第三話 千人証言

証言一:一〇〇メートルくらい上流の川口町の岸近く、何か白くて細長いものが流れてくるのが目に入りました。

(…あれはいったい、なんだろうか?)

 わたしは目を凝らしてじっと見ました。岸の上では竹槍や鳶口をもった一団が、その白いものを追いかけながら、やたらに石をぶつけていました。石が飛ぶごとに、白いもののまわりで水しぶきが上がります。雨もよいの夕暮れどきの淀んだ空気と、薄く濁った川水のせいで、その白いものがはじめは何だかわかりませんでした。よく見ると死人でした。白いのは服の色で、血が赤くにじんでいるように見えました。

「あれ、朝鮮人でしょうか」

 わたしの言葉に、そばに座っている男がすぐ答えました。

「そうですよ。それとも社会主義者かな。殺されて川へほうりこまれたんですね」

 殺しておいて荒川に捨てただけでは満足せず、さらに跡を追いかけて、みんな石をぶつけるのです。ぶつける石の一つ一つが「ちくしょう! ちくしょう!」と叫んでいるようでした。

「やあ、鮮人だ、鮮人だ」

「何だ、鮮人だって? どこに?」

「あれ見ろ、川のなかを流れてらあ」

 こんな叫びが一度に湧き上がりました。と思うと、たちまち車内は総立ちになりました。そして、誰もが窓から首を出して川の上の死骸を眺めました。

証言二:汽車が徐行のまま赤羽駅を過ぎて荒川土手にささかかったころ、異様な人込みを見てしまいました。一四、五歳の朝鮮少年を高手小手にいましめて、土手に引っ張っていくいきり立つ数百人の日本人の群集でした。たかがたった一人の少年ではないか? それを数百人の群集が大捕り物でもしたように土手に引きずって行く群集心理。もしこのなかに少年を助けようとする勇者がいたとしたら、その人はその場で裏切者として滅多斬りにされるほど人々の心は興奮し、殺気に燃えていました。

証言三:「朝鮮人の女は妊娠をよそおって、腹に爆弾をかくしているから気をつけろ!」

証言四:日本人と朝鮮人の識別に十まで数えさせ、つかえると朝鮮人にされてしまいました。

 いっぽう、「アイウエオ」を言ってみろと言われ、「アイウエオ カキクケコ」とアカサタナを唱えると「よし、通れ!」と許可が降りました。

 つかまった鮮人の嫌疑の者にイロハニをいわせてみるのだそうです。そして発音があやしいとたちまちやられました。

 歩いている人に「これ読め」と言って朝日やバット、敷島とかのタバコを出します。「バット」の発音を朝鮮人は言えないんです。「ハット」とかなっちゃう。そうすると「この野郎!」と言ってダーっと斬るんです、日本刀で。

 ほかにも「一〇円五〇銭といえ!」「君が代を歌ってみろ!」とか。当時の日本では学校でも職場でも、最初に「君が代」を全員で斉唱するところから始まっていました。朝鮮語と中国語には濁音がありません。それゆえ、ほんのちょっとの会話に「日本人ではない何か」に気づくのでしょう。

証言五:川口でも機関車の下に潜んでいた鮮人が発覚したこともありました。また荒川堤にさらし首がしてあり、“不逞鮮人”の首が竹槍の先に高く見えていました。死体の臭気、血痕などで凄惨を極めていました。

証言六:「国賊朝鮮人は皆殺しにしろ!」

証言七:亀戸の南の大島付近には中小企業がたくさんあって、多くの朝鮮人職工が働いていましたが、その人たちの多くも騎兵隊や自警団に虐殺されました。

証言八:数日たって少し落ち着くと、商売のほうが心配になって、本郷から洲崎の養魚場を見に行った。その途中の道に、朝鮮人らしい死体がごろごろしていた。震災で死んだのは黒焦げになっているが、暴行されて死んだのは、皮膚がなまっちろいから、ひと目でわかる。ひどいのは、半分焼け残った電柱に朝鮮人が縛られていて、そのかたわらに「不逞鮮人なり。なぐるなり、けるなり、どうぞ」と書いた立札があって、こん棒まで置いてある。そいつは顔中血だらけになっていたが、唾を吐きかけていく者がいた。

証言九:この震災に対して頗る元気が昂っているときであるから「鮮人なんどぶち殺してしまえ!」と各自に鳶口棒切れなどを持って出た。

証言一〇:けたたましき警鐘の音、喇叭の音、物凄き銃声……しかし、鮮人の来る様子もない喇叭の音、警鐘の音、銃声も、いまは止んで、後はまたひとしきり寂漠の夜となった。

証言九:勤務先がぺちゃんこになり、次に来たのが「流言飛語」で、一日夕方ごろから誰が言うともなしに「在留外国人が、日本に対する反感から東京中の井戸に毒を入れて日本人を皆殺しにする」という噂が広がる。

証言十一:できたばかりの小松川橋の上を、震災のときは一〇〇人も二〇〇人もの朝鮮人が手をゆわかれてぞろぞろぞろ引っ張られていきました。「ああ、どうしてあんなことするのか」と思いました。そして夜になると、その辺の野蛮な人間が、朝鮮人じゃなくても、日本人でも殺しちゃうんですね。そしてあの新しい放水路に放り込むんですよ。

証言十二:「これ見えるでしょう。これがみな骨です」

「このなか(枯葉)にはまだたくさんの死体がありますよ。一昨日もあそこのなかに一人転がっていたといってました。それに昨日は洗濯に荒川の土堤の川岸へ来ると、両手と両足を針金でしばりつけられた、腐って顔形の分別もつかないムクムクした朝鮮人の死骸が転がっているじゃありませんか。ほとんど毎日一人か二人かずつは引き潮のときになるとどこかに転がっています」「別に車に乗っけて来るようなことはありませんでした。そこにもあるその荒縄で首を括って、どこからでもどんなに遠くからでも、犬や何かのように引きずって来て……もちろん針金などで首を括りつけてあの土手の上まで引っ張って来ては、そこからは足で蹴転がし落として、石油をぶっかけて二日二晩も続けざまに焼きましたから、それはもう臭いの臭くないの、とてもご飯なぞ食べることなんかできやしませんでした」

