7−2 飾りの首輪

 エイダンはその日の夜遅くに戻った。


 そっと玄関をあけ、ドアをしめて、ふたたびカギをかける。


 子どもたちとノラを起こさないよう、こっそり歩いた。が、中庭に足を踏み入れる前に、食堂でろうそくの灯がちらちら揺れていることに気がついた。


 ノラが起きて、自分の帰りを待っている。


 エイダンは重いため息をついた。


 昼間の言動を、彼は後悔していた。


 ノラにあんな言い方をするべきではなかった。いくらあの場では頭に血が上ってしまったとはいえ――感情をおさえるべきだった。結婚生活や育児において、忍耐がいちばん大事なことだと、よく言うではないか?


 エイダンはあせっていたのだ。青銅の首輪をはめている同胞は、いまやほとんどいない。そこへ、ケルヌンが声をかけてきた。


 いい鍛冶屋を紹介する。なあに、主人のカギがなくたって、首に傷ひとつつけずに首輪を外してくれるさ。その代わり、トートをおれの知り合いに紹介させてくれないか? もしかしたら巫女さまの森に連れて行かれるかもしれないが、まあ、トートが“呪われた者”のはずもない。間違いだとわかればすぐに帰ってこられるんだ、なくすものなんてないだろう。ちょっと平原区に行って、帰ってくるだけだ。


 悪くない話だと思った。


 ケルヌンはいい奴だ――ちょっと強引なところもあるが、基本的には信用している。人をだませるような人間ではない。彼の主人は最悪だったが、ケルヌン自体とは気があうし、幾度か飲みに行ったこともある。


 それに、いやな疑念ははっきり否定しておきたい、とも思った。


 トートがもしかしたら呪われた者かもしれない、などと考えながら、この先もなに食わぬ顔をして暮らしていく?


 想像しただけで気が滅入る。


 エイダンは本来、小難しいことはあまり考えずに、できるだけ気楽に生きていきたいと考えるたちだった。


 ケルティス人の多くは、今回のことを“変化のとき”と信じてうたがわない。エイダンだってそう思う。予言についてまことしやかにうわさが流れるのは止めようのないことだ。


 自分たちが知らないふりをしたとしても、人びとはいちいちトートを色眼鏡で見るようになるだろう。ならばトートのためにも、できるだけはやく神聖な森へ連れて行ったほうがいい。トートの潔白を証明するのだ。彼は真実、精霊に祝福された者なのだとはっきりさせて、気楽に生きていきたいのだ。


 個人的なことを言えば、エイダンだって森へ行き、此度の王の命令について、精霊に感謝の祈りをささげたい。


 妻はこの家をはなれ、森のそばへ居を移すつもりはない。エイダンはうすうすわかっていた。だったら、せめて巡礼に出向きたかった。トートの件は、遠出の言い訳にもなると思った。


 もちろん、ノラはいい顔をしないだろうともわかっていた。


 ノラは最近、同胞に対して警戒心をいだいている。


 ぴりぴりしているのは、妻にかぎった話ではないけれど。


 だからエイダンは、ノラがいない時間帯をねらってケルヌンを家に呼んだ。トートの様子を見せ、森へ行くための算段を話し合っておくために。


 だが……ケルヌンがあんなに大勢を連れてくるとは思わなかった。


 おそらく人づてに、ノラのところへうわさが流れてしまったのだろう。かかわる人間が多くなるほど、口に戸は立てられない。



 エイダンは重い足を引きずって中庭を横切り、食堂へ入った。


 食卓についていたノラが目をあげて、ふたたび目を落とす。エイダンはだまって向かいに腰をおろした。


 重苦しい沈黙が流れた。


「昼間は、ごめん」

 エイダンは謝った。


 心の底から。


「本気じゃなかった。本当にごめん。トートのことも……よく話し合って、相談するべきだった」

「…………」


 ノラは答えない。


 いつもなら、ノラは怒るとおしゃべりになる。どうでもいいような過去の事例まで持ち出して、あなたはいつもそう、と責め立てて、相手の謝罪に次ぐ謝罪をきくまで納得しない。


