最終話 ふところ島、ちから風

 砂まじりの風が吹く、田舎の畦道あぜみちを、ひとりの老人が歩いてゆく。


 ずるり、ずるり、えた片脚をひきずって、その跡が白い蛇のよう。


 遠くの畑からその様子を目にとめたものは、ご難儀なんぎなことじゃ、と憐れに思ったが、当の老人の顔には、さして苦労の色もなく、むしろ微笑ほほえみさえたたえている。


 両手で握りこんだ杖を巧みに操って、ぬかるみの悪路であれ、深いわだちの跡であれ、けして態勢をくずさない。


 領民たちがうやうやしく頭をさげるのにむかって、気安く声をかけてゆく。


「よいお日柄じゃのう」「女房は元気にしておるか?」「このあいだ持ってきてくれた瓜は美味うまかったぞ、ありがとうよ」「おう、ついに生まれたか、そいつはめでたい。後で祝儀を届けさせるでのう」


 老人はいつの時もほがらかで楽しげで、領民たちも、言葉を交わすのがいかにも嬉しそう。

 どちらを向いても、笑顔の花が咲いている。


「ご隠居さま」

 野辺に遊ぶ童たちが集まってきて、とりどりに編みこんだ花輪を、老人の首にかけてくれた。

「ありがとう、ありがとうよ」

 老人は嬉しそうに、枯れ木にも似たゴツゴツした大きな手で、童たちの頭をつつみこんだ。


「ご隠居さまは、いつもお元気じゃのう」

「なんでも毎日、鉢一杯、牛の乳をめしあがられるそうじゃ」

「なに? 牛の乳?」

「そりゃあ、けったいな……」

「一日に何里となく歩かれるそうじゃ。われらのために、領内を見回ってくださっておるそうじゃよ」

「このあいだなどは、『いざ鎌倉で戦があれば、真先に駆けつける』などと、笑いながら仰ってたよ」

「ご隠居さまなら、やりかねん。すごいお人じゃもの」

 そんな領民たちの噂話を後に残し、老人はどこまでもどこまでも歩いてゆく。


 土地の人々からと呼ばれる、この季節ならではの生温なまぬるい海風が、砂を巻きあげ、老人の体を無理やり持ちあげ、塩ッ辛く横っつらを張りたおすが、それでも老人はへこたれない。

 それどころか、なお嬉しげに、にこにこと笑っている。


 牛に引かれた荷車が、うしろから迫ってきた。

「ご隠居さま、乗ってゆきなっせぇ」

 牛飼の野太い声が、ぶっきらぼうに飛んできた。

「ああ、ありがとう。そうさせてもらうよ」

 なんでもない世間話に花を咲かせながら、しばらくすると荷車を下り、また歩いた。



 やがてひときわ高い丘の上まで来ると、老人は背に負ってきた鳥籠をひらいて、なかにいた雲雀ひばりを、空へと放った。

 怪我をして弱っていたのを、元気が戻るまで養っていたのである。


 雲雀はたちまち喜んで、まるで怪我したことなどありもしなかったかのように、二度、三度、飛び廻ると、日輪てんのめをめざし、雲のなかに消えていった。

 老人は杖によりかかり、眉を垂らし、すこし淋しそうな瞳で、いつまでも……漂いゆく雲を見あげていた。



「父上――」

 ふりかえれば、うら若い婦人が、田舎道に大きく手をふっていた。

 末の娘である。

 桜貝のような頬をしている。

 若い頃の妻の姿にそっくりだと、老人は思った。


 ちいさな男児も、ようやく見つけたとばかりに「じじどのっ」と、喜び勇んで駆けつけてくる。

 目鼻立ちの整った、かわいらしい美童である。


 若い母親は駆け寄って、男児の体を後ろからつかみ止めた。

「どうしても『じじどの』を迎えに行くんだって、聞かないものだから……」

「おうおう、ありがとう。おまえさんはほんに、やさしい子ぉじゃ。お礼にこれをさしあげよう」

 先ほどもらった花輪を首にかけてやると、美童は頬を上気させ、嬉しそうに跳ねまわった。


 親子の眼下には、田植え前の耕地が広がっていた。

 昔は荒れ地でどうしようもない場所だったが、荊棘いばらを刈り、水はけをよくし、開墾かいこんも進み、今では人々が懸命に田起こしに精を出している。


 海のほうから、ちから風が吹く。

 夏の訪れを告げるため――

 大地を目覚めさせるため――


 老人はしずかにたなごころを合わせると、感謝の言葉を唱え、人々の労働の無事を祈った。

 ふと見れば、娘も孫も、同じように手のひらを合わせていた。


「今年もたくさん、お米が授かるとよいな」

「きっと授かりますとも」


 無邪気な娘の言葉に、大きくうなずくと――風を翼に、日輪を車に、老人はまた、南へむかって歩きはじめた。





(『ふところ島のご隠居』全稿・了)







謝辞 


 大庭景義公の、長い長い人生の旅路を、ともに体験していただきまして、誠にありがとうございました!!


 全幅の敬意をもって、心より感謝申し上げます。


 ありがとうございました!!!

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ふところ島のご隠居・第四部・絆編 KAJUN @dkjn

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