四谷美春と引間涼
四谷美春と別れてから、抑えていた涙がボロボロと溢れ出した。そこで俺はようやく、携帯電話のバイブレーションがポケットの中で震えているのに気がついた。
携帯を見たら水谷からストーカーみたいに大量の不在着信が入っていた。水谷はメールで要件を伝えるということをしなかった。いつも自分が思い立った時にすぐに相手に口頭で伝えなければ気が済まないのだ。
俺は話したくなかったので、着信を一方的に切ると携帯電話の電源を切った。
俺はそのままどこかでまたジャンクフードの儀式をしようとして駅前へ歩いて戻っていた。
少しずつ、街の明かりが増えてきて繁華街に入りかけたところで俺の後ろから聞き覚えのある古臭いクラクションが鳴った。
水谷だ。どうやって俺の居場所がわかったんだ?
事務所に着いたら、水谷は言った。
「お前俺に黙ってることがあるだろう?」
俺はバレてたのかと思って、それが顔に出る。水谷はそれを見て付け加えた。
「探偵の捜査力を甘くみるなよ?」
「ガブリエルを尾行したことか?なんで知ってるんだ?」
俺がそういうと水谷の顔色が変わった。
水谷は俺の襟首をつかむと血相を変えて怒鳴りつけた。
「何やってんだこのダボがぁっ!」
「お前自分が何やったかわかってるのかーーーーー」
どうやら水谷が言っていたのはこの件じゃなかったらしい。いつもの水谷と違う冷静さを伴ったその沸々とした怒りは、バイアスの副作用によるものじゃなかった。
「でどうなった」水谷は歯の奥で怒りを噛み潰すように俺に問いかけた。
「いや途中で見失ったよ」
俺は咄嗟にそう言った。目があったなんて言ったらどうなる?面倒になるに決まっている。
だが水谷は俺を全く信用していなかった。
「本当はどうなったんだ?」
俺はもう一度嘘をついた。
「見失ったよ」
水谷は疑いの眼差しでこっちを見ている。俺が嘘をついていることには気がついているかもしれない。だが目が合ったとまでは想像もしていないだろう。
水谷はまだシラフだ。あの症状じゃない。
「お前なんのつもりなんだ?」
「あの女のボディガードをしている事もわかってるんだぞ?」
水谷は俺が四谷美春のボディガードをしていることも知っていた。水谷が最初に言っていた黙っていることというのはこっちだったらしい。
「それは関係ないだろ?」
俺が悪びれずにそう答ると、あのスイッチが入る音が、理性の糸が切れる音がハッキリと聞こえた気がした。
「お前如きがついていたってクソの役にも立たねえだろうがぁ!」
「あのままにはしておけないだろ!あんたはそれでも平気なのか?」
そう言った俺に対して、水谷は嫌悪感に満ちた目で俺を見た。そしてそのあと俺のセンチメンタルをボロクソに貶し尽くした。
「ふざけんなよこの薄汚い偽善野郎が!」
「お前と関係ない赤の他人が死んだからなんなんだ?そのくらいのことでガタガタ言いやがって青臭い」
「世界はお前を中心に回ってるとでも思っているのか?」
「そんなことが最大の悲劇だとでも思ってるのか?」
「世界の飢餓や戦争で死ぬ何万人もの人間には目もくれないくせに、目の前の若い女がたまたまターゲットだったからっていきなり放って置けないだとっ!」
「それをっ!そのエゴに塗れたゴミみたいな感情を、正義とか善意とかだとでも思ってんのか?このゴミクズが!」
「お前はただのその辺のクソの役にも立たないエテ公で、臆病者で、嘘つきで最終的にはあの女も見殺しにする卑怯者なんだよ!」
水谷は容赦なく俺の心の自分ではマシだと思っていた部分を、善意だと思っていた部分を水谷の汚れた解釈で踏み潰した。
俺の心の防衛本能が、こいつのいうことをこれ以上受け入れてはいけないと叫んだ。それと同時にバイアスの憎しみが、抑えていた憎しみが火山のように噴火した。それに今抱えているフラストレーションの全てを乗せて俺は水谷に思いっきり殴りかかった。
だけど俺の大ぶりの猫パンチは、掠りもせずに水谷にかわされて、完璧にタイミングの合った見事なカウンターが俺の鼻をへし折った。
そして水谷は鼻を抑えてうずくまる俺に諭すように言った。「いいか?俺たちがバイアスを掻い潜ってあの女を助けたってことが相手にバレたら、俺たちがターゲットになりかねないんだぞ!」
俺は心の中で水谷に言った。もう手遅れかもしれない。
翌日、俺は鼻のひどい痛みで目が覚めた。水谷が打った麻酔が切れたのだ。あの後水谷は軍隊流の応急処置だけ俺の鼻に施した、俺は息苦しさから鼻から血だらけのガーゼを穿り出して、代わりにティッシュを詰めた。少し動くと鼻の骨折部分に激痛が走った。
