第6話 祖父のおむすび2

ガタッ、と体を震わせて、山木高雄は目を覚ました。


(夢か……)


 なつかしい夢を見ていた気がする。


(どこだ、ここは……?)


 周りを見回してみる……どうやら喫茶店のようだ。十人も入れば狭い店だ。今、客は山木一人だった。


 全く見覚えのない店だ。


 だが小さな黒板に書かれたメニューや、ささやかな観葉植物や、フェルト地の椅子、木製の時代がついたテーブル……それらはみんなどこか懐かしく、一度も来たことはないはずなのに、むかし来たことがあるような気がする。


 山木から向かって左側の壁は全てガラス貼りになっている。

 そこから夕焼けの赤い光が降り注いで、店内のすべてのものを夕日の色に染めていた。 

 ディナータイムが始まる前、休憩時間中の喫茶店ーーそんな雰囲気だ。


(テレビで見たのか……?)


 そうだとしたら子供のころだろう。もう何年もテレビなど見ていない。妙に懐かしいのはそのせいかもしれない。


「こんにちは」


 いつの間にか席の近くに小柄な少女が立っていた。

 十四、五歳くらいだろうか。

 自分の娘はもう社会人になって結婚しているから、子供の年代がわからない。


 白いブラウスに黒のロングスカート、という学校の制服と喪服の中間のような服装に、背中まで伸ばした黒髪がさらさらと美しい。


 この子は誰だろう? 店のオーナーの孫娘が、学校帰りに遊びにきた……そんなところかもしれない。


「ここがどこかわかる?」


 からかうような笑みを浮かべた少女に、山木はバカにされた気がした。


「わからないな……たぶんこの店は初めてだと思う」

「ええ。あなたは初めてよ。この店に来る前のことは覚えてる?」

「この店に入る前……?」


 そういえばどうやってこの店に入ったのだろう。記憶がない。


 覚えているのは、仕事の後、いつも通り家で晩酌をしていたことだ。

 いつもと違っていたのは、急に胸に強い痛みが走って、呼吸が苦しくなり、飲み食いしたものを家のテーブルに吐き続けて、聞いたことのない切迫した妻の声が響いた。


 コップからこぼした日本酒が頰に当たって、シャツにまで流れて気持ち悪くて、山木は妻に、いいからこの濡れたシャツを拭いてくれ、と思ったが言葉にできなかった。


 やがてサイレンの音が近づいて……。


「……俺……死んだのか?」

「そ」


 少女は小馬鹿にしたように頷いた。


「五十九歳で死去、か……意外と短かい人生だったな」

「あら、突然死にしては落ち着いているわね」

「まあ健康診断の結果も悪かったし、あれだけ酒を飲んでたんだ、いつかはこうなるだろうなと思ってたよ」


 口ではそう言ってはみたものの、心の中はそう穏やかなものではなかった。


 風呂の中では明日の仕事を思って憂鬱になっていた。

 明日はまた本社のバカ営業が客を連れて山木の現場にやってくる。


 我が社の技術力と顧客対応力がどうしたこうしたと、酸洗もしたことのねえバカがスーツ姿で偉そうに語るのを聞きながら作業すると思うとため息が出そうだった。


 だがその明日はもう二度とやってこない。


「お疲れ様」

「いや……」


 口ではそう言いながら、


(疲れてねえよ。俺は疲れてなんかいない) 


 と自分に言い聞かせる。山木の長年のクセだ。


(俺はいま疲れているか? いや、疲れてなんかねえよ。俺はまだ疲れてなんかいない……)


 お疲れ様です、お疲れ、おつかれさん……高校を卒業した後、祖父の工場で働き始めてから、同僚や後輩や先輩からそう声をかけられるたび、山木は心の中で自分にそう言い聞かせてきた。


