第7話

 晴菜は保健室から出ると、風の中に声を聞いた。何を言っているのか分からないが、必死に自分を呼んでいるように思えた。


(だれ?)



 瑛翔は震えていた。もう、だめだと思った。これほどの苦しさは経験がなかった。助けも呼べず、意識が薄れるなか女の子の姿が目に浮かぶ。呼吸が楽になった。背中から温かい安らぎを感じた。


「神田さん、大丈夫ですか」


 瑛翔の目に晴菜が呼びかける姿が映る。晴菜の声一つ、手の温もり一つが瑛翔を呼び覚ましていく。晴菜は瑛翔を抱き起こした。


「落ち着きましたか?」


 晴菜の手を握り瑛翔は頷いた。発作はピタリと治まった。どんな薬を飲んでも得られない安らいだ気持ちだ。


(このときしかない)


 晴菜の手を取ると位置をスルリト入れ替えた。晴菜が瑛翔に抱き起こされている姿勢になる。瑛翔の瞳が晴菜を包み込む。王子様に抱き上げられるお姫様のような姿。腕の中のお姫様に瑛翔は言葉をかける。


「ずっと、おまえが好きだった」


(いまなんて言った?私をからかってる?ちょっ、その目マジ!)


 予想もしない言葉に晴菜は固まった。瑛翔はそのまま晴菜を抱きしめた。

 本気なのか芝居なのか。晴菜には瑛翔の行動が理解できなかったが、心は平静のままだ。固まった身体の呪縛は解けた。

 

「ずっと、思っていた。そしてこれからも」


 瑛翔は晴菜を見つめるとそのままキスをする。唇が触れる寸前。


 パーーーーーン!


 頬を押さえる瑛翔を見る晴菜の目は怒っていた。感情的な怒りではなく包むような怒り。瑛翔はその晴菜のオーラに飲み込まれていた。


「バカにするな」


 晴菜の声が校舎を突き抜けていく。瑛翔はその姿に目を奪われた。


「ちょっと踏み込めば落ちると思ったわけ。こんな奴なら面白いと思った?どんなに凄いアイドルか知らないけど、おあいにくさま。私は・・・・・・興味ないから」


 晴菜がスルリと背を向けた。


『演劇部の部員を圧倒した』


 栄子の言葉が思い浮かんだ。


 瑛翔は晴菜の放つオーラを瞬時に掴んだ。


(支配されている。この場はこいつが主導権を握っている。なら乗らせてもらう)


「待てよ。ハンカチ。本当に憶えてないのか」

「ハンカチ?リッキーの」


 晴菜が足を止め、背を向けたまま答えた。瑛翔はその背に頷いた。


「オーディションを受けたときだ。順番に一人、一人呼ばれ、オーディションを受けに行く。小さな俺には怖かった。怖くて、逃げたくて。それでも我慢していた。そのせいで、咳が止まらなくなった。苦しくて声も出せず、呼吸まで止まりそうになった。もう、だめだと思った」


 瑛翔の声に晴菜の肩がかすかに震える。


「苦しむ俺に女の子が背中を撫でてくれた。不思議だった。その子が優しく撫でてくれただけで、息が楽になり、咳が止まった。その子は優しい言葉と一緒にハンカチを差し出した。その子の名前が呼ばれた。名前を呼ばれているのに、その子は離れようとしなかった。何度目かに呼ばれたとき、扉へと向かった。出て行く間際、優しい笑顔だった。そのときから、ずっと俺の心にはその子がいた。呼ばれた名前は、宮島晴菜。絶対に忘れるものか!」


 瑛翔は晴菜の腕を掴み引き寄せた。晴菜は顔を背けたままでいる。

晴菜の頭の中に抜け落ちていた記憶の破片が埋まっていく。忘れたはずの記憶が蘇った。その瞬間、涙が溢れてきた。


(だめだ、私。なにも憶えてないから今まで平気でいられたのに。全部思い出した。いま、こいつの顔を見たら私は平気じゃなくなる。どうすればいい。そう、あのときと同じに)


 晴菜は顔を背けたままでいる。


「私、いま思い出したの。ずっと、忘れていた。オーディションを受けたときのこと。私が不合格になった理由。それは、台詞を一言も言わなかったから。忘れたんじゃない。ずっと、男の子が気になっていたから。「大丈夫かな」って気になってたから。ほんとバカだよね~」

 

 晴菜は精一杯の笑顔で振り向いた。その顔は扉を出て行く女の子の顔だった。瑛翔は晴菜を抱きしめた。


「もう一度言う。俺はお前が好きだ。だから、俺はお前のオーディションを受ける。相応しい男かお前が決めろ。もう、ぶたれるのはごめんだからな」


 瑛翔が優しく頬にキスをした。


(私、身体が動かない)

 

 不思議そうな顔をする晴菜を瑛翔は笑って見つめた。


「ところで、今日、弁当ある?朝から何も食べてないんだ」

「えっ、食べる気満々なの?」


 瑛翔はウンウンと頷いた。


 演劇の幕が下りるように4時間目終了のチャイムが校舎に鳴り響いていた。


               (了)

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アンスタ(代役)は冷めたキッスがお気に入り 水野 文 @ein4611

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