証言十三:「大勢の旦那たち(巡査のこと)が来て焼きましたが、それはまったく、あれでも人間かと思われるほどでした。鳶口やなんかで突っかけては火のなかに放り込みましたからね……それに人間の肉というものはなかなか焼けないものでした」

証言十四:それから他の一か所は、一面の土が焼き焦げて真っ黒になって油がどろどろして、そのなかには着物の焼け残りやら黒く焼けた骨やらがごちゃまぜになり、目もあてられないありさまだった。そのまわりにはいくつもの錆びついた石油缶が投げ棄てられてあり、荒縄や針金の腐ったのや紐などが至るところに散らばっていて、そこへ行っただけで全身はぞぞっと寒気がするほどであった。

証言十五:「今ね、朝鮮人が放火をして歩くんですって。昨日からポンポンいうのは、みんな爆弾を投げる音ですって。今も動坂の丸三へ火をつけたそうで……何でも短い木切れの先にアルコールをひたした綿をつけて、それに火をつけて放り込むんだそうです」

証言十六:それを聞いて、一も二もなくさっきの青年を朝鮮人にした、そして手に持った木切れをてっきりそれだと思った。自分も近所の人に怒られて横丁の角で夜警に立つことにした。

 三日朝、近所の女の子が「これを横丁の入口へ貼っておいてくださいって」と、蒟蒻板で赤い字を印刷した藁半紙を一枚手渡した。見ると「不逞鮮人の放火に注意すべし」と二行に書いてある。

証言十七:「不逞? 何だ、けしからん。不逞とは? 不逞なんて言葉があるか!」と、ぴりぴり唇をふるわしながら、道端の泥をつまんで「不逞」の二字になすりつけて消してしまった。「こんな字も癪だ!」と、その下に書いてあった「鮮人」の二字も抹殺しようとした。私もこれには不同意ではなかったので、笑って見ていた。そこへ在郷軍人が来て、「なぜそんなことをするのか!」「不逞なんて、けしからんから消したまでだ」「何? “不逞”がけしからん? 鮮人が不逞じゃないというのか? 貴様、社会主義者か?」

証言十八:午後になると昨日私どもと同じく避難していた、しかし石の上に腰を降ろして、極度の不安と恐怖とのなかにいた三人の鮮人、一人はおやじで、一人はその妻で、一人はその息子らしい、労働者の一家族、――多分それは浅草あたりから火に追われて来たのだろう――それが今朝、青年団の人たちに皆殺しにされた上、何処かへさらって行かれたという噂が伝えられた。そして、そこでもここでも鮮人が迫害されている。なかには鮮人と誤られた日本人が殺されたのも少なくないなどと伝えられてくる。私はいよいよもってこれはただ事ではないと思った。

証言十九:二日夜、平井駅で夜を明かしていると、その夜半だ。俄かに半鐘が鳴る。火事かな、もうたくさんだと思っていたら、津波だという声がある。津波ではない朝鮮人の襲撃だ、という。私のまわりには朝鮮服の男女が大勢いた。つづいて、ご丁寧にも東京襲撃しつつある朝鮮人は、横浜刑務所を脱獄して、社会主義者と合流し、東京を荒らしまわっているというわけで、かような想定の下に流言飛語を流したわけだった。

 東京府下、下平井といった新川土手を中心に、土木工事、堤防工事の労役に従事していた朝鮮人労働者がたくさん入り込んで多くのバラック住まいをしていた。板囲い、ムシロトタン板は、天露をしのぐだけの寝床にすぎず貧しさに耐えた食事で、トロッコを押す重労働を続けていた。

証言二〇:二日目に四ツ木橋を越え、本田村の庭先をかりてみんなで野宿した。ちょうど二日目の晩に「津波だぁーーっ!」という声がしたので、みんな線路に上がって枕木に帯で身体をつないだりしたが、津波なんかいっこうにこないので帯をほどいた。ところが八、九時頃、「朝鮮人が攻めてきたぁ!」という声が流されて、みんな殺気立った。竹もってる奴は竹を出し、棒切れもってる奴はナイフで先をとがらせて、集まった人たちだけで臨時の自警団をつくり、周囲をかためた。

証言三〇:三日に駅前広場で避難民の炊き出しがありました。わたしは黙って列に並びましたが、朝鮮人がくると、みんなで袋叩きにしました。

証言三五:地震から三日目に、三人で電車に乗って三河島へ出かけた。駅へついて一人が降りかかると、いきなり鳶口でたたき殺された。われわれはおりないで逃げ帰った。

証言四〇:三日でしたか、四日でしたか、大森海岸で自警団の人たちが、七、八人団をなしてきた朝鮮人を生け捕ってしまいました。七、八人とかたまっていたので抵抗もしたのでしょう。そのためにただでさえ狂気のようになっている人たちは、余計に興奮したと見えて、全部を針金で舟へ縛り付けて、それへ石油をかけて、火をつけて沖へ離しました。

証言五〇:各所の板塀に〇、△、◎などの記号を書いてまわるものがありました。〇は放火、△は掠奪、◎は凌辱を意味する暗号だから、見つけ次第に警察へ届け、各自十分に警戒を要する、ということがどこからともなく伝えられて来ました。

「貴様は何者か?」

「朝鮮です」

「四ツ木で乱暴してきたろう」

「貴様も殺してやる」

「なぜ殺すんです。その理由を聞かせてください」

「だまれ! 貴様は理由は知っているはずだ!」

「早く殺せ」「やっつけろ」と集まる者、日本刀ピストル竹槍など手にした者、数十人、あの青年は溝の岸に伴われました。青年は遁れるわけもなく、溝岸に立たせられ、青年の身命は風前の灯となりました。

