので、妹と二人で夜空を見上げて楽しんでいた。

 楽しい時間はあっという間に過ぎると、早紀はその時、自分の中で何かが弾けたような気がしたようだ。

 普段は、早紀の方が兄の健太よりもしっかりしていた。冷静さという意味では健太はおろか、早紀の右に出る人を健太は知らなかった。もちろんそれは大人を含めてのことで、妹を守らなければいけないという思いの裏に、妹に対しての敬愛の念があったことを健太は自覚していた。

 ただ、その日から早紀は明らかに変わった。

 それまでは趣味らしいものもなく、習い事だけをこなしている毎日だったが、詩に興味を持ち始めたのはその頃だったように思う。

「詩を書いている時って、私は一番自分らしいって思うのよ。こんなことを感じたのは初めてだわ」

 記憶の欠落が見られたのは、このセリフにある詩を書き始めたきっかけだった。

 花火を見に行ったことは覚えているし、中学時代、詩に興味を持って書き始めたのも思えている。しかし、どうして詩を書きたくなったのかということは覚えていなかった。健太も、妹が詩を書きたくなった理由に、前日の花火大会が影響しているのは分かっていたが、書こうと思った本当の理由までは知らなかった。知っているのは早紀一人だったのだ。

 しかも、早紀が詩を書くようになったのを皆が知ったのは、早紀の詩が新聞のコンクールで入選したからだった。それまでは健太だけが詩を書いているのを知っていて、早紀が新聞コンクールに応募したことさえ、健太は知らなかったのだ。

 早紀はコンクールで入選したのは覚えていたが、どうして応募を思い立ったのかということも忘れてしまっている。

 早紀の記憶が曖昧なのは、何かをした、あるいは始めたという記憶はあるのに、そのきっかけになる心の変化を覚えていないかったのだ。

 早紀が何かをするためのきっかけになることが、形になって現れたのを分かっているのは、花火大会の次の日から、詩を書こうと思った時だけだった。それ以外の時は、いつも突然で、心の変化だけで行動に移るので、さすがの健太も、掴めないところがあった。

「お兄ちゃん、私が何を考えているか、分からないでしょう?」

 といつも言っていた。

「ああ、いつも早紀は突然何かを始めるから、心の準備もできていない。困るんだよ、それじゃあ」

 と言って、軽く頭を撫でたりしたが、早紀に悪気があるわけでも、健太に、相手を叱るという思いがあるわけでもない。まるでじゃれ合っているだけのようだ。

 それが兄妹の絆といえば、それまでなのだろう。

――二人のことは、他の誰にも分からない――

 という思いが、健太にいつしか、

――僕には早紀だけがいればいいんだ――

 という気持ちにさせた。

 だが、いきなり健太も何の前兆もなく、彼女ができたのだ。

 玲子と付き合うようになった時、それなりに順序立てての付き合い始めだったはずなのに、後から思うと、いきなりだったように思えて仕方がない。

 途中の経過は覚えていて、健太の中で、ワクワクしていた気持ちがよみがえってくるのだが、本当にその時に感じたものなのか、分からなかった。

――どこか微妙に違っているような気がする――

 その思いは、早紀に記憶の欠落を感じた時、同時に自分にも、

――記憶の欠落があるのではないか?

 と無意識にだが思ったことで、感じたことだった。

 早紀の記憶の欠落が、三か月ほどだったと感じたのは、健太の中でいきなりだと思っていたことが、繋がるようになったからだ。玲子と付き合いだした時の気持ちの動きを思い出すことができるようになったことで、

――早紀も欠落した記憶が戻ってきたのではないか?

 と思い、早紀に聞いてみると、欠落していた部分の記憶が繋がっていたようだ。

「お兄ちゃん、思い出したみたい」

 と口では言っていたが、本心は、

――記憶が欠落していたなんて、私の意識にはないのにな――

 と感じているに違いない。

 なぜかというと、同じ思いを自分も感じているからだった。欠落していたという事実は覚えているし、どこが欠落していたのかも覚えている。しかし、繋がってしまうと、

――いきなり――

 と感じていたことがまるでウソのようにしか思えないのだ。

「大丈夫かい?」

 健太は、自分の身に起こっていることが、形は微妙に違っているが、早紀の中でも起こっているように思えてならなかったのだ。

 そんな思いがあったこともあって、健太は早紀が事故に遭ったあの日、そして、偶然なのか、自分が立ちくらみを起こしたあの日から、

「変えてはいけないもの」

 が存在するということを感じていた。

 本当は変えないといけないと思っていることこそ、その存在なのではないかと考えると、一番最初に頭に浮かんだのが、携帯の着信音だったのだ。

「着信音を変えるとしたら、早紀の欠落した記憶が戻ってからにしよう」

 と、早紀にだけは言っていた。

 だから、早紀は兄の携帯の着信音が変わっていないことに何も感じなかったのだ。

 ただ、早紀もさすがに、自分が感じていることを、形を変えて同じように兄の身にも起こっていることを知らなかった。知っていたからどうなるというわけではないが、ただでさえ交通事故の後で、神経がデリケートになっているところに、余計な気を遣わせることはないと思った健太は、何も言わなかった。