俺は痛みで眠ることもできないが起きる気力もない状態でずっと布団の中でうずくまっていた。問題は山積みだったがその問題は全て自分が招いた問題で、しかもどれも解決不能でその中のどの問題が俺を布団に釘付けにしているのかもわからなかった。
そのままいろんなことをぐるぐると考えていたら夕方になっていた。そしてそのほとんどが四谷美春のことだった。俺はそれで昨日水谷に言われたことを思い出す。
結局俺は異性として四谷美春のことを考えてるだけのただの猿で、俺の行動の動機は全部そっからきているのかも知れない。
そしてそれなのに俺は何かを恐れて、四谷美春に暴言を吐いてその関係をめちゃくちゃにしてしまった。それをいくら考えても自分でも自分が何を考えているのか分からなかった。
いやそれを分かることを俺自身が巧みに拒否しているのかもしれない。
夕方になると俺はまた四谷美春の勤務するマクドナルドの前に来ていた。
俺は少し離れたところから四谷美春が出てくるを確認すると、少し離れてその跡をつけた。
先日まであった誇らしいものは 後ろめたさに変わっていた。
俺が四谷美春をボディガードすることで、俺と水谷のリスクが上がり事件の解決は遠のく。
そして俺は自分が猿の本能で動いているのか、あの無防備な四谷美春がみすみす殺されるのをほって置けない正義感で動いているのか、それとも、卑怯に傷つかずに諦める準備をしているのかわからない。
何が正しいかわかってたらどんなに楽だろうかと思う。
状況はいつも複雑に錯綜している。状況によっても正しい選択肢は変わるだろう。
もし、相手が気づいていたら、ここで辞めても意味がないし、気づいてなかったら水谷のいう通り、相手の強大さを考えたらリスクが大きいかもしれない。
俺は答えが出せなくて結局目の前にあった感情に従った。それは水谷のいうように汚れた感情なのかもしれない。それに今まで内側から出てくるものに従って散々失敗してきたじゃないか?
四谷美春
私はなんで自分があんな事を言ったのか考えていた。
でもあれでよかったのかもしれない。私はあの後、警察にもいってみたけど相手にされなかった。まるで私のいう事件なんてものは存在しないかのように、でもなんとなくそんな予感はしていた。
私は自分があんなことで泣くなんて思ってもいなかった。あの涙の意味は、きっと、彼の行動が、あの反応が私の運命を正確に答えたからなんじゃないかと思う。自分が音もなく消え去る運命なんだって。
だけどあの人がそういうことにしたように、私もそういうことにしなければならないという気がした。あの人もきっと諦めたいんだろうと思う。
表向きはみんな優しいけど現世とは別の世界で私ははぐれたバッファローになっているとして、誰も私を助けてはくれない。だってそんなことをしたら、その人も襲われてしまうから。みんな目には見えないそういう変化に敏感に反応して、意識せずに私を隅に追いやっていく。
誰も肉食動物に立ち向かったりはしないそれが暗黙のルールなんだから。
そんなこと考えていたけど、次の瞬間、自分がそんなこと考えているのが馬鹿馬鹿しくなった。
襲ってくるはずの恐怖は、生命に備わっている安楽死のための鎮静剤がどこかに隠してしまったように。
今なら処刑台の上でも眠れる気がする。そのくらい穏やかだった。
そして私はそのまま眠りについた。
引間 涼
あれから一週間ほど経ち、俺の鼻は少し曲がったまま骨がくっつきそうになっていた、街には2月の冷たく荒々しい風が吹いていた。
裏口からあのチビ女と男の従業員が出てくるのが見えた。ボディガードからストーカーに格下げになった俺は彼らに見つからないように少し離れたところからコソコソと様子を伺っていた。
その跡に続いて四谷美春が出てくるのが見えた。
四谷美春との俺の間にはあの時に感じた壁よりももっと分厚い壁が横たわっていた、
四谷美春がいつもの帰り道から少し離れた古本屋に寄っている。
こうやって尾行していると、四谷美春のまた違った側面が見えた。何が好きだとか嫌いだとか、のんびりしているとかそうじゃないとか、そしてふともう2度とあの夜の前には戻れないと思うとどうしようもなく切なくなった。
ーー俺はガブリエルとか銃とか俺がそういうのに関わっていない世界線で、彼女に今駆け寄って話しかけられたらどんなに素晴らしいだろうかと考えた。ーー
そして彼女は本を手に取り、パラパラとめくった。
ーーだけど俺は彼女との間に何か見えない壁を感じた。ーー
ショーウィンドウの向こうで彼女がいつものように、その撫で肩から落ちそうになった肩掛けの鞄を少し持ち上げる。
ーー俺の話がバイアスで彼女に伝わらなかったみたいに、彼女もバイアスで隠された何かを持っていてその見えないバリアみたいなものが俺と四谷美春を別の時空に隔てている。ーー
