旅立ちの朝 その2


「そう思うのなら、さっさと出ていけ。お前達がいては不可能だろう?」


「まったく! この小娘は……っ!」


「おい、季白……っ!」


 苛立ちを隠さず何やら言いかけた季白を、張宇があわてた様子で止める。


「英翔様のおっしゃるとおりだ。お前だって、早く出立したいんだろう? なら、ここは英翔様にお任せして俺達はいったん下がろう」


 ちらっと気まずげに明珠達のほうに視線を向けた張宇が、季白を促す。


「荷物の最終確認だってあるだろう。ここで無為な時間を費やす暇がないのは俺達も同じだ」


「張宇! わたしは小娘にしっかりと……っ!」


「うん、それは後にしような。どう考えても英翔様のお叱りを受けるだろ、それ……」


 半ば季白の背を押すようにして張宇達が出ていく。出た際には台所の扉までぴっちりと閉められた。


「あ、あの……っ!?」


 早くなった鼓動がおさまらないのを感じながら、あわあわと声を出すと、明珠に向き直った英翔が困ったように愛らしい顔をしかめた。


「季白がすまぬな。だが、その……。季白の言う通り、少年姿のわたしを蚕家の者に見られるわけには決していかぬ。それゆえ、元の姿に戻らねばならないのだが……」


 『元の姿に戻る』


 それが何を意味するのか、明珠はもう知っている。


 だからこそ、先ほどからずっと鼓動がおさまらないのだ。


「……だめか?」


 くぅん、と子犬がすがるような顔で見上げられては、嫌だなんて言えるわけがない。


 何より、明珠は尊敬する英翔の役に立ちたくて、仕えたいと願ったのだから。


「だ、だめだなんて、そんなことありません……っ!」


 だが、心臓が壊れそうなくらいばくばく騒ぐのはどうしようもない。


 助けを求めるように、首から吊り下げ、胸元にいれた守り袋を服の上からぎゅっと強く掴むと、英翔が安堵したように息をついた。


「恥ずかしいのなら、お前は目を閉じていてくれればいい」


「はい……っ」


 言われたとおり、守り袋を握ったまま目を閉じると、英翔が背伸びをする気配がした。


 英翔の衣に焚き染められた香の薫りが鼻をくすぐったかと思うと、柔らかくあたたかなものが唇にふれ。


「ありがとう、明珠」


 耳に心地よい低い声が鼓膜を震わせる。


 少年英翔の澄んだ声とは明らかに違う、耳に心地よく響く低い声。


 同時に大きな手のひらに頬を包まれ、「ひゃっ」と思わず声が洩れる。


「お前は、声も本当に愛らしいな」


「ふぇっ!? な、何をおっしゃって……っ!?」


 驚きに開けた視界に飛び込んできたのは、見惚れるほど秀麗な面輪だ。


 少年英翔の面影を残した――けれど、明らかに何年も成長した姿。


 この凛々しい青年姿こそが、『英翔』の本当の姿だ。


 一介の庶民にすぎない明珠が英翔に仕えられているのは、ひとえに明珠が英翔にかけられた禁呪を一時的にとはいえ、解くことができるからだ。


 それにしても、英翔のほうこそ町を歩けば年頃の娘達の熱い視線を集めずにはいられないだろうに、明珠のことを愛らしいというなんて、冗談が過ぎる。


 悪戯っぽいところは少年姿の時も青年姿の時も同じだが、少年姿の時は笑って流せる冗談も、青年姿では破壊力が違い過ぎる。


 ただでさえ燃えるように熱い頬が爆発しそうだ。


「あ、あのっ、もう元の姿に戻られたのですから、よろしいでしょう!?」


 至近距離に英翔の秀麗な面輪があるなんて、心臓に悪いことこの上ない。


 頬を包む英翔の手から逃げるように顔を背け、一歩退こうとすると、「まだだ」と英翔のもう片方の腕が背に回った。


 抱き寄せられた拍子に、香の薫りがふわりと揺蕩たゆたう。


「すまんが、出発の時に《幻視蟲げんしちゅう》を召喚するゆえ、《気》が心もとない。もう少しだけ頼む」


 《幻視蟲》というのは、見る者に任意の幻を見せることができる《蟲》だ。ここ龍華国りゅうかこくには《蟲招術ちゅうしょうじゅつ》という、異界から不思議力を持った《蟲》を召喚する術がある。だが、仕えるのは術師の才を持ったものだけだ。


「え……っ!?」


 目をつむる暇もあらばこそ、英翔の秀麗な面輪が下りてくる。


「ん……っ」


 先ほどよりも深くくちづけられ、思わず変な声が洩れてしまう。頬を包んでいた手がかすかに動くだけで、そわりと背筋にさざなみが走る。


 引き締まった腕に抱きしめられていなければ、膝から崩れ落ちてしまいそうだ。


 ほんのわずかな、けれど明珠にとっては十分長く思えるくちづけが終わる。


 あたたかな唇が離れ、ほっとして息を吐くと、英翔が優しく笑みをこぼす気配がした。


「すまん。無理を強いてしまったな。わたしは旅装に着替えに行くが、お前はもう少しゆっくりしているといい」


 腕をほどいた英翔が、なだめるようにぽふ、と優しく明珠の頭をひと撫でする。


「は、はい……」


 恥ずかしさに顔を上げられない明珠を置いて、英翔がきびすを返して台所を出ていく。


 颯爽と歩む凛々しい後ろ姿を、明珠は守り袋を離すことも忘れて、ほうけたように見送った。


 心臓はまだぱくぱくと高鳴っていて、しばらく落ち着きそうにない。きっと顔も熟れた桃よりも紅く染まっていることだろう。


 英翔の禁呪を解く方法がいまのところこれしかないとはいえ、こんなことが続いては、そのうち心臓が壊れそうだ。


「だ、大丈夫かな、私の心臓……?」


 ぽつり、とこぼれ落ちた声に答える者は、誰もいなかった……。


                          おわり


~作者より~

 ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました~!(*´▽`*)


 残念ながら、『呪われた龍にくちづけを』の商業展開は、このたびのコミカライズ第2巻がラストとなります。


 いままで応援いただき、深く御礼申し上げます!(深々)


 カクヨムコンで受賞したわけでもなく、しかも第一幕の連載終了が2018年の4月にという作品が書籍化のお声がけをいただき、コミカライズまでしていただけたのは、みなさまの応援があったからに他なりませんっ!

 本当にありがとうございます……っ!(深々)


 申し訳ありません、今年度は本業もかなり忙しく、第四幕につきましては現時点では何とも言えないのですが……。


 これからも応援していただけましたら嬉しいです〜!

 今後ともどうぞよろしくお願いいたします!(ぺこり)


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『呪われた龍にくちづけを』書籍化&コミカライズ記念 おまけ短編集 綾束 乙@迷子宮女&推し活聖女漫画連載中 @kinoto-ayatsuka

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