証言六〇:騎兵の上等兵が、亀戸から江戸川方面でずいぶん朝鮮人を殺したという自慢話をするんです。東京は地震でたいへんだというので習志野を出発するときに、旅団長が営庭に兵隊を集めて、実弾をもたせて「旅団は敵を殲滅する目的をもって、江戸川の線に進出すべし」といったというのです。演習のときは空砲をもたせて仮想敵を想定するが、そのときはちがう。そして習志野を出て、途中で江戸川の芦のなか機関銃で掃射してたくさん殺したというんです。実戦の気分ができてますから。

証言七〇:荒川堤上より南方の帝都を顧みると、火勢はなお炎上して燃え上がっています。山の手はいまは盛んに延焼しつつあるのでしょう。ときどきドーン、ドーンと大音響の聞こえるのは家屋の倒壊する音でしょう。

「小菅刑務所の囚人脱出の報がある。今夜は大警戒を要する」

「この付近の堤防工事に従事していた鮮人中不逞の者がいて、田舎家に火をつけるので危険でならない。井戸水に毒物を投下する者がある」

証言八〇:在郷軍人団、青年会員各自に必死の守備に任じている。寺の鐘はゴーン、ゴーンと鳴り響く。非常ラッパは吹かれる。自転車は八方に飛ぶ。通行人は一々誰何する。そのものものしきあり様は、さながら厳戒令下に等しい。

証言九〇:ある青年に向かって「この辺の鮮人が果たして暴挙に出ずるやいなや、あるいはあまりに騒ぎ過ぎはせぬか」と質問すると、言下に「平素は別に大した暴挙もせぬが、今回の震災を機会ににわかに頭首らしきが入り込んで指揮しているので、夜になると農家に火をかける、盗賊を働く、まったく手がつけられない」

証言一〇〇:西新井太子堂には百四人の避難者が保護を受けている。いずれも東京脱出組らしい。口々に恐ろしかった遭難談にふけっている。この夜の避難者の多数は女性である。今夜の外の騒ぎを気にしながら雑談にふけっている折柄、伝令が来て、いま囚人らしき者が二、三人入り込んだから皆さんは堂のなかに入って男だけで外を守ってください、と言い終わらぬなかに自転車で走り去った。さあ大変、婦人たちは顔色土のようになって歯の根の合わぬありさま、急いで堂のなかに入り込む。

証言一五五:警備を終えて、六本木の連隊に帰隊すると休止もなく、今度は桐ケ谷、五反田地区に出動である。朝鮮人の不穏行動に対処する警備出勤だという。私たちは夜が明けきらないうちに営庭に整列させられた。実弾を各自六〇発と携帯食料を渡された。教官の中尉は柄の長い軍刀を吊っていた。将校たちもいつもと違った態度で兵隊に命令していた。当時、五反田、桐ケ谷地区には朝鮮人の部落があり、彼らはそこで集団生活をしていて、暮らしは極度に貧しかった。私たちは彼らの生命を暴力から守るために、トラックで警察署に護送した。

証言二一〇:早めに夕食を支度をすることにして、外にコンロを持ち出して乾物などを焼いていました。そのとき、三台ほどのオートバイに乗った男のひとが、「朝鮮人の暴動だ!」と連呼しながら五反田駅方面へ疾走して行ったのです。近所の商店の人たちが血相を変えて、「早く女や子どもを避難させるように」と家から家へ伝言し合いました。恐ろしい事態を予想しながら、後から追われるような気持ちで、どこをどう歩いているのか、砂利道を延々と歩いて御殿山まで辿り着いたのでした。

証言三〇〇:一日、日暮れになっても父が帰らないためどうしたやらと案じているうちに、近所の人たちの間に「外国人の暴動が起きて、日本人は手当たり次第殺されている」との噂が流れ、そして、大井立会方面では自警団ができたなど本当らしく伝えられていました。当時は通信の手段が口伝えでしたので、話はだんだん大きくなり、暴徒は多摩川を渡って中原街道沿いに東京を目指している、もう洗足池まで来ていると伝えられ、老人や婦女子は逃げたほうがよいだろうと、誰からともなくいわれました。

 私の家では父が帰らぬので心配しておりましたが、夜になって近所の人々と一緒に逃げようと決まり、家を戸締りして、母は子どもの手をひいたり背負ったりして歩きました。後でわかったことですが、そこは目黒の不動様でした。私たちは不動様の境内で何ごともなく夜明けを迎え、疲れた足を引きずって中延のほうに向かいました。家に着いたら、父や働いている人が元気で馬や牛の世話をしていました。

証言三五〇:朝鮮人のことでは、大家さんが長屋をやってて、その長屋の裏に朝鮮人の人がいたの。五〇世帯ぐらいいたね。朝鮮人が一面占めていた。荏原は朝鮮人が多かったですよ。そのころは朝鮮人は労働者ばっかり。いまみたいにパチンコ屋やったり、いろいろな商売やってるのはいない。土方ばっかりでした。

 私は子どもでこわいから見に行かんじゃったけど、一時は水道が止まり、朝鮮人があの近所の井戸にみかんよりも大きな玉をポン、ポン投げ込んで歩いたというんですよ。そいでその近所の井戸は全部飲まれんでね。水はほしいのじゃけど、水道も出ないことになったし、おまわりさんが番をしていて飲ませなかった。やっと水道が出るようになったら「朝鮮人にはやっちゃ駄目だ!」といっておまわりさんがやらせなかった。

 あんときゃ朝鮮の人はもう大人はほとんど縊られてまるっきり荷物を積むように、こんなに積まれて縄がないから針金で縛って、どこかへ引っ張られて行きました。

証言四〇七:朝鮮人の来襲の話はデマだということがわかったが、横浜方面から避難してきた朝鮮人は容赦なく自警団の手で殺された。この事実で重傷を負い、あるいは無残にも殺された朝鮮人が続々と品川警察署へ担架で引き取られ、あるいは引っ張られていくのを見て、私は悲壮の感に打たれた。

