7−3 信頼

 エイダンはゆっくりと椅子にかけ、ひたいに手を当ててあさく息を吐いた。


 頭がこんがらがっている。考える時間が必要だ。

 なにもかもが、突然すぎる。


「なんで……だまってた?」


 やっとのことでエイダンがきくと、ノラはつばを飲み込み、目を閉じた。


「言う必要が、ないと思った」


 ノラは涙声だった。けれど涙をこぼさぬよう、必死にこらえていた。こんなときでも怒鳴らない夫に感謝しながら、同時に罪悪感におそわれながら、必死にこらえた。


 自分に泣く資格などない。


「いくらペトスコスが私たちを自由の身にしたいと願っていても、この国では許されない。首輪のないケルティス人がどうなるか、想像つくでしょう? 一日以上、生き延びていられるかどうか。私、泣いて頼んだの。私をあなたの奴隷にしていてくださいって。せめてそう見えるようにしていてくださいって。それで、ペトスコスは私たちを雇ってくれていたの。住みこみで働けるよう、取りはからってくれていた。王さまの命令がある前から、彼はひとりで実践していた。私たちを人間として尊重してくれていたのよ」


 ノラはうつむき、しぼり出すように言った。


「でも、あの人は……なんにもわかってなかった。いくら奴隷じゃないと言われたって、だからどうだというの? おなじことよ。どうせ私たちには自由がない。この家を去って好きに生きる選択肢なんてなかったんだから。そんなの、本当に自由だなんて言える? ただの言葉遊びだわ。私たちは奴隷とおなじ。いくらペトスコスが体裁を整えたって、彼ひとりがどんなに手を尽くしたって、なんにも変わらない。だから、あなたやシャンにはこのことを言わないでほしいって、ペトスコスに頼んでいたのよ。実態がともなわないことを教えて、あなたたちを混乱させないでくれって」


「混乱……?」


 エイダンは、はじめてふっと、笑みをこぼした。

 ノラがうつむき、くちびるをかみしめる。


「混乱するわ。だってそうでしょう。かん違いする。本当は自由じゃないのに、自分は自由だなんて思いこんだりしたら、どこかでかならずひどい目にあうわ」


「ノラ……それはうそだろ」


 エイダンは首をふり、ノラに向かって身を乗りだした。


「わかってるだろ、ノラ。本当は……おれを信じてないだけだって」

「ちがうわ!」


 ノラはぱっと顔をあげた。


「私は……あなたをだれより、愛してるのよ!」

「知ってるよ」


 エイダンはやさしく言った。


「でもきみは、おれを信じてくれない。何年たっても」

「ちがう。ちがうの」


 ノラは必死で首をふった。けれどエイダンにはわかっていた。


 彼女は自分自身に、うそをつく。


 エイダンは泣きたかった。怒鳴りたかった。なげきたかった。


「なら、なんで……」

 エイダンはか細い声で笑った。


「十日もたって、はじめてカギを取り出すんだよ……」


「……ごめんなさい」

 ノラは両手に顔を埋め……泣いた。


 ああ、ノラ。エイダンは思った。

 おれが泣きたいよ。


 けど、泣けない。泣いたら、怒ったら、なげいたら、ますます彼女はエイダンをおそれる。彼の愛の不在を確信する。そうして……耐えられなくなってしまうだろう。


 エイダンは悲しかった。


 彼女はこれっぽっちも、自分を信じてくれない。


 結婚して十年もたつのに、いまだに若いころの恋愛を引きずっている。


 そりゃ、はじめは衝動的だった。ノラに命を救われて、感謝でいっぱいで、彼女に必死で愛をささやいた。当時から本物の愛だったかと問われれば、否定せざるをえない。


 当時、エイダンは心の内で後悔していた。本当は一緒になりたかったほかの女を何度も思い浮かべた。ノラをだきながら思い返したことも、一度や二度ではない。あとで罪悪感にかられ、苦しんだことも、一度や二度ではない。


 けれど、エイダンだって人間だ。


 いつまでもくよくよと考えているほど仕事はひまでなかったし、はじめてノラが妊娠したときは、心から喜びに満たされた。


 ノラがどんどん愛しくなった。ノラとどんどん親密になった。出産に立ちあって、彼女がその小柄な体でやっと子どもを産んだとき、自分を恥じもした。


 ペトスコスの恩返しのためにたくさん子どもを作ろうなどと、よく言えたものだ。命をかけるのはノラなのに。自分もノラを利用して、所有物のようにあつかっていたことに、はじめて気づいた。


 奴隷制を利用して、ノラがエイダンを手に入れた? それを言うなら、エイダンだっておなじだ。お互いがお互いをしばっている。それが結婚というものだと、はじめて気づいた。


 一緒にすごすうち、彼にだって愛情が芽生えていたのだ。ひとつ屋根の下に暮らしていれば、当たり前のこと。


 エイダンはノラを愛していた。彼女がいくら信じてくれなくても、エイダンは愛を伝えつづけていたつもりだ。きっかけがどうであれ、愛は生まれるのだと、彼女に知らせつづけていたつもりだ。


 けれど、彼女はなんとしても。

 彼を信じてくれない。


 悲しい。

 むなしい。

 さみしい。


 離縁をおそれるのは、子どもたちを手放したくないからではない。


 ノラを愛していたからだ。


 いとおしかった。はなれたくなかった。


 たとえ許せない仕打ちを受けても、ずっと一緒にいたかった。ふたりが死んで、死の国に旅立っても、そこでもいっしょになりたかった。


 そのためなら、なんだってする。感情をおさえる。結婚生活をつづけるには、忍耐がいちばん重要なことだと、しんじていた。


 エイダンは手を伸ばし、カギをつかんで自分の首輪のカギ穴にさしこんだ。


 すぐにはうまくはまらなかった。手こずったすえに、彼は首輪を外した。そのあいだ、ノラはずっと泣いていた。ごとりと、彼の首輪が食卓におかれる。彼は立ちあがり、ノラの首輪を外しにかかった。


 彼女が自分を信じてくれたら。


 愛されないことよりも、愛している人が信じてくれないことのほうが、ずっとつらい。


 がちゃりとカギが外れ、ノラはしずかに泣きつづけた。重い首輪を食卓に置いて、カギをその横にならべ、エイダンは座ったままのノラをだきしめた。


「ノラ。キスしてくれ」


 泣きながら、彼女が首をふる。


 別れの挨拶だとでも思っているのだろうか。本当に彼女は、はじめからずっと、エイダンに捨てられることばかりおそれている。そんなわけないのに。むしろ彼はずっと、ノラに捨てられることばかりおそれてきたのに。


 惚れたほうが負け。テリ人の使う言葉だ。


 だが、お互いが自分こそ負けだと思っている場合は、どちらが勝つのだろう?


「ねえ、ノラ。キスしよう。お願い。キスして」


 エイダンはやさしくノラの手を顔から外し、かがみこんでキスをした。


 ノラがキスを返した。エイダンに応えるように、いや、それ以上に情熱的に、獲物を狩る動物のように、エイダンを求めた。逃げやしないよと、エイダンは心の内で笑った。ずっとそばにいる。だからいい加減、信じてほしい。


 ろうそくの炎が風に消えて、ふたりを闇にかくした。

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接ぎ木の系図 みりあむ @Miryam

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