人魚のほとりで

木古おうみ

人魚のほとりで

 錆びた非常階段に散らばる吸殻の銘柄で、あの男が来たんだと思った。


 俺はガスメーターが回る音を聞きながら、自分の家の前に戻り、扉を開ける。

 反動で緑の鉄の扉からドアスコープの覗き穴を塞いでいるマグネットが落ちた。短い廊下の先に覗く部屋で、突っ伏して眠る母の髪が見えた。介護施設の夜勤から帰ってくるとき、母の呼気はいつも干魚の匂いがした。

 空気が篭っていたので窓を開けようかと思ったが、これ以上いると遅刻しそうだ。俺は水道管検査のマグネットを覗き穴に貼り付けて家を出た。



 海岸埋立地に立つ県営団地から中学校までの道のりは、いつも枯れたハマナスが散らばっていた。白く萎んだ切り落とされた指のようだと思った。


 ホームルームで担任が熱中症と交通事故と高校受験についての注意を言い渡す間も、気はそぞろだった。あの男の痕跡を見つけた日はいつもそうだ。クラスメイトに勉強会の日程を聞かれても、頭の中は泥に濁った湖畔のことしかない。俺にしか見えない異界の扉が開いているようだった。

 中学生最後の一学期は、亡霊のように虚に終わった。



 熱に焼かれたアスファルトが靴の裏に貼り付くのを感じながら、俺は坂道を登る。

 鬱蒼とした木々が道に垂れ込め始めたところで、警官のパトロールの自転車が停まっていた。

 若い警官が制服の青い襟を一段濃い色にして立っている。君、と呼び止められて俺は仕方なく足を動かすのをやめた。


「貸しボート屋に行くのか」

 俺は答えなかった。警官の背後の茂みには蹲って泣く若い女がいた。俺の視線に気づいて、警官は女の姿を隠すように二歩右にずれた。その態度が苛ついた。警官は溜息をついた。

「あれは、よくない男だぞ」

 誰が見たってわかる。そう返して俺はまた歩き出した。泣いていた女はクラスメイトの腹違いの姉だと思い出した。田舎は住民全員が親戚のようなものだ。実際、学校の何人かは俺の親戚かもしれない。あの男のせいだ。



 湖はいつ見ても濁っていた。

 土色の水の中央に、タイヤや泥を被った冷蔵庫の頭が墓標のように突き出している。

 少し進むと、苔むした石碑がある。人魚の棲家と書かれていた。こんな水に住む人魚はきっと醜い。

 ブリーチしたての髪に似た色の葦が茂る湖畔には、ボートが何艘か腹を見せて転がっていた。こんなところで誰も船遊びはしない。ここを訪れる人間は皆、あの男が目当てだ。


 湖の隅に、上から押したら潰れそうな木造の小屋がある。ホーローの看板がビールと頭痛薬を宣伝しているが、どちらも店にはない。

 埃をかぶって飴色になったガラス戸を叩く前にあの男が出てきた。


「父さん」

「久しぶり」

 男は煙草を歯に挟んで笑う。束ねた黒髪から汗が伝って、白いTシャツの胸に落ちた。毎日陽射しに焼かれているのに肌は相変わらず真っ白だった。


「何か飲むか。サイダーなら冷えてるかな。最近電気代も馬鹿にならないからアイスケースはひとつしか動かしてないんだ」

 男は棺のようなアイスケースからペットボトルを取り出して俺に渡した。

「破裂しそうだ」

「何が?」

「ペットボトルをずっと冷凍してたら破裂する」

「平気だよ。その前に出すから。お前が来ると思って冷やしてたんだ」


 女たちにもそう言うんだろう。小さな小屋の棚にはスナック菓子が並んでいる。真夏なのにチョコレートのパッケージはハロウィン限定のイラストだった。反対の壁には釣具が貼り付けてある。釣り人が来るはずもないのに。


