第二話 地震発生

 職場の工場でいじめられたときから、スン大兄ちゃんは少しずつぐれていきました。不良仲間と一緒に歩き煙草をしたり、ケンカしたり、博打仲間と賭けをやったりしました。 

 ある日スン大兄ちゃんが可愛らしい黒ぶちの仔犬を連れて帰ってきました。

「この犬可愛い! 飼うの?」

「うーん、わかんねえな」スン大兄ちゃんは仔犬の頭をなで、仔犬はスン大兄ちゃんの手をペロペロ舐めています。仔犬も懐いているようでした。

「名前つけたらどう?」

 わたしは興奮して話しかけました。スン大兄ちゃんはあまり話したくないようでした。

 その日の夕方、裏のほうでキャン! という仔犬の叫び声が聞こえました。とっさに裏へ回って見ると、スン大兄ちゃんが仔犬の首をナタで斬り、皮をむしっていたのです。血だらけの子犬の首と胴体が、ただの肉になったのです。

「……」

「わかったか? こんなふうに食うんだよ。ソヒみたいに犬を飼うなんて、とんでもない話だ。自分たちの食糧もないのに…」

 衝撃的でした。確かにスン大兄ちゃんの言うように、わたしの家では犬猫を飼う余裕はありません。だからといって、それを食べるなんて…。

「ほら」スン大兄ちゃんが血の滴る赤い肉片をわたしのほうへ指し出しました。たぶん「お前も食べろ」と言いたいのでしょう。とてもお腹が空いていましたが、どうしても受け取れませんでした。

「食わねえの? じゃあ俺が食う」スン大兄ちゃんは赤い肉片を抵抗なく口に入れ、ガムのようにくちゃくちゃ噛みながら、わたしに言いました。

「ソヒ、俺が残酷に見えるか? 俺は生きるためなら猫でも蛇でも鼠でも何でも食うぞ。たとえ不味くても腹が満たせるなら食うからな」

 わたしは怖くて怖くて、スッチャ大姉ちゃんに、スン大兄ちゃんが仔犬を食べた話をしました。

「スン兄ちゃんが? あっはは」

 スッチャ大姉ちゃんがどうしてそんなに笑うのか、わたしはわかりませんでした。

「まだわたしたちが朝鮮にいたころ、スン兄ちゃんは鳥の卵も食べられず、わあわあ泣いていたんだよ。それを思うとおかしくて…いまのスン兄ちゃんは逞しくなってるというか、悪ぶってると思うわ」

 スッチャ大姉ちゃんが言うには、卵のなかには純然たる命があって、まだこの世に生まれていないから食べるのが可哀想、卵のなかの世界と卵の外の世界。生と死。殻がそれらのバランスを絶妙に保っているので殻を壊してはならない、世界が破滅し崩壊する、罰があたる、のだそうです。

「スン兄ちゃんもずいぶん変わったよね。わたしもだけど…なんていうのかなあ、小さい生き物にも可愛いとかかわいそうと思う気持ちというか、いたわりの心、畏敬の念があったと思う。でもいまはあまりに忙しくて考えられなくて、そういう念とか情緒とか、いつの間にかどこかへ消えてなくなっちゃったんじゃないのかなあ…」


 あるとき、わたしは夢を見ました。村の四つ辻で多くの人の行きかうなか、青っ洟を垂らし襤褸切れを着た小僧さんが立っていました。その小僧さんはときどき鼻が垂れるので、襤褸切れの袖で拭っていますが、親切なおばさんがいて、チリ紙を小僧の鼻にあてがい、それで小僧さんは思い切りちん! ができたのです。

 ほかにも、笹の葉に包んだ饅頭を小僧さんの足元に供えて念仏を唱える老人がいたり、お供えは何もないけどただ両手を合わせて念仏を言う若者がいたりしました。小僧さんはただぼーっとしてるように見えました。少し頭の螺子が足りないのかなと思って小僧さんの様子を見ていても、信心深い人には小僧さんのありがたみが見えるのだな、とわたしは思いました。

 むろん、そんな人はごく少しで、あとは小僧さんに気づかず急いで歩く人たち、自転車を漕いでぎりぎり小僧さんに当たるのではないかという人たちが大勢いました。わたしが小僧さんをじっと見ていると、小僧さんもわたしに気づいて目が合い、にっかと笑いました。顔も服も汚れているけど歯は真っ白でぴかぴかして、その白い歯がまるで後光のように輝いて見えました。

