カタストロフ:1923

コンタ

第一話 強制移住

半分つぶされた虫のように、地面の上でのたうちまわるようになるような打撃を受けた人々は、自分の身に起こったことを表現する言葉がない。                               シモーヌ・ヴェイユ『神を待ちのぞむ』



「ギルアデ人はさらに、エフライムに面するヨルダン川の渡し場を攻め取った。エフライムの逃亡者が『渡らせてくれ』と言うと、ギルアデの人々はその者に、『あなたはエフライム人か』と尋ね、その者が『違う』と答えると、『シボレテ』と言うよう要求した。そして、その者が正しく発音できず、『スィボレテ』と言うと、その者をつかまえて、ヨルダン川の渡し場で殺した。こうして四万二千人のエフライム人が倒れた」

(士師記12章5-6)



権力に対する人間の闘いとは、忘却に対する記憶の闘いに他ならない。

ミラン・クンデラ『笑いと忘却の書』


* * *


 外は空が濃い灰色に曇っていて、いまにも雨が降ってきそうです。肌寒いような、蒸し暑いような、ぬるま湯のなかにいるような……空気は自分たちの汗で冷え、鼻が曲がるようにとても臭く、とにかく不快で、一秒でも早くここを出ていきたいような……季節はわかりませんでした。その曇天のなかに溶けていくように黒煙けぶるデゴイチのなか、おばあ(父方の祖母)、おとうとおかあ、スン大兄ちゃん、コウ中兄ちゃん、ヒョン小兄ちゃん、スッチャ大姉ちゃん、ヨンジェ小姉ちゃん、都合家族八人に見守られて、わたしは生まれました。大きな橋を渡った大きな川の上、どこかの県境だったと、病死した兄ちゃんが語ってくれました。どの県で生まれたのかわたしにはわかりませんし、どの県で生まれてもわたしという存在には関係ありません。でも、わたし以外は朝鮮で、わたしは日本で生まれました。どの国で生まれても家族は家族です。分け隔てありません。

 これで家族は九人目です。朝鮮ではみな仲睦まじく、貧しくても穏やかに、ささやかに暮らしていました。たとえ学はなくても無分別ではなく、すごくお腹は空いていても強欲ではなく、意地汚くて醜い食べものの取り合い盗み食いはありませんでした。むしろ一日中畑仕事をしていたおとうとおかあの代わりに、兄姉たちが足りない食べ物を手に入れようと川に行って魚と貝と蟹を獲ってきました。畑では少しの野菜と米と麦をつくっていました。夏の豊かな森には大きな蜘蛛や蝉や蛙、芋虫がいて、みんなで焼いて食べました。蛇や鳥の卵も見つけて殻を割って飲みました。秋の日には山に行き、茸や椎茸、柿の実と栗、葡萄もたくさん採ってきたそうです。脚の悪いおばあは針仕事をしていました。自分の能力に合った自分の作業を家族全員がしていたのです。それは指示や命令や強制ではなく、自発的に、黙々と、それぞれの仕事、それぞれの作業をしていました。

 あるとき、えばりくさった日本の軍人さんたちが来て、ここはお前らの土地ではない、我が大日本帝国軍の土地である、お前らは全部荷物をまとめていますぐ出ていけ! と怒鳴り散らしながら筆で書かれた令状を掲げました。わたしたちのなかで、この令状を読める者は一人もいませんでしたし、こんな紙切れ一枚でわたしたちの土地をあっけなく奪われるなどとは思いもしませんでした。誰が誰に許しを得たのでしょうか。まさかわたしたちの許しを無視してまで? 

 貧しい家族は土地を追い出され、わたしたちは棄民になりました。みんなどこに行けばいいのか、これからどう生きて行けばいいのか、よくわかりませんでした。明日になればわかるはずですが、みんな未来を見るのが不安で怖いのです。ほんの少しの勇気があればいいのに。

 たくさんの兵隊がわたしたちに銃剣を突きつけて長い長い道をぞろぞろと歩きました。棄民の長蛇の列ができていました。炎天下、ただ休みなく歩き続け、みなの歩きで道は埃っぽくなり、水も飲むことを禁じられ、ばたばたと倒れる棄民たちを横目で見ましたが、誰も助けることができません。兵隊たちは無残にも気絶した棄民たちを歩きの邪魔にならないよう足蹴にし、そこらへんの石ころや棒切れみたいに扱うだけです。

