だるま坂
月浦影ノ介
だるま坂
筆者が知人の紹介でNくんと知り合ったのは、昨年九月のことである。
Nくんは大学生で、知人が経営するコンビニのバイト店員だった。昨年の五月ごろ、奇妙な体験をしたという。
筆者が知人を通じてその話を知り、ぜひ詳しく聞かせて欲しいとお願いすると、Nくんは快く応じてくれた。
待ち合わせ場所の喫茶店に現れたNくんは、少し内向的な感じはするが、至って礼儀正しく真面目そうな普通の若者であった。
以下はそのNくんから、直接聞いた体験談である。
その年の五月のことだ。
隣町に住む伯母が、体調を崩して入院した。伯母はNくんの母親の姉で、仕事で忙しい母に代わって、幼い頃から何かと面倒を見てくれた人である。
たいして重い病気ではないらしいが、心配したNくんは伯母の見舞いに行くことにした。
伯母の入院する総合病院は、自宅からそれほど離れていない場所にある。大学の講義が終わったあと、Nくんはバスに乗ってその病院を訪れた。
病室の伯母は、意外と元気そうであった。検査の結果どこにも異常はなく、数日ほどで退院できるという。たぶん疲れが溜まっただけだろうと笑う伯母に安心して、Nくんは病院を後にした。
まだ陽は高い。この辺りに来るのも久しぶりである。Nくんは幼いころ体が弱く病気がちだったので、地域で一番大きなこの総合病院には幾度となくお世話になった。
なんとなく懐かしくなったNくんは、病院の周りを少し散歩してみることにした。
病院の裏手に伸びる細い道の先に、大きな森がある。そういえばこっちには来たことがなかったなと、Nくんは好奇心につられてその方向へ足を向けた。
病院の正面は国道に面していて、スーパーやコンビニ、カフェなどもあり賑やかだが、裏側は妙に閑散として寂しい。民家も少なく、やけにひっそりとしている。ずいぶん前に潰れたような工場があって、その敷地に廃車になった小型トラックが一台、錆びつくままに放置されていた。
さらに先へ歩いて行くと赤いペンキの剥げかけた鳥居があって、参道の奥に杉木立に隠れるように古い神社が鎮座している。
その神社の隣、森の中を切り裂くようにして、一本の坂道があり、ずっと向こうの高台へと続いているようだった。
微かに弧を描いて伸びる道の両側には鬱蒼とした木々が生い茂り、それが日の光を遮って昼間でさえなお暗く感じる。
道端に小さな石標があって、その表面には「だるま坂」という字が刻まれていた。どうやらそれがこの坂の名称らしい。
どのような由来で「だるま坂」と呼ばれるようになったのだろう。そう思いながら、Nくんは坂道の向こうをじっと見上げ、この先はどこへ続いているのか、ふと好奇心に駆られて登り始めた。
まだ夕暮れには間があるはずだが、坂道はひどく暗かった。木々の間を飛び交う黒い影は鴉だろうか。羽音がバタバタと鳴り響いて、こちらをそっと覗き込む視線は少し気味が悪い。頭上を覆う木々がざわざわと揺らめき、鋭く切り裂くような啼き声が辺りにこだました。
誰もいない森のなかの坂道。背後を誰かがそっと付けて来るような気がして、幾度となく振り返った。もう五月だというのに風が妙に冷たく感じられた。
いったい自分は何のためにこの坂を登っているのだろう、とNくんはふと我に返った。坂の中腹辺りに差し掛かり、やっぱり戻ろうと足を止めたそのときだ。
坂の上の方で、何かが蠢くような気配がした。
Nくんは思わず身構えた。ゴロゴロと坂道を転がって来るものがある。サッカーボールほどの大きさの、黒く丸いものだ。一つや二つではない。三つ、四つ・・・・いや、七、八個はあるだろうか。
その黒く丸いものが、なぜか集団を成してNくん目掛けて勢いよく転がって来る。
思わず「うわっ!」と悲鳴をあげて固まったが、その黒く丸い集団はNくんにぶつかることなく、あっという間に足元をすり抜けて行った。
