第2話



 おばさんの呼んだタクシーに乗り、連れて行かれたのは街の大きな総合病院だった。受付でおばさんが話をすると、救急外来と言う場所を教えられ、受付の人が案内してくれる。曲がりくねった通路を幾つも進んだ先には、忙しなく人が動き回り、ふと見ると警察官や白衣を着た人が立ち話をしている。そんな中、受付の人が警官の一人に声を掛けると、その人はこちらに近づき、おばさんに声を掛けてきた。


「えぇと、藤堂さんの……?」

「近所に住む知り合いです! 深雪さんのパート仲間で、会社から連絡が来て――」



 ――なんだコレ? どこなんだココ? おばさんは何を一杯話してルンダ? お母さんは? お母さんドコ? ねぇ、おまわりさん。お母さんは――。


 まるで現実感が伴わない。夢の中にいるようだった……。見上げた先で大人たちが色んな難しい話をし、誰も僕とは目を合わせない。周りに人はたくさんいるが、何時しか声は唯の雑音になり、白い床と薄い水色の壁で統一された通路の真ん中で、一人ぽつんと立っている。


 頭の中は真っ白だった。……母が事故に遭った事は聞いた。スーパーでのパートを終え、自宅に戻る最中、国道の交差点で信号待ちをしている時に車同士の事故が起き、その1台が母の居る歩道に突っ込んだと言う。状況のみが説明され、肝心の母の容態は分からない。だから運ばれたここへ急いで来たというのに、誰も母に会わせてくれず、皆あちこちで話をするばかり。


 お母さん! お母さんはどこ?! お母さんに会わせてよ!!


 気持ちが動転し、頭の中がそれで一杯になった時、背後から駆け寄る足音がした。



「拓馬!」



 その人は、慌てて来たことが分かる格好をしていた。ボサボサの整えられていない髪のまま、着古したマスタードカラーのスーツはれ、ワイシャツはだらし無く半分ほどがはみ出している。スリッパのようなサンダルを履き、ネクタイは緩めたままで、掛けた眼鏡をずらしたまま、息も絶え絶えに駆け込んできた。


「お父さん!」


 その言葉に、今まで僕の存在を無視して話をしていた皆が、一斉にそちらを見やる。父はそんな人達を見向きもせずに、走り込んできたそのままに俺をキツく抱きしめた。


「大丈夫だ! お父さんが来た、もう大丈夫」


 そう言われた途端、今まで張り詰めていた何かがプツンと切れた。一気に溢れた感情で、嗚咽というよりも慟哭が。激情のままに溢れる涙で前は見えず、ただただ息も出来なくなるほどに大声で泣いた。父はそんな僕の背中をずっと擦りながら、「大丈夫、もう大丈夫」と声を掛け続け、そのまま意識を失うまでずっと抱きしめてくれていた。



『――拓、拓ちゃん。そろそろ起きて』


 んんぅ……お母さん、もうちょっと……。


『……もう、起きないとお母さん行っちゃうよ。だから、起きて。ね、お願い』


 ……え? 行くってどこ?


「深雪! 深雪! 逝くな! 拓馬を置いていくな!」


 声が聞こえ、慌てて目を覚ますと、目の前には人集りが出来ていた。白衣を着た人達がベッドに集まり、ピコピコと電子音がけたたましい。何人かの人に羽交い締めされた父がベッドに向かい喚きながら、人目も憚らず泣いていた。


 お母さん! 待って!