 船に乗るよう命令され、汽車に乗るよう命令されて、いまわたしが住んでいる川べりに移ってきました。おばあだけは祖国を出ることを頑なに拒みましたが、追い出しにかかる兵隊たちを尻目に「ここに残ってもしゃあねえべ!」と言って焦ったおとうがおばあを背負って半ば強引に連れ出しました。

 身重のおかあは、それはそれはもう大変でした。臨月なのは腹の大きさを見ればわかります。六人生んだのでお産はもうとっくに慣れているのに、わたしはなかなか生まれてきません。日本の陸が見え船を降りるときに破水して、これはわたしが生まれる合図ではないかとおかあは思ったのですが、ひとふんばりしても、ふたふんばりしても、わたしはまったく出てくる様子がありません。もうこれはしょうがないと腹を据え、おかあが立ち上がって東京行の汽車に乗り込み、おろおろする家族たちも次々と汽車に乗り込みました。


 わたしたちが乗ったのは石炭や資材を積んだ貨物列車で、裸足で乗るとすぐ足の裏が真っ黒になりました。列車のなかはどこも棄民がぎゅうぎゅうに詰め込まれながら立っていました。長い長い列車で、長い長い移動の時間でした。おばあが土だらけの床に座り、あとは全員が九州から東京まで立ち続けました。屋根があったので雨に濡れず、詰め込まれた棄民たちはかろうじて自分たちがただの荷物ではなく人間であるということを確かめました。産気づいたおかあを見て、少しだけおかあの産み場所をつくってやろうと、優しい棄民たちは思いました。

 激しい嵐と大雨のなか、大きな落雷や強く吹きつける蒸気、甲高い汽笛の音に混じって、おかあの苦しい叫びが続いています。もしかしたら赤ん坊は死産ではないか、と家族ははらはらと心配しました。やっとわたしが生まれたとき、首の周りに綣の緒が巻きついて顔は蒼黒く、産声はなかったそうです。慌てたおとうがわたしを逆さにし、何度も何度もお尻を叩きました。車窓から一瞬、眩しい稲光が走り、生きているのか死んでいるのかわからないわたしを照らします。家族全員が固唾を飲んで見守っていました。腹が動いて、肺に空気が入り、声が出る――わたしは呼吸し出しました。生きている。家族はほっとしたそうです。

 東京の駅に着き、汽車から降りて、わたしたちはまたぞろぞろと歩きました。生まれたばかりのわたしはおかあに抱かれながら乳を吸い続けました。どこに行けばいいのかわかりませんが、先に続く朝鮮人たちの列にわたしたち家族も加わりました。川べりには家と呼べるものはありませんでした。先に住んでいる朝鮮人たちのように、茅葺屋根の狭いバラックに住まわされました。ここには食べものが豊富な緑の山も畑も、水の澄み切った川も生き物もありません。ただ、開発されたきり生命が枯れた土地と、腐ったどぶ川だけがありました。自然はみな灰色で死んでいました。貧民窟の裏長屋だったのです。


 おかあは軍需工場へ働きに、おとうは荒川放水路の堤防工事に肉体労働者として駆り出されました。おばあ以外、兄姉たちはおかあと同じ工場へ働きに行かされました。日本人も働いていましたが、わたしたち朝鮮人と中国人の賃金は日本人の半分以下だったそうです。賢くて従順な、自分たちの意思を持たない奴隷、ものを言わない家畜でした。

 赤ん坊のわたしはおかあにおぶわれ、乳離れのときはおばあに見守られていました。やっとひとりで歩きだしたとき、おとうに連れられて堤防工事を見に行きました。おとうが現場監督にわたしを見せても、わたしはどうやら戦力にならないと思われたようです。大きな木箱用トロッコにシャベルで石ころをたくさん載せる人も、トロッコを押す人もみな朝鮮人でした。日本人の監督はとても厳しくて、怒鳴りながらのろまな朝鮮人たちに鞭を降り降ろしていました。あまりに鞭を打ち過ぎても<商品>として使いものにならないことを監督はわかっており、これは<教育>なのだ<命令>なのだと自分で自分を騙し、勢いよく鞭を振っていました。なのに、怠けていた日本人を監督が見ても何もしません。