 食うものは全くなかった。隣の人に頼まれて、若者ばかり数人連れで、平塚村戸越のとある米屋へ二俵の玄米をとりに行くことになった。途中で人が黒山になって騒いでいるのに出会った。何かと見ると、朝鮮人が二人電柱に縛りつけられているのであった。

証言五〇九:そうすると、人がバタバタと走る。変な叫び声が聞こえる。何ごとかと思えば、朝鮮人が有無を言わさず殺される、という。大井町にもあった集落を何者かが襲撃し、見つけ次第殺すというのだ。恐ろしくて様子を見に行くどころではない。急いで家のなかに駆け込んだ。

 今夜は家のなかで眠れるかと思ったら、いきなり、「浅野さん、お宅の庭に朝鮮人が逃げ込みましたから協力してください」と警備の人の声がして、呼吸が詰まりそうなくらいにびっくりした。庭には、大勢の人が懐中電灯で照らしながら、ドヤドヤ入ってきた。幸い何ごともなかったのでほっとした。

証言六四一:二日、興奮していた町人たちに一人の男が捕らえられて縄で縛られて連行されていった。頭から汗を流し、血を滲ませていたのは多分逃げ回ったときの怪我だろうか。交番は旧東海道の浜川一〇六〇の角にあった。町人たちは捕らえた男をこの浜川交番へ連行した。そのときの交番にはこの付近の担当の佐藤巡査がいた。この地区受け持ちも五、六年と長く、顔見知りの巡査だった。巡査がこの男を見たときのハッとした驚き、そして困惑した表情を少年の私も感じることができた。捕まった男は受け持ち地区で顔見知りの朝鮮人だったのである。私もこの人が付近で土工をしていたのを見たこともあった。男は泣きそうな顏をして佐藤巡査に何か喋り、哀願している様子が人垣越しに見えた。その後のことは人混みに押されてわからなかった。帰り道を辿りながら可哀想な人と思い、またあの哀れな顏が忘れられなかった。

証言七〇八:三日は余震も少なくなり、みんな線路より家に戻ったが、夕方になって川崎方面より朝鮮人が二千人攻めてきて、井戸には毒薬を投入しているという。その情報に住民は恐怖におののき、戸を閉め、男はみんな鉢巻をし、家伝の宝刀や薙刀、鳶口、ピストル等を持って警戒した。私は一三歳でも男、サイダー瓶を投げるつもりで用意して待った。しかしその日は夜になっても何も起こらなかった。翌日、血みどろになって、民衆に縄で縛られた鮮人が捕まって浜川交番に引き立てられて行く。何も知らない、言葉の疎通の善良な鮮人であるが、殺気立った民衆の犠牲であった。

証言八一六:震災当時、私は東京の大井町でガス管敷設工事で働いていました。飯場には朝鮮人労働者が一三名いました。一日夕方、六時ごろだったと思います。あちこちから日本人が日本刀、鳶口、ノコギリなどを持って外に飛び出していました。しかし私たちはそれが何を意味しているのか少しもわかりませんでした。しばらくして、「朝鮮人を殺せ」という声が聞こえてきました。私たちの住んでいた周囲の日本人は、とても親切な人たちでした。その人たちが飛んできて、大変なことになった、横浜で朝鮮人が井戸に毒薬を入れたりデパートに火をつけたりするから、朝鮮人は片っ端から殺すことになった、一歩でも外に出ると殺されるから絶対に出てはいけない、じっとしていれば私たちがなんとかしてあげるから……と言ってくれました。しかし私たちはそのようなことが本当に信じられませんでした。

 夜も遅くなって受け持ちの巡査と兵隊二人と近所の日本人一五、六名が来て「警察に行こう。そうしなければお前たちは殺される」といいました。私たちは家を釘づけにして品川警察署に向かいました。私たち一三人の周りは近所の人が取り囲み前後を兵隊が固めました。

 大通りに出ると待機していた自警団がワアーッと歓声をあげながら私たちに襲ってきました。近所の人たちは大声で「この連中は悪いことをしていない、善良な人たちだから手を出さないでくれ」と叫び続けました。しかし彼らの努力も自警団の襲撃から私たちを完全に守ることはできませんでした。長い竹槍で頭を叩かれたり突き刺されたりしました。殺気立った自警団は野獣の群れのように随所で私たちを襲いました。

 数時間もかかってやっと品川警察署に辿り着きました。品川警察署は数千の群集に取り囲まれていました。彼らは私たちを見つけるやオオカミのように襲ってきました。

 そのときの恐怖は言葉や文章で表すことができません。そのうち巡査が多数出てきて殺気立った群集を払いのけ私たちを警察のなかに連れ込みました。警察署は木の塀で囲んであったので夜になっても自警団の襲撃は絶えませんでした。

証言九〇五:(一日夕刻、津波の流言の後)線路の上は線路の下よりも一丈ぐらい高い。それでもいなければ八景園の山へ逃げる事にきめてひと息つく間もなく「朝鮮人が三〇〇人ほど六郷まで押し寄せて来て先頭は大森町に入ったから皆にげて下さい」という布令が回った。これは全く予想しなかったことなので私は非常に当惑した。まして地震と火事と津波と暴徒の四つの脅威が同時に女子供の心に働いたのだから、先ずこの位にあわてても仕方はないと思うほど誰しも青くなって取り乱した。小さい子供などは全く意味もわからないのに、両手をあげて泣いてその親にとびついた。(略)午後六時我々の界隈は幼稚園生の好意で裏の運動場へ避難させてもらった。男達は戦線に立つために鉄砲をかつぎ出した。私の家には包丁と鉛筆けずりの外に武器がなかった。この混乱に乗じて我々を襲う暴徒を誰も憎まぬものはなかった。私もまた彼等が武器を以て我々を襲うならば殺しても構わないと思った。しかし少し考えた結果、殺すことは余程考えものだと思った。彼等も用心のために武器を構えているのかも知らない。その武器を以て明らかに我々を殺そうとする時の外は決して殺してはいけないと思った。午後九時ラッパの音がして軍隊が到着した。やがて海岸の方で銃声が交換された。幼稚園にすくんでいた二〇〇人ほどの男女は初めて少し安心した。ある青年は直立不動の姿勢に於て「市街戦が始まりました」と報告した。

