第59話 頼朝、落馬すること
三
頼朝が、ふところ島の近くで落馬した。
建久九年のことである。
稲毛重成が、亡くなった妻のため、相模川に大きな橋を架けて供養祭を行った。
亡くなった妻というのが、すなわち於政の妹であったから、頼朝と於政は一家そろって厳粛な気持ちで、この橋供養に出かけた。
供養祭が終わり、帰途につこうとしたその時、頼朝の乗馬が突然に荒れ狂い、橋上から、相模川に躍り込んだ。
頼朝は鞍の上から放り出され、頭から真っ逆さまに川床に落ちた。
水のなかから引きあげられた時には、まったく意識を失っていた。
濡れた着物を脱がすと、砂利に混ざって川の
於政は自分の着物が濡れるのもかまわず、必死の形相で夫にすがりつき、体を丹念に
頼朝は、その場所からほど近い、景義の屋敷に運びこまれた。
意識は戻らなかった。
景義が
「死んではなりませぬ。死んではなりませぬぞ」
声をひそめ、息を尖らせ、夫の耳元に囁いた。
「今まであなた様は、わたしの思いを幾度となく裏切ってこられた。幾度、わたしは涙で袖を濡らしたことか、わかりませぬ。
……けれども、わたしは自分でわかっているのです。わたしはあなたなしでは生きられない、生きてゆけない。
なにも知らなかった田舎娘のわたしを、
わたしたちは鏡にむかいあう、影と形のように、互いに寄り添いあって生きてきた……なのにどうして今になって、わたしを置き去りになさろうとするのです。わたしだけが、本当のあなたを理解している。誰にもあなたの悪口は言わせない。あなたを知り、愛しているのはこのわたしだけ。このわたしだけが、このわたしだけが……
於政は夫の胸で、女童のように泣きじゃくった。
しばらくして気持ちが落ち着いてくると、夫の胸に耳を当て、心臓の鼓動を、ひとつ、ふたつと数えた。
(まだ……生きておられる)
「――於政」
ぞっとするほど冷え切った手が、於政の手を握りしめた。
於政は狂喜し、顔に顔を近づけた。
頼朝は喉の奥から、かすれ声を発した。
「……おもしろい夢を見たぞ」
言葉をひとつひとつ確かめるように、頼朝はゆっくりと語った。
「……私はたくさんの人々に
於政は驚き、ふるえた。
「……それは、夢ではありませぬ」
頼朝は不審げに、妻の顔を見つめた。
「ここはどこだ……伊豆山か? それとも、蛭島か?」
「いいえ、ふところ島の、平太殿の屋敷です」
「ふところ島……」
「あなたは今朝、鎌倉の御所をお発ちになられ、相模川の橋供養にご臨席なされたのです」
於政は焦る気持ちを抑えながら、ひとつひとつ順序だてて説明した。
その言葉を聞きながら、頼朝はじっと天井を見つめ、やがて水から浮かびあがるように錯乱から抜け、われに返った。
「そうか……橋供養……」
頼朝はゆっくりと上体を起こし、左右を見まわした。
「鎌倉へ帰ろう」
夫の手を強く握りしめ、於政はうなずいた。
しかし、その胸中には得体のしれぬ不安が、黒々とうず巻いていた。
頼朝が新しい着物を羽織り、身仕度を調えているところへ、景義が戻ってきた。
「おお、二品様、お目覚めになられましたか……よくぞよくぞ。今日のところはこのふところ島で、ごゆっくりお休みください」
「いや、鎌倉へ帰る。幸い、体はこのとおり、なんともない。鎌倉の者たちも心配するであろうから……」
頼朝は言ったが、まだ口ぶりがどこか覚束ない。
心配顔の景義をよそに、頼朝は屋敷の外に出ると、ふたたび、馬上の人となった。
「
「馬鹿を申せ。人が動揺する」
鎌倉将軍として、人々に弱い姿は見せられない。
無理に背筋を伸ばした頼朝は、ふところ島館の様子を、なつかしげに見回した。
「以前この館を訪れたのは、上洛の途中だった。あの夜は素晴らしかった。
「景義、そなたにはいつも助けられてばかりだ」
(あ)
景義は驚いた。
(なんと透き通った笑い方をされるのじゃろう。まるで
それは景義が今までに見たことのない……頼朝の、不思議の微笑みだった。
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