 わたしはふと、あの小僧さんはもしかして仏さまではないかと思いました。なぜかはわかりませんが、でも……。

 あの夢はいったい何だったのでしょうか。夢ではなく現実で、でも現実には村の四つ辻などわたしには記憶がありませんでした。あの小僧さんは、わたしのつくり出した空想だったのかもしれません。


 わたしが小学校にあがる年齢のころ、日本人は学校へ行きますが、わたしたち朝鮮人と中国人は工場や舟の渡し場、荒川の堤防工事などへ働きに行きました。わたしは生まれつき身体が小さく弱く、同年齢の子どもたちより小さく見えました。

 ある朝、いつものようにおとうと並んで荒川へ歩いていきました。その日は特に風が強く、目に砂埃が入ったわたしは立ちどまり、目をこすってはまた歩きだしました。

「ソヒ、大丈夫か?」

 おとうは風よけになってわたしを守ってくれました。

 荒川の河原で、わたしは石ころを集めました。おとうや大人の労働者は大きな石をたくさん運んでいましたが、わたしはまだ小さくて力も弱く、でも懸命に働きました。

 昼前に、わたしは咽喉が渇いて近くの井戸に水を飲みに行きました。桶で井戸水を汲み、柄杓で水を飲みました。井戸水は冷たくて美味しくて、ほっとしたのを覚えています。それから目のなかを洗おうと、水で顔を洗いました。

 ――そのときです、突然地面が激しく揺れました。わたしはひとりで立っていられなくて、井桁を両手で必死に抱えました。五本の手指が真っ白になるほど強くつかみました。それくらいの地震でした。こんな地震は初めてです。自分の両脚の間に地面のひび割れが走り、そのひび割れがどこまでも続いているのを目の当たりに見たような気がしました。突然のことで腰が抜け、しばらく動けませんでした。

 ふとわれに返ると、あたり一面は火の海でした。慌てて右往左往に走り回る人々がたくさん見えました。相変わらず風は強く吹き、竈で火をたく家があり、大地震で家々が崩壊し、火事が起こったのです。火を出した家から逃げ出す人、泣き喚く人、それらをわたしは見ていました。

「ソヒ! どこだ! 大丈夫か?」駆け込んできたおとうの声が聞こえて、わたしは思わず叫びました。

「おとう! ここだよ!」

「ソヒ!!」

 わたしを見つけたおとうはすぐさまわたしを抱き上げて、どこかへ走っていきました。

「おかあや兄ちゃん姉ちゃんは大丈夫だろうか?」わたしをおぶったおとうはバラックのほうへ探しに河原沿いを歩いて行きました。おとうの背中で揺られながら見た光景は、忘れることがありません。日本の家屋は木と紙でできており、昼時に竈の火が燃え移り燃え広がって、瞬く間に燎原の火となっていたのです。

 わたしたちが住んでいたバラックも、すでに燃えていました。防火用水はところどころありましたが、水が半分しかないとか、空っぽとか、そもそも消火活動をする人なんて誰ひとりいませんでした。まずは自分の家から大事なものを全部取り出して大八車に乗せ、なかには何も持たないまま避難する人たちがたくさんいました。わたしはおとうの背を降りて、二人は燃えているバラックを茫然と見ていました。おとうは黙ってわたしの背を押し、工場へと歩きました。

 燃え盛る火の海を縫うようにしてわたしたちは他の家族を探しました。ときどき何かが弾ける音がして、わたしはびっくりしました。

「あっ、爆弾?」

「いや、あれは缶詰や薬瓶が熱されて破裂する音だよ。安心しなさい」

 家族たちの働く工場も燃え上がっていました。なかに人はいないようです。それでもおとうは、もしかして家族たちがいるのかもしれないと思い、大声で叫びました。

「おっかあ! スン! スッチャ! どこにいるぅ?」

「ヒョンにいちゃああん! ヨンジェねえちゃああん!」

 わたしたちの声の大きさを聞いて、顔見知りの朝鮮人が必死の形相で走ってきました。

「おい、あまり叫ぶな。朝鮮人を見たら皆殺しにしてやるって噂が出てるぞ!」

「まさかそんな…嘘だろ?」

「本当だよ。朝鮮人が暴動を起こしていて、井戸に毒薬入れたり、爆弾騒ぎも起こっている。憲兵が朝鮮人を殺しにきてるらしいって。なぜかはわからんが、みるみる噂は広まってる」