 その騒ぎの最中であった。四、五人の鮮人が東京の方から線路を伝って来た。在郷軍人の一団がすぐに取巻いて検問すると、それは鮮人は鮮人だが品川警察の証明書を命の綱とたのみ、朝鮮まで帰ろうとする出稼ぎ人夫であった。弥次の中から一人の土木の親方らしいのが出て、朝鮮語を交えてなお詳しく検問した上で「これから夜に向かいてあるいちゃ直ぐ殺される。うんにゃ、そんな書きつけあってもナ、それを見せる間に殺される」と槍で胸を突いて見せた。四人の鮮人は泣き顔を見合わせていた。親分が「今晩はおれんとこへとめてやろう。そしてあした早く行くがいい」と荒々しくいってどこかへ連れて行った。私はその親方に感謝を禁じ得なかった。果して無事に朝鮮まで帰ったろうかと今でも時々思い出す。

 幸いにして私は朝鮮人が暴れる所を目撃しないですんだ。朝鮮人を殺すことを否定する心がその翌日から盛んになって来た。そして自警団の中に落着いた青年と浮かれた青年と二いろあることが目について来た。疑似警察権を弄ぶことに有頂天になって、歯の浮くような態度をとっているものがあった。

証言一〇八六:(三日、自宅のある初台で)提灯をぶらさげて、ものものしい様子で絶えずそこらを警邏している在郷軍人によって、さっきの警鐘の意味も程なく伝えられてきた。

「富ヶ谷の方で朝鮮人が一二、三人暴れたんです。(略)何でも初めパン屋の店先へ行ってパンを盗もうとしたところを見つけられて、それから格闘が起こったんです。一〇人ほどはすぐみんなして、ふん縛ったんですが、二、三人は猛烈に抵抗して暴れるので、とうとうぶっ斬ってしまったのです。この奥の渡辺栄太郎という騎兵軍曹は、――私もよく知っているんですが、――馬上から一人の朝鮮人を肩から腰の所へかけて見事袈裟斬りにやっつけたといいますよ。随分腕のきく人ですね」

 この話は直ちに一般の人々に伝えられ、そして深い衝撃を与えた。ここに説明しておく必要があるが、少なくとも自分と話し合った限りの人々は、前夜来の朝鮮人の騒ぎが想像以上に凄惨なものだったことを知って、ゆうべよりも皆が緊張していたくらいだった。郊外とても暴動一件で脅かされた事は市内と少しも変わらなかったが、以上の理由でその殺気立った警戒ぶりは前夜よりも真剣であり、酷烈であった。

証言一二〇九:(中渋谷七一六番地で二日)午すぎ、横浜の朝鮮人が群をなして、東京へ上って来るという流言が伝わって来た。二子玉川まで来ているということだった。

 縁側に座っていると、騎馬の兵隊が家の前の坂をギャロップで降りて行った。小石が蹄ではじき飛ばされ、板塀に当たって、パチといった。駒場の奥の近衛騎兵連隊からどこかへ伝令が行ったのだろう。あご紐をかけた兵隊の頭が、塀の上に見えたので、私はパチという音のもとが小石であることを知っていたのだが、茶の間へ行ってみると、誰もいない。母も姉も弟たちも、鉄砲の音と早合点して、裏庭の隅の納屋にかくれていたのだった。

 (略)まもなく朝鮮人が三軒茶屋まで来たといううわさが入った。それから弘法湯まで来たということになるまでに、五分とかからなかった。ラジオもない頃で、情報がどうして入ったのか、覚えはない。誰かそんなことを表を怒鳴って歩く人がいたような気がする。もう少し北の富ヶ谷の方では騎兵が乗り廻して、朝鮮人が来るから警戒せよ、とふれ廻っていたという。(略)女たちと弟は毛布を持って、鍋島侯爵の庭へ避難した。その晩から自警団が結成された。

証言一四〇三:翌日(二日)から朝鮮人の暴動の宣伝が始まり、代々木の原っぱをよぎって襲来する、住民は神宮裏の山内子爵邸に避難せよと、大声でふれて疾走する。しかし私はこの宣伝を信用しなかった。なぜなら、両隣の左方には朝鮮人の土木建者が住んでいるし、右方には朝鮮人の留学生が五、六人住んでいたが、これらの人々はヒソとして音もたてないで日本人の蛮行をおそれて、ひそんでいる。

証言一五四四:(二日午後、流言が伝わると)私どもは半信半疑で、たがいに顔を見合わせた。否定も肯定もできなかった。ありえないことにも思えるし、植民地化された国の人たちが、日本での境遇に不満があることは当然のようにも思われた。夕方になると、町をあげての避難騒ぎだった。昨日は余震を考えての避難だったが、今日は万一のことがあれば、家が焼き払われるか、屋内が荒らされると考えなければならなかった。(略。荒地へ避難して)提案した人の発議で、男子は夜間は交代でその一画を見回るということになり、夫と二人の青年も交代でその任務についた。

証言一五九〇:今井橋には習志野の騎兵連隊が戒厳令で来ていました。当時、富士製紙には今の平田組と同じようにパルプを運んだりまきとりをしたりする木下組という運送の下請けがあって、その飯場に朝鮮人も働いていました。三人ばかりがひっぱられ軍隊に引き渡され、夕方暗くなってから殺されるのを、後ろ手にゆわえられたまま川のなかに跳び込むのを見ました。このときはじめて、鉄砲の威力の恐ろしさをまのあたり知りました。

証言一六〇七:江戸川をこえて、いまの浦安橋のたもとへ米をとりに行った。浦安の渡し場では、サシコを着込んだ消防団の連中が主になって自警団をつくり、そいつらがポンポン蒸気からおりてくる奴にあやしい人間がいないか調べまわっていた。

