薄珈琲大好鬼(うすいこーひーだいすき)
都市と自意識
薄珈琲大好鬼(うすいこーひーだいすき)
うちんとこの村の山には
薄珈琲大好鬼は読んで字の如く、薄いコーヒーを好んでいる鬼で、村にくだってきては薄いコーヒーを人々にねだる。
大好鬼は友好的だけど薄さにはうるさいというか、薄くても、好みの薄さじゃないととにかくかなしい顔をする。眉間の皺をギュッとやって口をムイッとさせる。生きた梅干しみたいになる。その表情を見るとこっちもかなしくなってきてしまうし、大好鬼のその顔を思い出すと布団のなかで自己嫌悪になっちゃって次の日もかなしい気分のまま学校に行かなきゃいけなくなる。
そういうことがあるもんだから、小学校中学校高校とで大好鬼係とか大好鬼委員みたいなのがあって、年イチで講習会とかもある。酒匂んとこの(くどいようだが本家の)おじいさんが体育館に敷かれた緑色の養生マットの上にしつらえられた事務机にかがんで、ガスコンロで温めたヤカンから湯を注ぎながら、こうやって、このぐらいが普通、つまりブラックで、お店屋さんで出てくるやつがこういうのね、それで、これ一回淹れたやつをもう一回淹れる、ほら、こう、ね……、そうすると大好鬼さんはね、この薄さがね、いいんですよ、みたいなことを言う。毎回。わたしたちは体育館でコーヒーのいい匂いを嗅ぐ。わたしたちのコーヒーいい匂い原体験は体操着に包まれたやわっこいお尻がひんやりとした体育館の床に触れたときの感触と強く結びつく。わたしたちは都会でスタバとか行ってもなんだか体育館のことを思い出す。毎回。
毎回! でもそうやって講習とかやらないとみんな忘れてしまうのだし、温厚で友好的とはいえ鬼の特性をちゃんと訴えていかないとふざけるやつとか無駄に気を利かせるやつが出てくる。
吉見のお兄さんは大好鬼が家に来たときにワンボックスカーに乗せてモールの上島珈琲に連れて行ったことがあるけれど、そこでミルク珈琲(黒糖のやつ)を飲ませたとかで2週間ほど神隠しに遭った。戻ってきたときにはスペイン語しか喋れなくなっていた。
村一番のいたずら小僧だった城嶋んとこのいとこはインスタントの抹茶オレを振る舞ってから常に体が地面に接地せず、小6になったいまもちょっと浮いている。
それ以外にもいろいろあって、だからまあ、町役場としても微妙に村おこし材料にしにくい、ということらしかった。それはそうだろうと思う。
で、わたし。わたしの話になる。
わたしが大好鬼とちゃんと交流したのは高2の6月の頃だったと思う。
自転車に乗ってぴゃーっと家に帰ったら、ロンTとカーゴパンツを着た大男が家の前に立っていた。服装はふつうのヤンキーの兄ちゃんという感じだったけれど、背格好でわかった。
わたしは酒匂にLINEしようとして、やめて、とりあえず講習のことを思い出しながら「大好鬼さん、大好鬼さん、お上がりください」と言い、大好鬼を家に招き入れた。大好鬼はクロックスを脱いで丁寧に揃えると、お邪魔しますみたいなことを言った。
「お座りください」と言って座ってもらう。「お待ちください」と言って待ってもらう。わたしの家族がふだんご飯を食べたりする場に見知らぬ人がいる、というのはかなり奇妙で、わたしはわたしの家のなかなのにひどく居心地が悪かった。
適当なグラスに氷をたくさん入れて、そしてアイスコーヒー用の、希釈するやつを冷蔵庫から取り出してちょびっと入れた。そしていつものくせで豆乳を入れそうになるのをギリギリで止めて、浄水器からジョバーっと水を注いだ。
「薄い、のになります……」
わたしはグラスを大好鬼の目の前に置いた。浄水器の激しい水流のせいで、氷がグラスのなかでゆっくりと回転し、耳をすませるとかちりと氷同士のぶつかる音が聞こえた。
わたしは大好鬼の前に座り、彼と一緒に、じっとグラスを見つめた。大好鬼はなかなか手をつけなかった。
