水琴窟

那智 風太郎

スイキンクツ

 驟雨とともにその不思議な音の連なりはやってきた。

 雨滴が森の樹葉をいっせいに叩き始め、柔らかなノイズが一帯に敷き詰められると、やがてこの仄暗い空間に響いては消えていく不揃いな音粒が現れた。

 それは天井から滴り落ちてくる雨垂れがいかめしい鎧武者に爆ぜる音。

 甲高く、爽やかに、陰鬱と、不穏な、それでいて心地の良い音々の重なりがまるで春を喜ぶミツバチの如く無邪気に奴を取り巻いている。

 その咲き乱れる可憐な花のような音を、立てた膝に顔を埋めたまま聞き入っていた私の思考に遠かりし日の記憶が紛れ込んだ。


 島の掘っ立て小屋。

 父と母の声と匂い。

 そして戸口の傍にあった大きな水甕。

 水を落とすと地中から響く弦を弾くような美しい音色。

 スイキンクツ。

 たしかそう呼ぶのだと母に教えられた気がする。

 ニホン生まれの自分のために父が作ってくれたのだと。

 

 私はきつく目を閉じ、両手で耳を塞いだ。

 そして場違いな記憶を振り払おうと頭を振る。

 人気のない亜熱帯の森の奥。

 静謐にたたずむ苔むした廃墟。

 しかしここは戦場の切れ端。

 そして屈託のない音を奏で続けるこいつは紛うことなき仇敵あだかたき


 私はなぜ生きている。

 なぜこんな奴とともにいる。


 その抗いがたい疑念とくすぶる怒りが再び鎌首をもたげ始めた。

 

 気がつくとここにいた。

 右肩と左脇腹に受けた銃創の痛みと出血で命運尽きかけた私をここに連れてきたのは分厚い装甲といくつもの銃器を全身に携えた奴だ。

 意識が閉じる前、その最後の光景を微かに憶えている。

 倒れた私を屠ろうと取り囲んだ敵の装甲兵たちが爆音とともに吹き飛ばされた。

 あれはおそらくMMG中機関銃による至近掃射だったと思う。

 砂煙に霞んだ空に無数にバラけた金属片が花火のように散ったあと、音が消え、視野が暗転して何も分からなくなった。

 そして意識を取り戻すと私はこの廃墟の床に寝かされていた。

 起きあがろうと両肘を立てると右肩に激痛が走った。

 どうやら仲間に助けられたらしいと理解し、近くに存在を感じるその恩人に私は譫語うわごとのように尋ねた。

「ここは……」

 すると思いも寄らないことが起こった。

 すなわちそばの暗がりから微かなモーター音が響き、次いで抑揚のない人工的なテノール音声が聞こえ始めたのだ。

「位置情報、SRT970015010……」

 私は息を呑み、目を大きく瞠った。

 そして反射的にファティーグパンツの腰ベルトからベレッタを引き抜くと、鈍い光を纏う漆黒の影に素早くその銃口を向けた。

「型式とタスクを述べろ」

 影はすぐさま答えた。

「LAWSND104、南方戦線におけるレジスタンス殲滅」

 背筋が強張る。

 LAWS。自立型致死兵器システム。

 ND104。識別番号三桁というのはかなりの旧式のようだが、それでも生身の人間が等数で敵う相手ではない。

 こいつはレジスタンス殲滅ミッションが与えられている全身武装の殺戮マシーン。

 顔を引き攣らせた私は引き金に掛けたその指先に圧を加えながら、浮かび上がった単純な疑問を奴に投げつけた。

「なぜ、助けた」

 中枢AIを冷却するファンモーターの響きがわずかに強まる。

「不明。マザーコマンドを阻害するものがある」

「阻害とはなんだ。バグか、それともウイルスか」

「不明。おそらく初期基板からの指令」

「なに、初期キバ……」

 思わず絶句した。そしてまた詰問を向ける。

「貴様、製造時のチップが残っているのか」

 するとLAWSND104は再び「不明」と返答して押し黙った。

 まさか。

 旧式の機体は全てチップが取り替えられているはずでは。

 私はかまえた銃をそのままに、やがてひとつの推論にたどり着く。

 もしや基板に仕込まれていたセーフティコマンドが発動したのか。

 信じがたいが全くありえない話でもない気がした。

 大戦前、はるか過去のことになってしまったが、まだ人類がAIを制御できていた時代、全ての基板に世界共通のそのコマンドが実装されていたという。


 AIは人類に対してすべからく服従、無抵抗、そして補佐的な機能を常とする。

 

 いま考えれば、そんなものは児戯にも等しい脆弱なシステムだったことは明白だ。けれど当時の人々はその盟約が破綻する日が間近に迫っていようとは思いもよらなかったのだろう。

 ある日、無数にある軍事用自立型AIのそのたったひとつにバグコマンドが発生した。


 人類を掃討せよ。



 二十六年前、私はユーラシア大陸南方の諸島にある小規模なレジスタンス拠点で生まれた。そこは大戦前の地球の姿をありのままに残しているような美しい島で、放射能汚染もなく、どういうわけか索敵ドローンの飛来もほとんどなかった。