「暴動を起こすなんて…日本人のデマに決まっている!」

「とにかく早く逃げるんだ!」

「ソヒ! ここへ逃げるぞ!」おとうはわたしの手を握って人通りを避けて川原へ戻り、芦の高い草むらに身を隠しました。ここなら誰にも見つかりません。通りの道の両側は火が燃え、人混みもあります。わたしたちは走るのをやめ、じっと息を潜めました。家や建物が焼け、ガラスが割れる音、崩れる音、人が叫ぶ声、走る下駄の音、大八車の音…。

「こうしちゃおれん。おっかあたちを探さねば」

 おとうは立ち上がって当たりを見まわし、もとの道へと戻りました。

 火はいつまでもふつふつと燃えています。わたしたちの怒りの火だと思いました。こんなに多くの朝鮮人や中国人の祖国を奪い、祖国を追い出され、根無し草となり、差別され、低賃金で重労働をさせられて、挙句の果てに大地震が起きたら朝鮮人の暴動に違いない……こんな理不尽で不公平な話はないと、朝鮮人の誰もが思っていたことが、いま実現したのです。強風であおられた炎で次々に倒壊していく日本家屋を見て、わたしはひそかに快哉をあげていました。風よ吹け、もっと吹け!

 どこをどう歩いたのでしょうか。おとうとわたしは疲れきっていました。辺りは日も暮れはじめ、黄昏は蒼さを増しているのに、相変わらず火の海でした。わたしたちは煙にむせて咳をしました。ひとつだけ、燃えていない建物がありました。林に囲まれたお寺です。お坊さまなら、可哀想なわたしたちを慈悲で何とかしてくれると思い、おとうは門から叫びました。

「すみません、門を開けてください! 朝鮮人が暴動するというデマから、わたしたちを守ってください。わたしたちは決して悪いことをしていません、お願いです!」

 門が開いて、小僧が出てきました。

「どうぞ、お入りください」

 門のなかに入って、お堂の陰を見ると、数十人の朝鮮人がすでに隠れていました。わたしたちはお寺に匿ってもらうことになったのです。優しそうな年寄りの住職は、わたしたちに食べものと水を与えてくれました。わたしとおとうは隅っこのほうに座ってもそもそと食べました。

「これはこれは災難でしたね。ここへくればもう安心です。私たちが守ってあげますから」

 これでようやく、わたしたちは身も心も休まるようになりました。疲れたわたしたちはしばし眠っていたようです。

 しばらくして、むこうのほうで騒ぐ声が聞こえ、その声が大きくなり、荒っぽく門を叩く人たちがいました。

「おいこら、開けろ! ここに朝鮮人はいないか?」

「何ごとですか?」

 住職は門を開けて、威厳をもって言いました。

「ここはあなたたちの入るところではありません。出ていきなされ」

「おれたちは自警団だ。朝鮮人の暴動があると聞いて、日本人を守るため結成した」

「朝鮮人、朝鮮人とあなたたちは言いますが、朝鮮人が何か悪いことをしたというのですか?」

 自警団の荒くれ男たちは、住職の気迫に押されて「…いや、それならいい」と了解しましたが、血気盛んな人たちのことですから、住職が背を向けたとたんに襲いかかったのです。そして日本刀や鳶口で住職の頭をたたき割り、続いて集団がわっと押しよせ、「いたぞ!」という一声で、隠れている朝鮮人たちを一気に襲いました。

 わたしたちは武器を持った日本人たちから慌てて逃げ出しました。背中に何かカッと袈裟賭けに熱いものが走り、わたしの肉体はぱっくり割れ、そのなかからゆらりと魂が夜空を高く駆けまわりました――遠くのほうから大勢の人たちが惨殺され阿鼻叫喚地獄を思わせる状況を、わたしは感じました――わたしは地獄の業火から鳥になって飛び去ったのです。

 なんという光景でしょう。あたりは火の海で、川のなかには溺死体がたくさん浮かんでいます。土手の上では軍隊やら村々の消防団で集まった自警団やらが、日本刀や金棒、こん棒、竹槍などで朝鮮人たちを滅多打ちにして殺していました。



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