二度目に刺される

森本 晃次

第1話 妹の早紀

「古いモノにこそ、新しいモノにはない情緒というものがあるんだよ」

 と豪語するのは、梶谷健太という大学生だった。

 スマホ全盛のこの時代に、いまだガラケーを使っていて、

「別に困らないから。何かを検索したい時には、パソコンがあるし」

 とまわりに吹聴している、いわゆる「アナログ人間」であった。

「もし、二十歳年が上だったら、きっと、いろいろな原稿を手書きしていて、今でもパソコンを使いこなせていないかも知れないな」

 と、言われても、

「それならそれでいいさ」

 と嘯いていた。

 さすがに、生まれた頃からパソコンはあったのだから、パソコンくらいは使えるが、携帯電話に関しては、いまだにガラケーだった。

「日本独自の文明の利器だからな。俺が使いこなしてやらないと」

「どういうことなんだい?」

「ガラケーというのは、ガラパゴス携帯という意味で、日本独自の進化を遂げた日本製の携帯電話のことなんだよ。別に古いモノという意味での中傷から来た言葉ではないのさ。他の島と接触のないガラパゴス諸島の生き物になぞらえた用語であって、ガラケーには、先進的な技術や機能を有しているのさ。ただ、海外で普及しなかっただけなんだよ」

「なるほど、そういう見方もあるな」

 友達との会話では、圧倒的に不利な状態でも、それなりに対抗できるだけの知識を持っているのが梶谷健太の特徴であり、友達の方も最初の頃は、彼に言い聞かせるつもりだったのだが、最近では、彼のうんちくが楽しみになり、その内容を自分の教養に生かすことができればと、思っていた。

 ただ、彼にうんちくを引き出させるには、彼のプライドに少しでも抵触しなければいけない。ちょっとした会話で反応するほど、彼は子供ではなかった。表から見る彼の冷静さは、まるで学者肌を思わせたのだ。

「そういえば、学者肌と言われる人は、たいていどこか変わっていて、人とは違うところに頑なになり、自尊心は半端ではないように思えるよな」

「でも、梶谷のやつはそんなことないよな。少し変わったところはあるけどな」

 変わったところというのが、古いモノばかりを大切にするというところだった。

 彼がガラケーを持っているからと言って、スマホをまったく使えないわけではない。人並みに使いこなすことはできるのだが、それでも敢えてガラケーを使っていた。

 しかも、彼は着信を、着メロや着うたにしているわけではなく、普通の、

「プルルルル、プルルルル」

 という音だった。

「これがいいのさ」

 と言っているが、他の連中からすれば、

「それだったら、家にある固定電話のようで嫌なんだよ」

「どうしてだい?」

「だって、固定電話というのは、家族共通の電話であって、誰に掛かってきたものだか分からないだろう? それってあまり面白くないじゃないか。着うたや着メロだったら、誰に掛かってきたものなのかはおろか、設定しておけば、誰から掛かってきたものなのかということも分かるんだよ」

「そうかな? 僕は、結構固定電話の呼び出し音、好きだけどな」

「俺は、中学の時、携帯電話すら持たされていなかったから、好きな女の子から電話がかかってくるとしても、固定電話だったんだよ。着信音では判断できなかったので、どれだけやきもきしたことか」

 すると、もう一人の友達が、

「それはそれで楽しいんじゃないか? いつ掛かってくるか分からないのを待っているのって、後から思うと楽しい思い出になったりするものだよ」

「そうかも知れない。でも、あの時の自分の心境を思い出すと、やっぱり最先端の機能を持ったものを持ちたいと思うのは心情じゃないのかな?」

「そうかも知れないな」

 元々は、健太の話だったのだが、途中から他の話に切り替わってしまった。

 これもいつものことで、話が気づかないうちに、さりげなく切り替わっていることが多い。そんな時、健太は他人事のように話を聞いているのだ。

 健太は、古いモノに造詣が深いが、これは彼の性格というよりも、育った環境によるかも知れない。彼の家は資産家で、裕福な家庭に育っていた。家にはクラシックなものがいっぱい置かれていて、裕福な人ほど、骨董品に興味を持つというが、健太もその血を受けついているのだろう。

 健太が専攻しているのは考古学で、この大学を選んだのも、考古学の権威としての先生がいたからだった。

 家族の一部からは、経済学に進むことを嘱望されていたが、その意見を押し切って、考古学の道を選んだ。

 父親は、反対はしなかった。むしろ反対をしたのは母親だった。家族の長である父親が反対していないのだから、健太が考古学を志すようになるのは、それほど難しくはなかったのだ。

 健太の最近の趣味はクラシックを聴くことだった。骨董趣味が嵩じて、最近ではレコードプレーヤーを手に入れ、ネットオークションや、中古CD屋でレコードのあるところを馴染みとして、細々と集めていた。

 音に関しては、なかなかいい音を聴けるわけではないが、あくまでも骨董趣味の一環として集めるのは楽しいものだった。

「何でもかんでもコンパクトになってしまっているけど、そんな今だからこそ、かさばるレコードを集めるというのは楽しいもの」

 と話をしていた。

 元々、大学の近くにクラシック喫茶があって、かなりの数のCDが置かれていたが、奥の方に百枚近くのレコードも置かれていて、中にはジャケットをこちらに向けているものもあった。

 実際には動かないが、レコードの手前には、昔の蓄音機が置かれていた。

「アンティークショップに置いてあってね。思わず買っちゃったよ」

 と笑いながらマスターは話していた。

 使うことはできないので、オブジェにしかならないが、それでもその存在感は健太にとって十分で、蓄音機を見ながら聴くクラシックは、さらに重低音を奏でているようであった。

 自分の部屋では一週間に一度は一枚のレコードを聴くようにしている。その時々の気分で、ワルツだったり、協奏曲だったりを変えている。今ではほとんど手に入らないレコード針の消耗を考えてのことだった。

 屋敷には、両親と妹、そして執事や家政婦が数名住んでいた。ほとんどの人が住み込みで、家族の面倒を見ていた。

 父親は仕事の関係で、ほとんど家にいることはない。海外出張も頻繁で、子供の頃は、父からのお土産が楽しみだった。

「お坊ちゃまもお嬢様も、お父様が留守がちでお寂しくないですか?」

 と、家政婦の一人から聞かれたことがあったが、

「寂しくはないよ」

 と答えていた。

 それは決して強がりではなかった。小さい頃から家族よりも家政婦がいつもそばにいたので、家族という感覚がマヒしていたのかも知れない。子供心には、それは普通のことで、大した問題ではないと思っていたが、家政婦には、親よりも自分たちの方が身近に感じられるという不自然な関係を危惧していたのかも知れない。

 それでも、家政婦は余計なことを言わず、黙々と家事をしていた。子供から見ても、手際の良さは見事なもので、感心させられた。

「さすがにプロだ」

 と感じたのは、小学生の高学年になってからで、中学になると、今度は家政婦が疎ましく感じられることもあった。

 普通の家庭でいう、

「反抗期」

 というもののようだが、反抗期ほど自分の感情をぶつけられる相手がいるわけではなく、せめて、会話がなくなるくらいが精いっぱいの反抗だった。

 家政婦は、それでも黙々と自分の仕事をこなしていた。

 子供の頃は、大きなリビングで、妹と食事をしていた。母親がいてくれることもあったが、妹と二人というのも少なくはなかった。

 テーブル席に十数名座れるスペースがあって、そこに母がいる時でも三人しかいないのに、わざと席を離して座っていた。

 上座は一応父の席、その右側の席に、母がいる時は座っている。

 兄妹二人は、上座と下座の中間あたりの席の左右に陣取っていた。お互いに対面でありながら、その距離は遠く感じていた。

 妹の名前は梶谷早紀。健太よりも三つ下だった。小学生の頃は年齢の差を感じていたが、それは兄として妹を見た時、幼さを感じ、妹が兄を見た時は、勇ましい兄を感じていたことだろう。

 健太は早紀の寂しさを知っていた。健太の方は、両親が食卓にいなくても別に寂しさを感じなかったが、それは妹の早紀に寂しさを感じていたからなのかも知れない。

――早紀がいてくれなければ、僕も寂しさを感じたかも知れないな――

 これは兄として妹を守ってあげなければいけないという思いとは少し違っていた。

 逆に、妹に寂しさを感じられてしまうと、自分が寂しさを感じる隙がなくなってしまったのだ。

 健太は、この頃から妹というものに対し、他の人とは違う感情を抱いていたと感じていた。しかし、中学に入った頃になると、

――妹はやっぱり妹だ――

 と感じるようになった。

 最初は、どうしてそんな感覚になったのか分からなかったが、理由の一つに思春期に入ったことで、異性に興味が出てきたことがあった。そのことを中学時代の健太は自覚していたつもりだったが、理由が本当にそれだけなのか、自分でも分からなかった。

 健太が異性に興味を持ち始めた最初は、中学二年生の頃のことだった。気になる女の子はいたのだが、その女の子は人気がある女の子で、友達の話の中にも、彼女の話が結構出ていた。

 その話題に対して、健太は入ることができなかった。その態度を見て、勘のいいやつからは、

「お前も好きなんじゃないか?」

 と言われて、顔を真っ赤にしたものだが、そんな様子がいかにもバレバレで、

「分かりやすいやつだな」

 と、笑いながら言われたものだ。

 競争率はかなりのもので、最初から健太の勝負になるものではなかった。子供の頃から諦めはよかった健太は、すぐに自分はダメだと諦めてしまっていた。

 そんな健太は、その時自分が思春期に入ったことを自覚した。順序が違ったが、自覚できただけでもよかったと思っている。気になる女の子のことを考えただけで、ムズムズするものを感じていた理由が分かっていなかったのだがら、よかったと思うのも無理のないことであろう。

 ただ、中学時代は健太にとって、あまり思い出の深い時期ではなかった。友達と一緒にいても、どこか中途半端な気持ちがあり、心ここにあらずという思いを抱いていたが、なぜそんな感覚になってしまったのか、自分でも分からなかった。

 高校生になると、相変わらず異性に対してのムズムズした感覚があったが、好きになるまでの女性はいなかった。

 友達の中には、

「絶えず誰かを好きになる相手がいないと、思春期は耐えられない」

 と言って、好きになる相手をちょくちょく変えながら、絶えず誰かを好きでいるようにしていたようだが、そんな様子を見ていて、彼がどこか無理をしているように思えていた。

 だが、実際に彼には無理はなかったようだ。

「俺、彼女ができたんだ」

 と、その友達に言われて、少し羨ましさはあったが、

「よかったじゃないか。好きな女の子だったのかい?」

「本命ではなかったけど、相手から告白されると、俺も舞い上がっちゃってさ。最初からずっと好きだったような気がしてきたんだよ。不思議なものだよな」

 その話を聞いて、

「やっぱり、絶えず誰かを好きでいるという心構えのようなものが大切なのかな?」

 というと、

「そうかも知れないな。俺も今お前にそう言われて、なるほどって思ったものさ」

 と嘯いていたが、それが本心だったのかも知れない。

 その話を聞いてすぐのことだった。

「私と付き合ってください」

 と、告白されたことがあった。

 高校二年生の春で、桜が散り始めた四月中旬くらいのことだった。

 健太にとって、自分が気になっていた女の子ではなかった。どちらかというと男子からは人気のありそうな女の子だったので、健太の中で、最初から意識しないようにしていた。それは中学時代の頃の意識があるからで、トラウマになる前に、自分の中で教訓にしようという思いがあったのだろう。

