はぐれたバッファローと切れた糸
俺はしばらくそのままそのガブリエルと見つめあっていた。
数秒だったろうか?それとも一瞬だったのか、俺はしばらくそのまま固まっていたと思う。
そうしていたところでここの従業員らしき男が俺に話しかけてきた。
「ちょっと君、何してるの?」
「あっ、はっ、派遣できたんですけど遅れてしまって。」
俺はなんとかそう返した。
「あー、それじゃ正面入り口のところで受付して?」
「すみません」
俺は丁重にそう行って、男の指差した方向に向かうフリをしてそのままその建物を出た。
看板には平和マネキンと書かれていた。
建物を出ると、タクシーが待っていた。料金を確認すると、財布に入っていた額はギリギリだったので俺は料金を払うとそこから最寄りのバス停まで歩いた。何かまずいことをやってしまったと言う直感が俺の脳みそを硬直させた。見られた?バレたよな?ばっちり目があったもんな?俺はまだ興奮で心臓がバクバクしていた。
四谷美春
一人で帰り着いた家はがらんとしていて誰もいなかった。そう、私は母が研修に行くっていう話をしていたのを思い出した。私はそれを引間さんに言うべきか考えていて、結局言い出せなかったのだ。私は何かボディーガードをしてもらうのに後ろめたさを感じていた。それは現実的な理由から来ていて、私は彼らに全く金銭を支払っていなかったからだ。かといってじゃあ料金設定をみたいな話になっても私の私にも私の家にもそんな余裕はなかった。そんな状態で図々しくも「来週から母が研修で留守なのでその際はお願いします。」なんてことも言いづらい。
私はいつもそうかもしれない。受け身というか、流されたまま機会を見送ってしまって、気がついたらみんなに出遅れている。私は例えていうなら野生動物の番組でバッファローの群れから取り残されたバッファローだ。群れから逸れたバッファローは¥ライオンのグループに狙われているのに、それにも気が付かずトボトボと歩いていて、襲われてやっと初めて必死になって足掻くけど、その時にはもう遅くて、最終的に首元を肉食動物に捉えられる諦めたような目でその命を委ねる。
私もあんなふうに、気がついて足掻いた時にはもう手遅れになっている。そんな感じ。何かに執着できない。この殺されそうになったと言う事実も私は真剣に受け止められていないのかも。
それに何かあの経験は私が殺されそうになったという経験は、夢の中のことのようで現実味がないのだ。それはまるでいつも空想するどこか別の世界の物語のよう。
そしてそこからまた襲われる恐怖とかそういう感情は起こってこない。そう考えると私はあのバッファローよりも酷い。襲われても抵抗すらできなかったのだ。それとももう私は、すでに喉元を逃れられない顎で固定されていて、どこかでそれを悟っていて動物の本能で死を受け入れてしまっているのだろうか?
そして今日のことを考え始める。
『ぶっ殺す』という言葉と彼の顔が重なって脳裏に鮮明に浮かび上がった。なぜか憂鬱な気持ちが襲ってくる。私にはその言葉は彼にはとても不似合いな言葉に思えた。
でも陽子先輩はあれが、あの姿こそが彼の本性だと言った。それから一緒にいた溝口君もそれに同意していたし。他の人から見たらそんなに危ない人なのかな?私にはとてもそうは思えなかったのだけれど。だけど私にはわからない。結局自分は世間知らずでまともに男性と付き合ったこともないのだから。
陽子先輩は私に彼と連絡を取ることをやめるようにも言ってきた。
「あなたのために言ってるの」
必死な顔で私に訴える陽子先輩を無碍にもできないけど、かと言って彼女が代わりにボディガードをしてくれるわけでもないのだ。
私はYahoo!知恵袋に打ち込んでみる。
私は探偵の方にボディーガードをしてもらっていますが、その方についてバイト先の先輩が危険な男なので連絡を取るなと言ってきます。どう思いますか?
私は文面を見て考える。こんな状況ってある?