 朝鮮人と 中国人は

 生きぬように 死なぬように


 わたしは子どもながら不公平だと感じました。

 お昼ご飯は日本人が先に食べ、それから中国人と朝鮮人が食べました。ご飯のお釜はあらかた日本人が食べ尽くし、朝鮮人と中国人は底に残ったおこげをこそげ取り、菜っ葉と魚のあら汁を飲みました。重労働の末あまりの空腹に耐えられない中国人朝鮮人たちは、飯場の床に零れた生米を集め、拾って食べました。さぞ土埃の味がしたのでしょう。

 やがて家族はどんどん無口になり覇気がなくなり、疲労が重なって、その表情には翳りが増しました。一日中、暗くて狭苦しい工場や日照り続きの堤防工事で働かされ、日本人から「チョン公が!」「この三国人め!」と蔑まれたり、唾を吐かれたり、いきなりどつかれたりしました。それでも怒りで抵抗したり、憎しみで復讐したり、逃亡したりはしませんでした。いつの間にかわたしたちは感情がなくなってしまったのです。感覚が麻痺し鈍麻し、淡々と感情を喪失したような無力感、虚脱感、苦痛と感情を切り離す乖離感。そしてわたしたちに残ったのは空腹と怯えと服従です。四六時中身体を酷使し、食べ物は不足しがちで、生きるのがやっとでした。わたしたちはがりがりに痩せていました。日本に連行されてからは、みな紙のようにぺらぺらでした。

 自分の未来を絶望し、生きるのを諦めた人々は、高い建物の上から飛び降りました。青白い顔とうつろな目をして、何も考えず、無表情で、黙って死の踏み場を越え、ぴしゃん、ぴしゃんと次々地面にたたきつけられました。その音を聞いた者たちには、人間がただの血の袋だと思い知らされました。わたしはいまでもそのつぶされた袋の音が忘れられません。

 日本人と朝鮮人と中国人。肌の色や髪の毛、顔や姿はどれも似ていますが、まず服装が違いました。日本人は朝鮮人と中国人とを服装で差別していました。朝鮮人や中国人を見ると、そそくさと離れていく者、人知れず懸念を抱く者、相手を険しい目つきで睨む者、憎しみや嫌悪や怒りをぶつけ、鬱憤のはけ口にする者もいました。わたしたちの間にはいったい何か違いがあるのでしょうか。日本人と同じ服装をすれば良かったのでしょうか。


 あるとき、寝る前におかあが溜息交じりにつぶやきました。わたしはおかあの乳房を吸い続けました。

「ああ…あたしたちって、日本に来てよかったのかしら…?」その言葉は暗い部屋を漂いながら、いつまでも滞っていました。誰も日本に来たくてこうなったわけじゃありません。夢も希望もないままの、朝鮮から日本への長い旅路の途中です。その問いは永遠に響きました。おとうもまた溜息交じりに答えました。

「…そんなこと言っても、朝鮮の国はもうなくなって、いつかほかの国になったんだろ?新聞もラジオも全部日本語だから、オレたちには何が起こっているのかわからねえ。ただ馬車馬のように働くだけだ…」

「おえらいさんがあたしたちの運命を決めるんだねえ…朝鮮にいたころと日本では貧しさは変わらないよ。でもさ、これから大きく立派になる日本の国を、おっとうはどう思う?」

「…どうって…?」

「あたしはさ、この国は頼りないと思う。朝鮮でも日本でもあたしたちは貧しかったけど、でも食べものは確実に豊かだった。みんなの心や、ものの見方も、豊かだったと思う」

「ああ…それは確かにオレも思う」

「これから立派で豊かな国になる人たちの心は、卑しくて、せこくて、貧しいものだと思うわ…そうなったら、この国はおしまい」

 おかあは、ため息で話が終わりました。満腹になったわたしも乳を吸うことをやめ、寝入っていました。誰もものを言いませんし、寝ている兄姉もいます。いつしかおとうが寝て、考え続けていたおかあは目が冴えていつまでも眠れませんでした。

 そうだ、いくら考えてもわたしたちが答えを出すことはできない。いまは働くのみ。考えることはとても辛いけど、考えなかったら少しはまし。

 それからというもの、家族は考えることをやめてしまいました。考えても無駄だからです。言葉を捨て、思考を捨て、未来や希望、理想を捨てました。

 わたしたち朝鮮人を差別するのも日本人で、差別するのは不公平だから堂々と声を揚げよ、怒りを表現せよ、勇気を出せ、と、わたしたちを鼓舞し知恵をつけてくれるのも日本人でした。当時の日本は軍部が台頭する覇権主義帝国主義で、その動向に反対する社会主義者や共産主義者もいました。日本の侵略に抵抗した前皇帝・高宗(コジョン)の死を契機に、植民地支配する明治政府に抵抗して独立運動を起こしました。