 幸いに、健太のことは早紀にしか、早紀のことは健太にしか分からない。もし、他の人が知っているとしても、それは表面上の二人しか見ていないからだ。二人の間には引き合うものがあるが、その引き合うもののまわりに他の人に知られないようにするための膜が張られていることに、誰も気づくはずはなかった。健太には分かっていたが、早紀には分かっていなかったに違いない。

 健太は着信音を変えた頃、玲子とは完全に冷え切っていた。

 健太は最初から玲子と別れても、自分は別にショックを受けないと思っていたが、そんな健太を見て玲子は、

――この人にはついていけない――

 と思うようになっていた。

 そのことにいつ一番最初に感じたのかというと、

――美術館で膝枕をした時だわ――

 と思っていた。

 本当なら、膝枕をしてほしいなどという話を男性がしてくれば、

「これでいよいよ二人は先を見据えたお付き合いができる関係になったんだ」

 と感じるであろう。

 しかし、あの時玲子の膝の上に置かれた健太の頭はやけに軽かった。明らかに、健太が遠慮して頭を預けてきていたのだ。

 それなのに、自分から膝枕をしてほしいなどというのは、矛盾している。玲子は最初に頭を感じた時に、違和感がいっぱいだったのだ。

 しかし、健太の表情は、感無量の表情をしていた。完全に頭を預けている気持ちになっている表情である。

――どうして、そんな顔ができるの?

 玲子は不思議で仕方がなかった。

 そもそも、どうして膝枕なのか分からない。他の人ならいきなり膝枕は言ってこないだろう。

――それなのに――

 玲子は、彼の立ちくらみの瞬間を思い出していた。

 目の前で白目を剥いて、いきなりその場にひれ伏して、そのまま倒れたのだ。

「大丈夫?」

 叫んでもすぐには返事がなかった。

「誰か、救急車」

 と言いかけた瞬間、健太は意識を取り戻し、

「救急車はいい」

 と言った。

「でも……」

 というと、

「いいんだ」

 と、力のこもった声で彼は答えた。

 確かに救急車を呼ぶほどではなかったが、結果論として、その時救急車を呼んでいれば、消防署には救急車はいなかったことになり、早紀の搬送が遅れていたかも知れない。

――健太さんは知っていたのかしら?

 と玲子は思ったが、それ以上考えることは、踏み入ってはいけない領域に踏み込むようで怖い気がしたのだった。

 それからの健太の行動は、玲子の想像を超えていた。玲子自身、自分の発想は独特なものだと思っていたのもあって、彼氏に対しての要望も、少し凝り固まったところがあると思っていた。

 しかし、そんな玲子だったが、妹が交通事故に遭い、自分も同じ日に立ちくらみに遭ったその日から、明らかに健太に対しての目は変わったのだ。

 立ちくらみに遭ったその日だけでも、玲子にとっての想定外の出来事がいくつもあった。もちろん、考えすぎの部分もあったことだろう。

 だが、それが玲子の他の人と違うところで、自分独特の発想だと思っていた。そして玲子の発想は、自分に対して、

「もう、これ以上の接近は、健太とはない」

 と告げているように思えてならなかった。

 しかし、玲子の中には、もう一人、そんな自分に対して反発したい自分も存在した。どちらかというと、否定的な性格の自分に対し、相手に対して温和な態度を取りたい自分である。その時の心の葛藤は表に見えないように、心の中で行われるので、まわりからは、やけに暗く見えていた。

 これは玲子に限ったことではなく、普段明るい人が暗く見える時というのは、躁鬱症の鬱状態でなければ、自分の心の中の葛藤から、表に気持ちを出すことができず、自分の中を見つめることしかできないことで、内に籠ってしまっている場合が多いのではないかと、考える人もいることだろう。

 健太は、そんな玲子の心の葛藤が分からなかった。

 健太は健太で、自分が着信音に気づかなかったことで、妹に対して感じる罪悪感が取れることはないと思ってしまい、少しでも、妹と一緒にいてあげることだけを考えるようになっていた。いくら彼女とはいえ、そんな状態で、玲子のことを考える余裕など、なかったのである。