 健太はビックリしたが、断る理由などあるはずもない。

「ええ、ぜひ、僕でよければ」

 照れ臭さを隠しながらそういうと、

「ありがとう」

 と、満面の笑みで答えてくれた。

――この笑顔が見たかったんだ――

 あどけなさの残る笑顔は、それまで感じていた彼女への意識を一変させた。

――やっぱり。友達のいう通り、絶えず誰かを好きでいるというのは大切なことなのかも知れない――

 そう思ったのは、彼女から告白されて、彼女のあどけない笑顔を見た時、

――ずっと前から、彼女のことを好きだったんだ――

 と信じて疑わないほどの気持ちが頭にあったからだった。

 その女の子とどれくらい付き合っていただろう。実はハッキリとしなかった。最後には自然消滅だったのだが、どうしてそんなことになったのかという理由はハッキリと分からないが、一つ言えることは、彼女の微妙な変化に気づいてあげられなかったことだった。

 女の子というのが、心の変化を相手になるべく悟られないようにするのがうまいということを、その時初めて知った。後になって友達から。

「お前には分からなかったのか?」

 と言われたが、

「ああ、分からなかったんだよ」

「おいおい、鈍感にもほどがあるぞ」

 と言われても、ピンとくるものではない。きょとんとしていると、

「お前。本当に分からなかったのか?」

「ああ」

 あまりにも真剣な表情の健太に、友達も意外な顔をして、

「そんなものなのかな?」

 と、今度は訝しそうな表情をした。明らかに、嫌悪感が滲み出る表情だった。

 健太は元々、勘の鈍い方ではなかった。そのことは友達も分かっているはずなので、意外そうな表情になったのも分からなくはないが、最後の訝しそうな表情になったのはどういうことなのか、健太には、理解できなかった。

 その頃には、妹の早紀も中学生になっていた。子供の頃の雰囲気ばかりがイメージの中になかったが、いつ頃からか、妹を女性として意識してしまっていた。それがいつからだったのか分からないかったが、彼女と自然消滅したことで、分かった気がした。

「彼女から告白された時、あの時だったんだ」

 告白されたことで、妹を見た時に女性を感じたのか、それとも、妹に女性を感じることで、健太のオーラに何か変化があったのか、ほぼ同時だったような気がするので、どちらなのか、想像するのは難しかった。

 早紀は、兄の健太に彼女ができたことも、いつの間にか失恋していたことも分かっていた。しかし、別れた状況に関してまでは想像できておらず、まさか自然消滅だったなど、考えつくものではなかった。

 早紀は、兄に似て、勘のいい女性だった。

 でも兄と違って、恋愛に関しては鋭いところがあった。

「さすが兄妹。勘の鋭さは似たところがあるね」

 と、早紀は先生から言われたことがあったが、同じ勘の鋭さでも、対象が違っていることまでは、先生も分かっていなかったようだ。

 それは男と女の違いからなのかも知れない。女の方が恋愛に関しては鋭いというのは、健太も早紀にも分かっていた。

 また、男と女では、成長のスピードが違うことを二人とも分かっているつもりだったが、より敏感に感じていたのは、兄の方だというのは、意外に思われるかも知れない。

 もちろん、女の方が肉体的な変化が序実なので、敏感に感じるのは当たり前のことなのだが、男も言い知れぬ感覚に陥ることで、敏感になっても不思議ではない。却って、正体は曖昧な方が、敏感に感じられるというのも理屈に合っているかも知れない。

 十歳になるくらいまでは男性の方が成長は早いが、それを過ぎると、女性の方が一気に成長を早める。それは思春期に入る前に、女性に訪れる初潮が大いに影響していることだろう。

 精神的なものとしても、女性の方が成長は早い。女性の中には、同級生の男子が幼く見えている女の子もいるだろう。

 しかも、男子がちやほやしてくれるのを感じると、まるで女王様になったような感覚になるのも無理のないことだろう。

 ただ、その時に女王様として君臨しているつもりになった女の子の中には、架けられた梯子を下ろされて、気が付けばそれまでまわりにいた人たちが、全員去ってしまっていることに初めて気づいて、ハッとする女の子もいる。

「どうしてそんなになるまで分からなかったの?」

 と言われるのだろうが、女王様として君臨してしまうと、まわりを見ることをしなくてもいいような錯覚に陥ってしまうからではないだろうか。

 健太と付き合っていた女の子も、健太の気づいていない間、まわりの男性から受ける視線を敏感に感じていたようだ。健太を意識しながらまわりの視線を意識していると、どこを見ていいのか、自分の視線に対して、客観的にしか見ることができなくなってしまったのだ。

 健太はそんな彼女を温かく見守っていたつもりだったが、自分が女王様として君臨していたつもりで感覚がマヒしてしまっているのには気づかなかった。どこかプライドが高い雰囲気を感じていたが、それも、女の子の方から告白してきたのだからあり、その積極性が彼女のいいところだと思っていたからだ。

 彼女は決して、甘えるような雰囲気を見せない。そこは女王様として君臨できるだけの技量があったのだろうが、その技量に、まわりの男の子たちがついていけなかったというのが本音であろう。

 健太は、彼女のことを大人だと思っていた。自分が子供だとは思っていなかったが、

――女の子は男が守ってあげなければいけない――

 という思いがいつしか薄れていくのを感じた。

 もし、他の女の子だったら、そんなことはないのだろうが、それでも、他の男子のように、外れた梯子をそのままにして、彼女の前から去ってしまうようなことができるわけではなかった。

 ただ、ぎこちなさが残ったのは確かだった。気を遣わないつもりだったにも関わらず、相手に却って気を遣わせてしまったことに気づいた健太は、何も言えなくなった。健太が何も言わなければ、彼女の方から言葉を発することはできない。お互いに超えてはならない結界を超えてしまったような気がしていた。それが、自然消滅に繋がったのだ。

 せっかく異性に興味を持つようになってすぐ、女の子の方から告白してくれたのに、チャンスを生かすことができなかったことへの後悔は、かなり強かった。考えてみれば、異性に興味を持ってすぐに告白されたのだから、心の準備もできていなかったこともあって、うまくいかなかったのは、仕方のないことだったのだろう。

 健太は、高校に上がった頃から、異性に興味を持ちながらも、いつの間にか自分の世界を作っていて、意外と自分の世界が居心地のいいことに満足していた。健太がクラシックや骨董に興味を持ち始めたのはその頃で、高校三年生の頃になると、受験勉強の息抜きに、アンティークショップに立ち寄ることも多くなった。

 たまに気になったものを購入することもあったが、まだまだ高校生では、それほどたくさんのものを買うことはできなかった。大学に入学すればアルバイトもできて、自分で稼いだお金で骨董品を買ったりもしていた。

 レコードプレイヤーも、大学生になってから、その店で買ったのだが、レコード針は手に入らない。何とかいまだに製造しているところを突き止めて、入手できるようにしてはいたが、消耗を考えて、レコード鑑賞はなるべく控えるようにしていた。

 思春期の経験が、健太を骨董趣味に変えたと言ってもいいかも知れない。

 ただ、健太の骨董趣味は、ただの道楽ではない。

「古いモノには、古いモノにしかないものがあるんだよ。それは幾多の時代を駆け抜けてきた。そして、その時代時代の目撃者になって、何とか生き延びてきたという、いわゆる『生命力』のようなものがあるんだ」

 と、アンティークショップの店主は言っていたが、健太も同じ気持ちで、

「まさしくその通りですね」

 と、骨董品を見ながら呟いた。

「そういえば、絶対音感を持っている人がいるって言いますわよね」

 妹の早紀が呟いた。

 クラシックを聴く時、最初は一人が多かったのだが、

「私もご一緒してもいいかしら?」

 と妹の早紀が言うので、

「いいよ」

 と答えた。

 早紀は、まさしくお嬢様だった。喋り方も上品で、この屋敷に似合っている。白いワンピースが似合うのは、スラっとした体形が、だだっ広い建物が重厚な雰囲気を醸し出す中で、映えて見えるからなのかも知れない。わが妹でありながら、兄から見ても、その上品さには敬意を表するほどである。すでに高校生になっている早紀だったが、中学時代から大人の雰囲気を醸し出していたこともあって、成長がとどまるところを知らないように思えてならなかった。

「ピアノを弾きたくなりますわね」

 早紀は、英才教育の一環で、ピアノを習っていた。

 他にもお花やお茶も習っていたが、現在も続けているのはお花だけだった。お茶は小学生の頃まで、ピアノは中学二年生までと、習い事を一つにしたのは、勉学に励むためだった。

 ただ、趣味としてピアノは続けていた。習い事ではなく、趣味として奏でる早紀の指から繰り出されるピアノの音色は、兄の健太から見ても、素晴らしいものだった。

 元々健太がクラシックを好きになったのも、妹の弾くピアノの音に魅了されたのが最初だったのだが、このことは誰にも言っていない。口にするのが、どこかくすぐったい気がしていた。

 早紀が奏でるピアノは単独で聴くのがよかった。自分の部屋にピアノがあるわけではないので、早紀のピアノは単独で聴くことができる。リビングの奥に置いてあるグランドピアノが早紀の奏でるピアノだった。個人の部屋にまでは聞こえてこないが、一階フロア全体に響き渡る音色は、圧巻だと思っていた。

「お兄様がいつも聴いてくださっていると思うと、結構力が入るんですよ」

 と、早紀は照れながらそう言った。

「ピアノの音色は好きだからね。目を瞑って聴いていると、西洋の風景が思い浮かんでくるようで、壮大さが感じられるんだ」

 それだけ早紀のピアノには、感情が込められているように思えた。それはクラシックの音色をレコードで聴くという風変わりな趣味に結びつくものだった。

 レコード盤自体はとても古いモノで、どんなに丁寧に扱っていても、無数の小さな傷がついている。最初に針を落とした時に聞こえてくる、音楽が始まる前の静寂の中に、

「プツンプツン」

 という、籠ったような音が、健太は好きだった。

「これこそ、クラシックというものだ」

 屋敷の表と中とでは、健太も早紀も性格が一変する。ただ、その性格も基本的には屋敷の中の性格が本当の性格であり、表での性格は、元々の性格に表の環境を合わそうとするものだから、ぎこちなくなってしまうのも仕方がない。どうしても、育った環境と表の環境が違えば、自分でも分からないところで変わってくるものである。

 特に友達には、屋敷の中での性格は見せたくなかった。だから世間知らずでバカにされていると思いながらも、あまり余計なことを言わないようにしている。よほど気心の知れた友達でなければ、健太が裕福な家の育ちだとは思わないだろう。

 ただ、妹の早紀はどうなのだろう? 