「聞いたか? 昨日、朝鮮と日本の社会運動家たちが独立運動をしたんだと! 朝鮮万歳だ! 万歳! 万歳!」

「それで運動はうまくいったのか?」

「まだだ、これからが本番だ」

 朝鮮人たちは嬉しそうに運動の話題を持ち出しました。おとうもおかあも兄姉たちも、喜ぶどころか、うんともすんとも言いません。無反応です。家族はほんとうに、二足歩行の家畜になってしまったのでしょうか。


 わたしがおばあの子守を離れ、初めてひとりで外に出たとき、おばあは「いってらっしゃい」ではなく「はい、さようなら」と言いました。わたしはその言葉に足を止めつつ、そのまま出かけていきました。その日うちに帰ったら、おばあは眠るように死んでいました。呼んでもおばあは動きませんでした。まるで自然の死でした。「年だから、仕方がない」とおとうは悲しそうに言いました。わたしが成長して独り立ちするのを待って、おばあは死んだように思います。おばあはおばあの役割を果たして死んだのです。

 コウ中兄ちゃんも病死でした。コウ中兄ちゃんはまだ十代でしたが、工場で働いたときに肺病で倒れ、そのまま死にました。わたしたち家族は病床のコウ中兄ちゃんの看病をしていました。コウ中兄ちゃんは咳がひどく、咳をする前に大きく息を吸い、吸いながら身体の動きがぴたりと止まりました。コウ中兄ちゃんの口はぽかんと空いていて、なかから青蝿が一匹飛び出しました。吐く息の代わりに青蝿が出てきたとわたしは思いました。青蝿は、コウ中兄ちゃんの魂だったのでしょうか。まるでコウ中兄ちゃんの肉体を惜しむように、なかなか青蝿は消えてくれませんでした。その光景がわたしには不思議で、誰ともなく家族に聞きました。

「ねえ、コウ中兄ちゃんの魂は、あの青蝿だったのかしら。青蝿はどこに行くのかしら」

 わたしの質問には誰も答えませんでした。答える代わりに、みな蝿の行方を目で追っていたのでした。青蝿はコウ中兄ちゃんの上に数回まわり、天井に行き、それからどこかへ飛んでいきました。

 おばあの死とコウ中兄ちゃんの死の違いを、わたしは考え続けていました。おばあは高齢で顔も手足もしわだらけで、白髪で、歯もたくさん抜けてものを食べられませんでしたし、足腰が弱ってあまり立って歩けませんでした。最後は布団で寝ていることがよくあり、起きているのか夢見ているのか曖昧でした。いま思えば、おばあは死の準備をゆっくりとしていたのです。死を覚悟していたのか、ひとりで生きることができなくて諦めたのかは、わかりません。最後の挨拶だけは、おばあの謎でした。

 いっぽうコウ中兄ちゃんは若く、わたしと五つ年の差がありました。コウ中兄ちゃんは、わたしが生まれるところを見たそうです。

「見たっていうより、おれ、家族のなかで背が一番低かっただろ? お前のお産よりも窓の外のほうが見やすかったから、ずっと窓の景色を眺めてた。激しい雨が降り、ときどき雷が鳴った。緑の丘が見え、また緑の丘があって、今度は枯草色の丘が見え、高い山を越え、大きな橋があって、大きな川を渡っていたそのとき、雷が鳴って全部光って、お前の丸い裸もきらきら光って、それからお前の産声がしたんだよ」

 コウ中兄ちゃんが元気だったときはわたしより走るのが早く、力が強く、背が高かったのです。それが病気にかかったら途端に貧弱していきました。ついこの間まで元気だったのに、病気で衰弱してあっけなく死にました。手も足も背も縮んで、わたしより小さいと思いました。昨日まで艶々の馬車馬のように元気に健康に動いていた人が、青蝿という魂が抜け、身体が萎み縮んで、死んで動かなくなります。暖かかった人の肌も、やがて冷たくなります。人は弱いもので、誰でもいつか死ぬのです。

