第60話 頼朝、ふたたび落馬すること

「行くか。日が暮れてしまう」

「鎌倉までお供いたします」

「うむ」


 於政と子供たちが牛車に乗ったのを確認し、頼朝は馬を歩ませた。


 ――途中、平らかな砂地がつづく場所に出た。

 ここはかつて、有常や千鶴丸、河村義秀が、流鏑馬の稽古をした場所だった。

 今では大庭の郎党たちばかりでなく、鎌倉武者たちの八的やつまとの稽古場にもなっている。


「おい、あれは?」

 突然、頼朝が声をあげた。

 頼朝がなにを見ているのかわからず、景義も御家人たちも、やっきになってあちこちに視線をさ迷わせた。


 頼朝は、苛立たしげに叫んだ。

「そなたらには見えぬのか? あれはそう、弟の義経と、叔父の十郎殿じゃ。まだ生きていたのか……」

「いえ、二品様。義経公と行家公はすでに誅殺され、この世にはおられませぬ」

「では、あれは誰だ」

 頼朝が指差した先には、ただただ群薄むらすすきが、風に穂をなびかせているだけであった。

 景義と御家人たちは頼朝をなんとかなだめすかし、馬を先へと進ませた。


 稲村崎まで来た時、頼朝はまたもや異常な興奮にとらわれ、海上を指差し、鋭く、斬るように叫んだ。

「あれを見よッ。波の上で、十ばかりの童子が髪をふり乱して遊んでいる。なに? そなたらには見えぬか? 分からぬか? よく見よ、沖の方だ。あれは……あれは、そう……」

 頼朝は、ひきつるようにして息を呑み込んだ。

「……私が西海に滅ぼした、安徳あんとく帝……」


 みなまで言いおおせぬうちに、白目を剥き、口から泡をふいて、馬上から崩れ落ちた。

 行列はふたたび、蜂の巣をつついたような騒ぎにおちいった。


 ……心の底に潜む、暗い罪悪感が、その幻覚を見せたのであろうか……

 頼朝は意識朦朧としたまま、於政の車に乗せられ、鎌倉に運ばれた。

 半月のあいだ病床で、生死の境を彷徨さまよった。


 年が明け、建久十年、一月むつき十三日。

 源頼朝は、ついに帰らぬ人となった。

 享年、五十三。


 於政の哀惜は、言いようもなかった。

 ひとりしずかに、手鏡を取り出し、鏡面に見つめ入った。

 鏡のなかに、在りし日の夫の姿を、自分の姿を、捜し求めた。

 しかし、そこに映るのは、やつれはてたおのれの顔ばかり……。


(どうした、鏡ばかり見て)

(歌にもありますでしょう? 恋したら痩せるって……)

(はは)

 夫の、かるい笑い声。

(……知ってるか、於政。あの歌は、足柄の神さまの、哀しい物語なんだよ……)


 鏡筥かがみばこの底に、薄様うすようの紙に包まれて、なぎの葉がひとひら眠っている。

 頼朝がくれた、縁結びの葉である。

 それを見た瞬間、於政は弾けるように慟哭した。


(あが君……)

 鏡面が、涙の雨で歪んでゆく。

 どうしようもない苦しみをふりきるようにして……於政は護り刀を引き抜くや、ひと息に、みずからの髪をぎ剃った。




 不思議なことに、まるで頼朝に殉じるかのように、親しかったものたちが次々と没し去った。


 すでに先年には長女の大姫が、二十三の若さで世を去っていた。

 この六月には、三女の三幡姫も眠りについた。

 数え、わずか十四。


 ……梶原景時、三浦義澄、藤九郎盛長、千葉常胤……


 それから、岡崎四郎義実入道――奇しくも兄と同じ、齢八十九の大往生であった。



 ――偉大なる時代が、幕を閉ざした。

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