 その思いも兄の取り越し苦労だった。兄よりもうまく友達の間に溶け込んでいて、大人の雰囲気を感じさせるところから、誰も裕福な家庭に育ったというイメージを持っていないようだった。

 兄の健太は、クラシックや骨董趣味が嵩じることで、最先端の技術というよりも、時代遅れとも取られるようなものにこそ、興味を持つ。スマホを持たずにいまだにガラケーなのも、そのためだ。

 しかも着信音も、メールの場合はクラシックにしているが、通話の場合は、通常の呼び出し音にしている。お屋敷の中では、いまだに固定電話はプッシュ式の黒電話を置いている。

 固定電話で黒電話というと、ダイヤル式しか思い浮かばない人が多いが、実際には数は少なかったが存在する。それを健太の父親はどこからか手に入れてきて、家に備え付けているのだった。

 もっとも、あまり家に電話が掛かってくるということはない。本当の急用であれば、携帯電話に掛けるからだ。

 携帯電話を使い始めたのは、意外に思われるかも知れないが、結構早かった。

 ポケベルが出始めた時、誰もが飛びついたのだが、健太の父親は先見の明があり、

「ポケベルは数年ともたないはず。その後に携帯電話の時代が来る」

 と予言していた。

 これくらいの先見の明がなければ、富を築くことはできなかったことだろう。健太の父親は、高度成長時代に財の基礎を築き、バブルの時代の何とか乗り越えて、まわりがバブルで混乱している時に乗じて、事業を次々に成功させてきた。子供たちから見れば、普通の父親なのだが、実際には表に出ると、その尊厳の大きさは、オーラとなって、まわりに多大な影響を与えていた。ただそれも華族の家系というサラブレッドであればこそなのかも知れない。

 父親は確かに先見の明もあるが、

「古き良きものは大切にしないとな」

 と、最新の技術にだけしか目を向けないような、偏見の目を持ってはいなかった。

 そんな父親を見て育った健太は、クラシックでアンティークなものに造詣を深めていくことになったのだ。

 妹の早紀は、そのどちらでもない。

 最新の技術に興味があるわけでもなく、アンティークなものだからと言って、興味を抱くわけではない。

 早紀の目は、あくまでも「芸術」を見ていた。

 芸術的なものであれば、どんなものでも興味を抱く。やはり、子供の頃からの英才教育により、芸術に対しての目を養うことができたのかも知れない。

「そうか、芸術か」

 自分が骨董品に興味を持っているのも、早紀と同じように、芸術に対しての目が養われたからなのかも知れないと感じるようになったのは、大学に入ってからだった。

 ある日、骨董品の中にランプを見つけた。今ではランプなどを使っているところはほとんどないので、それが大きいモノなのか小さなモノなのか、想像もつかなった。しかし、手で持ってみると、取っ手のところがズッシリと重かった。

「これください」

 思わず、口にしていた自分にビックリしたが、持って帰ると、使い道があるわけでもなく、部屋のオブジェに飾るだけとなった。

 それまでは、役に立たないものであっても、それなりに利用できるものばかりだったが、今回のようにオブジェとしてしか使い道のないものは、その時が初めてだった。

「無駄買いしちゃったかな?」

 と後悔していたが、ランプを見ていると、描きたくなってくるから不思議だった。

 それまで絵心があったわけではない。小学生の頃から図工の授業は嫌いで、中学でも、

「美術の授業なんかなければいいのに」

 と嘯いていたほどで、芸術関係の授業は選択科目になったことで、本当はどれも嫌だったが、その中でも一番マシな、書道を選んだくらいだった。

 今までに一度でも芸術に興味を傾けたことがあればよかったのだが、クラシックを聴くくらいで、芸術関係には疎かった。特に美術関係は、するのも見るのも嫌いで、高校の頃に学校行事としてあった美術鑑賞と称する課外授業も、美術館に入ってから駆け抜けるように通路を回り、ロクに何も見ずに管内を回ったものだ。それでも、その日は美術鑑賞の後は自由行動だったので、友達数人と街を徘徊していた。途中で別れてからの健太は、骨董品屋に顔を出し、美術館の何十倍も狭い骨董品屋の店内を、何倍もの時間を掛けて商品を物色したものだ。

 そんな健太が、急に絵心に目覚めた。それまでまったく興味のなかったものが急に気になって仕方がなくなったのだから、それからの健太は、本屋で絵の本を物色してみたり、友達の中で、絵が好きなやつに話をしてみたりした。

「いきなり興味を持ったというのは、どういう風の吹き回しなんだい?」

 と聞かれて、

「この間、骨董品屋でランプを買ったんだけど、それを見ていると、急にそのランプを描いてみたくなったんだ」

「今の時代にランプなんて、使い道ないだろう?」

「そうなんだ。今では部屋のオブジェにしかなっていないんだけど、飾ってあるのを見ていると、急に描きたくなってきたんだ。恥ずかしい限りなんだけどね」

「恥ずかしいという感情が、その答えなのかも知れないな」

「というと?」

「最初に、そのランプを見た時、ほしくてたまらなくなったんだろう? でも、買ってきてみると、使い道がなく、後悔してしまった。それでどうしようかと考えていると、次第に絵を描きたくなったというところかな?」

「そうなんだ」

「でも、急に描きたくなったということは、描き始めると、すぐに気持ちが冷めてしまうかも知れないという思いもある。だから、今まで絵を描くことを頑なに拒否してきた自分に、絵心はない。でもどうしても今は描きたいという気持ちでいっぱいなので、何とか密かに絵を描けるようになりたいと思っているわけでしょう?」

「どうして分かるんだい?」

「顔にそう書いてあるからさ」

 と言って笑っていたが、それだけ人の心を読むのが得意な相手に、分かりやすい自分が話をしているというだけのことなのかも知れない。

「でも、芸術に関して今まで目を逸らしてきたことを、後悔しているのは事実なんだ」

「どうやら、君はランプを見たから絵を描きたいと思ったわけではなく、絵を描きたいと思っていたところに、被写体になるランプを見つけたので、思わず買ってしまった。実際に部屋に飾ってみると、やっぱり絵を描きたいという思いに間違いがなかったと感じた君は、描きたくてたまらないという自分の気持ちに気が付いたんだね」

「じゃあ、僕のこの思いは、潜在していたということなのかな?」

「そうだね。それがいつからのことだったのか分からないけど、潜在していたということに間違いはないようだね」

 彼の言葉を聞いていると、すべてが本当に聞こえてくるから怖かった。

「じゃあ、とりあえずの入門編は教えてあげるから、その後は自分で勉強すればいい」

 と言って、友達は絵の基本について教えてくれた。

 友達は中学、高校と美術部で、元々は絵描きになるか、美術の先生を志していたという。しかし、なぜか途中で諦めて、健太と同じ大学の法学部に入学してきた。サークルには入らずに、バイト三昧を続けていたが、

「俺は今はこれでいいんだ」

 と言って、将来のことに関して、あまり具体的に考えていないようだった。

 それは、健太をはじめとする友達皆同じだった。

「そのうち、何をしたいのか、じっくり考えなければいけない時が来るんだろうが、それまではいろいろな可能性を見極めるという時期なのかも知れないな」

 と口では言っているが、大学にいると、なかなか将来について考えるなど、難しかった。本当は考えなければいけないのだろうが、考えることが怖い。大学では将来のために勉強しているというが、勉強していると、将来のことが分かってくるような気がしてくるだけで、本当は、

「気休めなのかも知れない」

 という思いがあることから、必要以上のことを考えないようにしている。

 中学時代の勉強は高校受験のため、高校時代の勉強は大学受験のためとして、割り切っていたつもりだったが、大学に入って勉強するのは、今度は社会に出てからのためなのか、それとも、社会に出るための道を探るためのものなのか、ハッキリと分からないことが、必要以上に考えないようになった原因であった。

 大学に入って、最初はもっと勉強に勤しむことを楽しみにしていたはずなのに、気が付けば、友達と遊びに出かけたり、バイト三昧の日々を過ごしたりと、勉強をしなくなっていた。

「大学というところは誘惑が多いので、気を付けないといけないよ」

 と、高校の担任から、大学入学前に釘を刺されたことがあり、決してその忠告を忘れていたわけではないのに、いつの間にか、先生の言う通りになっていた。

――どうしてなんだろう?

 自分でも分からないうちに、大学生活の甘い罠に嵌ってしまったような気がしていたが、後から考えると、少し違うような気がしてきた。

「大学で勉強しなくなったのは、勉強をするということの目的が分からなくなったからなんじゃないだろうか?」

「勉強する目的って、将来何をしたいかということだよね? それは分かってるつもりだよ」

 というと、

「それは分かっているさ。でも、将来のことを考えるのが怖くなってしまうと、将来のことを考えないようにしようとする気持ちになるのさ。その時に、どうして勉強しているのかということまで忘れてしまおうとする意識が働いて、大学生活の甘い罠に嵌ってしまったという言い訳に繋がっていくのさ」

「大学生活の甘い罠に嵌るというのが言い訳になるの?」

「それはそうだろう。そう思いたくないんだったら、否定する気持ちがもっと強いはずさ。否定する気持ちよりも、そのことを感じたことに罪悪感を持ち、最終的に誘惑に負けた自分を情けなく思うことで、目の前のことから目を逸らした自分を見ないようにしているんじゃないかな?」

「それって、結構厳しい見方だよね?」

「そうだね。でも、それが事実だったら、自分たちの中には、本心を押し殺してまで潜在する意識が強い状態であるということの証明なのかも知れないな」

「でも、大学生活の甘い罠というのが、一般論として定着しているのはどういうことなんだろう?」

「もし、勉強自体ではなく、勉強するという意義を根底から覆すような発想は、大学というものの存在を揺るがしかねないものになると思ったからではないのかな?」

 話がかなり大げさなものになってきていたが、話をしている本人は、あまり大げさに感じなかった。それだけ感覚がマヒしていたのではないだろうか?