 そこへたまたま、日本人の奥さんをもった実直な商人でとおっている近隣の朝鮮人がおりてきた。すると皆で「朝鮮人だ」とワッと寄っていった。男は「私の妻は日本人だ、ぼくは何も悪いことはしない。頼むから、助けてくれ!」と必死の形相で哀願しています。団の責任者も「この人はだいじょうぶだ、やめろ!」ととめていたが、なんせ気が立っている連中のことだから、聞く耳がない。責任者のことばが終わらないうちに、鳶口が三、四つ男の頭の上に降り落ちる。次の瞬間には、長い竹槍が腹をブスっとつらぬく。男は、ものすごい顔で苦しみもだえながら、なんとか逃れようとしていたが、左右前後から槍で突かれ、あげくは川のなかへドブンと放り込まれた。その後も夜の渡し船で、朝鮮人が五十人くらい襲ってくるという噂が出て、渡しが着いたとたん、四、五人に切りつけ、川のなかに落としてしまった。もちろん朝鮮人なんか乗ってなくて、殺されたのは日本人ばかりです。ひどいうわさがあったものです。江戸川を毎日、三、四人の死体が太い針金で数珠繋ぎになって流れてきました。みな朝鮮人が殺されました。朝鮮人を、とにかく殺せば勲章でももらえるように思っているんですから。

 わたしは平井土手を歩いていた……見ると、ギョッとして足を止めました。荒川土手には当時たくさんの芦が繁茂していました。その流れの止まっている芦の根元は色々なゴミがつかえていました。そのなかに交って、まだ血だらけの無残な肉体が投げ込まれています。さだめし何人かが投げ込まれたと思うが川のなかほどへ投げ込まれたものは、海へと流されますが、芦の根元の死体は、ゴミとともに水面に浮いていました。日本人としてむごたらしいことをしたと、私の頭からは何十年も消えたことがない。

証言一七三五:小松川橋にも、ヨシの陰に逃げた朝鮮人を空気銃などで撃っていました。殺っていたのは民間人でした。小松川橋の上には鉄砲を持った民間人が随分いました。

証言一八七二:朝鮮人の男女一八人が荒川の、小松川橋の亀戸寄りの土手で殺されているのを見ました。そのころ朝鮮人が火をつけたとだいたいが思っていました。上野の松坂屋がモルタル造りで九割できていたのに、爆発が大きかったから。

 ちょうど、たまたまそのころに、小松川という橋で朝鮮人が暴動を起こしたっていう連絡があったんです。それで習志野収容所へ入れてあるのもみんな、調査をはじめたわけです。調査しておかしいのをひっぱり出しました。向こうから朝鮮人と思われるようなのをまとめて追い出し、こっちから機関銃ならべて撃っていたんです。橋の上で、もうみんな、それが川のなかへバタバタおっこっちゃったわけです。

証言四八:寝ずの番で交代警備に当たり、日暮時、誰彼の差別なく問いかけ、言葉に詰まったり発音のはっきりしない者を「朝鮮人だ」と捕え、あるいはこん棒で殴られました。捕った者は後ろ手に縛られ、目隠しをさせ、川の端を歩かせ、突然突き落とし、竹槍で突き、あるいは銃で射殺され、川を流れた死体は引き上げて川端に並べ、菰かトタンか覆っていました。

証言一九〇三:尾久でも「アイゴー、アイゴー」と泣き叫ぶ朝鮮人数人を自警団が縛り上げて、町役場の前で竹槍や刀で斬殺しました。

証言二〇〇六:亀戸駅へ行って……朝鮮人が全部、腸が出たり、それから脳みそが出たり、……それから乳飲み子を抱えたおばあさんですね……乳飲み子なんかが……死んだおかあさんのそばにいたり、……とにかくなんとも言えない恐ろしさでした。口では言えないんですよ、うまくは……。

証言二一三〇:鴻之台街道まで飛んで逃げて小松川へ。四日に田舎に行くため日暮里に来た人に乗りうつりました……姉の背の子が火がついたように泣く。と、通りかかった大学生が気の毒そうに近寄って、「これを少しあげてみたらどうです?」と言って、少しばかりの白砂糖をくれました。すると通りすがった人が「あなたがたはこの学生さんとお知り合い?」と問います。不思議な問いかなと思って「いいえ」と答えると、「知らぬ人に食べ物などもらってはいけませんよ。現に朝鮮人が内地の人の風をして、子どもに毒の入った牛乳をやっているのを私は見て来たのです」と説明します。大学生は憤然として「そんなら僕が食べます!」と言って全部食べてしまい、「さあどんなもんだ」という顔をするのです。我々は学生にも気の毒になって、「どなたもありがとうございます」とのみ礼を述べました。

証言二二五六:南千住警察署の裏庭に朝鮮人が後ろ手に縛られて三十人ほどおりました。わたしは恐る恐る板塀の穴からのぞき見をしました。何人かの朝鮮人が目隠しをされて立たされ、次々と銃で撃ち殺されたのを見ました。大きな喚き声を、いまでも覚えています。

証言二四九八:一日、日暮里で、その夜は朝鮮人が暴動を起こしたという流言で、生きた心地なく避難するありさまでした。通行人の誰かが、「いまどこそこの警戒地域は朝鮮人によって破られた」というようなことを言って通るため、朝鮮人なら片端からスパイ扱いにして目を覆う残酷な方法で、目の前で殺されていく何人かを見ました。暑いときで白いワイシャツが赤く血に染まり、手をがんじに縛られてなお惨劇は繰り返し、道路のあちこちにその人たちの死体が横たわっていました。当時ラジオがあったならば、このような惨状にはならなかったでしょうが……。