 そんなことを話したのは妻だけだ。まだ若かった妻は、まあ人間おやすみも必要よ、と言ってころころと笑ったものだった……。


「死後の世界って本当にあるんだな……」


 夕日の差す洒落た料理屋は、死後の光景としては悪くない気がした。


「あなたが死んだのは間違いないけど……ちょっと違うわ」

「え?」

「あなたは少し特別な例。たしかに死んだけど、現世に強い未練がある……いわゆる亡霊ね」


「……え? そうなのか?」


 自分が死んだということも受け入れ難いのに、お前は亡霊だと言われても。


「ええ。だからあなたはここに来たの」

「……嬢ちゃんは何者だ?」

「死神よ。はい、どうぞ」


 少女は重要なことをさらりと言うと、細長い革張りの冊子のようなものを差し出した。


「……これは?」

「見ればわかるでしょ? ここは飲食店で、こういうのを差し出されたら?」

「メニューか?」

「そ」


 わかるか。死神を名乗る少女にメニューを出されても。


「ゆっくり選んでくれていいわ」

「いや、どういうことなんだ? 俺、死んだんだよな? ここはどういうところなんだ?」


 立ち上がってまくしたててから、しまった、子供相手に強く言いすぎた、と山木は後悔したが、黒髪の少女は動じることなく、ふう、とため息をついた。


「面倒ね……」


 少女は山木の前の席に腰を下ろすと、


「昔ね、バカな死神がいたのよ」


 頬杖をついてだるそうに語り出した。


「この世に強い未練があって成仏できない亡霊を正しく成仏させる……それが死神の仕事。でも数えきれない亡霊を強制的に成仏させているうち、その死神は亡霊たちが気の毒になってきた。もっと穏やかな方法で成仏させることはできないかって」


「穏やかな方法?」


 立ったままだった山木は改めて椅子に腰掛けた。


「そこで考えたのが〈あの世のものを食べさせる〉って方法。ヨモツヘグイって言葉、聞いたことある?」


「よもつ……なんだって?」


「まあ普通は聞いたことないわね。古事記に出てくる言葉よ」


「古事記って、あのイザナミイザナギがどうっていう……」


「そ。死んだ妻のイザナミを追って、イザナギが黄泉の国へ行く。でも黄泉の国で再会したイザナミはもう黄泉の国のものを食べてしまったから戻れない……」

「でもそれは神話だろう?」

「神話にはこの世の理が語られているものよ。まあ、それが史実かどうかは置いておいて、とにかく『亡霊はあの世のものを食べるとあの世のものになる』。つまり成仏する。それが世界の理」


 つまり自分はこれから無理やりあの世の食べ物を食わされるというのか。


「ちょっと待ってくれ。別に俺は未練なんてない。そりゃ思ってたより短い人生だったが……」


(ねえ、あの工場と土地を売れば、あの子たちを大学に行かせてやれるのよ)


 それを言われたのは四十代の終わりのことだ。結婚して初めて妻に手をあげそうになった。

 お前に何がわかる、祖父から継いだこの工場を売るだと……。

 だが赤字続きで経営が成り立たないままでは確かに妻と子供二人を食わせてやるだけで精一杯だった。


 ……工場と土地を全て売り払ってから、山木は自分が生ける屍になった気がしていた。

 長年の経験を買われて雇ってはもらえた。

 だが大学出の若者に顎で使われる一職人の立場だ。

 毎日をなんとか暮らしていくには酒を飲むしかなかった。

 意識が途切れるまで酒を飲み、憂さを忘れていくしか……。

 家で家族との会話が減るごとに酒量は増えていった。

 

「……保険もかけてたから残した家族だってなんとかなる。だから別にそんなあの世の飯なんて食わせてもらわなくても、強制的な手段とやらで俺は一向にかまわない……」


「あら、そうなの?」


 す、と少女が右手を上げた。

 授業中に教師のミスを見つけた生意気な女子生徒が、先生、そこ間違っています、と手を上げる……そんな動作だった。


(なんだ? 冷たい……?)