「そういえば、小学生の頃に、俺は勉強に対して疑問を感じたことがあったんだ。勉強するということではなくね。例えば、算数で、最初の基本となる一足す一は二ということが理解できなくて、そこから先に進まなかった。だから、小学生の四年生の頃までは、勉強以前の問題で、テストの時など、白紙回答だったんだ。答えも分からないし、そもそも、テストに回答するということ自体、納得がいかなかったんだよな」

「それは俺にもあった。さすがにそこまで酷くはなかったけど、誰にでも一度は通る道なんじゃないかな?」

「でも、勉強は決して嫌いじゃなかったんだろうな。そのうちに気が付けば自分を納得させていたんだと思うよ。そうじゃないと、勉強にやる気なんか出るわけがないからね」

「それともう一つ。どうして勉強をしなければいけないのかということを、考えたことあったかい?」

「子供の頃の方が考えていたような気がするな。下手をすると、ずっと思っていたかも知れない」

「そうだろう? そうじゃないと、自分を納得させることはできないと思うんだ。気が付けば勉強をするようになっていたって思っているのは、それだけ自然だったからなのかも知れないな」

 友達は、

「俺は芸術が自分を納得させてくれたんじゃないかって思うんだ。子供の頃から絵が好きだったから、絵描きになりたいって思った時期と、美術の先生になりたいと思った時期があった。その両方を一緒に考えたことはなかったんだけど、絵描きになりたいと思った時は、自分がベレー帽をかぶって、キャンバスを見つめながら、筆をどこに落とそうか考えている姿を思い描いたりしたんだ。だから、美術を続けてこれた。でも、逆にその光景を思い浮かべることができなくなると、自分を納得させることができなくなって、悩んだりもした。でも、趣味にすることで、悩みは消えて、今では適当に描いたりしているよ」

「それが、サークルで美術を選ばなかった理由なんだね?」

「その通り。自由って結構楽しいものだって思う」

 そう言いながら、彼は健太に絵の基本を教えてくれた。

――なるほど、自由な気分でいるから、教え方も優しいんだな――

 彼の教えかたは、ゆっくりで、しかも、適格だった。余計なことを口にすることはなく、決して間違っているとは言わない。

「何が正しいというものはない。本人が正しいと思えば、それが正しいことなんじゃないかな?」

 そう言って頷いていた。

――自分に問いかけているようだ――

 自分を納得させながら教えているに違いなかった。

 友達がサンプルで用意した絵の被写体は、リンゴだった。

「リンゴは、赤い色が特徴だけど、まずは色を意識することなく、鉛筆でデッサンしてごらん」

 そう言って彼は見本を見せてくれた。

 そこには、色はついていないが、光と影がハッキリと分かる絵が描かれていた。

「デッサンというのは、光と影をいかに表現するかだと思うんだ。リンゴのように、赤い色が特徴のものを白と黒のモノクロで描くのは、光と影をどのように表現するかということの課題としては、いいサンプルになると思うんだ。だから、まずは色に惑わされることなく、光と影をいかに表現するかを感じてほしい」

「考えるのではなく、感じるのかい?」

「そうだよ。考えるということは、そこに主観が入ってくる。絵を描く時に主観が入ってはいけないというわけではないんだけど、光と影の両極端なものを描く時は、客観的にモノを見る目が必要だと思っているんだ」

 彼の言うことは、説得力があった。

――これで入門編なんだ――

 そう思うと、絵画の奥の深さを感じることができた。

 リンゴを自分では綺麗に描くことができたと思っていた。友達も、

「うん、なかなか光と影をうまく表現できていると思うよ。後はバランス感覚と、遠近感だね」

 そう言って、彼は健太の描いた絵を、いろいろな方向から見つめていた。

「バランス感覚と遠近感というのは、本当なら一番最初に考えるものなんじゃないのかい?」

「本当はそうだよ。でも、僕はまず光と影の区別から、バランス感覚と、遠近感を掴むことができると思っているんだ。そういう意味では、君の絵は、すでに両方を掴んでいるような気がするよ」

「そうなのかい?」

「ああ、バランス感覚も遠近感も、どちらも訓練するのは難しい。感性の問題を含んでいるからね。でも、光と影は見た目で描ける。描いたものを見ていれば、そこにどれほどのバランス感覚と遠近感が潜在しているかが分かるというものだからね」

 彼は、重要な言葉を繰り返し口にするのが癖のようだ。普通ならしつこいと思えることでも、彼の口から言われると、違和感がない。それだけ自分も絵画に没頭していたということなのかも知れないが、そのことは、自分でいうのも何だが、自分が描いた絵を見ていれば分かることだった。

 習ったことを念頭においてランプの絵を描いていると、次第に自分のイメージと違ってきたのを感じた。

「やっぱり、下手なのかな?」

 と思いながら描いていると、後ろから妹の早紀が寄ってきて、

「お兄ちゃん、何してるの?」

「このランプを描いているんだよ」

「お兄ちゃん、なかなか上手よ。特徴を掴んでいるわ」

「そうかい? 自分で描いていて、イメージと合わないんだけど、どうしてなんだろう?」

「お兄ちゃんは、絵を描く時、目の前にあるものをそのまま忠実に描こうと思ってない?」

「普通、そうなんじゃないかな?」

「そんなことはないわ。同じ被写体を見ても、見え方は人それぞれ、それに時間が経てば経つほど目が慣れてきて、最初に感じたイメージと見えているイメージは違ってくるものなのよ。だから、最初にイメージしたものを思い浮かべていては、目に見えるものをそのまま描いたんじゃあ、違ったイメージになるのは当然なんじゃないかしら?」

 妹の話を聞いて、目からうろこが落ちた気がした。しかし、それでは自分のイメージと違うという問題に対しての根本的な解決にはなっていない。

「でも、それでいいのかな?」

「私はそれでいいと思うわ。お兄ちゃんは納得できないの?」

「うーん、自分としては納得できない気がするな」

「それじゃあ、今見えている感覚はきっと目が慣れてきていることで、少し遠くから見えているような気がするので、小さく感じているんじゃないかしら? だとしたら、自分で感じているよりも、少し大きめに描いてみるのもいいかも知れないわ」

「今からだと、修正は難しいよ」

「だったら、今描いているのは中心部からのようなので、まわりの背景で、余分だと思う部分を大胆に省略してみるのも手かも知れないわ」

「何が余分なのかって、分からないよ」

「そんなことはないわ。描いていくうちに気づくはずよ。お兄ちゃんは、今まで絵を最後まで描きとおしたことあった?」

 言われてみれば、最近始めた絵画なので、自分で納得がいかない方向に向かえば、すぐに投げ出していたような気がする。

 それを妹に言うと、

「そうでしょう。だったら、一度自分に納得がいかなくても、とりあえず最後まで描いてみればいいのよ。今私が見た印象と、お兄ちゃんが感じている印象でも違うんだから、最後まで描き切って、満足感を抱きながら自分の描いた絵を見てみると、感覚もきっと違っているはずよ」

――なるほど確かにそうかも知れない――

 今まで妹のことを、どうしても自分よりも年下なので、自分の方がしっかりしていると思っていたが、ここまでのことが言えるほど成長していたのを見ると、複雑な思いを抱いた。

――女性の成長は男性よりも想像以上に早い――

 というのは分かっていたが、年が三つも離れていては、少々のことがない限り、自分の方が大人であると思うのは当然だった。

 実際に、妹は、

「お兄ちゃん、お兄ちゃん」

 と言って甘えてくる。

 兄の言うことはちゃんと聞いてくれるし、いつも兄を頼ってきてくれる。そんな妹を可愛く思い、いとおしく感じていたのだ。

 それなのに、今では兄に対して意見ができるほどに成長していた。しかし、それは逆に言うと、自分が成長していないということの証明でもあった。妹の成長は素直に嬉しいが、それ以上に自分が成長していないとすれば、これは深刻な問題である。

「早紀の言う通りにやってみようかな?」

 というと、嬉しそうな表情はいつもの妹で、安心感があった。

 それに加えてドキッとした感覚があったのも事実で、気が付けば妹も高校生になっていた。大人の女性の色香を醸し出す年齢に近づいてきた証拠である。

「子供から大人になるのが顕著に見えるのは、男よりも女の方なんだろうな。だから男は女性に欲情する」

「女性だって欲情するだろう?」

「女性は、男に欲情するんだろうか? 女性同士だってありの気がする。もっとも男もそんな女を見て欲情するんだけどな。でも純情なのは、男の方なのかも知れない」

 女性に対して偏見を持っているわけではないが、男とは明らかに違った欲望を持っていると思っている友達は、そう言っていた。

 妹の早紀を見ていると、自分の出した意見に対して、何か逆らう「ネタ」を探しているように思える時があった。健太が高校に入った頃というと、妹も中学に上がった頃だ。その頃は今と違って、もっと露骨に反対意見を言って、兄を困らせたものだ。しかもその意見は筋が通っていて、兄の健太が口を開くと、それは言い訳にしか聞こえないほどであった。

「まいったな」

 と言って照れ隠しに頭を掻くくらいしかできなかった、

 だが、その仕草が妹の気持ちをハッとさせるのか、恐縮してしまって、

「ごめんなさい。生意気なこと言っちゃって」

 と、小さくなっているその姿が可愛らしかった。

「いやいや、いいんだ」

 完全に立場は逆転していた。

 小学生から中学生になった時が、今から思えば一番妹が変わった時だった。それは肉体的なところで、目に見えて変わっているのが分かることだった。中学に入ってから本当ならあるはずの反抗期が妹にはなかった。

「本当に素直な娘だわ」

 と、母親は親バカと言うべきか、反抗期がなかったことを素直に喜んでいた。

 しかし、実際には反抗期がなかったわけではない。妹なりに、反抗を試みようとしたのだろうが、相手がそのことに気づく前に、我に返った妹は、普段の妹に戻っている。

「ちょっとおかしいわね」

 と母も思った時期もあったかも知れないが、すぐに元に戻るのだから、余計な心配をする必要もなかったのだ。

 それでも、健太には妹の反抗期は分かっていた。

――僕は兄貴だからな――

 そして、学校で授業を受けている時間以外で、一番一緒にいる時間が長いのは自分だという自負もある。

「妹のことを一番よく分かっているのは、僕なんだ」

 とずっと思っていた。

 あれは、高校三年生の頃だった。

 早紀はその頃、中学校でも可愛いということで話題になっていた。別の学校でも、妹のことが話題になるくらいだったので、兄としては、少々複雑な気持ちだった。

 いや、あくまでも複雑な気持ちになっているのは「兄として」というだけで、健太という男としては、気が気ではなかった。

 そんな時、健太のクラスメイトの男子から、

「お前の妹、紹介してくれないか?」

 と言われたことがあった。

 そいつとは、それほど仲がよかったわけでもない。仲が特別よかったわけではないことが余計に健太をイライラさせた。

「誰がお前なんかに紹介なんかするもんか」

 という捨て台詞を吐いて、その場を後にした。

 相手はきょとんとしていたが、お構いなしに振り向くこともなく、その場を足早に立ち去った。

――普段は僕のことなんか気にしたこともないくせに、妹が可愛いと思うと媚びへつらうように近づいてくるなんて、虫唾が走る――

 というのが、イライラさせた理由だった。

 その頃の妹は反抗期は完全に抜けていた。しかし、成長期はまだまだ続いていて、中学生になった頃ほどの変化はないが、やっと妹の女らしさにまわりの同級生も気づいたということで、それだけ妹が早熟だったともいえるだろう。

 だが、健太には中学に入学した頃の妹に対して、誰も見向きもしなかったのに、いまさら騒ぎ立てるというのもイライラさせる原因だった。自分のクラスメイトがあまり面識のない自分に対して、おのれの欲のために媚びへつらって近づいてきたのと同じ現象を感じた。

 妹が反抗期だと思った時期は、明らかに兄に対して挑戦的な言い方をしていたのが見て取れたが、実は今でも時々挑戦的な口調になることがある。ただ、それは反抗期のような態度に示したものではなく、あくまでも会話の上での挑戦だった。

――お兄ちゃんに分かるかしら?