 本能が体を動かした。すぐさま椅子から飛び降りると、人の合間をすり抜けベッドにしがみつく。対面では母の胸を必死に押している人が「藤堂さん! 頑張って! 息子さんが来たよ! おい! 酸素もっと――」と叫んでいる。顔や至るところに血がこびりつき、頬には大きな傷が付いている。そんな母を見た瞬間、周りの音が全て消えた。


『……拓ちゃん、やっと起きてくれた……。ずっと起こしていたのに、寝坊助さんは治らないねぇ』


 薄っすらと開いた目でこちらを向き、口を僅かに震わせて、そんな言葉を聴かせてくれる。傍にあった腕が持ち上がり、手を彷徨わせると、僕の顔に指先がそっと触れた。


「お母さん! おかあさん! 嫌! 嫌だ! ねぇおかあさん!」


 言いたいことが、頭の中で渋滞し、口から出るのは、ただお母さんとだけ。触れた手を必死に掴み、溢れる涙をそのままに、ただただ、嫌だと駄々をこねる。


『……ごめんね。お母さんも嫌なんだけど……ちゃんと見てるから、見守っているから……ごめんなさい』


 そこまで聞こえた直後、周りの音が一気に戻ってくる。騒ぐ声、軋むベッドの音。けたたましい機械の警告音……。


 ……母は目を開けておらず、握ったと思った手はピクリとも動いていなかった。



◆  ◆  ◆



「……子供?」


 それは、母の通夜の際、両親やその家族が集まった場所で聞いた。


「えぇ、警察の話によると、交差点には深雪と小学生の子が、一緒に信号待ちをしていたそうです。事故が起きた瞬間、深雪はその子を庇う形で、突っ込んできた車の前に回り込んだようで……」


 その子は袋を抱えて、信号が変わるのを待っていたという。事故後、発見されたその袋にはカーネーションが一本、綺麗にラッピングされて入っていた。


「……母の日か」

「えぇ、それで同じ病院に運ばれて居たので、警察官が教えてくれたんですが――」


 その子は事故の傷以外にも、体中に打撲痕や痣が幾つも見つかったらしく、現在両親ともに事情を聞いているらしい。母親は挙動不審で、父親は横柄だった事から、どうやら父親が虐待を行っている可能性が高いと警察は踏んでいるそうだ。事故直後、病院に現れた母親は事情を聞いてこちらに感謝の挨拶をしたいと申し出たそうだが、父親が現れた途端、大人しくなり、警察も不穏な雰囲気を感じたために、わざとこちらには二人を会わせなかったらしい。


「……それで、その子の怪我の具合は?」

「どうやら、右足の骨折と、擦過傷程度だったそうです」

「じゃぁ、命の危険はないと」

「……えぇ。深雪がその子を抱きかかえるようにしたため、彼女がクッション代わりに……」

「そう……」




 ――当時の俺には理解できない話だった。ただ、母が救った子はその後、後遺症もなく無事に退院したという事だけは、母の1周忌の際、その子供の母の代理というおばさんから話を聞いた。


 警察の睨んだ通り、子供の父親はDVを二人に行っており、半ば追い詰められていた母は、男の言いなりだったという。子供はその母の連れ子であり、男と血の繋がりはなかった。普段はそこまで酷くはなかったが、酒を飲むと豹変する男だったという。今回の件で事が明るみに出たお陰で、正式に虐待と暴行の罪で男は塀の向こうへ送られ、離婚出来た彼女たちは現在、こことは違う場所で再出発を図っている。本来であれば、二人でこの場に来て感謝と謝罪を述べたいが、今はまだここに来るだけでも辛いため、代理人を寄越してすべての説明をさせて欲しいとの事だった。


「……二人は藤堂様に深く感謝しております。深雪様が身をていして救っていただいたお陰で、今の二人の生活がございます。いつか、必ずやこちらに伺い、お礼をさせていただきます。今暫く、どうか今しばらくご容赦下さい」


「……どうか、頭をお上げ下さい。妻はそんなつもりで子供さんを助けたわけでは無いと思いますから。別になにかして欲しいとも思っていません。うちにも同じ小学生の息子が居ます。……子供を助けるのに理由など無いでしょう。お気持ちだけ頂きます。そしてお伝え下さい「必ず幸せになってください」と」



