第7話 祖父のおむすび3
山木は一人でいると、幼いころに聞いたきりの祖父の声を思い出した。
(タカオ。この工場を守ってくれよな)
そして父の声も。
(タカ、お前は賢い子だ。俺たちに義理立てなんかしなくていい。自分の好きな道を行きなさい)
若い頃はまったく言うことの違う祖父と父の二人に悩んだものだった。
ーーだが結局、俺は二人のどっちの願いも叶えることができなかった。
人生に未練がある死者が来るというなら、祖父も父も死後この店に来たのだろうか。もしそうだとしたら、何を頼んだことだろう……。
そんなことを考えていると、厨房からさっきの少女が戻ってきた。両手で大事に支えるトレイの上に山木がオーダーした料理が載っている。
さきほどと違ってシンプルな緑のエプロンをつけている。
「ひょっとして君が作ったのか?」
「そうよ。私がこの店のウェイトレスでシェフでオーナーだもの」
もし生牡蠣や刺身をオーダーしてもこの子が一人で作ったのだろうか。
「はい、冷めないうちにどうぞ」
少女がテーブルの上に載せたのは、二個のおむすびだった。
一個は海苔が巻いてあるもの、もう一個は白米を握っただけのもの。隣にピンとまっすぐな海苔が置かれている。
「……俺の記憶の中のおにぎりそのままだ」
「そうでしょうね」
じっと見たまま、手をつけようとしない山木に、少女は前の席に腰を下ろすと頬杖をついて聞いた。
「これを作ってくれたのは誰だったの?」
「……なんだ、そこまでは分からないのか?」
「私だって何でもわかるわけじゃないわ」
山木は尊いものを持つように片方の握り飯を手に取ると、アルミホイルをおそるおそる外した。
アルミホイルのキシキシと山木の声が静かな店内に響く。
「これは俺が子供のころ、一度だけ祖父が作ってくれたものなんだ」
祖父はあの世代の誰もがそうであるように、普段は料理などしない人だった。
仕事が終わって作業着を脱いで風呂に入ると、祖母と母が作った肴を当てにビールと日本酒を飲み、酔うと寝る。
そして翌朝早く起きて仕事を始める。
ずっとその生活を続けてきた祖父が、握り飯を作ってくれたのは、山木が小学校の三年か四年くらいの時だった。
「タカオ、今日はじいちゃんと一緒に花見をしようか」
きょとんとする幼い孫を尻目に、祖父は台所の棚や冷蔵庫をごそごそと漁った。
「なんだ、鮭くらい入れてやろうかと思ったが、何にもねえな……具は無しだ、いいな?」
うん、と頷くと、祖父は昼時に山木を連れて工場の脇にある桜の木の下に連れてきてくれた。
本当は毎年、大きなブルーシートを広げて従業員とその家族と一緒に花見をした場所だった。
「今年はばあちゃんの喪中で花見が中止になったからなぁ」
一ヶ月前に長年連れ添った妻を亡くしたばかりの祖父はそういうと、桜の木の下に新聞紙を広げてよっこらしょ、と腰掛けた。
山木は祖父が大好きだったが、二人だけになることは稀で、その時も妙に緊張したのを覚えている。
朝から父も母も家にいた記憶がないのは、おそらく当時母方の祖父も具合が悪く、二人は隣の県の母の実家に行っている時だったからだろう。
「ジイちゃんはバアちゃんみたいに料理がうまくはないけどな、少し手間をかけたんだ」
祖父は二個のおむすびを出した。
一個はアルミホイルに包まれていて、もう一個はラップに包まれた白い姿が見えた。
「この銀紙の方はな、朝に海苔を巻いておいたんだ。米の湿気でぴったりくっついているだろう?」
「うん!」
「でこのラップの方は、ここで海苔を巻く」
祖父は缶から七夕の短冊を幅広くしたような海苔を出した。
山木が小さな手で白い握り飯に巻くと、ぱりぱりと音がした。
「この海苔はついさっき、火で炙ったばかりなんだ。ほら、いい匂いがするだろう?」
「ほんとうだ!」
「むかし、食べ物が無かったころは芋ばっかり食べてたな……こんな塩振っただけの握り飯でもごちそうでな。一度やってみたかったんだ」
「おじいちゃんも初めてなの?」
「ああ、そうだよ」
祖父は何でも経験済みだと思っていたから、ひどく意外だった。
「うまいか?」
「うん!」
「タカオはどっちが好きだ?」
ぴったりと海苔がついた握り飯は運動会や遠足の時のようで美味しかったし、ぱりぱりの海苔を巻く方は海の香りがした。
「りょうほうすき」
そうか、そりゃあよかった。
すると祖父は嬉しそうに笑って、タバコで黄色くなった歯が見えた。
「なあタカオ。大きくなったら、この工場を頼むな」
「うん! 俺、この工場好きだもん」
……山木は海苔がぴったりとついた握り飯を両手で掴みながら、深いため息をついた。
「……結局経営不振で工場は手放すことになって、約束は守れなかったんだけどな」
