旅立ちの朝 その1


~作者より~

 こちらのSSはWEB版でしたら第一幕、書籍版第2巻終了後の時系列となっております。

 ネタバレを含みますので、未読の方はご注意くださいませ~(ぺこり)



   ◇   ◇   ◇


「明珠、ここにいたのか」


「あっ、英翔様」


 蚕家の離れの台所で掃除をしていた明珠は台所の入り口から聞こえてきた少年英翔の澄んだ声に振り返った。


「もう台所は使わぬだろう? 間もなく出発だというのに……。もう支度は終わったのか?」


 問いかけながら台所に入ってきた英翔に、洗った雑巾を絞りながら「その……」と返す。


「もともと私の荷物はほんの少しだけですし……。それに、このあと使わないからこそ、綺麗に掃除してお返ししないとと思いまして」


 明珠はつい先ほど、雇われたばかりの蚕家をクビになった。


 今日で去る身だからこそ、立つ鳥跡を濁さずの言葉どおり、綺麗にして返さなくては申し訳ない。


 明珠の言葉に、目をしばたたいた英翔が、愛らしい面輪に柔らかな笑みを浮かべる。


「なるほど。出ていくからこそちゃんと掃除しておくとは、真面目で優しい明珠らしいな」


「ふぇっ、そんなことないですよ!?  お掃除してお返しするのは、当たり前のことですからっ!」


 英翔に褒められるとなんだかくすぐったい気持ちになってしまう。絞った雑巾を持った手をぶんぶん振りながら答えると、英翔がさらにくすくすと笑う。


 英翔がこんな風に年相応に笑ってくれる姿を見ていると、明珠まで嬉しくなってしまう。


 いや、英翔の本当の姿は、この愛らしい少年姿ではなく、凛々しい美青年なのだが。


 それでも、明珠にとっては最初に出逢った少年姿の英翔に親しみを感じてしまう。


「でも、英翔様がいらっしゃるなんて、何かご用ですか? あっ、おなかがかれたんでしょうか?」


「……お前がわたしの顔を見るたびに腹が減ったと尋ねるのは何なのだ?」


 明珠の問いに、英翔が不満そうな顔になる。


「すみません。少年姿の英翔様のお顔を見ていると、つい順雪じゅんせつのことを思い出してしまって……」


 順雪というのは、実家に残してきた十一歳になる明珠の弟だ。


 明珠が奉公に励み、実家に仕送りしているのは、ひとえに順雪にちゃんと育ってほしいからに他ならない。


(お給金のいい蚕家をクビになってしまったのは哀しいけど、でも……っ!)


 心の中で明珠はぐっ! と拳を握りしめる。


 明珠は蚕家をクビになった。だが同時に、英翔の侍女として新たに雇われることになったのだ。


『あなたのことは、わたしが個人的に侍女として雇います。もちろん、否とは言わせませんよ?』


 切れ長の瞳に冷徹な光を宿し、明珠にそう告げたのは、英翔の従者である季白きはくだ。


 断る気など、明珠には最初からなかったのだが、その気持ちは季白が提示したお給金の額を聞いて、確固たるものになった。


 蚕家のお給金でさえ通常の侍女奉公よりずっと高額なのに、まさかそれ以上の金額を提示されるなんて。


 受けないわけがない。


(季白さんは危険手当込みだって言っていたけれど……)


 昨夜のことを思い出すと、いまでも身体が震え出しそうになる。


 こうして傷ひとつなく立っていられるのが奇跡のようだ。それもこれも、英翔が癒やしてくれたからに他ならない。


 だが、たとえ危険と隣合わせだとしても、明珠はもう、英翔のもとを去ることなんて考えられない。考えたくもない。


(季白さんが提示してくれたお給金なら、義父とうさんが使い込んじゃった蚕家の支度金だって、ほどなく返せるだろうし……)