「今日、うちに来てただろ」

 俺が聞くと、男はああと言った。

「悪い、吸殻を片付けるの忘れてた。いや、覚えてたんだけど、携帯灰皿をひっくり返しちゃって、片付ける前にひとが来たから帰ったんだ」

「犯罪者みたいだ」

「実際そんなもんだよ。銘柄覚えてるんだな」

 男は空のコーヒー缶に吸殻を捩じ込み、新しい煙草に火をつけた。


「何しに来たんだよ」

「ああ、包丁借りたくてさ」

「包丁?」

「うん、お前の母さん料理上手いだろ。魚捌くための包丁とかも持ってるから一本くらい借りられるかなと思って。でも、夜勤明けだったら起こすと可哀想だからドアホンは鳴らさなかった」

 俺は呆れたが、馬鹿らしくて何も言わなかった。多くの女たちの中で母を選んだことを嬉しく思って自分が何より馬鹿らしかった。


「包丁、何に使う気だったんだ」

 男は肩を竦める。言っても仕方ないという態度に見えた。こうやって突き放されて、女たちはムキになって縋るんだろう。俺は鞄を漁ってペンケースを出した。

「カッターならある」

 平べったい銀の刃物を差し出すと、男は笑って手を振った。

「大丈夫。もう自分で何とかしたから。でも、ありがとう」

 男はカッターを受け取って、ジーンズのポケットにしまった。

「船を出そうか」



 男がひっくり返ったボートの中から一番綺麗なものを選び、枯葉を払う間、俺はずっと立ち尽くしていた。

「これはまだ穴は空いてない。おいで」

 俺は濡れた土が溜まった船に足を踏み入れる。制服のズボンが汚れそうだ。それを見て母はこの男に会ったと気づくだろう。


 男は俺を乗せたボートを押し、浸水の瞬間に自分も飛び乗った。汚い水飛沫が上がる。

 普通の親子なら、こんな風に俺が乗る自転車を父が押したりしただろうか。俺はひとりで補助輪が外れるまで練習した。


 俺がスニーカーの底で泥を避けると、男が目を留めた。

「それ、履いてくれてるんだな。サイズは平気だった?」

 俺は頷く。去年の誕生日にこの男が渡したものだった。ろくに会っていないのに靴のサイズはぴったりだった。


 進み出した船はすぐ水底の突起にぶつかって止まった。

「厄介だな」

 父は櫂で水面から浮が上がったものを叩く。どぶんと沈んだものがビニールシートを紐で縛った何かだと気づいて、俺はギョッとした。


 船が再び進む。

「今の何だよ」

「うん? 粗大ゴミだよ」

 男は船の縁に腕をかけた。

「貸しボート屋だけじゃやっていけないから、時々いろんなものを捨てに来るひとに湖を貸してやるんだ」

「不法投棄ってことか」

「死体遺棄かも」

 男は冗談めかして煙を吐く。警官が言っていた言葉を思い出した。男は悪人だと知っている。そうでなければ、太陽に嫌われて陽の下を二度と歩けないような白い肌をしているはずがない。



「父さん、貸しボートと不法投棄だけで生きていけるのか」

「心配してくれてる?」

 男はまた煙を吐いた。

「大丈夫。ずっと生きてるよ。もう何百年も」


 笑えないと一蹴しようと思ったが、物心ついたときから皺ひとつ増えない男の横顔に思考が止まった。


 昔、呆けた煙草屋の婆さんがこの男の貸しボート屋に乗り込んだ。

 男と一緒にいた女を杖で殴り倒して、男に馬乗りになって「結婚すると言ったのに」と首を絞めたらしい。妄言と言う他ないが、他の老婆が呆けたときもそんなことが何度かあった。



「ここに来る前、警官が父さんを『よくない男』だって」

「あいつか、仕方ないな。俺を目の敵にしてる。女を食い物にして生きるなって、前は警棒で殴られたよ」

 男は額を指したが、傷ひとつなかった。男は暑そうに長い髪を避けた。

「切ればいいのに」

「切っても駄目なんだよ。すぐ伸びる」

「俺も髪が伸びるのは早いけどちゃんと切ってる」

「そんなもんじゃないさ」


 男はポケットから俺のカッターを取り出した。

「見ててごらん」

 チキチキと刃を出す音が響き、男は躊躇いなく自分の手首に押し当てた。豆腐を切るように刃が沈み込み、血の雫が玉になって溢れる。骨を抉るゴリッという音がして、刃が止まった。