 突然発生した首筋の冷気の正体に、山木は腰がぬけそうになった。

 

 いつの間にか少女の手には大鎌が握られていた。柄の部分だけで一メートル以上はあるだろう。その先から九十度に曲がって幅の広い、大ぶりな刃がついている。

 その切っ先が山木の首の後ろに当たっているのだった。 

 冷たい刃を首の後ろに当てられた山木は足元から寒気が這い上ってくるのを感じた。


「これが『強制的な方法』だけど、どっちがいい? あの世のものを食べるのと、このまま首を狩られるの」


 選択肢はない。


「……わかった。あの世のものでも何でも食べる」


 声の震えを抑えながら山木が言葉を絞り出すと、ちっ、と舌打ちして少女は手を下ろした。同時に大鎌が目の錯覚のように消える。


 なんだよ今の舌打ちは!? 本当はこの娘はあのまま自分の首を切りたかったのではないだろうかとぞっとした。


 まったく、面倒ね、とぶつぶつ言いながら、少女は今度はテーブルの下から革の装丁の縦に細長い冊子のようなものを出すと、山木に差し出した。


「はい、これがあなたのメニュー」


 白い小さな手から受け取り、言われるがままページを開いてみると、山木は目を見はった。


「な……なんだこりゃ?」


 アンガス牛のステーキ。

 三重県浦村産の生牡蠣。

 北海道の雲丹丼。

 牛ヒレ肉のロッシーニ。

 スズキのアクアパッツァ……。


 それは山木がこれまでの人生で食べて思い出に残っている食べ物のリストのようだった。


 ステーキは山木が新婚旅行で行ったハワイで食べたものだし、生牡蠣は景気がよかったころ、社員旅行で行った先で食べた。雲丹丼は親戚から送ってもらったものだろう。


「さっき言った通り、この場は憐れみと善意の産物なのよ。あなたに甘くできてる。ここは色々と融通がきくの。あなたの思い出の味をそのまま再現できる」


「融通がきくって……雲丹丼なんて出せるのか?」

「ええ」


 まるで魔法だ。

 思い出の食べ物から、一度食べてみたかったものまである。


「酒まである……これ、どのくらいまで頼めるんだ?」

「いくらでもいいわよ」


 いくらでも? 最期のサービスということだろうか。

 山木は手を口に当ててじっとメニューを見た。


(まずはビールと北海道産のルイベ、アジフライだろ。それから日本酒、俺の好きな八海山にして、生牡蠣……。)


 場所や時間関係なく、理想の食べ物を出してくれるなんて、夢のようだ。

 

「ああ、そうそう。オーダーの前に一応このコップの水を飲んでみてね」


 少女はいっぱいの水を差し出した。

 カラ、とコップの中の氷が高い音をたてる。


「水を? ……なんだこりゃ?」


 山木は少しだけ口に含むと、つい声をあげて、コップに戻してしまった。

 味も香りも何の変哲もない水のそれだ。


 にも関わらず……頭ではない、何か意識の深いところで、これは口に入れてよいものではない、と拒否するような感覚がある。


「ダメみたいね。そこにあるメニューは味は書いてある通りの元の味を完全に再現できるようにしているけど、全てあの世のモノで作っている……多くの場合、あの世の食べ物に拒絶反応を示す人間が多いわ。魂が拒絶する、とでもいうのかしらね」


「なんだそれ……じゃあ食べられないじゃないか」


「だから、あなたが望む一番食べたい、思い出の食べ物でないと食べられないのよ。言ってみれば拒絶反応を思い出の味で抑え込むの」


「そんなこと言われても……」


 少女は長い髪をいじると、独り言のように付け加えた。


「こんな説明しなくてもあっさり食べそうな亡者にはこんな説明さえしないんだけどね。あなたはかなり冷静だし、味に敏感なようだから」


 山木は膨らんだ期待が一瞬で失望へと変わる気がした。


(それならあの世のものを食べて成仏するってこの方法自体が無茶なんじゃないか? そんな強い思い出のある食べ物なんてないぞ、俺……)


 ぱらぱらとページをめくっていると、一つのメニューが目を引いた。


「……これもできるのか? 無理だろう?」

「言ったでしょう? ここは色々と融通のきくところ。あなたの記憶通りの味を再現するわ」

「……じゃあ、これを頼む。色々豪華な料理がある中でなんだか貧乏くさいかもしれないけどな」


 少女は黒髪を揺らしながら少し笑った。


「いえ、多いわよ。こういうシンプルなものがいいって人間は」


 つかつかと店の奥のへ消えていく。そっちが厨房らしかった。

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