ごめん。じいちゃん、ごめん。
何度、心の中で祖父に詫びたことだろう。
俺は何もできなかった。
俺は負けたんだ。
じいちゃんの願いを叶えてあげることができなかった。
あんなにかわいがってもらったのに。
ごめん。本当にごめん。じいちゃん。ごめん。
高校の頃、祖父の工場で働くと言った時の同級生たちの反応を見るのが好きだった。
いい大学に行くやつももっと大きな会社に雇われたやつも、どこか後ろめたそうに俺を見たものだ。
祖父の願いを叶えて工場で働く自分、という状況に俺は酔っていただけだった。
自分が他の人間とは違うような気がして……。
「俺は祖父を利用しただけだった」
山木が毒を吐く思いで吐き出した言葉のあと、死神が言ったのは意外な言葉だった。
「でも桜の木の下で孫に語った時のおじい様が幸福だったのは間違いないと思うけど」
山木は鼻を鳴らした。その場にいなかったくせにわかったようなことを言う。
「そんなことない。祖父は不安だったんだ。自分が死んだ後も自分の会社が続いていけるか……続かなかったら、自分の人生の意味がなくなるかもしれない。だから不安で……俺は祖父の努力を無駄にしたんだよ……」
「でもね、あなたの人生はもう終わったの」
下を向いた山木は、死神の言葉に一瞬、唖然とした。
どこかで慰めの言葉をかけられるものだと思っていたが、かけられたのはただただ残酷な現実だった。
しかし少女の表情にあったのは嘲りでも悪意でもなく、いたわりだった。
「終わったの……だからもう悩む必要もないの」
念押しのように言う。
「おじいさまは幸福だった。そう思うことにすればいいじゃない。あの時、あなたに託すことができた時にもうおじいさまは幸せだった、って」
「……そんな都合よく思えるもんじゃないよ」
「どうせ死んでるでしょ」
「死者の思いを勝手に変えるわけにはいかない。死者への冒涜だ」
「あなたも死んでるじゃない」
「それは……そうだが」
なにしろこれまで死んだ状態になったことがないから、どう考えていいのかわからなかった。
「死者の思いなんて生きている者の勝手な思い込みよ。それにもうあなたは死者なの。だからそういったものにとらわれなくてもいいのよ」
少女は頬杖をついたまま、まっすぐに山木を見た。
「もうここは善悪とか美醜を超えたところ。あるのはただ限られた時間だけ。あとわずかな時間、それを食べて、都合よく考えていいんじゃないかしら」
山木はじっと握り飯をみた。
塩を振って海苔を巻いただけのシンプルな三角の姿をじっくり眺めてから、頂点の部分をかじった。
湿って貼り付いた海苔を前歯でちぎりながらかじる。
噛む。
米と塩、それから海苔の香り。
遠足や運動会を思い出す味だった。
あれは自分が子供の頃のことだったか、それとも娘が幼い頃のことだったか。
山木はゆっくり咀嚼すると、握り飯を飲み込んだ。
「……食べられた」
「ええ。もうすぐ貴方は成仏できる。どうせなら最後まで食べたら?」
言われるまでもなく、山木は湿った海苔の握り飯を食べ終えると、もう一個のラップを剥がした。
缶を開け、海苔を取り出して巻く。乾いた小さな音が室内に響いた。
噛むと、ぱり、と心地良い音。
さっきの貼りついた海苔より強い海の香りが口の中に広がる。
二個の握り飯を食べ終えた山木は、ふう、とため息をついた。
「これで……もう終わりなんだな……」
「そ」
罪悪感が消えたわけではない。
だがせいせいしたというか……不思議な清々しさがあった。
「諦めることは……こんなに穏やかなものなんだな」
朝の空気のように新鮮で清々しい気持ちだった。
「それはね、生前のあなたが全力で生きたから。全力で生きて、負けて、綺麗に失った。だからあなたは罪悪感なんてもたなくていいの」
山木は顔を上げ、天井を見つめた。
この天井の先には何があるのだろう。夜空か青空か、それとも全く違うなにかだろうか。
「罪悪感か……それくらいは、持っていくよ」
「え?」
「あの土地も桜も工場も、みんな人手に渡って無くなっちまった。俺が罪悪感まで手放したら……なにもなくなる。俺の罪悪感だけが俺のふるさとがあった証なんだ」
死神は静かに笑った。
「そ」
そして二人とも立ち上がった。
「……そろそろよ」
「ああ。……ありがとう」
静かに山木は消えていた。
山木が座っていた席にアルミホイルとラップが残されている。
店には少女が残された。
「本当、人間っておかしなものね。いらないものばかり大事にして……」
少女は腕まくりをして布巾を手に取り、テーブルを拭き始めた。
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