証言二五六一:(牛込の)主人の家はお屋敷街で隣家には法学博士の富井さん、東大出の林学博士、工学博士などが軒を並べていた。「朝鮮人を殺さなければ殺られる」と、夜になるとどこからともなく語る人が出てきて、街中が夜警に加わった。ふだん物わかりの良い話をする人が、ご主人自ら日本刀を持って出動し、下男や下女にまで武装をさせた。出入りの商人や職人まで従えて、朝鮮人探しにやっきになって、こんな人がこんな話をするのかと、私は驚いたことばかしであった。(略。当時)朝鮮人に対しては、低賃金で一般賞金の半分以下で働くから、不況下の日本人労働者は職を奪われたと憎んでいた。(略)下層労働者は、親方にピンハネされて生活を立てていたし、そうした親方連中は、最低の賃金で働く朝鮮人が、ただ憎かったのだ。一文商いの一銭菓子屋は、子どもたちにたっぷりとまける朝鮮アメ屋が憎かったのだ。

 こうした日常の庶民生活の憎しみが、震災で火をふくように広がっていった。宮城前広場・靖国神社の避難民たちから、朝鮮人をうらむ声が起こって、朝鮮人を見たこともない山の手の人々を恐怖に巻き込んでいった。大正という時代背景が起こした事件のように思えます。

証言二七〇八:(一日夜、牛込で)そのうちに「放火」の噂が広まりましたので、急いで、家へ帰ってきて、その夜空地で、まんじりともせず、夜露にぬれて、暁を待ちました。

 (略)翌日は、「放火」の噂が益々ひどくなり、町内の顔役の人々から、いろいろと警告をして来ます。井戸の中に毒を入れられるから井戸の警戒をも申して来ます。

 (略)日は次第に暮れて行きます。町の角には号外がいくつも張られていて、それの中には秩父連山噴火というのが、いちじるしく恐怖をそそります。八ヶ岳も活動している、大島には七ヵ所煙が出ている、その他社会主義者の扇動による鮮人の来襲、横浜の全滅、その他いろいろの号外が、世界の終りの日もこれに近い事を想像させます。

 電灯がないので、わずかな蝋燭をともして空地で、集まっていると、前の町には、軍隊が、抜身の剣で、三〇人くらい並びました。「今夜は特にこの辺が危険で、軍隊が来ましたから、みんなは、戸山小学校の方にでも避難するように」と、町の人が申して来ました。

証言二八四三:各町内に自警団が組織され、椅子テーブルを持ち出して通行人を一々点検した。髪の毛を長くしていたために社会主義者ときめられて、有無を言わさず殴打されたうえに、警察に突き出されるのを、僕は目撃した。アナーキストだった坪井繁治などが逃げあるいたり、弘前なまりのために、鮮人とまちがわれた福士幸次郎が、どどいつを唄って、やっと危急をのがれたりというようなことが、あっちでもこっちでもおこった。いつもわけのわからない人間が多勢集るというので、僕のうえにも疑惑の目が光った。

 (略)暴力団のような男がいて、大曲の河岸で待っているから来いと、僕のところへ申し入れてきた。誰にも言わず、僕は、日本刀を腰にさして出かけていった。青江下坂の三尺近い細身の長刀で、造りもよく、奈良安親作の赤銅に鉄線の花を彫りあげた精巧な鍔がねうちのものだった。まさか、それであいてを切る気でもなかったのだろうと思うが、ゆきがかり上、わきへそらせることのできない融通の利かない性格のために、つい先へ、先へと自信もないのにすすみ出てしまうのはわれながら日本人の、とりわけ東京育ちの弱点を備えていると気づいておどろいたものだ。

 先方は、棍棒をもって三人で待っていた。「この社会主義者奴、くたばれ」といって、いきなり一人が棒をふり回してきた。僕は、やっと事態のばからしさに気がついて、ニヤニヤ笑い顔をつくって立っていると、先方も顔をみあわせて、ぶつぶつ話していたが、このへんにまごまごしていない方がいい、二度と顔をみたらただではおかないと凄んだ果てに引き上げていった。左の拇指と、左の耳のうしろに僕は傷を受けていた。

 僕はひどく悲しくなって戻ってきたが、そのために牛込を去って、鶴見の潮田の汐見橋の橋詰にある叔母の家に当分行っていることにした。

証言二九〇二:(二日)ゆうべは朝鮮人が放火するとか、焼け残った方面へ来襲するとか言って、(府立)四中の避難者は、いろいろな恐ろしい話をして慄えていたそうだ。ある鮮人の持っていた革包を調べると、キャラメルを詰めた下側にはいろんな薬品が詰めてあった。ダイナマイトを懐中していたのが破裂して死んだ、どこそこへは爆弾を投げ込んだ、井戸へ毒を投げ込むのもある、ある町ではもう十人鮮人を斬った、そんな話が避難者の口利きや、慰問の青年団員の土産話で尽きなかった。四中に避難していると、どう落着いておろうとしても、知らぬ間に神経過敏になる、と姉は言った。

 (略。三日)夕飯後自警団の屯所に往ってみる。O氏はその邸を開放して、自警団本部にしている。鮮人陰謀の実例を事細かに話す。その内にも薬王寺町の伝令が、ただ今三十人の鮮人が江戸川方面から入り込んだ情報がある、御警戒をお願いします、など言ってくる。捻り鉢巻き、ゲートルの若い衆や学生が、面白半分にガヤガヤ騒ぐ、九段方面では、銘々竹槍を用意したとか、納戸町では猟銃を担ぎ出したの、青山では剣術を知らない青二才が、日本刀を抜身で提げたなど、自警団即自険団の話柄それからそれと噂される。それに比べると、我が自警団は常識的だよ、とO氏がいう。成程、そこらにあるものは、ステッキか棒切れ位なものだ。

 証言三四〇五:(二日の昼下がり)ともかく神楽坂警察署の前あたりでは、ただごととは思えない人だかりであった。(略)群衆の肩ごしにのぞきこむと、人だかりの中心に二人の人間がいて、腕をつかまれてもみくしゃにされながら、警察の方へおしこくられているのだ。別に抵抗はしないのだが、とりまいている人間の方が、ひどく興奮して、そのためにかえって足が進まないのだ。