唖然としたまま、黒く丸い集団が去った方向を見つめる。それらは空気中に溶けたように、どこにもいなくなっていた。
今のは何だったのか? その場にへたり込みそうになるのを何とか堪え、再び坂道を振り仰ぐと思わず「あっ」と声を上げた。
―――坂の上に何かがいる。
それは一見すると大きな岩のように見えた。人間の身長ほどもある高さで、横幅は両手を伸ばしたぐらいはあるだろう。
ずんぐりとしたシルエットに、Nくんは「だるま」を連想した。
───ああ、こいつが出るから「だるま坂」っていうのか。
頭の片隅でふとそんなことを思った。恐怖心が麻痺してしまったのか、悲鳴を上げることさえ出来ない。
やがてその「だるま」のような大きな影が、ぐらりと揺れた。
そいつは地響きを立ててゆっくりと転がって来る。Nくんは逃げようとしたが、体が金縛りに遭ったように動かなかった。
「だるま」がスピードを上げながら、どんどん転がって来る。ぶつかると思って目を閉じ、両腕で頭を庇うと、そいつはNくんの傍らを凄い勢いで通り過ぎ、先ほどの黒く丸い集団と同じように、坂道の向こうに溶けるように消えてしまった。
しばらくは呆然としたまま動けなかった。
いったい今のは何だったのか。こんな真っ昼間に、自分は幻覚でも見たのだろうか。
引き返そうと思ったが、今しがた通り過ぎた「だるま」にまた出食わすかも知れない。しかしこのまま坂道を登れば、さらに変なモノに遭遇する可能性もある。
「進退窮まる」とはまさにこのことだろう。
だが、このままここに立ち尽くしていても、夕暮れの闇のなかに取り残されるだけだ。そうすればまた、どんな化け物が出て来るか分からない。
意を決したNくんはもと来た道を引き返した。幸いさっきの「だるま」らに、再び遭遇することはなかった。
「―――先ほどから、“だるま”と仰ってますが、それは本当にあの“だるま”なんですか? 政治家の事務所に選挙の必勝祈願とかでよく置いてあるような・・・・?」
筆者が疑問を述べると、Nくんは静かに首を横に振った。
「いいえ、遠くから見るとシルエットは確かに“だるま”っぽいんですが、実際に目の前に迫って来たのは、まったく別のものでした」
「それは何だったんですか?」
Nくんの答えに重ねて問うと、彼は少し躊躇った後にこう答えた。
「―――人間の生首でした。とても大きな。頭の禿げ上がった、おじさんの生首でしたよ」
筆者は絶句した。それはもう通常の幽霊などとは別のモノ、どちからといえば妖怪の類ではないだろうか?
「いま思えば、僕の足元を転がって行った黒くて丸い連中も、人間の生首だったような気がします。それがこうケタケタ、ケタケタと笑いながら、実に楽しそうなんですよね。そのあとに現れた大きな生首も、地に響くような野太い笑い声をあげて転がって行きましたよ」
そう語るNくんの様子をしばし凝視したあと、筆者は最後にこう尋ねた。
「あの・・・・いったい何がそんなに可笑しいんですか?」
Nくんは笑っていたのである。満面の笑みで、とても愉快そうに。
しかし自分でそのことに気付いていなかったのか、ハッとしたように口元に手を当て、真顔に戻った。
「ああ、ごめんなさい。あのときの様子を思い出していたら、なんだか急に楽しくなってしまって・・・・」
そして顔中に亀裂が入ったような笑顔を、筆者に対して向けたのである。
Nくんとはそれ以来、会っていない。
彼を紹介してくれた知人によると、コンビニのバイトも辞め、大学も休学して、現在では精神病院に入退院を繰り返しているという。
(了)
だるま坂 月浦影ノ介 @tukinokage
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