第8話 毒親のカレーライス

 お母さん。

 あなたは私にたくさんのことを教えてくれました。

 でもそれは大抵、あなたの浅い知恵と狭い視野と乏しい経験が作り出した幻想に過ぎませんでした。



 ◯


「作り置きしてないの?」


 白米とカレーをすくいながら、法子は死神に聞いた。

 スプーンの上にミニチュアのカレーライスができる。


「してないわ」


 美貌の死神は表情を変えずに答えた。

 小柄で長い黒髪に田舎の学生のような服装。言葉だけなら地味なはずなのだが、おそろしく整った顔立ちは誰の目にも止まらずにはいられないだろう。


 床も壁も木造の、山奥のロッジのような喫茶店にいるのはそんな死神の少女と老女の二人だけだった。


「最期の晩餐にカレーを食べたいって、結構みんな頼みそうだけど」

「そうね。多いわ。でも食べたがるのはみんな自分の家のカレーだから。いちいち作らないといけない」


 老女……田村法子は乾いた手にスプーンを持ったまま、まじまじと目の前の少女を見た。

 死神だという彼女は法子の希望を聞くと、あまり待つこともなく厨房からカレーライスを持ってきてくれた。

 これも自分のためだけに作ってくれたということか。


「面倒ね」

「面倒よ」


 少女のしかめ面は本気のようだった。


「あなた、妙な子ねえ……」

「私は死神よ。子供どころか人間ではないし、少なくともあなたの倍以上の時間を過ごしているわ」

「それはわかったんだけど、どうも信じられなくて」


 法子はスプーンを一旦皿の上に置いた。


「信じられないって? 自分が死んだことが?」

「ちがう」


 自分が死んだのは分かっている。

 法子は五十歳の誕生日を一ヶ月ほどすぎたころに帰宅中に駅で倒れ、運ばれた病院で息を引き取った。

 朦朧とする意識の中で、自分の身体が自分の身体でなくなっていくような、全身から力が抜けていくような感覚を覚えている。


「じゃあ、そのカレーを食べると成仏するってことが?」

「そうじゃないわ」


 ……あなたは死んだけど、この世に未練があって成仏できていない。

 でもあの世の食べ物を食べれば成仏できる。

 だからこのメニューの中から好きな物を選びなさい……。


 あの世の食べ物を食べれば成仏できるというのも理屈はよく分からないが、そもそもこれまで死んだことがないし、成仏とはそういうものだと言われればそうなのか、と思う。


「どうも信じられないのは、私がこの世に未練があるってこと」

「そうなの?」


 結婚せず一人で生きてきた。

 唯一の家族だった母は昨年看取ったし、三十年近く勤務した会社からはまだいるのかとそのほとんどの期間疎まれて過ごしてきた。

 友達もいないしペットも飼っていない。

 清々しいほど一人の自分が、この世に未練があるとは思えない。

 

「実は騙そうとしてるとかじゃないわよね」

「騙すってどういうふうに?」


 興味と呆れが半々といった様子の少女は首をかしげる。


「これを食べると成仏する。それは本当。でも味はものすごく不味くて、最期に口にした食べ物がこんなに不味いなんて、って後悔しながら地獄に落とすのが目的、とかね」

 

 死神の少女は目を丸くした。


「私は死神だけど悪魔じゃないのよ……なかなかそこまで性格が悪いことを考える人間は少ないわ」

「……母がこうだったからね。その影響よ」


(人を信用してはいけないよ)

(世の中、競争なんだからね)

(ぼやぼやしてると出し抜かれるよ)


 お母さん、なんでそんな嫌な言い方するの? こんな嫌な思いをしている私がいけないの? 私だけなの?