 玲子の方は、葛藤しながらでも、まわりを見ることができるという意味で、まだ健太よりマシかも知れない。

 健太は自分の心の中で、出口を探して堂々巡りを繰り返していた。

 しかし、健太が今のままでは、どうあがいても、出口から表に出ることはできない。なぜなら、健太は出口が見えているからだ。

 健太の見えるその先には、出口があった。

 出口というのは、遠くに見える小さな光なのだが、小さな光を出口として認識できない理由は、

――光を光として見ることができない――

 そんな状態にいるからだ。

 どうしてそんな状態にいるのかというと、健太は心の中で、

――僕は今のままでいいんだ――

 という思いをその中心に持っていたからだ

「妹を助けて生きて行かなければいけない」

 と考えた時点で、健太は、自分を殺すことを一番最初に考えた。

 自分を表に出してしまっては、まず自分を保身してしまうことを分かっていた。それは自分が弱いと思っているからだ。

 きっと、自分と自分にとって大切だと思っている人が一緒に危機にさらされた時、自分を犠牲にしてまで、その人を助けるために、死をもいとわないと思うことができるだろうか?

 究極の選択に、答えなどあるはずなどない。その時になってみなければ、分かるはずもないのだ。

 それもよく分かっている。分かっていて、それでも悩んでしまうと、目の前に見えているはずの出口さえも、見えない状況にしてしまっているのだ。

 本当は見えているのに、自分からその出口をくぐることを拒否している。出口をくぐって、一歩先に行くことが怖いのだ。

 出口を超えるまでに得ておかなければいけない結論があるはずで、その結論が通行手形となって、関所を超えることができるはず。

――ああ、またしても、同じようなことを、永遠に考えてしまって、気が付けば、最初に戻っているんだ――

 と感じた健太は、やはり、出口を意識しているに違いない。

 健太は、玲子との別れを意識しながらも、ズルズルと来てしまった。

 別れたくないと思っているからではない。きっかけがないという理由にならない理由を何とか理由にくっつけようとするのだが、それができなかった。そのきっかけになったかも知れないのが、着信音の変更だった。

「気になっている妹との思い出の曲」

 玲子にとっては、屈辱的な思いではないだろうか。

 健太は、別れを玲子から言い出すのを待っている。健太の友達なら、

「女の方から別れを切り出されるのは、男としては嫌だな。ここは格好よく、俺の方から引導を渡してやるっていうのがいいんだ」

 というに違いない。

 その友達は、今までに何度も、女性から別れを告げられていた。理由としては様々で、何とか相手を傷つけないような言い訳を考えての別れだったり、今までの鬱憤を一気に晴らすかのように、数々の捨て台詞を浴びせられての別れだったりで、その時々でショックの度合いも違っていた。

「だけど、少し時間が経ってしまうと、どんな別れを切り出されても、感覚は同じなんだよな。ひどいことを言われても、そこは自分が冷めた気持ちにさせることで、中和しようとしたり、気を遣ってくれた相手に対して、自分がどれほど傷つけていたかを思い知らされたりと、結局行き着く先は同じだということさ」

 と嘯いていた。

「そういう意味でも、こちらから引導を渡すというのはどんな気持ちなのか味わってみたいものだ」

 と言っていた。

 しかし、普段自分から別れを切り出さない人から見れば、羨ましいらしい。

 こちらから別れを切り出すと、必ず相手はすがりついて泣くらしい。

「そりゃそうだろうな。寝耳に水の状態でいきなり地獄に叩き落されれば、そんな気持ちにもなるさ」

 というと、

「でも、そんな時に、女の弱さ、悪い意味での弱さなんだけど、それが見えてしまうんだ。見たくないものを見せられる身にもなってみろよ。こちらから引導を渡して正解だったと思うさ。けど、虚しさが消えるわけではない。自分から別れを言い出すことは、もうしたくないと思うんだけど、繰り返してしまうんだよな」

「それが、お前という男のいいところでもあり、悪いところなのかも知れないな」

「長所と短所は紙一重だっていうからな」

「ああ、まさしくその通りだ」

 男女の別れに際して、いろいろな意見を聞いていた健太だったが、玲子との間では、相手に言わせたいと思っていた。

 その理由に関しては、分かっているつもりだった。

――僕には、早紀がいる――

 それが理由だった。それ以外にはない。もし、それ以外にあったとしても、最終的には早紀がいることに繋がってくるだけのことだと思うようになっていた。

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