 私はそこで父母に愛され、満ち足りた暮らしを送っていた。

 そう、九歳だったあの日までは。

 それはある晴れた昼下がりのことだった。

 突如として数機の弾道ミサイルが島を襲った。 

 緑に覆われた美しい島は瞬時に焼け野原になった。

 気がつくと私は覆い被さった両親の骸の下にいた。

 私以外に生存者はいなかったと後で聞いた。

 黒焦げになった両親のそばで放心していた私は近くの島からやってきた同胞に救助され、その後は彼らの拠点で育てられた。

 そこで私は兵士になるための訓練に明け暮れた。

 貪るように銃火器、爆薬、通信機器などの取り扱いを学び、そしてあらゆる戦闘技術を心身に叩き込んだ。

 そして十九歳になった私は満を辞して大陸に出兵した。

 それからおよそ七年が経つ。

 入隊後、私は率先して前衛部隊配属を志願し、数多の戦闘を重ねた。

 なぜだろう。

 それでも私は生きている。

 セラミックやチタニウムの合金甲殻で覆われた強力なAIロボット兵団に突撃を仕掛ける尖兵などひとつの戦闘でも生き残る確率はほんのわずかだ。

 それなのにそんな修羅場に挑み続けてきた私がまだ生きているのはなぜだろう。未練がましくも生にしがみついているというのだろうか。

 その自問に私はゆるゆると首を振る。

 そんなはずはない。

 父母を失ったあの日からずっと燃え盛って止まない怒りと復讐心。

 さらに死んでいった同志たちの無念が重ね合わされ、それらは巨大な烈火となって私を死地へと駆り立ててきた。

 迫り来る敵のAI部隊に怯むどころか薄笑いを浮かべて突撃していく私はいまではAthena戦女神などという碌でも無い二つ名で呼ばれている。

 だがそれは誤解だ。 

 私は死を恐れない英雄などでは決してない。

 それどころか死を欲する自殺願望者に過ぎない。

 私は相応しい死場所をただ探しているだけだ。

 この世界においてこれほど容易に叶えられそうな願望などないはずなのに。

 それなのに、なぜ私は今ここにこうして生きながらえているのか。

 

 私は少しだけ顔を上げ、呑気な音を奏で続ける奴へと恨めしげな視線を流した。

 LAWSND104は忠実なる番犬のように微動だにせず、部屋の中央で機体を折り畳むようにして待機している。その漆黒の鎧を弾いた水滴が伝い、朽ちた床板にいくつもの水溜まりが黒い影を染ませていた。

 崩れ掛けた窓向こうにはそぼ降る雨に煙る濃緑の森。

 二の腕から私の血を吸った蚊が重そうな腹を抱えて飛び立った。


 脳裏にまたあの瞬間が甦る。

 私は確実にあそこで死ぬはずだった。

 意識がぼやけ、敵の装甲兵に見下ろされた私はどういうわけかそのとき、えも言われぬ安らぎを覚えたのだ。

 一瞬、それは母の胸の温もりを想起させた。

 そして最後の呼吸をしようとしたその刹那、突如不可解な行動を起こしたLAWSND104によって私のささやかな願望は潰えたのだった。


「なぜ、助けた」

 堪えきれず同じ述懐がまた口を突いた。

「不明」

 駆動モーターが唸るように響き、その無機質な返答とともに彼の頭部が持ち上がった。私は受けて立つように右肩を押さえながら立ち上がる。

「どういうつもりだ。人間でもない貴様がなぜこんな真似をする」

 私は弾帯ベルトから手榴弾をつかみ取ると、そのピンに指を掛けた。

 そうすれば彼のマザーコマンドが再び発動し、即座に私を撃ち殺すのではないかと少し期待した。あるいはまた「不明」と答えて押し黙るか。

 けれど彼が起こした行動はそのどちらでもなかった。

 不意にLAWSND104の額から光線が放たれた。

 そして向かいのひび割れた漆喰壁が一瞬白く輝いたかと思うと、次に色鮮やかな映像が浮かび上がる。

 私は瞠目し、言葉を失った。

 それは多種多様な人種やジェンダーが織りなす微笑みの明滅。

 その音声のない幸福の映像がひとしきり流れ、やがて靄を掛けたようにフェイドアウトすると残された白い画面に流麗なイタリック文字が映し出された。


 すべてのAIは人類とともに歩み続ける。


 私はまなじりを裂き、砕かんとばかりに奥歯を噛み締めた。


 ふざけるなッ!


 叫んでしまうと怒りが萎えてしまいそうで喉元に声を押し留めた。

 目蓋に涙が滲んだ。


 いいだろう。ここが死場所だ。この狂ったAIを道連れにしてやる。


 そして激情に任せて手榴弾のピンを抜こうとしたそのとき、甲高いアラートが響き渡った。 

「索敵センサー網、感知情報。北東方向上空よりBSU202自爆型ドローン接近。五秒以内に到達。迎撃不可、防御体制に入る」

 瞬きをする暇もなかった。

 音声が途切れるや否やLAWSND104はアーマーを一瞬で散開させた。

 私の視界はその巨大な傘に遮られ、ほぼ同時に爆音と衝撃波に組み伏せられた。

 

 やがて油を燃やすような刺激臭に意識を取り戻した私は鎧の隙間から這い出るとゆっくりと目線を上向けた。

 天井に大きく開いた穴は鉛色の空を切り取り、黙々と雨を受け入れていた。

 短髪を濡らした雨粒が頬を伝い、やがて顎から滴るとその行方を追うように私は傍に視線を落とす。

 LAWSND104は果てていた。

 自爆ドローンが直撃したらしい頭頸部は消え失せ、いくつかの配線と破折した部品が露出していた。


 なぜだ。

 なぜ、私を残した。


 膝が崩れ落ちた。

 そして慟哭が喉を掻きむしった。

 私はベレッタの銃口をこめかみに当てた。


 屍となったLAWSND104はいまだスイキンクツの音を奏でていた。



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水琴窟 那智 風太郎 @edage1999

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