彼女はオーボエをやめた

津川肇

彼女はオーボエをやめた

 中二の夏、奈央がオーボエをやめた。少し前から始めた歯列矯正のせいで、演奏しても口内が痛んだり、思うような音が出せなくなったからだという。


 私たちはずっと、広い空き教室にたった二人で練習してきた。二人の最後の練習のあと、奈央はもう触ることのないであろうオーボエを丁寧に手入れしていた。一年と少しお世話になった貸し楽器を労わるように、奈央はやさしくクロスで拭いていく。

「今日で最後なんだっけ」

 しんみりした空気に耐えられず、私は口を開いた。

「別に吹部をやめるわけじゃないし、いいけどね」

 口では強がっているけれど、その瞳は名残惜しそうに揺れている。

「明日からトランペットに変わるんだっけ?」

「そう。案外そっちのが向いてたりしてね」

 そんなはずない。少なくとも奈央には、私よりずっとオーボエの才能があった。この部活に二人しかいないオーボエ奏者の優劣は、他の部員から見ても明らかだった。二枚のリードと黒いつややかな管は、まるで奈央の体の一部のように馴染んで、いつも繊細な音色を奏でていた。奈央にとって楽器を変えるということは、自分の足を引きちぎって義足をつけるようなことに違いない。

「ソロはよろしくね」

 奈央がぎこちなく微笑む。夏のコンクールは、吹奏楽部にとって一番の大舞台だ。そこで演奏する曲の中で、奈央はソロパートを任されるはずだった。

「……うん」

 私は、胸の中の邪まな気持ちを隠すように、短く答えた。奈央がオーボエを辞めるのは悲しい。この気持ちは嘘じゃない。奈央がいなくなったら、私はひとりぼっちで基礎練習するか、フルートパートに吸収されて、あのぴーちくうるさい子たちの中でひとり浮いて練習することになるだろう。

 だけど、心の奥底で、奈央がいなくなることを喜ぶ私もいた。奈央がいれば、私はきっとソロを演奏することは一生なかった。奈央も私も、同じ進学校を進路に決めていたし、この夏も、中学最後の夏も、そして高校に上がってからも、私はずっと奈央の陰に隠れたままのはずだった。このどす黒い気持ちが奈央にばれる前に、私は先に教室を出た。


 翌日から、ひとりぼっちになった私は、フルートパートに混ぜてもらって練習することになった。最低限の挨拶をして、私は黙々と今日使うリードを選ぶ。

「奈央ちゃん、オーボエやめたんだってね」

 話しかけてきたのは、パートリーダーの一番派手な先輩だ。ゆるく毛先を巻いた茶色のロングヘアを揺らしながら、意地の悪い笑みを浮かべている。

「あ、はい」

「じゃあソロパートは奪っちゃったわけだ」

 先輩が猫のような目を細める。

「いや、歯の矯正は仕方ないんで、奪うとかそんなんじゃ」

「いいよ別に、今あの子いないんだし。ざまあって思ってんでしょ?」

 その言葉に、他の子たちが「いじわるー」と口を揃えて、きゃっきゃと笑う。

「そんなこと、ないです」

 私は慌てて否定したけど、先輩の薄茶の瞳に見つめられると、本当の気持ちまで見透かされているような気がして恐ろしかった。

「まあいいや。今日は合奏練習あるから、あとでみんなでチューニングね」

 先輩はつまらない返事に興味を失ったらしく、私はほっと息をついた。


 その日の合奏練習に、奈央はいなかった。今日初めて触ったであろう楽器でみんなと合わせて吹くなんて、無理がある話だ。そもそも、音は出たのだろうか。

 私はというと、初めてソロパートを演奏しなければならなかった。本当は、披露する予定もないのに隠れてずっと練習していたけど、いざ誰かに聴かれると思うと酷く緊張した。手に滲んだ汗で、オーボエが滑り落ちてしまわないだろうか。今日選んだリードは本当に調子が良かっただろうか。音楽室の空調でチューニングがずれていないだろうか。そんな心配がいくつも頭をよぎったが、演奏は待ってはくれない。ずっと憧れていたはずなのに、ソロパートが始まってほしくないとさえ思った。

 

 演奏を終えた後、滅多に部員を褒めない顧問は、私のソロに「悪くない」とだけ言った。合奏が止んだ静寂の中で、遠くの教室から的外れなトランペットの音が聞こえる。私がこれまで感じていた劣等感は、いつの間にか微かな優越感に変わり、どろっと胸を覆いつくしていた。

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