引間 涼
大学への面倒なバスの乗り継ぎはまるで非日常から日常に帰ってきたような気分でやけに新鮮に感じた。本当は水谷のところに行って、あのことを報告した方がいいのかもしれない。だけど俺にはこういう何かもっと面倒な問題がある時に、現実的な目の前の問題の方をきっちりこなそうとする癖があった。そしてこの癖のおかげで俺はなんとかこの世界にしがみついていられるんじゃないだろうかとも思う。
実際、学生生活なんか何か深刻な問題が一つ落っこちて来ただけで、急に非常に困難なものに変わってしまうものだと思う。
それでも学生生活を続けて行くためには、この社会で生きていくためには、本当は重大な問題かもしれないその深刻な問題からは目を逸らして、どこか別の物置にその問題を突っ込んで、見なかったことにしておいて、目の前のせせこましい現実に向き合った方がずっと成果がいいのだ。たとえその物置の中がぐちゃぐちゃになっていたとしても。
だけどそうやってやりくりしてるつもりでも俺の出席日数はギリギリだった。
俺の通っていた大学は、課題の内容は簡単だったが量が多かった。そして出席日数を確保しないと単位が取れない仕組みにもなっていた。Fランだから楽に卒業できるってわけではなかった。だから遊んでいて単位が取れなくなって途中で辞めて行くって奴は結構な人数いたと思う。
そして俺は大学の講義を受けながら、四谷美春へ送るLINEの文面を考えた。現実的な問題の一つとして、それは処理されるべきはずのものだと考えたからだ。俺の中にあるオートマチックに働く何かが何事もなくそれを行なってくれると期待した。
だけどそれは俺の予想に反して難航した。
文面を考えようとすると一気に俺はその体ごと、あの記憶にフラッシュバックした。脳みそから葬り去りたい記憶の中に没入して、周りの風景が消え去っていく。そして気が重くなる。恥ずかしさと情けなさで体を捩る。俺はあの時なんて言ったっけ?
あの後すぐに、フォローすればまだマシだったかもしれない。酷い人間だと思われているだろう。もしくはあの時…
何度も何度もあの瞬間をシミュレートしながら。
とりあえず、なんとか捻り出した文面を打ち込んだ。
先日は失礼いたしました。
間欠爆発症の発作で、あのようなお見苦しい姿を見せてしまいました。
普段は薬で抑えられていますので、以降このようなことは起こらないようにしていきたいと思います。
本日は何時に伺いましょうか?
ーーーーー
しかし昼過ぎになっても未読のままだった。時折四谷美春のことを考えると何かよくわからない不安があった。そして今それは嫌予感と不吉な胸騒ぎに変わっていった。
俺は店に行って確認してみた方がいいんじゃないかと考え始める。
こんなことでわざわざ確認しに行くなんて馬鹿げているだろうか?いつも通りだったら18時に終わるはずだから最悪その時間に行けばいいじゃないか?だがもし何かあったら?昨日俺が切れて帰った後に何か起こっていたら?
一度考え出したら延々とそんなやりとりで俺の頭はいっぱいになった。
面倒臭いバスと電車の乗り継ぎを経て店に着いた頃には3時を回っていた。店内はもう人もはけてがらんとしていた。バーカウンターには見覚えのある顔がひとりで退屈そうに立っていた。あのチビ女だ。
俺は遠くから憎々しげにそのクソ女を睨みつけると、気配を察知したのかクソ女がすぐに俺の方に気がついた。
俺は作り笑いをしようして顔が引き攣った。
こうなっては仕方ないのでこいつに聞く事にした。別に避ける必要もないだろ?別にやましいことなどないのだから。
「あの四谷美春さんは来ていますか?」
「あー、あの子ならやめましたよ?」
何にも興味なさそうな口調でクソ女はそう言った。
「辞めた?なんで?」
俺が驚いてそう聞き返すとクソ女が突如として火のように捲し立てた。
「わからないですか?あなたのせいですよ!」
「覚えてないですか?昨日こと?あんなことがあったら普通ショックで耐えられませんよ?」