 群衆の中に、トビ口を持っている人間がいた。火事場のことだから、トビ口を持っている人間がいても、別にふしぎではない。わたくしは、地震と火事のドサクサまぎれに空き巣でも働いた人間がつかまって、警察へ突き出されるところだな、と推測した。突然トビ口を持った男が、トビ口を高く振りあげるや否や、力まかせに、つかまった二人のうち、一歩おくれていた方の男の頭めがけて振りおろしかけた。わたくしは、あっと呼吸をのんだ。ゴツンとにぶい音がして、なぐられた男は、よろよろと倒れかかった。ミネ打ちどころか、まともに刃先を頭に振り降ろしたのである。ズブリと刃先が突きささったようで、わたくしはその音を聞くと思わず声をあげて、目をつぶってしまった。

 ふしぎなことに、その凶悪な犯行に対して、だれもとめようとしないのだ。そして、まともにトビ口を受けたその男を、かつぐようにして、今度は急に足が早くなり、警察の門内に押し入ると、大ぜいの人間がますます狂乱状態になって、ぐったりしている男をなぐる、ける、大あばれしながら警察の玄関の中に投げ入れた。

 警察の中は、妙にひっそりしていた。やがて大部分の人間は、殺気立った顔でガヤガヤと騒ぎながら、どこともなく散っていった。ひどいことをする、と非常にショックを受けたわたくしは、そのときはじめて「鮮人」という言葉をちらりと聞いた。

 (略)人もまばらになった警察の黒い板塀に、大きなはり紙がしてあった。それには、警察の名で、れいれいと、目下東京市内の混乱につけこんで「不逞鮮人」の一派がいたるところで暴動を起こそうとしている模様だから、市民は厳重に警戒せよ、と書いてあった。トビ口をまともにうけて、殺されたか、重傷を負ったかしたにちがいないあの男は、朝鮮人だったのだな、とはじめてわかった。

 場所もはっきりしている。神楽坂警察署の板塀であった。時間は震災の翌日の九月二日昼下がり。明らかに警察の名によって紙が張られていた以上、ただの流言とはいえない。

証言三九六三:(四日頃)安田邸の下流一〇〇メートルほどの墨田川岸で、針金で縛した鮮人を河に投げては石やビール瓶などを放っている。それが頭や顔に当たると、パッと血潮が吹き上がる。またたくうちに河水が朱に染まって、血の河となった。

 罪なき者を! 罪なき者を!! と悲痛な叫び声が今でも耳朶に残っている。これをやっているのが、理性を失った在郷軍人団の連中であった。

 それから目と鼻の先に安田邸の焼跡がある。川に面した西門と横川の南門とがそのままに保たれていた。その南門のところに、(略)五、六人の鮮人が、例のごとく針金でゆわえつけられ、石油をぶっかけて火をつけられている。生きながらの焚殺だ。(略)現実に見たのはこのときが初めてだ。人数も五、六人と書いたが、勘定しているゆとりなどない。それにこの人達は半死半生の態で気力を失っていたのか、それとも覚悟していたのか、隅田川に投げ込まれたようにひとことの叫びもしなかった。ただ顔をそむけて去る私の背後にウウッ!! といううめきの声が、来ただけだ。

証言四〇八九:朝鮮には地震がない。だから初めての体験だった。避難者の列に加わって靖国神社に行ったら、「午後一時半にはもう一度大きな揺れがある」とマイクで言う人がいた。

 時刻を過ぎてもそれほど大きな余震はないので、武田さん(勤め先の新聞店主。牛込区矢来町)の家に帰ろうと四谷見附あたりまで歩いてきた時のことだ。一台の車が止まって、降りてきた紳士に「出身はどこか」と尋ねられ、「朝鮮慶尚南道……」と答えると、ちょっと、と連れていかれたのが神楽坂警察署だった。

 収容された武道殿のホールには朝鮮人がすでに四十~五十名いた。女の人もいたが、学生風の人はあまりいなかった。翌朝ちょうど武田さんの隣に住む警察官に会ったので、心配させてはと、収容されていることを伝えてもらった。午後十一時ごろ武田さんが羽織、袴を着てやってきた。署長さんに「私が保証するから出してもらいましょう」と、身元引受書を書いて印をおして、それで私を連れて帰った。

 武田さんの家には韓国人が五人おって、二階に閉じこもっておったんですよ。すると隣の青年が、「武田さん、お宅の朝鮮人はまじめだと言うが、けしからんことをしたら保証できるのかい。出してもらいましょう」と、一週間ものあいだ、一日に二度ぐらい来たのを、武田さんはていねいにみな帰してしまったですね。「私が責任をおうし、そういうはずのない朝鮮の学生さんだから勘弁してください」と。

 それで二週間目に総督府でなにか見舞いを持ってきた。それでいよいよわれわれが街頭をあるくことができたですよ。近所の十五歳ぐらいの男が「今日私も朝鮮人を二人やっちゃった」と、われわれの前ですらすらっと。聞きたくもなかったけれど、止めろとも言われないし、妊婦の腹を裂いて腹の中の胎児まで、それを自分でどうしたかそういうことも言うじゃないですか。

 五年後に故郷に戻ったとき、同郷出身の人が九人ほど犠牲になったと聞いた。


 流言飛語が乱れ飛ぶ――津波が来る? 反乱が起きた! 自衛のため武装しろ。井戸に毒を入れられたから水は飲むな等々――


震災激震、人心危惧の結果、流言飛語盛んに起こり、なかんづく、朝鮮人に対する虚構的反感、大いに人心を動揺させ、所在鮮人を殺戮し、すでに三百人に上り、その勢いの趨く所、無辜の鮮人まさに挙げて俎上の肉となす


使節が告げるところによれば、大川端において鮮人六十名、亀戸において鮮人約二百名、熊谷駅において百六十人、訛伝のため故なく虐殺

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