始まりのふたり

小烏 つむぎ

始まりの二人

 暗闇の中一筋の光が走ると、少女の目前に世界が広がった。


 そこは見渡す限りほの明るく鈍い色の空間だった。ゆっくりと上空を移動する灰色のグラデーションの塊は、ふわふわととりとめもなく集まりまた崩れては形を変えていく。その変化し続ける塊からは灰銀色に揺れる柱がゆっくりと上から下へと降りていた。


 細い糸のような灰銀の柱は風に踊るようになびき捩れ、時に世界を灰色一色に染め上げ、時に薄い紗をかけたように見せ、風景にいくばくかの変化をもたらした。音もなく降りてくる灰銀色のこの糸の束は、恐ろしくもあり慈愛に満ちているようでもあり、見ていると気持ちが落ち着くようでもあった。


 しばらくすると灰銀色の柱はカーテンを開けるように去っていき、世界に光が戻った。あおく広がる大空の下には色を濃くした翡翠みどりで覆われた琥珀だいちがどこまでも広がっていた。翡翠みどりの隙間からところどころ顔を覗かせる琥珀だいちの険しくとがったあたりに光が差し輝くさまは、神々しいとはこういう事かと思われる景色だった。


 やがて翡翠みどり琥珀だいちに変化が現れた。


 種々様々な翡翠みどりは思い付く限りの姿形で広い琥珀だいちを覆っていたが、灰色の物が通り過ぎると翡翠みどりは色様々な可愛らしい、または不思議な形を生んだ。小さな形はそらを目指し、または翡翠みどりに隠されている琥珀だいちを向いてほころんだ。


 それは少女にとって何度も見ても見飽きる事のない美しい風景だった。


 灰色に浮かぶものは「雲」、「雲」から降りてくるものは「雨」、琥珀だいちを覆いつくす翡翠みどりが「植物」というものだと、少女が青いつぶらな瞳の持ち主に教わったのはしばらく後のことだった。翡翠みどりから生まれたものが「花」だと知ったのもその時であった。


 雨は時折やって来ては、大地のすべてを濡らして通りすぎた。植物みどりも可愛らしい花も雨の滴を受け止めて、美しい玉をその上に結ばせた。玉は折しも現れた光を集めてきらきらと輝いた。


 「なんて世界は美しいの!」


 少女は今日も目の前に広がる立体画像ホログラムを眺めながら、ほうとため息をついた。


  ◇


 少女は名前を持たない。


 彼女は物心ついた時から部屋に一人でいた。常に一人きりなので他と区別すための名前を付ける必要はなかったのかもしれない。

 

 何故なのか説明もなかったが、常に一人であった少女はそれを不思議とも思うことはなかった。穏やかな乳白色の部屋、柔らかく居心地のいい寝床、澄んだ空気、綺麗な水、美味しい食事はきちんと用意されたが、自分以外の体温を持つモノはそこにはいなかった。


 部屋に窓はなく、継ぎ目もなく、十分な広さはあったが出入り口はなかった。緩いカーブを描く乳白色の壁は時にスクリーンになり、一部は照明にもなった。また時に壁は操作盤にもなったが、常はつるんとした壁面であった。 壁は寝るためのスペースと学びくつろぐためのスペースを目隠しのように区切ってもいた。

  

 その部屋には少女のほかに誰も存在しなかったが、常に見守られていた。目が覚めると心地よい風が吹き、壁から優しい挨拶が聞こえた。眠たくなると、部屋は暗くなり壁に明かりがついて寝室へといざなった。

「ねぇ。」と話しかけると、壁から「どうした?」と答えが返って来た。まるで部屋自体に意思があるようだった。


 少女は部屋に一人だったが、孤独ではなかった。


  ◇


 ある日いつものように立体映像ホログラムの風景を眺めていると、その中になにか見慣れぬモノを発見した。それはすらりと背丈があり手足は長く、とても力強く動いていた。


 その姿は少女によく似ていたが、そっくりというわけではなかった。たおやかな少女より角ばった体つきで逞しかった。背の高い翡翠みどりから何かをもぎ取って口に運んでいるように見えた。


 「あれは、なに?」

「あれは人。

あれは果実と呼ばれるもの。」


 いつもの穏やかで優しい声が答えた。


 それから数日、少女は立体映像ホログラムの中の動く人を夢中になって見つめていた。


 人の髪は短く濃い色で、少女の薄色で長く柔らかな髪とは違って見えた。少女は薄いふわりとした衣裳を纏っていたが、人は何も着けていないようだった。人は植物の間で動き回り、座り込み、寝そべって、伸びをした。


 人の元には時折四つ脚の動物というものが集まった。また空から舞い降りる鳥と呼ばれるものもつどった。人の周りはいつも賑やかで楽しそうだった。少女はその人に振り返って自分を見てもらいたいと願ったが、映し出されるだけの立体映像ホログラムではどうしようもなかった。