俺はそれを聞いて、クソ女の言動の不自然さから何かがバイアスで書き換えられていて、四谷美春は本当はどこかでそのまま攫われてしまったんじゃないだろうか?と考えた。
きっと犯人はずっとボディガードがいなくなる隙を虎視眈々と狙っていて、昨日俺が気が狂ったようにブチ切れて帰って行ったのを見て、四谷美春を攫ったんじゃないだろうか?そう考えたら全て辻褄が合わないか?実際にこのクソ女の言動にはバイアスに捻じ曲げられた何かを感じるし。
俺はすぐさま水谷に連絡したが、水谷の携帯には繋がらなかった。
もう一度あの事件現場に行くべきだろうか?だがあの時は水谷の車に乗っていて正確な場所はわからない。俺は取り合えす駅からお台場方面に向かう事にした。水谷からコールバックがあればその時に住所を確認すれば良い。
俺の脳裏に初めて四谷美春を送っていった時にしたチグハグな会話が鮮明に浮かんできた。。
たわいもない会話をしたのに、なぜかわからないが今一番思い出されるのがあの時に「そう言うことってよくありますよね、私はペット飼ったことないけど」と言ってこちらを振り返った四谷美春の顔だった。
そして眼差しが最終的に、あの処刑台の上での凍えた顔に繋がった。それが運命付けられた変えられない結果のように。何度も何度もそのつながりが俺の頭の中で再生された。
そうすると俺の中から別の予備の思考がむくむくと湧いてきた。諦めの予感と共に。なんでもないことじゃなないか。彼女に何か起こっていたとしても俺はただのボディガードをしただけなんだ。
そもそも俺がそこまでする必要あるのか?そんな義務はあるのか?
俺は四谷美春がもし殺されたことを想定して、先に心の準備を始めた。
そして失った時のダメージを回避するように、四谷美春をどうでもいいものと心の中なで連呼する。
俺は頭の中で彼女を徹底的に貶めた。頭の中で、俺の知っている彼女の笑顔を、声を全て否定しようとした。ただのマクドナルドのバイトじゃないか。何も特別なんかじゃない。ちょっと袖が触れ合っただけのなんでもない他人なんだ。
だけど手慣れたはずのその作業はうまくいかなかった。
俺は諦める準備をしなければならない。周到に、緻密に。そもそも相応しく無いじゃないか?そんな世界は。俺は罪人なんだから。
四谷 美春
休憩室でYahoo知恵袋の返信を見る。
その探偵は一たんてい止したほうがいいですね。
うーん、役に立たないなあ。私はブラウザを閉じてから引間さんからきているメール通知を見て考える。
すぐにメールを返そうかと思っていたんだけど、何故か気が乗らなかった。
私は考えていた。彼が怒鳴り散らした後のなんとも言えない目を、どうすることもできない何かを見つめ続けているような、檻の中の動物が青空を見つめるような目を。
私が休憩から戻ると陽子先輩が溝口くんと楽しそうに話していた。
「あの顔見た?」
「見ました見ました。」
「あ、四谷さん、さっきあいつが来てたんですよ」
「大丈夫美春ちゃんはもう辞めたって言っといたから」
陽子先輩はそう楽しそうに言うと無邪気に笑った。
「えっちょっと何言ってるんですか?」
「勝手にそんなこと!っ」
私は流石にそれは酷いだろうと思った。きっと陽子先輩も、多分、おそらく悪い人じゃないとは思うんだけど…なんでこうなっちゃうんだろうな。
私はもう一度休憩室に戻ると手早くメールを打ち込んだ。
すみません。陽子先輩が何か勘違いしていたみたいで。
今日はいつも通り18時までのシフトです。
引間 涼
俺が急行に乗っていると、携帯に四谷美春からメッセージが入った。
それを見た俺は安堵と同時に何か黒いものが腹の底で渦巻いたのを感じた。だが俺はそれを意識しないまま無かったものとして封じ込めた。
俺は次の駅で引きかえして、四谷美春のバイト先の店舗に戻った頃には、すでに18時を少し過ぎていた。すでに日が落ちた真っ暗な駐車場で四谷美春は無防備にひとりで待っていた。
俺はそれを見て、また少し腹の底で何かが渦巻いたのを感じた。
俺が近づいていって軽く手を挙げると、こちらに気がついた四谷美春が小走りで、笑顔で、無防備に駆け寄ってきた。