グラスの表面に玉が浮かび、つーっとテーブルのうえに垂れ落ちていく。わたしはその様子を眺めるしかなかった。緊張して彼の眼を見るなんてことはできなかった。
はあ、と大好鬼は息を漏らした。これは機嫌を損ねたのかと思い、わたしはおそるおそる顔を見た。
彼は涙を流していた。鋭い目つきの、ギラギラとした恐ろしい瞳が、濡れ、静かに涙を流していた。すーふふ、と彼は、小さく震える喉から息を漏らした。
こんなにも静かに、そして美しい涙を流す存在がこの世のなかにたしかに存在している。そういうことをわたしはそのとき初めて知った。
おとなたちが皆、なんだかんだこの鬼のことを受け入れている理由を、わたしはそのとき悟った。
わたしはそのことを、つまりこの世の事実を、そのすべての美しさを誰かにいますぐ伝えたくて仕方がなかったけれど、目の前で現にそういった存在が泣いている以上、それはできないことだったし、そしてわたしは美しさと同時ににっちもさっちもいかない孤独とはなにかということを知った。
わたしもひとりで、大好鬼もひとりだった。わたしたちは同じ食卓に着き、同じものを見ているのに、ぜんぜん違う存在だった。
わたしは「ず、ずびません」といってティッシュを一枚とって鼻をかんだ。しばらくしてから大好鬼はグラスをその毛深い手で持ち、一気に薄くなったアイスコーヒーを呷った。鋭い歯で氷をばりばりと砕いていく。指毛もすごい濃いな、ということをわたしは泣きそうになりながら思った。
大好鬼は仏頂面のままごちそうさまみたいなことを言うと、家から出ていった。
グラスに残った氷が溶け、からりと鳴ったところで、わたしは酒匂に電話した。
「んおー」と酒匂は言った。
わたしはその声を聞いた途端に机に突っ伏して泣いた。そのことは酒匂もいまも覚えているはずだし、わたしとあの子のあいだにほとんど隠し事はないけれど、この出来事に関してはお互い何も話したことはない。今も。
それがわたしと大好鬼との初めての接触で、たしか彼はあのあと10回はうちに来たはずだ。そのうち2回は薄くしすぎてかなしい顔をさせてしまったけれど、それ以外は特に問題はなかった。わたしたちは毎回、ずっとひとつのグラスを何分も見つめていた。氷が溶ける時間をともにすごした。
「あいつってさ、なんで泣くの? いつも泣くの?」
いつだったか酒匂に訊いてみたことがある。
「知らね」とあの子は言って、トリプルエスプレッソラテに口をつけた。「あたしんちに来るときは相撲の話で盛り上がるし、本家んとこでは株の話すんだよ、あいつ」
株?
「株価を教えてくれるんだって、2秒先のやつ」
いまも大好鬼は村にくだってきては、薄いコーヒーをねだっているはずだ。わたしが通っていた高校では大好鬼おもてなしという名目で、デロリアンだかネロンガみたいな名前のメーカーの高級なエスプレッソマシンが導入されて、それ本当に導入する必要あるのか? 教師陣が使いたかっただけじゃね? とかで揉めている。
そういうこともある。
わたしだって、ああいった体験をしたけれど、結局のところ最近は紅茶にはまっているし、ちょっと前はジャスミン茶にはまっていた。
そういうもんでしかないんだなと、わたしは思う。そしてそれでいいのかもしれない。
わたしはときどき、グラスいっぱいに氷を詰めて、うっすいコーヒーをあえて作る。そしてそれを飲まずにシンクに流す。それがわたしのどういった感情に起因するかなんて、わたしにはわからないし、酒匂にもわからないし、あんたらにもわからないだろう。
知らんけど。
薄珈琲大好鬼(うすいこーひーだいすき) 都市と自意識 @urban_ichi
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