 この違いはいったいなんでしょうか。

 おばあが死んでも、コウ中兄ちゃんが死んでも、死は死でしかありません。おばあやコウ中兄ちゃんは、死んだらどこへ行くのでしょうか。わたしがもし死んだら、魂はいったいどこに行くのでしょうか。わたしはどうなってしまうのでしょうか。考えてもよくわかりませんでした。

 おばあもコウ中兄ちゃんも、死ぬときは怖くなかったのでしょうか。わたしは死ぬのがとても怖いです。いま生きているわたしがわたしでなくなるのですから、わたしが死んだ後は、想像がつきません。想像するのが怖いのです。いまこの世に存在するけれども、死んだ後はこの世にいない。だれもわたしのことを覚えていない。ならばわたしがおばあを、コウ中兄ちゃんをずっとずっと覚えていよう、いつも忘れずにいよう。

 おばあも、コウ中兄ちゃんも死にました。みな血はつながっていますが他人です。他人の死。身内でありながらも、人間は自分の死を死なない。生きている人はいつも他人の死を経験します。自分の死を死んだとき、本当の死が訪れるのでしょうか。それとも気を失っているのでしょうか。気を失ったということは、生きていて目覚めたときにこうなるのです。死んだらもう永久に目が覚めません。永遠に明けない真夜中を眠るのです。生きているわたしたちは気を失うことや、死を経験できないのです。

 おとうとスン大兄ちゃんは二人の遺体を運び、川へ流しました。わたしはおばあにななつの涙をこぼし、コウ中兄ちゃんにもななつの涙をこぼしました。

「二人とも魚になって、いつか朝鮮の土地にたどり着けるといい。魚になれば水のなかをどこまでも自由に泳げる。日本の国土はオレたち朝鮮人の身体を焼くところも埋めるところもないし、オレたちも埋められたくないから、魚になって自由になれ」


 スン大兄ちゃん、コウ中兄ちゃん、ヒョン小兄ちゃん、この三兄弟は笑い話がありました。生まれた順と背の順が逆だったのです。一番高いのがヒョン小兄ちゃんで、真んなかのがコウ中兄ちゃん、一番背が低いのがスン大兄ちゃんです。三人が通りを歩いていたら、他の組の親分は必ず気の弱いヒョン小兄ちゃんにケンカを売り、いつの間にかスン大兄ちゃんがケンカを買っているという始末でした。背の高さ、偉さ、責任感の高さは一致しません。なのに、男同士の縄張り争い的なケンカでは、背の高いヒョン小兄ちゃんが必ずケンカを売られ、売る権利も買う権利もヒョン小兄ちゃんにはまったくないのに、敵は背の高さで決めつけるというのです。ひょろっと背の高いヒョン小兄ちゃんがケンカを売られて狼狽えてるのに、背のちびっこいスン大兄ちゃんが敵の背中にかぶりつき、何かを大声で怒鳴っていました。スン大兄ちゃんはケンカっぱやくて勝ち気で頼りがいがありますが、ヒョン小兄ちゃんはケンカがあまり好きではありません。どちらかというと平和主義者で、争いごとが苦手でした。

 あるとき、スン大兄ちゃんは血だらけで鼻と歯が折れ、スッチャ大姉ちゃんは泣きながら家に帰りました。スッチャ大姉ちゃんの服は引きちぎられていました。二人ともまだ十代で、生きる準備や覚悟も何もせず、唐突に人生が始まるのです、右も左もわからずに。それでもまだ彼らは朝鮮人が差別される職場へ黙って行き続けました。傷つけられても逞しく、いつも前を向いて、毎日同じことを繰り返しました。おかあもおとうもそれを見て何も言いませんでした。四人とも哀しみを堪えているように見えました。そう、沈黙。

 わたしたちは、日本という土地に生きながら葬られているのでしょうか。

 ヨンジェ小姉ちゃんは、哀しみに沈んでいるわたしにそっと朝鮮飴の飴玉をくれました。口に頬ばると、甘い甘い飴玉が美味しくてしかたありませんでした。少ない賃金でしたから、ヨンジェ小姉ちゃんはそうそう飴玉を買えませんでしたが、甘くて美味しい飴玉の味を、わたしにも教えてくれました。飴玉もなく哀しいときは、想像の飴玉を口いっぱいに頬ばります。甘い甘い飴玉が口のなかに広がって、わたしは幸せになり、この世の哀しみを全部掬って忘れさせたのです。