 明珠にはもう、英翔の侍女として雇われる以外の選択肢はありえないのだ。


「どうした? 難しい顔をして」


「へっ? だ、大丈夫です! 何でもありませんよ!」


 不意に英翔に至近距離で顔を覗き込まれ、明珠はあわててかぶりを振った。だが、英翔の表情は晴れない。


「何か考えごとをしていただろう?」


「え……?」


 そんなに険しい顔をしていただろうか。雑巾を置き、両手でぺたぺたと顔をさわってみるが、自分ではよくわからない。


「何が不安だ? ……いや、ゆうべのことがあれば、わたしに仕えたくない、逃げたいと思うのも当然か……」


「英翔様っ!?」


 視線を落とし、苦い声で呟いた英翔の小さな手を、明珠は思わず両手で握る。


「何をおっしゃるんですかっ! 私が英翔様にお仕えしたくないと思うなんて……っ! そんなこと、天地がひっくり返ってもありえませんっ!」


 明珠の言葉に、顔を上げた英翔が黒曜石の瞳を瞠る。


「だが……」


 なおも言い募ろうとした英翔の言葉を、不敬と知りつつ明珠は無理やり遮った。


「英翔様に嘘なんて、決して申し上げませんっ! これからも、英翔様にお仕えさせてくださいっ!」


「お前は……っ」


 感嘆とも呆れともつかぬ声をこぼした英翔が、不意に明珠にもたれかかってくる。


 こつん、と明珠の肩に英翔の額がふれ、少年にしては細い腕が明珠の身体に回される。


「え、英翔様っ!?」


 英翔の腕はまるで、幼い子どもが母親に抱きつくように思われて、


 驚きながらも、明珠も痩せた身体を抱きしめ返そうとした瞬間――。


「明珠っ! 英翔様がどちらにいらっしゃるか知りませんか!? 間もなく出発だというのに――英翔様っ!?」


 台所の入り口から季白の険しい声が飛んできて、明珠は思わず身体を強張らせた。


 驚いて入り口を見れば、目を吊り上げた季白が、明珠を睨みつけながら、つかつかとこちらへ向かってきている。季白の後ろには、英翔の頼りになるもうひとりの従者、武人の張宇ちょううの姿も見えた。


「英翔様っ! いまは小娘などにかまっているお暇はございませんでしょう!?」


 明珠から引きはがすつもりか、英翔に伸ばされた季白の手を、肩にふれるより早く、明珠から身を離した英翔が冷ややかに振り払う。


「わたしの準備はあと少しだろう? 明珠の姿が部屋から消えていたんだ。心配になって探しに来るのも当然だろう?」


「英翔様……っ」


 不機嫌そうに季白に告げた声の裏に、明珠への心配を感じ取り、思わず感動の声を上げる。


 が、季白は主の言葉に眉根を寄せた。


「英翔様のお心をわずらわせ、誠に申し訳ございません。ですが、ご心配は不要です。小娘をみすみす逃す気など、まったくございませんので」


「ひぃぃ……っ」


 そう告げる季白の後ろにもくもくと湧き立つ黒雲の幻を見た気がして、明珠の口から押し殺した悲鳴がこぼれる。


 明珠自身、英翔から逃げ出す気などまったく全然、これっぽちもないが、もしそんな素振りを見せていたら、季白はいったい何をする気だったのだろう。怖すぎて考えたくもない。


「季白……。それはどう聞いても悪役の台詞だぞ……」


 張宇も明珠と同じことを思ったらしい。呆れ混じりの呟きが聞こえたが、幸か不幸か、季白の耳には届かなかったようだ。


「おい、季白。明珠を怯えさせるな。明珠を怖がらせることはわたしが許さんぞ」


 季白を振り向いた英翔が、険しいまなざしで睨みつける。


「別に怖がらせるつもりなどございません。事実を述べただけでございます」


 英翔のまなざしにも動じず、淡々と応じた季白が「それより」と厳しい声で問いかける。


「まだ元のお姿に戻られていらっしゃらないのですか? お着替えもありますのに……。元のお姿に戻る手立てを見つけたいま、一刻も早く蚕家を出なければならぬとおっしゃっていたのは英翔様ではございませんか。早くご準備なさってください」


「え……?」


 『元の姿』という単語を聞いた途端、明珠の鼓動がぱくんと跳ねる。


 英翔が元の姿に戻るということは、つまり……。


 思わず両手で胸元を押さえた明珠をよそに、英翔が不機嫌な声で季白達に命じた。


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