 と言わんばかりに、顔に怪しい笑みを浮かべることもあった。

 そんな時の早紀の顔を、健太は嫌いではなかった。

――よーし、お兄ちゃんも負けないぞ――

 と、こちらも微笑み返す。兄妹にしか分からない無言の会話だった。

 早紀は、高校生になると、健太にあまり挑戦的な口調で話しかけることはなくなった。なるべく兄が喜ぶような言い方をするようになった。

――大人になったということかな?

 相手に気を遣うということは、中学生の頃から妹はできていた。

 誰にでも気を遣って話をしていたので、四六時中緊張していたのだろう。健太の前に出ると挑戦的な言い方をしたのは、その緊張を何とか解きほぐしたいという無意識のうちだったのかも知れない。健太はそのことを分かっていて、敢えて自分からも挑戦的になったのだ。

 下手に健太の方から気を遣うと、せっかく気を紛らわそうとしている気持ちを冷めさせることになるのは分かっていた。

――やはり早紀のことは僕にしか分からないだ――

 という自負が、その時の健太を支えていた。

 健太は、表に出ると、自分から目立つようなことは決してしなかった。友達との会話でも、たまに意見を言うくらいで、自分の気持ちをハッキリと言えるのは、親友と二人きりの時くらいだった。

 その親友というのも、ずっと一緒だったわけではない。せっかく親友になっても、親の仕事の関係で、引っ越して行ってしまったり、受験が近づいてくると、お互いに進む道の違いから、なかなか話もできなくなってしまうことが多かった。

 同じ親友でも相手が違えば話ができる範囲は変わってくる。せっかく全幅の信頼を得られたと思っても、いなくなられてしまうと、最初はどうしても、警戒しながらの付き合いになっていた。

 特に、健太の場合は、

「あいつは変わり者だからな」

 と言われていた。

 言われること自体、別に嫌ではなかったが、そのせいで知らない人が近づきにくくなっているようで、親友候補がすぐには現れなかった。

 確かに、骨董趣味のような他の人にはない趣味を持っているので、

「ちょっと変わったやつ」

 と言われても仕方がないが、数人集まれば、そんな人は一人くらいいてもいいのではないだろうか。

 そんな時、妹の早紀を見ているのが一番楽しかった。早紀も健太には、気取ったところはない。どうしても自分たち兄妹は、裕福な家庭に育ったという意味で、まわりから嫉妬や偏見の目で見られがちなのは分かっていた。小学生高学年の頃が一番ひどかった。謂れのない中傷を受けていたのは健太だけではなく、早紀もだった。

 健太の場合は小学生までで済んだのだが、早紀の場合はそれからもしばらくは続いたようだ。

 特に女というのは、しつこい動物だという。表には嫉妬の感情を出すこともなく、その裏では牙を剥き出しにしているように見える。これは客観的にまわりから見ているから分かるのであって、当事者には分かるものではなかった。

 どうしても贔屓目に見てしまう兄であっても気が付くのだから、よほどの嫉妬のオーラが怪しく醸し出されていたことだろう。

――どうしてもう少し相手の目に気づかないんだろう?

 と、兄としてはイライラしたものだった。

 まるで自分が嫉妬の目で見られているようにも思えて、余計に悔しかった。そんな感情を抑えることができたのかどうか、健太は自分が信じられなかった。

 たまに早紀が自分を避けることがあった。

 別に早紀を見る目がいつもと違うわけではないはずなのに、明らかに早紀は健太を避けている。モジモジした態度の中に、兄の心中を探ろうとしているのが見え隠れしていたのを、後から思うと感じることができた健太だった。

――どうして、その時気づかなかったんだろう?

 と思うと、考えてみれば、

――早紀が相手の目に気づかなかったというのと、同じではないか?

 と思った。

 ということは、早紀も後になって健太と同じように、相手の目に気づいているのかも知れない。その時の心境を考えると、イライラしてしまった自分をバカだと感じてしまう健太だった。

 早紀に言い寄ってくる男性に嫉妬した頃もあったが、それも今は懐かしい。兄が思っているよりも妹はしっかりしていて、自分が気に入らない相手にはハッキリと、

「ごめんなさい。お付き合いできません」

 と言ってのけていた。

 妹に言い寄ってくる男性のほとんどは、他の女の子からは相手にされないようなオタクのような人たちで、これが大学生くらいなら、ストーカーにでもなってしまうかも知れないが、見た目そんな度胸もないような連中ばかりだった。妹も百も承知で、うまく断っていたようだ。

 妹に癒しを求めに来ているのは分かる気がするが、他の女性に相手にされないからと言って言い寄ってくるというのは、妹から見れば、「反則」に見えていたのかも知れない。

 正々堂々と告白してくるのであれば、もっと真正面から見てあげることもできるだろうが、

「他の女の子が相手をしてくれないから、私のところに来るというのもねぇ」

 と言って、半分呆れたような言い方をする妹も大変だった。

 幸い、逆恨みのようなこともなく、他の人からの誹謗中傷もなかったので事なきを得たが、それだけに、妹の毅然とした態度は立派に感じられた。

「僕にはできないよ」

 と妹の前でいうと、

「そんなことはないわ。お兄ちゃんだって毅然とした態度が取れる人だって思うもん。だから私はお兄ちゃんを慕っているのよ」

 妹から言われるとくすぐったい。

 もし彼女ができて、彼女に言われたらどんな気分がするだろう?

「木に登っちゃうかも知れないな」

 なかなか彼女ができない間、余計な妄想ばかりが頭を巡る。だが、彼女がほしいというのは、そういう妄想を楽しむことの延長だと思っていると、できない間の悶々とした時期は孤独でしかない。

 しかし、その孤独は後から思うと懐かしく感じられる。彼女ができた時に、

「あの時、こんなことを考えていたんだ」

 と、自分の妄想通りだったかどうか、思い出すことが懐かしさに感じる。

 なかなか彼女ができない間、余計な妄想を繰り返していると、

「お兄ちゃん、またいやらしいこと考えてるでしょう?」

 と、早紀から指摘される。

 そんな時の早紀の顔が紅潮しているのを感じた。恥ずかしさで顔が真っ赤になっているのだ。

――だったら、指摘なんかしなければいいんだ――

 と思ったが、それ以前に、

「どうして、お兄ちゃんが妄想しているって分かるんだい?」

「顔にそう書いてあるもん。私はお兄ちゃんの好きなタイプの女性も分かっているつもりよ」

「どんな女性なんだい?」

 この言葉は、健太にとっては本当は禁句だったはずだ。それを思い切って聞いてみたのは、妹の顔に今までにないほどの紅潮が見えたからだった。

 二人の間に沈黙が走った。

 どちらから声を掛ければいいのか、二人は探り合っているので、タイミングが難しい。それが分かっていたはずなのに、どうしてこんな会話に持っていってしまったんだ?

――元々、どっちが言い出したのか、忘れてしまったな――

 沈黙が長すぎて、会話を始めたのが、かなり前だったように思えた。本当は数分前だったはずなのに、この沈黙が時間を長くしている元凶だった。

 それでも何とかこの膠着した時間を打開しなければいけない。最初に声を出したのは、健太だった。

「お前が余計な詮索するから、こんな気まずくなっちゃったんじゃないか」

 という口調とは裏腹に、表情は笑顔だった。

 健太はそれを分かっていて、それを見ている早紀も笑顔になっていた。ここまでくれば、ぎこちなさは消えていて、さっきまでお互いに金縛りにでも遭っていたかのように思えていた。

――やっぱり気まずくなった時は、僕から話しかけるのが一番いいんだろうな――

 これが一種の兄の威厳であることへの満足感があったが、なぜか、それ以上に、どこか寂しいものも感じた。

――寂しさというのは、満足感と一緒に感じることもあるんだな――

 と改めて感じた健太だった。

 満足感は兄として感じるものだったが、寂しさというのはどこからくるものなのだろう?

 もちろん、それは男としての感情だというのは分かっていた。

――僕は妹が好きなんだろうか?

 それも分かっていたつもりだったが、心の中でも自分に問いかけないようにしていた。問いかけてしまうと、本当のこととして自分で認めなければいけなくなるからだ。

 どんなに相手のことを好きでも、妹とは結婚できるわけではない。恋愛にしてもそうだ。妹としてしか、愛することはできないのだ。

――僕って欲張りなのかな?

 妹として愛することができれば、それでいいじゃないか。女として愛することを求めるのは贅沢なことで、女として見る相手は、別に妹でなくてもいいだろう。女なんて、他にいっぱいいるではないか。

 そう思えば思うほど、早紀が妹であることを悔しく感じられた。

 まわりの男から見れば、

「あんな妹がいて羨ましいな」

 と言われるが、どんなに近づいても手を出してはいけないと宣告されているのだから、これ以上辛いものはない。

「早紀は、誰か他の男性を好きになったことってあったんだろうか?」

 言い寄ってくる男は、掃いて捨てるほどいた。それは分かっていることだった。しかし、早紀の口から聞かれることは、

「本当にまいったわ。私は別に誰のことも何とも思っていないのに」

 という言葉だった。

 それはそれで気になるところだった。

――妹が思春期になって、好きな男性が一人もいないというのも、困ったものだ――

 そう思ったので、自分に彼女ができないことを棚に上げて、妹の心配をしていると、妹から茶化される羽目になったのだ。

 先を越された方とすれば、何を言っても、それは言い訳にしか聞こえてこないような気がした。

 しかし、聞かなければいけないことはキチンとしなければいけない。お互いに笑顔になった状態を崩すというのは、勇気のいることだ。しかし、どちらからかが崩さなければいけないのであれば、兄の方からだと思うと、話しかけることに対して気が楽になったのも事実だった。

「お前は、一体どんな男性が好みなんだ?」

 さっきまでの笑顔が一変して、真面目な顔で問うてみると、彼女は相変わらずニコニコしながら、

「そうね。あまり考えたことはないわ」

 と答えた。

 その答えは、具体的なイメージを抱くというだけではなく、漠然とした感情も抱いたことがないと言わんばかりに聞こえた。

「考えたことがないというのは、相手を男性として見たことがないということ?」

 と感じたことをそのまま口にするのではなく、少し表現を変えてみた。

「そんなことはないわ。私だって、彼氏がいればいいなって思うんだけど、別にいないことで焦ったり、まわりの彼氏がいる子を羨ましく感じることはないと言えばいいのかしら?」

 やはり、健太とはだいぶ考え方が違っていた。この違いが男と女の感覚の違いなのか、それとも、自分がモテているという自信のようなものが余裕に変わって、そんな感覚を持たせているのかのどちらではないかと思っている。もし後者だとすれば、

「私はいつだってその気になれば、彼氏の一人や二人すぐに作ってみせるわ」

 とでも言いたいのかも知れない。

 しかし、そんな言葉は妹の早紀には似合わない。

――兄としての贔屓目なんだろうか?