「父さん」

 俺が腰を浮かすと、船が傾く。

「大丈夫だよ。ほら」

 男は手首からカッターを引き抜いた。瞬く間に血が止まり、破れた肉が膨らんで傷が塞がる。


「汚しちゃったな。錆びないといいけど」

 男はカッターの刃を服の裾で拭い、呆気に取られる俺に返した。血染めのTシャツで笑う男に、化け物という言葉が浮かんだ。



 男は櫂を操って、湖の中央まで船を進めた。

「女を食ったのは本当だよ。人間じゃないけどな」

 今のは何だったのか聞けない俺に、男はまた微笑んで見せる。

「ここに人魚が住んでたって話知ってるか?」

 俺はただ頷くしかない。

「人魚の肉を食うと不老不死になるって話は聞いたことがある」

「八尾比丘尼だっけ」

「賢い子だ。そう、俺は人魚を食ったんだよ。そのときからずっとこんな感じだ」

 俺は何も言えなかった。


 男は土色の水に聳える冷蔵庫の前で船を停めた。

「まだ少し残ってるんだよ」

 男は櫂の先端を冷蔵庫にかけて船を引き寄せ、上部の冷凍室の扉を開けた。緩い空気と干魚の匂いが溢れた。

 俺は息を呑む。中には巨大な魚の尾が鎮座していた。新鮮な肉と丸い背骨の断面を見せつける魚の尾は、七色の鱗に覆われていた。この世のものじゃないと思った。



 言葉に詰まる俺に笑いかけ、男は冷凍室の扉を閉めた。

「老いない死なないだけならいいんだが、この土地から動けなくなってね。お陰で大変だよ。俺を覚えてる奴がいなくなるまで行方を眩まして、そろそろいいかと思ってまた戻る。その繰り返しだ」

 聞くべきことは山ほどあったが、口をついて出たのは馬鹿の言葉だった。


「ずっと独りなのか」

「まあそうだな」

「人魚の肉を食った父さんの子どもでも不老不死にならないのか」

「そうみたいだ。だから、子どもの成長を見る機会もあまりない。お前みたいによく来てくれる子は初めてだよ」

 男は吸殻を湖に捨てた。蚕の死骸のように浮かぶ煙草を眺めながら、俺は言った。


「じゃあ、俺も人魚の肉を食ったら同じようになるのかな」

 男は一瞬目を丸くし、俯いた。

「たぶん。そうなったら、嬉しいけど哀しいな」


 ボートが独りでに岸の方に進む。俺は男から櫂を奪って、水面に突き刺した。水底の硬いものにぶつかる衝撃が腕を揺らした。男は俺を嗜めるように首を振った。父親らしい仕草だった。



「ここからずっと離れられないのは辛いぜ」

「ふたりで貸しボート屋をやればいい。廃品処理も死体遺棄もふたりの方が楽だ」

「これからもっと大変になる。あの警官が俺を追ってるから。あいつも俺の息子なんだよ」

 腹の底に仄暗い澱が貯まる感覚がした。

「あれが……」

「そう。すごいぜ。この前はふらっと来て盗聴器を置いていった。湖に捨てたけどさ」


 男は軽く言ってのけて笑う。俺が無言なのを見て、男は首を傾げた。

「やっぱりこういうの駄目だよな」

「ああ、駄目だと思う」

 俺は見えない櫂の先端で地面を抉った。硬い土が解ける感触に、人骨や人魚の死骸が綻びて水に溶けるのを想像した。


「湖に捨てるべきなのは盗聴器じゃなく置いてった奴だろ」

 男の煙草から灰が落ちた。

「よくない奴だ。俺そっくりだよ。息子の中で俺に一番似てる」

 太陽に焼かれながら父は笑った。

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