 静かにそう言った父の背を見つめていた。



 その言葉を聞いたおばさんは俯き、ボロボロ泣きながら、何度も何度もありがとうございますと父の手をキツく握っていた。




◆  ◆  ◆



「――あの時のお義兄さん、カッコ良かったねぇ~」

「……今は唯の研究馬鹿になっちまったけどな」

「あははは。でもきちんと働いてくれてるんだから良いじゃない」


 父は俺が中学2年になった頃、論文でなにかの賞を受賞して教授になった。そこからは研究のためと言ってはあちこち飛び回る生活になり、それに伴い、俺も自活するために忙しい毎日になっていった。母の3回忌を終え、気持ちに一段落出来たことも有ったと思う。……決して忘れたわけじゃない。ただ、母の居ない生活を受け入れただけだ。毎日朝晩の挨拶は欠かさないし、日々の報告だって忘れない。いつまでも悲しんでいても母は喜ばないと思ったから。


 ――そうする事で想い出じゃなく、心の一部にしたかったんだ。


「……それで、肝心な話は? まさか父さんが戻ってくる事で、深酒してるわけじゃないんだろ?」


 俺の言葉に彼女はそれまで無理やり作っていた笑顔を「……変に鋭いやつは嫌い」と言ってそっぽを向く。また何を子どもっぽい事をと半分呆れて思っていると、彼女はその横顔のまま、小さく呟くように吐き出した。


「……二人、来るんだって」


 ――ドクン。


 思わずその言葉に身体が反応する。……今更と言う気持ちと、やっとかと思う気持ち。――前者は昔の思いを蘇らせたくなかったから、そして後者は……。そんな相反する気持ちが沸き上がった所で、更に混乱する話を雪乃おばさんは俺に告げてきた。



「驚かないで聞いてほしいんだけどさ。私も連絡貰って初めて知ったんだけど――」



◆  ◆  ◆



 その日の朝は放射冷却もあってか少し肌寒い朝だった。空は何処までも晴れ渡り、本当に雲ひとつ見当たらない。まだ早い時間もあってか、空には薄い月が見えている。法要が行われる寺は、街を遠く眼下に見下ろす山の中ほどに有り、母も其処に眠っている。親戚連中の車に便乗し、峠を登る最中、昨日戻った父が横で鼾をかきながら、気持ちよさそうに眠っている。肘で何度か小突いてみるが、全く反応を示さないので、運転している伯父さんに「すいません、昨日遅かったもので」と頭を下げると「良いよいいよ、事情は聞いているから」と笑って許してもらった。


 九十九折つづらおりになった峠を登り、少し開けた場所に出ると、その先に寺が見えてくる。道路の対面側の駐車場に車列が入ると、お寺の関係者が近づいてきた。


「藤堂様の関係者はこちらで全部ですか?」

「縁者は私達で全部です。……後、何人かが――」


 母方のおじさんが、そう言って打ち合わせをしながら境内に向っていくと、別の人がこちらに来て、俺達を案内してくれる。寺の門を潜り、境内を進むとじゃりじゃりと皆が敷石を踏む音が耳に届く。少し標高が高いせいも有るのだろう、空気が少し澄んでいるようで、とても厳かで清々しい気分がする。流石に父もその頃には目が覚めたようで、口を一文字に結んでいる。本堂の手前で一旦休憩となり、社務所横の休憩所でお茶を飲んでいると、皆が雑談をする中、雪乃おばさんが近づいてくる。


「……連絡が来たわ。皆が墓参りし終わってから、顔を出すらしいわ」

「そう。皆はその事、知ってるの?」

「えぇ、お義兄さんが伝えたわ」

「……分かった」


 暫く皆が思い思いに話していると、立派な袈裟装束を纏った住職が現れて、それを合図に本堂へ移動する。


 住職が本尊前に着席すると、全員がそれに合わせて正座していく。そうして全員が座ったのを見計らい、静かに読経が始まった。



◆  ◆  ◆



「――では、墓へ参りましょう」


 住職の言葉に皆でぞろぞろと境内にある墓地へと向かう。既に掃除などは済まされ、綺麗になった母の墓前に集まると、誰ともなくすすり泣く声が聴こえてくる。俺と父を最後に残し、親戚縁者が母の墓の前で手を合わせていく。一人ひとり、丁寧にお辞儀をして見送ると、最後に俺達を乗せてくれた伯父さんが声を掛けてくる。