 妹にはいつでも毅然とした態度でいてほしいという思いと、自信過剰になってほしくないという思いとがいつも頭の中で交錯していた。それが、兄としての思いなのか、それともそれ以上の感情の表れなのか、その時の健太は、いつも分からないまま、堂々巡りを繰り返しているような思いを抱いていたのだった。

「お兄ちゃんがモテてるところ、想像できないわ」

 いきなり、妹は話の矛先を兄に向けた。

「なんだい、いきなり」

 というと、

「だってお兄ちゃん、私の答えにくいことを答えさせようとしているようなので、私の方から話題を変えてあげたわ」

「それにしても、僕のモテてるところが想像できないというのは、僕に魅力がないということだよね?」

 というと、妹は、突き出した唇の前に人差し指を持って行き、吹きかけるようにしながら、人差し指を二、三度左右に振った。

「チッ、チッ、チッ」

 否定しているようだ。

「そうじゃないのよ。お兄ちゃんは女性から見て、分かりずらいところがあって、お兄ちゃんの魅力に他の女性が気づいていないだけなのよ」

 と言って、胸を張ってみせた。

 それは、

――分かっているのは私だけ――

 と言わんばかりのその表情に、健太は少し驚いていた。

「お兄ちゃんと、一番いつも一緒にいるのは私なのよ。当然じゃん」

 とおどけたように言った。

「それもそうだね」

 少しドキドキした自分が恥ずかしかったが、ガッカリするというよりも、内心安心したような気分になっていた。

「大丈夫。お兄ちゃんに彼女ができなかったら、最後には私が彼女になってあげるわよ。だから安心して」

「慰められているようだな。少し惨めになるじゃないか」

 というと、

「そんなこと考えなくていいの。私はお兄ちゃんが私のところに帰ってきてくれてもいいように、それまで彼氏を作らないから」

「なんだよ。それじゃあ、最初から僕はお前の元に帰るのが決まっているようじゃないか?」

 心は踊っていた。

「お兄ちゃんには安心していてほしいのよ。いつも心の中のどこかに余裕を持っていてほしい。私が見る限りでは、彼女ができないこと以外では、いつも心に余裕があるように感じられるわ」

「それは、お前がいてくれるからさ」

 と、咽喉まで出かかった言葉を必死で呑み込んだが、思わずつばを飲み込む態度をしてしまったことに、妹はどう感じたことだろう。

 妹の早紀と二人で会話している時は、相手に対して感じる人称は「妹」であった。

「早紀」

 と言いたいのだが、それを言ってしまうと、恥ずかしさで顔が紅潮し、それ以降、自分の思考回路に異変が起こりそうで、それが気になっていた。

 だから、いつも、

「お前」

 という表現を使っている。

 早紀から、

「お兄ちゃん」

 と呼ばれるたびにドキドキしているが、お兄ちゃんという言葉に対して返す言葉は、「お前」

 しかないと思っていた。

 どこから見ても、仲のいい兄妹である。そう思われるのが一番いいことなのだが、もし、少しでも妹に対して、恋愛感情を抱いてまわりを見たとすれば、果たして、

――仲のいい兄妹――

 と思われ満足できるのだろうか?

 いつも彼女がほしいと思った時に気が付けばしている妄想。妹を意識した時にも妄想していたことがあった。その時、自分が妹を妹と思わず、早紀として見ているのか、それとも、妹としての意識を持ちながら、さらに早紀として意識しているのか、ハッキリとは分からない。

 だが、妹としての意識と、女として見る意識とが共存できるのかということを考えた時、健太には、

――共存などできるはずはない――

 と感じさせた。

 そこまで来ると、

――自分の思考回路が狂っているのかも知れない――

 と感じさせることで、自分をどこまで納得させられるのか、分からなくなってしまうのだった。

 兄の健太の立場からすれば、妹に対しての感情の高まりが、自分が高校生になってからのことだったと感じているが、妹の早紀の方はどうだろう?

 自分が兄に対して恋愛感情のようなものを持っていると感じたのは、中学に入ってから、つまりは兄の感情が高ぶってきたことからだということになる。つまりは兄の視線で、自分が兄を男性として好きだという感覚になっていたことに気づいたことになる。

 だが、実際にはもっと前から兄のことを男性として見ていたように思えた。そうでなければ自分の中での辻褄が合わない節があるのだ。

 早紀は子供の頃、よく同級生に苛められていた。

 別に早紀のことを嫌って苛めているわけではなく、昔からよく言われるように、

「可愛い子ほど苛めたくなる」

 ということの類であった。

 早紀はもちろん、苛めている本人にも、どうして苛めるのか、その理由が分からない。分からないからこそ、果てがなく、苛める方も、

「一度振り上げた鉈を下ろすタイミングが分からない」

 と感じていたに違いない。

 そんな時、正義の味方のごとく、颯爽と現れたのが健太だった。

 健太にはなぜか、早紀が苛められているのが分かるようで、苛められていると思うと、いても立ってもいられず、馳せ参じることになるのだ。

 そんな兄のことを、

「白馬に乗った王子様」

 のように感じていたことだろう。

 これが赤の他人であれば、もっと感動するのかも知れないが、早紀は兄が来てくれることが嬉しかった。

――他人なんかに分からないことが兄だから分かるのよ――

 と、素晴らしい兄を持ったことに満足していた。

 しかし苛めもエスカレートしてきて、そのたびに現れる兄の存在が次第に物足りなくなってきた。

――どうしてなのかしら?

 気持ちの中にもどかしさがあり、何か超えてはならない境界線があり、その向こうに飛び出すことは、自分を助けてくれているのが兄である以上できないことのように思えたのだ。

 何が物足りないのか考えていると、

「そうだわ。兄だから物足りなく感じるんだわ」

 本当は最初に感じなければいけなかったことである。

 最初に満足してしまって、もし相手が他人であれば、気持ちがどんどん盛り上がってくるはずなのに、兄であることで、それ以上の盛り上がりはない。なぜなら、兄のことは誰よりも自分が一番知っているからだ。

 他人であれば。

「もっと相手のことを知りたい」

 という思いが、胸の中でどんどん膨れ上がってきて、物足りなさなど考える余地は与えない。

 しかし、兄であることで、胸の中はすでに飽和状態になってしまい、それ以上何も得るものはなかった。そうなると、次第に空腹状態になり、物足りなさを感じてしまうのだ・

 早紀には、そんな自分の心境を分からなかった。ちょっと考えれば分かることなのだが、それには、自分を客観的に見るしかない。他の人との間なら客観的に見ることができるが、相手が兄だとどうしても、主観的にしか見ることができない。それだけ冷静になり切れないということなのかも知れない。

 それでもずっと考えていると、相手が兄だからだという理由に辿り着く。漠然とした考えであるが、

――どうしてすぐに思いつかなかったんだろう?

 と後から思うと、信じられない感情が湧き上がってくるのだった。

 漠然とでも、兄を意識するようになると、頭の中が走馬灯のようになり、記憶が次第に遡っていくのを感じる。小学生から遡るのだから、ほぼ記憶の中にあるものなので、思い出すことは難しくない。それなのに、記憶に残っていることがかなり前だという意識があるのは。それだけ小さい頃のことを思い出したくないという思いがあったからなのかも知れない。

 ただ、別に小さい頃、怖かったり辛かった思い出はない。兄との楽しい思い出ばかりなのだが、思い返している自分の思いと、感じていた時の自分の思いに隔たりがあった。それは今から思い出すことを客観的に見ているからで、子供の頃には、客観的に見ることができなかったという意識の表れだったに違いない。

 一度、苛められていた時、兄が来てくれなかったことがあった。あの時は、学校の帰り道にある公園でのことだったのだが、ちょうどその時、兄は学校で補習を受けていたので、馳せ参じることができなかったのだ。

 その時、助けてくれたのが、一人の女の人だった。真っ白いドレスのようなワンピースに、白い帽子という、本当にお姫様のようないで立ちだった。将来、自分が好んで着ることになる服装をしたお姉さんが、苛められていた自分の前に現れたのだ。

「あなたたち、おやめなさい」

 その一言で振り返った早紀を苛めていた連中は、目の前に見たこともない上品な服装のお姉さんが現れたことで、急に神妙になった。苛めていた手を収め、クモの子を散らすように、それぞれバラバラにその場を離れた。どうして皆一緒に離れなかったのか疑問だったが、お姉さんの言葉に、いじめっ子たちにしか分からない戒めのような威圧感を感じたのかも知れない。

「ありがとうございます」

 早紀は、お姉さんを見上げて無表情で礼を言った。お姉さんは笑顔で早紀を見下ろしたが、

「いいえ」

 というと、踵を返し、その場から立ち去った。

 同じ颯爽という言葉でも、兄に助けられる時とは違った雰囲気に、すっかり早紀は魅了されてしまった。それは暖かな一筋の風が吹き抜けたかのようなイメージで、

「またすぐに会えそうな気がする」

 と感じさせるものだった。

 公園を出たお姉さんを待っていたのは真っ黒な高級車で、そこにはタキシードを着た一人のおじさんが待ち構えていて、お姉さんが車に乗り込むのを助けていた。子供心に、

「これが本当のお嬢様というものなんだわ」

 と感じた。

 早紀は、自分の将来というよりも、自分の母親の若かった頃のイメージを抱いていた。彼女は高校生くらいに感じられたが、ひょっとすると、中学生かも知れないし、高校を卒業していたのかも知れない。あまりの眩しさに、実年齢の判断ができなかったのだ。

 当時の早紀の母親の年齢は、まだ二十代後半だった。まだまだ綺麗な年齢で、同じくらいの女性は、まだまだ独身の人が多かったかも知れない。母の場合は、最初から結婚相手は決まっていたようだ。最初から敷かれたレールの上を、いつから歩んでいたというのだろう? 早紀も自分の将来を思うと、少し冷めた目で見てしまう気がしてならなかった。

 ただ、それはもう少し大人になって感じたことだったのだが、白い衣装を着ている姿を背中から見ていると、正面から見た時よりも大きく感じられたのは、気のせいだったのだろうか?

 早紀は公園を出て、お姉さんを追いかけた。いくら小さな女の子だとは言え、ゆっくりとしたストライドで歩いているお姉さんに対し、走って追いかけている早紀は、すぐに追いつけるだろうと思っていた。

 しかし、ある程度のところまで来ると、急に足が重たくなった。

――これ以上走れない――

 と感じたかと思うと、そのままこけてしまったのだ。

 不思議なことに、痛くはなかった。だが、こけてしまったことに気を取られているうちに、お姉さんはすでに目の前から車ごと消えてしまっていた。

――まるで夢のようだわ――

 そう思うと、もうそのお姉さんとは会うことができないような気がしてきた。

――もし、あの時、追いつけていれば、どうだったのだろう?