 だというのに、今日のノラはやけに静かだ。


「ノラがおれを手に入れたとか、そんなことは思ってないよ。本当だ。ノラ、君のことは愛してる。シャンもトートも、アズマイラも、おれにとってはみんな大切な子どもたちだ。裏切るつもりはないんだ。信じてくれ」


「……あなたはいつも、いい夫だった」


 ノラは自分のひざを見おろし、ぽつりと言った。


 いつもの饒舌な責め立てがはじまるかと、エイダンは身がまえた。


「あなたはいつも……いい父親だった」


 エイダンは拍子抜けした。


 ノラがうつむいて、それ以上言葉をつむがなくなってしまったから。


「……君もいい妻だし、いい母親だよ、ノラ」

 ノラは首をふった。


 いつもの妻ではない。思いつめて、いまにも身投げしそうな顔をしている。


 エイダンが、彼女のいちばん言われたくないことを言ったから。タブーを知っていたのに、エイダンはそれを踏み抜いた。冷や汗が出るのを感じた。取り戻したいと思った。一度口から出た言葉は取り返せないけれど、それでも。


「ノラ、おれはこれからもいい夫で、いい父親でいたいと思ってる。本当だ。信じてくれ」


「私は信じてるわ。あなたのことを愛してるのは、私のほう」


 エイダンは首をふった。

 ちがう。そうじゃない。


「ノラ……おれだって、」

「だけど……あなたに、話さないといけないことがある」

「ノラ!」


 エイダンは思わずさけんだ。


「おれはきみとずっと一緒にいたい! 許してくれ、たのむ。あの子たちの父親でいさせてほしいんだ、これからも……!」


 ノラは、はじめてエイダンをまじまじと見た。

 そして、困ったようにかすかに笑う。


「私が、あなたに離縁を申し込むとでも思ってるの?」

「……ちがうの?」


 ケルティス人はテリ人とちがい、母系の文化だ。子どもは基本的に母親のものであり、結婚も女が主体となる。妻から離縁を告げられれば夫は断れないし、子どもたちは問答無用で母につく。もしもノラがそれを決意すれば、エイダンはひとり、放り出される。奴隷制のなくなったいま、エイダンを守ってくれる主人もいない。


 だが、ノラはゆっくりと首をふった。

「そんなこと、しない」


 かすかに安堵したのもつかの間だった。ノラは食卓の下から手を出すと、ごとり、重いものをそこに置いた。エイダンはそれを見て――離縁を告げられるとかん違いしたときよりも強く反応した。


 がたんと立ち上がり、それを見つめる。

「……これは?」


 目を白黒させてノラを見た。ノラはつらそうにそれを見つめていた。


 ノラの返事をきかずともわかる。


 カギだった。

 青銅のカギ。


 ペトスコスがつねに携帯しているはずの、奴隷のカギ。


「なんで……どこに……?」


 エイダンはノラを見た。その顔つきを見て、ある答えにたどり着く。

「……持ってたのか?」


 ふるえる声で言った。自分の目が信じられなかった。

 自分の妻のことも。


「持ってた……? は……? いつから?」

「ずっと、持ってた」


 ノラは小さな声で答えた。

 彼女はふるえていた。


「ネフェルトが死んでから。私の主人は……ネフェルトひとりだった。私はペトスコスの奴隷じゃないの。彼女が死んだとき、ペトスコスが相続を放棄したのよ。つまり……そのときから、私はだれの所有物でもなくなったの」


 エイダンは混乱をおさえようと努力した。ならば、と言葉をひねり出す。


「きみの、所有者がいないということは……おれは……?」


「あなたは私の夫だから、私とおなじ立場よ。お金を出して買ったのはペトスコスでも、名義は妻だった。あなたの主人はずっとネフェルトだったの。だから……私たちは、だれの奴隷でもないの。ネフェルトの死後、ずっと。私たち夫婦も、シャンもトートも。だれも、ペトスコスの所有物じゃなかった」


 エイダンはカギを見おろし、くちびるをわななかせながら、妻を見た。


「奴隷じゃ……なかった?」


 ノラはうなずき、ゆっくりと夫を見あげた。

 口をあけ、蚊の鳴くような声でささやいた。


「……ごめんなさい……」

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