「……じゃぁ、俺達は駐車場で待っているから」

「……兄さん、ありがとう。色々迷惑かけて済まない」

「馬鹿、兄弟だろう、迷惑だなんて思うわけない」


 言って、父の肩当たりを小突くと、伯父さん夫婦は俺に笑顔を見せてその場を後にする。ふと父の隣を見ると、何故か雪乃おばさんがそこに居た。


「……なんで、居るの?」

「一応、親族としての見届人。……あとは、副担任としての責務かな」


 そんな事を言うおばさんの言葉が終わる頃、先程までとは違う敷石を踏む音が聞こえる。どこか重苦しい、だけどしっかりとした足取り。やがてその3人は俺達の前へ現れた。



 ――お久しぶりです。



 そう言って深々と頭を下げる高齢の女性の後ろには、同じ様に頭を下げる、妙齢の女性と、見知った顔の彼女小鳥遊さんが居た。



 ――静流の母、小鳥遊妙でございます。




◆  ◇  ◆  ◇  ◆




 じゃりじゃり。細かい敷石を踏みしめて、墓地を4人で歩いて行く。先頭は父と雪乃おばさん、手桶に張った水が偶に跳ね、父のズボンに掛かっているが、彼は相変わらず、気づかない。雪乃おばさんは気がつくが、こちらを向いて黙って! と目で合図してくる。俺達はそんな二人を見ながら呆れてしまい、ふと見上げた空はやはり高い。遠くに一本糸のような筋が見え、飛行機雲だと気が付いた。


「この季節はどうしても眠くなるよなぁ」


 歩きながら父はそんな事を呟くと、雪乃おばさんに脇腹を突かれていた。


「そんな事を言うくらいなら、お水、お義兄さんが運んでくださいよ!」

「え? あ、あははは。昨日、遅くまで書類の整理が終わらなくてねぇ、腰がキツイ齢なんだよ」

「私だって、もういい年なんで……って何言わせるんですか!」

「いや、俺は何も――」

「二人共! どこまで歩いて行くんだよ。通り過ぎるぞ」


 馬鹿なやり取りを窘めて、全員で墓前に着くと、テキパキと彼女が掃除を始める。俺も持った荷物を横に置き、手桶の水を流しながら、墓石を上から順に磨いていく。



「良し、綺麗になったよ母さん」


 そう言いながら花台に花束を供える。8本の赤いカーネーションを中心にして、ぐるりとカスミソウで囲んだ花束。


「13回忌……長いようで、あっという間の気がするよ。今日は報告も有るしね」


 皆が手を合わせ、静かに祈る先頭で、そう言いながら墓石に向かい、話を続ける。


「去年、大学を卒業して就職したばかりだけど、ここに居る、小鳥遊優子さんと正式に婚約したよ。結婚はまだ少し先になるけれど、絶対幸せになるから。これからも見守って下さい」


 俺がそう言ったあと、彼女が続けて言葉を繋ぐ。


「深雪お義母さん、私は貴女のお陰で今ここに生きて居られます。全て、お義母さんのお陰です。生涯をかけて拓馬さんを支えます。どうかよろしくお願いします」


 そして父が話し出す。


「……なぁ、お母さん。子供っていうのは、あっという間に大きくなるものだねぇ。こないだまで泣き虫だった、あの拓が。雪乃ちゃんですらまだなのに、婚約なんて、イタ! 痛い、痛いよ雪乃ちゃん!」

「何でお義兄さんはそう言う、デリカシーのない言葉を、本人のいる前で言うんですかぁ!」



 あ~あぁ、しんみりとした雰囲気が台無しだよ。



 ――でも、母さんなら、笑って「良かったねぇ」と言ってくれるよね。


 8本の赤いカーネーションの花言葉は「母への愛」と「あなたの思いやりに感謝を」そしてカスミソウの花言葉は「幸福」を。



 ――ありがとう、母さん。




~完~






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8本の赤いカーネーション トム @tompsun50

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