 話をしてみたかったというのが本音なのだが、その場で面と向かって、どんな話ができたというのだろう。少なくともあの時の状況は、苛められていた自分を助けてくれたのがお姉さんだったはずだ。会話の主導権はお姉さんにあるはずなのだが、そのお姉さんは早紀を目の前にして、どんな話をするというのだろう? まったく早紀には想像できるものではなかった。

 次の日、早紀は前の日と同じ時間に公園に出掛けた。学校の帰りだったので、また昨日のいじめっ子連中がいたら公園の中に入れないという危惧があったが、幸いにもそのいじめっ子たちがいることはなかった。

 しかも、その日以降、いじめっ子たちが公園にいる姿を見たことがない。お姉さんの一言が一喝の役目を果たしたのか、早紀にはそれ以外考えられなかった。

 お姉さんがいたその時間、ずっと待っていたが、お姉さんは現れなかった。

「昨日は偶然立ち寄っただけなのかしら?」

 と思ったが、それでも早紀は、次の日も、またその次の日も待ち続けた。

 諦めたのは何日目だったのか? それすら漠然としていて、ハッキリ記憶に残っていなかった。

 そんなことがあってから、お姉さんの姿は、まだ小さかった早紀の瞼の奥に記憶されていた。特に最後に見た後姿が印象的で、前を向いていた時の顔は、ハッキリと覚えていない。

 まるで逆光で見たようなイメージだった。顔はのっぺらぼうのようで、勝手なイメージとして口は耳元まで避けていて、ギザギザになりながらも、整っている真っ白い歯だけが、怪しく光っているのだ。

 そんなことがあったなど、もちろん誰にも話していない。

 大人になった今までに、どんな些細なことでも話してきた兄に対してさえ、このことは話さなかった。

――あまりにも夢のようなお話なので、変なことを話して、余計な気を遣わせることはない――

 という思いだったのだが、

――兄に対して、初めて秘密を持った――

 という意味では大きかった。

 普通であれば、今まで秘密にしたことのない相手に初めて秘密を持ったのだから、それまでのタガが外れて、少々のことであれば、話さなくてもよくなると思うのだが、早紀は逆だった。

――一つ秘密を持ってしまったことで、これからはもう二度と兄に対して隠しごとを持ってはいけないんだ――

 と心に決めたのだ。

 律儀と言えばそれまでだが、律儀などという言葉で簡単に言い表せるほどの兄妹の関係ではなかった。

――もし、私がいじめられっ子ではなかったら――

 という思いが自分を自虐的な気持ちにして、一度自虐的になってしまうと果てしなく奈落の底を見てしまうことになるのだが、その歯止めをしてくれているのが、兄の存在だった。

 兄の健太というのは、妹にとって、なくてはならない存在であることは、このことだけで十分だった。

 早紀はその頃から喘息がひどくなっていた。

 元々小児喘息として診察を受け、毎日薬を服用し、定期的に通院を余儀なくされていたので、なかなか友達と遊ぶ時間がなかった。そのことが苛めの標的になってしまったというのは、本当に気の毒なことだった。

 そんな娘の身体を心配して、父が田舎に別荘を買ってくれた。その別荘には、一年のうちに数週間ほど滞在するのが恒例になっていて、それまで都会しか知らなかった兄妹には、センセーショナルな印象を与えた。

 兄の健太としては、少し冷めた気分でもあった。家族にはその心境を知られないようにしていたが、決して田舎に遊びに来ることを喜んでいたわけではない。

 田舎というと、自然に親しむにはいいが、不便を覚悟しなければいけないところがある。特に遊びたい時期の子供としては、田舎で数週間というのは、嬉しくはなかった。

 テレビ番組でも、民放は二局くらいしか映らない。アニメの連続放送も、その時期には見ることができず、家を出る時に録画してこなければいけなかった。予約もその頃は大変で、結構面倒臭かった。元々文明の利器と呼ばれるものの操作は苦手で、しかも面倒臭がり屋だったので、かなりの苦労があった。

 その時の印象があるのか、その反動なのか、骨董品に興味を持ち始めたのがその頃だったというのも、あながち関係がないわけでもない。

 それでも妹の早紀が楽しみにしているのだから、嬉しく思ってあげなければいけない。

――妹は僕が守るんだ――

 という気持ちになったのも、

――親とは別に自分は自分で――

 という思いが、孤立してしまっていた自分の気持ちを、何とか踏みとどまらせているのかも知れない。

 早紀の喘息は、田舎にいる時はいいのだが、都会に戻ると、少ししてまた再発してしまうことが多かった。

「せっかく田舎に行ったのに」

 と、両親はガッカリしていたが、一番ガッカリしていたのは、健太ではないだろうか。

 それでも、

――妹を守るのはこの僕だ――

 という思いが強くなったことで、ガッカリしなくてもいいと自分に言い聞かせていたのだ。

 都会に帰ってくると、妹の喘息は一か月ほどで、また出始める。医者に相談しても、

「療養は長い目で見なければ」

 という程度で、特効薬的なものがなければ、とりあえずは難しいということだった。

 その特効薬も研究はされているが、商品化にまでは、まだ少し時間が掛かるということだった。

 それは仕方のないこととして、都会に戻ってきてからは、今までのように、毎日の投薬に、定期的な通院を余儀なくされることになるが、妹は別に苦にしているようではなさそうだった。

 それが両親にとって救いではあったが、同時に妹に対しての負い目でもあった。その負い目があるため、どうしても妹には甘くなってしまう。それも仕方のないことで、英才教育のうちのいくつかは、辞めてしまっても構わないということになった。

 妹の中で、本当に続けたいものだけを続ければよくなったことで、その分、通院と休息の時間に充てられることができるのだ。

 通院の日は、学校を休んだ。

 別に一日中病院にいなければいけないわけではないが、朝一番で診療してもらい、午前中には終わることで、その後は、運転手の人に、郊外に連れていってもらっていた。

 海の時もあれば、山の時もある。妹が行きたいところがその目的地になったのだが、最初こそ海が多かったが、途中から、妹が見つけたという湖のほとりが多くなった。

 これは健太も二年間ほど知らないことだったが、その湖のほとりには、妹が、

「お姉さま」

 と慕う女の子がいた。

 年齢的には健太と同じくらいだろうか。その女性は白い衣装が似合っていた。

 つまり、妹にとって、以前公園で助けてくれたお姉さんの「代わり」のような感じで、すぐに仲良くなり、気心が知れるようになると、お屋敷に招待されることも多くなったという。

 それは、自分たちの別荘を彷彿させるようなところで、彼女もそこで家族と離れて住んでいた。

 もちろん、彼女のために、執事、家政婦はたくさんいるのだが、家族がいないことで、さぞや寂しいのかと思ったが、

「寂しくなんかありません。皆さん、よくしてくださいます」

 と言って、笑っていた。

「でも、早紀様が来てくださる時は、本当に私もうきうきしてしまいますのよ。まるで本当の妹ができたようで、嬉しくて」

「そう言っていただけると嬉しいです。私も素敵なお姉さまができたようで、誇らしく思えるほどです」

「ありがとう」

 そう言いながら、半日をお姉さんと過ごす一日は、早紀にとって、二、三日分にも匹敵するものだったに違いない。

「早紀さんは、ハチの一刺しという言葉をご存じですか?」

「聞いたことがあります。確か、ハチというのは、刺してしまうと、すぐに死んでしまうので、刺すという行為は命がけという意味だったんじゃないですか?」

「ええ、でも一度刺したからと言って死んでしまうハチというのは、限られた種類だけなんですよ。ハチにもいろいろ種類がある中で、ミツバチだけが、しかも、その中でも一部だけが死んでしまうことになるんです」

「そうなんですね。知りませんでした」

「そのハチの針というのは、食指が逆についているので、刺した後に抜けなくなってしまうらしいの。そのままにしておけば、結局は死んでしまうので、ハチは自分の身体を引き裂いて、針だけを残して、飛び去るんですよ。でも、何しろ身体半分がないようなものなので、すぐに死んでしまうのよ」

「なんて残酷な。そして因果なんでしょう?」

「そうよね。でも、毒針が残った方は、ハチがいなくても毒素はどんどん身体に入っているので、死に至るかどうか分からないけど、ハチの一刺しは十分に効果を発揮しているというわけ」

「やはり、因果なものですね」

「そうでしょう? 私はそれを聞いた時、自分も死ぬ時は、ただでは死にたくないなと思うようになったの。何か自分がこの世に存在したことを証拠として残しておきたいという気持ちですね」

「まるで今にも死ぬような言い方しないでくださいよ」

 と苦笑いをすると、それに構わず、彼女は続けた。

「動物というのは、死期が近づくと、誰も知らないところにひっそりと身を隠すらしいわね。自分の死んだ後の姿を誰にも見せたくないという気持ちが強いと思うのよ」

 と嘯いていた。

 口調は穏やかだが、語句は強めな気がした。冗談や酔狂ではないようだ。それだけに早紀は苛立ちを覚え、興奮状態になった。

「そんなこと言わないでください。縁起でもないです。いくら私でも怒りますよ」

 早紀も真面目に答えているというのが分かったのか、

「ごめんなさいね。私どうかしているんだわ」

 と言って謝ったが、その言葉に信憑性は考えられず、どうしても、その時からぎこちなさが残ってしまった。

――せっかく招待してくれているのに、私が雰囲気を壊してはいけない――

 と思うのだが、そう思えば思うほど、気を遣っているつもりなのに、どうしてもネガティブにしかなれない彼女に信憑性を感じなくなっていた。

 それは頭の中が堂々巡りを繰り返していることを示していた。

 しかし、彼女の表情を見ていると、やはり酔狂ではない。何か重大なことを彼女は抱えていて、気を遣って話してくれないようだ。

「私、孤独が嫌いじゃないの。昔からいつも一人だったから。まわりにいるのは家政婦さんや執事の方ばかり、そんな私を一般の学校に通っている人たちが分かってくれるはずもない。だから、孤独には強いつもりだった」

 その気持ちは早紀にも分かった。

 自分も裕福な家に生まれて、そのことが原因の一旦になり、苛められることが多くなった。

 そんな時誰も助けてはくれない。助けてくれるのはお兄ちゃんだけだった。苛めている人以外は冷めた目で見ているだけだ。

――黙って傍観している人たちの方が罪深い――

 そう思うようになった。

 傍観者に罪を感じるのは、筋違いなのかも知れないが、苛めに参加もしない。かといって助けることもしない。自分にまったくのリスクを背負わないのは、卑怯である。見てみぬふりをする人を見ていると、苛めている人の方がまだマシな気がしてきた。

 実際に苛められるのは耐えられないが、それも傍観者の目を意識するからだ。その目が、早紀に恥辱感を与えるのだった。

 恥辱に塗れていると、いかにも四面楚歌を感じさせる。

――しょせん、人間なんて孤独なものだ――

 そう思ったが、この場合の自分は孤独なのではない。一人孤立しているだけだ。

「孤独」と「孤立」、言葉としては似ているが、同じものではない。

「孤立」というのは、一人になった状況を、客観的に見ているだけのもので、「孤独」というのは、一人になったことを自分の中でどのように感じるかという中の一つである。たいていの場合が「孤独」を感じる。しかし、孤独を悪いことだと思っている人は、孤独でないと思っているのかも知れない。早紀は孤独を悪いことだとは思っていないので、甘んじて自分の中で孤独という気持ちを消化させていたのだ。

