7 恋をした奴隷
7−1 決意
「ノラ。キスしよう。キスしてくれ」
ノラは昨日のことのように思い出せる。
エイダンがペトスコスの家にやってきて、彼の傷を手当てした日のことを。
その姿を見たとき、ノラは涙が止まらなくなった。
健康的で朗らかなエイダンは見る影もなかった。傷が膿み、炎症をおこしてあちこち腫れあがり、肌が紫や黄色やオレンジ色になっていた。腕には一生消えない罪人の烙印を押され、体全体が熱を持って、死にかけていた。
泣きながら、それでもできることを献身的に、ノラは看病した。
ケルティス人は薬草の調合に長けており、木や草や果実の力でほとんどのことを解決してきた。だから、ノラもやるべきことは心得ていた。準備もできるかぎりしていた。軟膏を塗り、布を当て、患部を丁寧にぬぐった。それでも、ときどき手が止まって、息が苦しくなるのをおさえられなかった。
愛する人が傷つき弱っている姿に、心の底から動揺していた。こんなことをしたテリ人たちに怒りを覚えた。よくも、よくもこんなことをと、見も知らぬ人間たちを呪い殺したくてたまらなかった。
「ノラ。結婚しよう。愛してる。子どもを作ろう。ふたりの子どもを……」
「エイダン、だまって。お願いだから、いまは寝て」
そう言って寝台に横にさせるのに、エイダンはあきらめの悪い子どものように起きあがろうとし、ノラに向かって手を伸ばす。ノラの手を、髪を、うなじをさわろうとする。
そのたび、ノラは彼の手をもとの位置に戻し、エイダンの体をそっとふき、薬草を煮出した汁をひたした布を患部にあてた。ノラがなんとか集中しようとするあいまにも、エイダンは愛の言葉をささやきつづけた。
「いっしょに寝よう。ノラ、たのむ。きみのことが好きなんだ」
「……だまって、エイダン」
「子どもが欲しいんだ、きみとの子どもが。ねえ、ノラ、いいだろ?」
「…………」
「ノラ、お願いだ。やさしくするから……」
「……月のものが、あるから。今日はだめなの」
エイダンはぴくりと手をこわばらせた。
「……そっか……」
うそだった。
けれど、そう言わなければあきらめてくれないほど、彼はあせっていた。
エイダンはノラに捨てられることを心からおそれていた。
いちど姦淫の烙印を押された奴隷は、売り払われたら終わりだ。手放されたら終わり。だから必死だったのだろう。
ノラが気を変えないうちに子どもを作りたいのだ。ノラが愛してくれているうちに子どもを作ろうとしている。ペトスコスが気に入ってくれているうちに。なにもかもが手遅れにならないうちに、彼女と既成事実を作ろうとしている。
それがわかるから、つらかった。
エイダンにせまられて、エイダンに好意を告げられて、うれしくないわけがない。ノラは心がかき乱されるほど興奮していた。こんな幸運が自分にふりかかるなんて、信じられなかった。
いちどは、ぜったいにむりだとあきらめていた相手。
エイダンがほかの女性と恋仲になっていることは知っていた。いつも彼女は遠くから見つめることしかできなかった。愛していたのに、いや、愛していたからこそ、彼に愛されることはないと思い知らされてきた。
彼をおさえる? あべこべだ。
必死におさえつけていたのは、自分だった。
エイダンとキスをしたい。エイダンのくちびるに触れたい。彼の髪を肌に感じ、彼の肌に指をはわせ、だきしめ、素肌をあわせて、彼のすべてを愛したい。自分のすべてをエイダンに捧げ、動物的な悦びにひたりたい。
恋いこがれていた人が目の前にいて、手を伸ばせばだきしめられる。けれど、いまノラが欲望のままに彼をだいたら、エイダンは本当に死んでしまう。
心の底ではわかっていた。
彼は自分など愛していない。
命を取りとめて、酔っているだけ。
ツタでできた酒を飲んだように、酔ってわれを見失っているだけ。
ゆっくりと宿主の息の根を止めるツタ。ツタの酒を飲んだ者は正体を失い、男も女も子どもも魔物も、邪魔する者はだれかれかまわず引きさいてまわるという。
その酒を与えたのはノラだ。
熱に浮かされ、眠ってしまった彼の手のひらに口づけしながら、ノラは涙をこぼした。
彼はいずれ、酔いからさめる。
本当は、ノラを愛していなかったことを思い出す。
それでもいいと思った。
かまわない。せめていまだけ。
刹那の欲望に、ノラは足をすくわれることを自ら選んだ。
いつか、彼の心がはなれていくことを――そもそも心ははじめからはなれていたことを――思い知らされるとしても、かまわなかった。
罰を受ける覚悟はできていたはずだ。
なのにノラはためらっていた。にぎりしめた幸運を手放すことにおびえていた。この期に及んで。
恋は、人を欲望の罠にかける。
どんな誠実な人間も、欲深い魔物にしてしまう。
愛するあまり、人を縛りつけ、はなさない。
所有欲に取りつかれ、愛する人を自分の奴隷としてしまうのだ。
だが。
王は、すべての奴隷を解放すると言った。
ならばノラも、エイダンを解放しなければならない。
彼を、自由にしなければならない。
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