俺は忌々しくそれを見つめるといつものように並んで歩き出した。
最初に抱いた黒い何かが変換されて俺の中から溢れそうになっている。
俺はその何かを四谷美春に吐き出そうとしてメールのことを何て切り出そうか考えていた。
それはどうでもいいことだった。急行の電車代とか、大学で授業を受けていれば取れたはずの単位とか。いつも送迎の時に使う電車代とか。そんなことじゃないはずなのに。
それから俺と四谷美春は並んで夕暮れの道を歩いた。俺はずっと黙っていた。
黙り込んで考えていると、もう四谷美春の家の近くまで歩いてきていた。俺はそこで何かを言おうとして立ち止まった。月の光と近くのスーパーの街灯の黄色が住宅街を明るく照らしていた。静かにブルーグレーに染まった団地の白い壁や紺色の闇夜はなぜかやけに鮮やかに見えた。
俺が何かを言う前に四谷美春が振り返った。
ポニーテールを解いた繊細な細い髪の毛が月明かりに煌めいて揺れた。
「もし私が何かあってもそれはきっと引間さんのせいじゃないから、だから気にしないでくださいね。」
彼女が俺のどこを見てそんなことを考えたのか?俺はそれを時間が止まったように彼女をしばらく見つめていた。
その憂いのある瞳はそのまま俺の心の底を見つめているようで、俺は鏡を覗き込むようにその瞳の中に映る俺自身を見つめた。
そしてそれをもっとよく見ようとして彼女に近づこうとして、俺はこれ以上近づけない壁に気がついた。
そして俺はその壁の前で少し皮肉っぽく顔を歪めると、自分で掘った真っ暗な穴に自ら飛び込んだ。
そして懐かしい真っ黒い何かに染まった俺は、そのまま四谷美春を虚ろに見つめるとさっき電車の中で四谷美春を否定するために考え出したありったけの悪意を今カタチにして吐き出した。
「はっ!なんで俺がお前が死んだら気にしないといけないんだ?」
「あんたはそんなに重要な人間なのか?たかがマクドナルのアルバイトが?」
「一体なんのつもりなんだ!連絡も取れなくて、こっちの予定がどのくらい狂ったのか分かってるのか?」
「俺がお前が心配でこんなことをやってるとでも思ってるのか?」
俺は喚き散らした。愚かに、滑稽に。気取ったふりして。
「そんなに死にたいなら、さっさとぶっ殺されてしまってくれ、あんたが死んだって俺にとってはなんでもないんだから!さっさと切り上げて俺は俺の問題に戻りたいんだよ!」
彼女の表情に、そのショックが、ダメージが如実に現れた。俺はその顔が歪んで涙が多い尽くすまで、できる限りの暴言を彼女に繰り返しぶつけ続けた。
俺は無抵抗な、イノセントな、弱く、儚い存在に、俺に悪意を向けなかった唯一の存在に、一方的に真っ黒い悪意の塊をぶつけていた。
彼女が裸のまま差し出した柔らかい心を引き裂いていた。
なんで?俺は?こんなふうになってしまうんだ?
俺は自分の行動が自分で全く理解できなかった。
さらにタチの悪いことは俺はシラフだったんだ。この全ての行為がバイアスの副作用って感じじゃなくて、俺はちゃんと意識があったんだ。だけど抑えられなかった。全ての臓物から溢れ出るような憎しみが。黒く尖った言葉に変換されて彼女の善意をめちゃくちゃに引き裂いていた。
四谷美春はボロボロと泣いていた。子供のような純粋さがその涙に伝って落ちていっている。
そして彼女は言った。
「ごめんなさい」
その後に強い意志のある声で、儚さの中にもはっきりとした揺るぎない意思のある声で言った。
「そんなに私のことが迷惑なら、もう付いててもらわなくても大丈夫です。」
「今までありがとうございました。」
今まで微かにあった何かが、ゆっくりと紡がれ始めたばかりの細い糸がプツリと切れた。そしてそれはきっともう2度と修復できない。
彼女が家に入って行ったのを見届けると俺は自分の行動に納得できる答えを捻り出そうとした。
最初から相応しくないじゃないか?許されるなんて俺らしくないじゃないか?
俺は罪人なんだから。
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