 そんな時、早紀は彼女と出会った。

 彼女は早紀を妹のようにかわいがってくれていた。どんな心境なのか早紀には分からない。しかし、彼女の気持ちを考えると、そこに兄の気持ちも含まれているような気がして、分からないまでも、分かりたいという思いに駆られていたのだ。

 兄に対して甘える気持ちと、彼女に対して甘える気持ちでは大きな違いがある。

 それは相手が異性か同性かということだった。兄は血は繋がっていても、相手は男性、踏み入ってはいけない壁があるのを感じていた。彼女は血は繋がっていないが、同性ということもあり、

「お兄ちゃんには言えないようなことでも、お姉さまになら話せるような気がするんです」

 と言っていたが、それは本心だった。

 身体ごと委ねたいと思うのは、お姉さんの方だった。どうしても思春期というのは異性に対して警戒心を抱くことは否めない。抗えない気持ちを抱きながら、兄とだけ気持ちを通じ合わせてしまっていれば、思春期を乗り切れたかどうか、分からない気がした。そんな時に一緒にいてくれるお姉さんは、早紀から見ると女神様にも見えていたのだ。

 そんなお姉さんには、何か秘密があるようだ。

――ずっと一緒にいたい――

 と思うようになったのは、その秘密を探りたいという思いと、お姉さんに感じることになる、

――影の薄さ――

 が、以前話した時に聞いた死期が近いという話と重ね合わせて考えなければならない辛さを味わうことになった。

 しばらくは、毎日のようにお姉さんの屋敷に招かれて、楽しい日々を過ごしていた。会話をするのが一番の楽しみで、何も知らないお姉さんかと思っていると、確かに世間のことには疎いところがあるが、学識的なところは素晴らしく知識が豊富だった。たっぷりある時間を読書に費やしているのだと思うと、感無量であった。

 だが、そのうちに、毎日の行動が薄っぺらいものに感じられた。知識は豊富になっていくのだが、行動パターンが毎日同じなので、

――同じ日を繰り返しているのではないか?

 と感じるほど、一日一日の感覚がマヒしてきていた。

「何かを思い出す時、昨日のことだったのか、それとももっと前だったのか、ひどい時には今日のことすら感覚的に分からない」

 記憶の中にはあるのだが、時系列がハッキリしない。その思いが毎日の性格を薄っぺらいものにしてしまっていた。

 そんな時、急にお姉さんがいなくなってしまった。いつものようにお屋敷に行くと、執事が出てきて、

「お嬢様は、しばらくお出かけになります。お帰りの日程はハッキリとはしません」

 あまりのも無表情で事務的な言い方に、腹が立ったが、執事の顔を見ていると、ここで苛立ちを見せても、

――暖簾に腕押し――

 だと思うと、それ以上怒りを覚えるだけ無駄な気がした。それも、執事の狙いだったのかも知れない。

 そのうちに帰ってくるものだと思っていたが、一向に帰ってくる様子がない。さすがに早紀も諦めて、もう屋敷に近寄ることはなくなったが、さらにしばらくして屋敷の前を通りかかると、

「空き家」

 という文字が見え、門構えの頑強さは変わっていなかったが、どこか寒気を覚えるような不気味さがあった。

「お姉さん、どこに行ってしまったのだろう?」

 思い出されたのが、動物の死期の話をしていた時のことだった。

 今から思い出すと、お姉さんの印象は、あの時の表情だった。寂しそうに虚空を見つめていた目に光が当たっていたような気がする。実際にあの時に感じたわけではないかも知れないが、今から思い出すと、そうとしか思えないのだ。

「まさか、本当に死んでしまったのではないだろうか?」

 執事も家政婦さんも皆分かっていて、お姉さんの死を悼む気持ちを押し殺して、無表情だったのかも知れない。何もかも分かっていて、早紀に心配を掛けまいとして、あくまでも冷めた顔をしていたのかも知れないと思うのは、本当に考えすぎなのだろうか?

 考えすぎではないとすれば、お姉さんの優しい性格が、まわりを動かしている。そんなお姉さんのことが改めて偉大に感じられ、早紀は慈しむ気持ちが込み上げてきた。

 早紀が変わったのはそれからだった。

 友達とも少しずつ会話をするようになり、それまでのわだかまりはすぐに解消された。早紀のことを苛めていた人も、早紀に謝るようになり、和解できたことで、自分が何を求めていたのか、少しずつ分かってきた。

 それを分からせてくれたのは、お姉さんの存在であろう。

 そう思うと、まわりとも和解できたことも嬉しかったが、それ以上にお兄さんである健太も自分を守ってくれていたことを再認識していた。

 中学に入ってそのことに気づいた早紀は、高校生になる頃には勉強もクラスで一番になり、まわりからも一目置かれる存在になった。

 しかも、面倒見もいいことで、慕ってくる人も多くなった。お嬢様ということで嫌われることはなくなったが、それでも、中には心の底で何を考えているか分からない人もいたりして、ある程度順風満帆の自分の人生を、手放しで喜べない早紀だった。

 それでも、ポジティブに考えられるようになった早紀は、満足していた。小学生時代から中学生になって何が変わったのかというと、

「ネガティブにしか考えられなかったことが、ポジティブに考えられるようになったことだ」

 この思いに気づいた時、まわりが見えるようになった。

 そして、今まで感じたことのなかった信頼感を、肌で感じることができると、その思いが気持ちのいいものだと感じるまでに時間は掛からない。この思いがいずれ異性に感じられた時、

「私の初恋になるんだわ」

 と思ったのだ。

 時々兄の健太に挑戦的な表情になり笑顔を浮かべていたが、同じような表情を初恋の人にも浮かべることになると思っていた。

「初恋は淡く切ないもので、成就するものではない」

 と聞かされていたので、成就までは期待していなかったが、実際に初恋を味わうと、

「まさにその通りだわ」

 と、感じることになる、。

 初恋の相手には告白もできて、お互いに両想いだということが分かったが、実際に付き合い始めると、自分が想像していたものとかなりの開きがあった。それは相手も同じだったようで、気が付けば、別れに繋がっていたのだ。

 別れはしたが、切ないものではなかった。甘い思いはなかったが、初恋から「大人の恋」をして、「大人の別れ」を味わったのだ。

 兄の健太は、そんな早紀を見ていて頼もしく感じたが、

――もうお兄ちゃんの力はいらないのかな?

 と思うと寂しくなっていた。

 その思いはずっと燻っていて、時々無性に妹に慕ってほしく感じることがあり、そんな時は自分が寂しさを感じる時であった。健太が寂しさを感じる時というのは、妹のことを考えている時だけで、友達との間のことで寂しいとは思わない。それだけ妹に対しての思いは特別だったのだ。

 そのことを親友に話した時のことだった。

「お前ら、本当に兄妹なのか?」

 といきなり言われてビックリさせられた。

「どういうことなんだい?」

「お前は結構極端なところがあるのは分かっていたけど、特に妹のこととなると、異常なくらいに極端になることがある。俺が思うに、お前が極端なのは、最初から極端なんじゃなくて、妹という存在があることで極端になるんじゃないかって思うんだ」

「よく分からない」

「妹というのは血が繋がっているという思いを持っていなくても、血の繋がりを無意識に確認しているんだよ。だから、妹でなければ分からない、あるいは、妹だから分かるということを自分に納得させられるんだよね。でも、お前を見ていると、無理にでも妹との血の繋がりを意識しようとしているように思えてね。それが定期的であり、その時に両極端に見えるんだよ」

「……」

 言い返すことができなかった。

 頭の中で一生懸命に計算しているつもりだったが、気が付けば堂々巡りを繰り返している。友達にも分かっているようで、

「また最初に戻っただろう?」

 友達にも妹がいて、健太と同じ三つ下だった。

 友達は続けた。

「俺も小さい頃に同じように極端になったことがあったんだ。誰も指摘してくれないので、自分で分からなかった。まだ十歳にもなっていなかったので、異性への気持ちのわけはないが、どうやら、自分が正義の味方になっていて、悪に苛められている妹を助けるヒーローが俺だったんだよな」

 健太はハッとした。

「そういえば、妹は小さい頃、いじめられっ子に苛められていたんだ。俺は知っていたんだけど、助けてやることができなかった。それでも、妹は俺を慕ってくるんだよ。何ともやりきれない気持ちだったさ」

 それを聞いた友達は、

「なるほど、そういうことか」

「どういうことなんだい?」

「お前は、その頃のことがトラウマになってしまっていて、妹のことを自分が守るという使命感に包まれているだろう? それは俺が小さかった頃に感じていた正義の味方の発想なんだよ」

「……」

「だからと言って、お前を責めるつもりはないんだが、俺の場合は子供の頃だったので、これから成長する過程でのことだった。だから、プロセスとしてトラウマになることもなく、成長の中に埋もれてしまったのさ。思い出としてね。でもお前の場合は、トラウマが先にきて、その後に成長があった。成長期にはネガティブになることはなかったので、正義の味方の発想も自分の中から排除したんだろうな。でも、成長期を抜けると、今度は妹に対してどう感じていいのか分からなくなった。だから、気持ちだけは幼い頃に戻ってしまったんだろうな」

「新鮮な気持ちになったということかな?」

「成長しきれなかったわけではなく、子供の頃の記憶を求めて意識が自分の記憶の中を探り始めた。本当ならあるはずの記憶がないことで、再度作ろうという意識が生まれたのかも知れない。ただ、それが妹に対してなのかどうか分からないんだけどね」

「女として見ているということかい?」

「僕はそうじゃないかって思うんだ。妹というのは、いつも一緒にいるじゃないか。でも、子供の頃に妹にとって、『一番一緒にいてほしい』と思っていた時期に、自分がいてあげることができなかったんじゃないかって思っているんじゃないか? それが君の中でトラウマとして残ったんだよ。でも、それが本当の意味でのトラウマなのかどうか、分からないけどね」

 友達は、さらに続けた。

「君を見ていると、君の意識の中に、早紀ちゃんが本当の妹ではないかも知れないという意識があるように思うんだ。これは君が意識していない『潜在意識』というところが働いているのかも知れないけどね」

「潜在意識か……」

 健太は考え込んでしまった。

 潜在意識という考え方は、今までに何度も感じたことがあった。特に夢について考えた時、

「夢というのは、潜在意識が見せるものだ」

 という話を聞いたことがあったのを思い出さずにはいられない。

 友達の話を聞いていると、本当に血が繋がっていないように思えてくるから不思議だった。もっとも、暗示に罹りやすい健太が、自己暗示をかけたとも言えなくはない。どちらにしても、早紀に対しての健太の目は、大学二年生の頃から、少しずつ変わっていったことを、本人も意識するようになったのだ。

 事件が起きたのは、それから半年ほど経った頃だった。

 相変わらず、ガラケーを弄っていた健太だったが、今まで通りに着信音を通常のベルにしていたことで、悲劇が起きた。

 健太にとって、

「トラウマって一体何なんだ??」

 と考えさせられるもので、しばらく音というものに敏感になったり、恐怖を感じるようになった時期だった。

 ここまでの話はあくまでもこのお話の導入部、次章ではいよいよ物語が動き始めることになる……。

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