 ……法子は幼い頃、何度そう思ったことだろう。

 こどもの頃からそんなことを言い聞かされて育った自分がまともなはずがない。


「あなたの親世代は団塊の世代に当たるわね」

「……そうね」

「人口が多く、限られた資源を奪い合うことにならざるを得なかった世代ね。その中では『相手の嫌がる言葉を口にする』のは周囲のモチベーションを下げて、能力の発揮を妨げるという意味で意外と有効な生存戦略だったのかもしれない」

「……うさんくさい学者みたいなことを言うわね。世代丸ごと意地が悪いなんてないでしょう」

「ええ。そういう考え方もできる、というだけよ」

「最悪の母親だった、と思うわ……ああ、でも一つだけ良かったことがある」

「何?」

「人生でうまくいかなかったことを全部親のせいにできることね。結婚できないのも友達がいないのも会社の同僚に嫌われているのも」

「そ」


 死神は法子の前に座った。

 死神が作った法子のカレーを間に挟んで向かい合う。


「ねえ、聞いていい?」

「答えられることならね」

「そんな母親をなぜ二十年近くも介護したの?」


 法子の母が認知症になったのは早かった。五十過ぎのころ。

 法子はまだ三十代になったばかりだった。

 ずっと仕事をしながら介護をし続けた。

 貯金もできず、働いた金は全てデイサービスに消える。

 苛立ち、母と同じ言葉で周囲に当たり散らすようになった。


「母に認知症の症状が出た時、すこしホッとしたわ……私はそのころ三十過ぎなのに結婚もせず相手もいなかった……これでぜんぶ母の病気のせいにできる」


 職場の嫌われ者にも利点はある。だれも仕事を頼んで来ないし、余計な仕事は他人にふれる。毎日定時で帰って、母の介護。

 もっと要領がよく仕事が早かったら定時帰りができたのかもしれないが、自分にはそんなやり方しかできなかった。


(いいかい法子。世の中、所詮競争だからね)

 はい、お母さん。

(人を信用してはいけないよ)

 はい、お母さん。

(ぼやぼやしてると出し抜かれるよ)

 はい、お母さん。

 ……ねえ、お母さん。

 あなたが人生の真実として教えてくれたことは大抵、あなたの狭い視野と浅い知恵と乏しい経験が生んだ幻想にすぎませんでした。


(いいかい、法子。大事な私の娘。法子)


 でもあなたの愚かさに気付いたのは私が大人になってからで。

 それが私にも受け継がれていることに気付かされたのは中年と呼べる年齢で。

 そのころにはもう人と仲良くする術を身につけられなくなっていました。


「あなたは団塊の世代がどうのって言ったけど……あの世代で子供を女手一つで育てるには、強くならなければならなかったはずよ……周りに嫌われても。まして他に女を作った夫に逃げられたなんてことがあったんだから」

「そうかもしれないわね」


 法子はぼんやりと窓の外を見た。

 窓の外は何も見えない。

 ただ暗い。


「母の昔の友達の何人かに会ったことがあるの……みんな口をそろえて言ってた。あなたのお母さんは昔は引っ込み思案で弱気で、でもやさしい人だったって」

「……そ」

「私を育てるために母は嫌な人間に変わった。そしてその影響で私も嫌な人間になった……きっと同じ環境でも母みたいな生き方をしないですむ人もいるのでしょう。でも私たちはそう生きてきてしまった」


 沈黙の中、から、とコップの氷が溶けて鳴った。


「それがあなたの人生の大半をかけてお母さんの介護に費やした理由? ……もっと他の人生もあった、とは思わない?」

「思わない……いえ、思えないっていう方が正しいかもしれないわ」

「どういうこと?」

「きっと、あなたと同じよ」

「なにが?」

「他にできることがなかったの」


 死神は目の前の法子をもう一度見直した。


「あなたもそうでしょう? ただあの世へ行く死者を前にして、他にできることがないからこんな風に料理なんてしているのでしょう?」


 死神が答えずにいると、法子はカレーライスをゆっくりと口に運んだ。


「カレー、どう?」

「美味しいに決まってるじゃない。……子供の頃に食べた、お母さんの味だもの」

 下を向き消えていく法子の表情は、死神には見えなかった。



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死神よ、ご馳走様 梧桐 光 @gotou_kou

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