 わたしにもいつか苛酷な労働が待っていると思うと、やり場のなさを感じます。しかし、少ない賃金で何を買おうかと思うと、ヨンジェ小姉ちゃんのように飴玉を買って、口に頬ばるのです。それは厳しい労働のわずかなわずかな褒美でした。わたしだけの、ひそかな楽しみでした。

 生活の場は変わるけれども、生活態度は変わらないだろうと、家族たちは信じていました。なぜなら最初から貧しかったから、慎ましく、欲は少なく、毎日畑で作業して、家族で食べられる分だけ収穫し、残りは来年にとっておく。春夏秋冬を樹々などの植物が豊かで静かに美しく変化するように、素朴に生きている人間も同じように豊かで静かに美しく生きていこう、と信じていました。

 ただ、時代と環境の変化が良くなかったのでした。「自分たちは貧しい。いまは貧しいけれども、いつか豊かになって幸せになる」と家族は思っていましたが、日本人は最初から「朝鮮人は頭が悪くて下品で卑しい連中だ」と色眼鏡で見て思っていたようです。それが、わたしにも家族にもよくわかりませんでした。日本人はどうして朝鮮人を差別するのでしょうか。その理由が「日本人だから」でしょうか。わたしたち朝鮮人を「よそ者」だと思っていたのでしょうか。だったらなぜ、朝鮮人の土地を奪って流浪の民にしたのでしょうか。どういう考えから、他の国を侵略したり植民地にするのかまったくわかりませんでした。すでに自分の土地があるのに、さらに他人の土地を金を食料を奪っていく。それは泥棒と同じことです。

 人間はみな平等で公平です。人種や民族により優劣など起こりません。なぜ、「日本人は朝鮮人よりも優秀だ」と言えるのでしょうか。暴力で国を制圧できたら、優秀だと言えるのでしょうか。もしかしたら、日本人は頭がどうかしているのではないでしょうか。逆の立場だったらどうなのでしょうか。


「…明日は風が強いね…そうよ…私にはわかるの…ふふ…」

 わたしはスッチャ大姉ちゃんの囁き声を聞いて目ざめました。いつからかわかりませんが、スッチャ大姉ちゃんは夢を見ながら狭くて薄暗い家のなかをうろうろし、ときどきおしゃべりをしました。どうやら夢遊病らしく、夢占いができるそうです(スッチャ大姉ちゃんの夢のつぶやきは明日になれば現実とわかります)。おとうとおかあがスッチャ大姉ちゃんを布団に戻して寝かせました。夢を見ている人に話しかけると夢のなかから出てこられないという迷信がありましたので、おとうとおかあは黙っていました。スッチャ大姉ちゃんは予知夢を見ているようでした。

「…助けて…助けて…苦しい、熱い…息ができない…みんな逃げて…」

 うなされるような夢も、楽しそうに笑う夢もあったようです。スッチャ大姉ちゃんがおしゃべりをすると夢の内容がわかりましたが、朝起きても、スッチャ大姉ちゃんは夢の内容をほとんど覚えていませんでした。高いところから落下する夢や、体中ドブネズミがはいずる夢、五本の指が蛇になる夢などは、そばで聞いているだけで恐ろしいとみな思いました。スッチャ大姉ちゃんの容姿はとても綺麗でしたが、心のなかは底知れぬ恐ろしい何かがありました。

 ヨンジェ小姉ちゃんは飴玉をひとつ持ち出して、眠っているスッチャ大姉ちゃんの口に入れました。それまで険しい顔をしたスッチャ大姉ちゃんは、口のなかをむぐむぐしながら表情が和らいでいくようでした。こんなふうに誰かが悪夢を見ると、そばの人が見守っていて、飴玉をひとつ口にほおりこんでくれる。スッチャ大姉ちゃんとヨンジェ小姉ちゃんと飴玉の関係が、羨ましくてたまりませんでした。

 ヒョン小兄ちゃんは、大きくなっても寝小便が治りませんでした。寝る前に厠へ行っても朝になると服が濡れていたので、おとうやおかあが叱っても治りようがありませんでしたし、わたしたちも馬鹿にしませんでした。ヒョン小兄ちゃんはひじょうに無口で、家にいても工場でも、ひとりで壁に向かって何かをぶつぶつ呟いたり、干からびたダンゴムシをいつも見つめていました。繊細な心の持ち主だったのです。

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