 何日も何日も少女は人を見つめているうちに、自分が一人きりであることに寂しさを覚えた。


 少女は泣いた。

スピーカー越しの会話だけでは寂しすぎて。壁から聞こえてくる声は優しくてあたたかくて心地よいけれど、ひとりぼっちが寂しいと。


 翌日ぬいぐるみが現れた。

温かみのある桃色の丸い体、青いつぶらな目、短い手足が付いていて手には指のある。少女の半分ほどの背丈のぬいぐるみは、瞬きをするとにこりと笑った。


 「はじめまして。

ボクはアダムと言います。

ボクと一緒にいてくれませんか?」


 少女は初めて見る自分以外のモノに驚きつつ手を伸ばした。しかしその手が何かに触ることはない。アダムも立体映像ホログラムなのだ。


 アダムは少女を「イヴ」と呼んだ。アダムはそれから常にイヴのそばにいた。アダムと入れ替わるように壁は沈黙するようになった。


 触れることは出来ないがイヴは寄り添うということを学んだ。そばにいてこちらを見つめる澄んだ青い瞳に自分が写るのを見るのは幸せだった。


 「イヴの瞳にも、ボクが写っているよ。」


 アダムはそう言って笑った。アダムと一緒に立体映像ホログラムの美しい風景を見るのは楽しかった。アダムは物知りで、イヴが疑問に思ったこと、知りたいことの答えを持っていた。


 「今日は喋らずに気持ちを伝えるゲームをしようよ。」


 そう言って手話を教えてくれたのも、アダムだった。両手と顔と体全てを使って会話をするのはイヴのお気に入りの遊びになった。

短い手足を振り回して手話をするアダムが可愛いとイヴは思っていた。


  ◇


 その日、少女の世界は不規則に揺れていた。少女は立っていられず座り込んで膝を抱えた。アダムは少女をゆるく抱え込むようにして耳元で囁いた。


「大丈夫だよ、行くべき場所に着いただけだ。」


 大きな衝撃が来て、立体画像ホログラムのアダムが電波障害でもあったかのように輪郭を揺らして崩れ始めた。さっきまで聞こえていた耳に優しいあたたかい声は消え、砂嵐のようなノイズに代わってしまった。


 「待って!アダム!

行かないで!」


 体の一部を消しながらアダムは少し丸めた右手で左肩を指し、それから右肩を指した。

何度も、何度も。

『大丈夫』と。


 「嘘!

なんかじゃない!」


 イヴの手は決して触ることの出来ないアダムを抱きしめようとして宙をかいた。アダムは姿を消しながら、自分をしたゆびを指さしそれから両手を肩の高さで握って見せた。


 『ボクは ここに いるよ。』


 「うそよ!うそ!

アダム、どこにもいないじゃない!」


 イヴが虚空に向かってそう叫んだとき、最後で最も大きな衝撃に襲われた。イヴは床から浮き、飛ばされるように壁面にぶつかった。彼女は咄嗟に体を小さく丸めた。


 部屋の明かりが全て消え、漆黒の闇となった。


 「アダム?」


しばらくして揺れが収まったのを確認してイヴはそろそろと体を伸ばした。まるでそれを待っていたように、暗闇の部屋に一条の光が差した。


 いや、正確には壁の一部が外に向かって開かれようとしていた。光と音がそこから流れ込んできた。光と音はだんだんと強くなり、開口部には雨に濡れる美しい翡翠みどりの大地が現れた。


 ――あぁ、これは……。


 灰銀の雨に洗われ色濃くなった翡翠しょくぶつ、色様々の花が一面に咲き競う琥珀へいげん。それはイヴがアダムと何度も見ていた、あの立体映像ホログラムそのまま風景だった。


 いつもと違うのはその濃厚な香りと音だった。

むせかえる様な命の香り。

生き物の気配、様々な音。


 大地に降りた壁はそのままスロープとなった。濃厚な香りと音に誘われるようにイヴにはスロープを降りていく。そのイヴに近づく影があった。それは立体映像ホログラムで見ていたときあれほど振り返って欲しいと望んだ「人」であった。


 スロープに立っているイヴと同じ高さにある青い瞳がイヴを真っ直ぐに見つめている。ゆっくりと大地に下り立ったイヴが見上げると、その青く澄んた瞳にイヴの姿が写っていた。


 「はじめまして。

ボクはアダムと言います。

あなたの名前は?」

 

 人のアダムの声は、イヴのそばにずっといてくれたもうひとつのアダムと同じ優しい調子でイヴの耳をくすぐった。イヴは、少し首をかしげながら答えた。


 「…イヴ。」

「イヴ。」

命の言う意味ですね。

あの、ボクと一緒にいてくれませんか?」


 差し出された手に、イヴは恐る恐る手を重ねた。大きく温かくしっかりとした感触があった。


 空からポツリと最後の雨粒が落ちて、イヴの肩を濡らした。


  ◇


~ 神は人から取ったあばら骨で女を造り、人のところへ遣わした~

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