その後四谷美春が出てくるのに合わせて俺はもう一度身を潜める。
ーーそして俺はその壁の前で怖気付いて彼女を遠ざけたーー
彼女が雑踏の中に紛れて見えなくなりそうになって俺は慌てて彼女を探す
ーーそれなのに今はこのストーカーみたいな距離感で彼女に近づきたいと思っている。ーー
そしてもう一度その後ろ姿を確認できると少し安心する
ーーめちゃくちゃじゃないか。ーー
そして四谷美春が電車に乗り込むと俺は俺は隣の車両に乗り込む。俺はここのところその自分の行動をなん度も考えたけど、自分でも納得いく説明ができなかった。
駅から出ると四谷美春の家までの間線路脇のほとんど人通りのない通りを通る。俺は少し離れたところから尾行するがどうしてもこの道では尾行が難しい。振り返られると見つかる可能性が高かった。だけどこれまで四谷美春は一度もこの道で後ろを振り返ることはなかった。
四谷美春が俺の尾行に気がついている可能性を考えている。だけどそんなことは関係なく、彼女がそう振る舞うから、気がついていないと振る舞うなら、俺はバレていないと思って尾行を続けるのだ。
冬の日は早く暮れて、真っ暗な道をグレーのコートを着た四谷美春が歩いている、俺の目は暗がりに順応してきてだんだんと線路脇から茂った草や、金網の線が浮かび上がる。その時誰かが、俺を追いして歩いて行く。俺はかすかにその手に握られた何かが一瞬街灯の光を反射して光るのが見えた気がした。
俺は認知バイアスを疑ってそこを見てみると、その手には何かが握られているのが見えた。しかしものすごい認知バイアスでそれが何かまでは確認できない。
俺は走り出していた。
俺が四谷美春の前に出ると、男はこちらに向き直る。
俺はバイアスを集中的に疑ってもう一度その手元を見ると、そこにはナイフの切先みたいなものが一瞬見えた。
そして男は躊躇なくそのナイフで俺を刺してきた。その無防備なまっすぐな突きを俺が避けると、そいつは驚いて俺の顔を見た。
俺はその男と目が合った。相手は特徴のない男だった。その顔はまるで匿名の代表みたいな人間だった。
そして体勢を立て直すとナイフの切先をこちらに向けて呪文のように俺に言った。
「その女から離れろ」
しかし俺が何の反応も示さないのをみると、そのまま男は走って逃げた。
俺は四谷美春の方を振り返ると四谷美春はまたあの少し悲しそうな目で俺を見た。
「怪我はないか!」
俺は四谷美春にそう尋ねたが、四谷美春は見当違いの返事を俺に返した。
「そうだと思った」
俺はそれでナイフのバイアスが四谷美春の認知を歪めているんだと気がついた。今彼女は自分が何をされたのかもわかっていないんじゃないだろうか。じゃあ俺が今彼女を助けたことも認知バイアスで消えてしまっているのだろうか?
何事もなくそこにいる彼女は、何も知らないまま、気がつきもしないまま、ギロチンの処刑台に無防備に首を突っ込んで横たわっているみたいだった。
彼女が何も言わずに、歩き始めたので、俺はそのまま黙って隣を歩いた。俺は何も言わない彼女になんて言っていいかわからなかった。
でも家の前まできて俺はやっと、彼女に向き合わずに明後日の方向に投げやりに言った。
「俺は君が気になって仕方ないんだ。」
四谷美春からまた頓珍漢な返事が返ってきた。
「私はね、はぐれたバッファローなの」
多分さっきのナイフの認知バイアスで歪められたと思われる俺たちの会話はチグハグに噛み合った。
俺は今度は彼女の方を向き直って言った。
「だからこれは正義感なんかじゃないんだ」
四谷美春はまたあの困ったような顔で俺を見た。
「私のせいで引間さんもはぐれてしまったんだね」
あの日よりも明るい月明かりが、四谷美春の前髪に反射して揺れている。
俺は彼女の頬に手を伸ばした。
最初のボディーガードした日のあの無軌道で、めちゃくちゃな方向に飛び交った会話は、認知バイアスでさらに全然違う方向に飛んでいった。
そして俺の気持ちは自分でもわからないくらい全然別の方向に走り出して、彼女の瞳の中に映る影を恐れて情けなく運命から逃げ出して。
それでも奇跡みたいに何かが伝わって、それで俺たちの間に説明のできないぐちゃぐちゃの何かが生まれて。
それは消えずに残っていた。
そして今、そのぐちゃぐちゃの何かに引きつけられるように内側から燃える何かが自然に俺の体を動かした。
俺は四谷美春もそうであると信じて彼女に手を伸ばした。その手は力強く透明の壁を超えて彼女の頬に触れた。
そしてそのまま俺と美春はひとつに溶け合った。
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます