8本の赤いカーネーション

トム

第1話



 ぽかぽかとした陽だまりの中、頬を撫でる風が心地いい。遠くに声が聞こえるが、微睡まどろみの中、聞き流して穏やかな気持ちで意識を投げ出そうとしていると、不意に頭の上辺りから呼ばれた気がした。



 ――いい加減、起きなさい――。



 あぁ、もうそんな時間なのか。……意識とは裏腹に、身体は至福の時間を手放すまいと、浮上仕掛けた意識を沈めんと、意識の前に靄をかけてくる。後少し、もう少しだけこの時間を堪能させてくれ……。


「んんぅ、後5分だけ……。そうしたら起きるよ、母さん――っ!」


 そこまで声を出した瞬間、丸めた教科書が頭部をポコンと叩いた。そこまで痛みは感じないが、衝撃のせいで意識は一気に覚醒し、しかし行動は緩慢に、閉じた瞼をゆっくり開ける。


「……私には、君のような大きな子供は居ませんが?」


 その声に目線を合わせると、今年度からこの学校へと赴任した教師が、こちらを呆れ顔で見下ろしていた。


「ファッ!? 佐倉ちゃん!」

「……! 誰がちゃんですか! 目上の人――」


 驚き、体を起こして、思わず大きな声でそう言うと、盛大にクラス中から笑い声が上がる。俺の「ちゃん」呼びが気に食わなかったのか、彼女は抗議の声を俺に浴びせるが、悲しいかな、笑い声のほうが大きく、その声はかき消されてしまう。


「静かに! 今は授業中ですよ! ……藤堂君も、この陽気で眠いのもわかりますが、テストも近いんですから、シャキッとしなさい」

「……はぁ~い。頑張って善処いたしますぅ」

「……」


 俺の返事が気に入らなかったのか、少しムッとした表情を浮かべるが、これ以上ここで問答しても仕方ないと考えたのか、小さく「はぁ~」と溜息を零し、授業を再会すべく、教卓へと戻っていった。


 再開した授業を遠くに聞きながら、少し開いたサッシ窓から校庭越しに外を眺めると、手前には住宅街が見え、視線を上げた先には真っ青な空が目に飛び込んでくる。夏の刺す様な日差しではない。暖かで、ともすればまた瞼が重くなりそうな、柔らかな感じ。視界には雲ひとつ見当たらず、何処までも広がっていくような、そんな感覚に陥っていると、思わずまた大きな欠伸が出てしまう。視線を感じ、黒板側を見やると、教卓から彼女のキツイ眼差し。慌てて教科書を持ち、何ページだと焦っていると、隣から小さく声が聞こえた。


「45ページ」




◆  ◆  ◆




「……さっきは助かった。サンキュー、小鳥遊たかなしさん」


 授業が終わり、教諭が出ていった後、そう言って隣席に座る女子に声を掛ける。彼女はこちらを向いてコクンと頷くと、机から引っ張り出した文庫本を読み始める。大人しい子だなと思いながら、ふと持った文庫を覗こうとすると、強烈な視線でこちらを睨んだので「あ、あはは」と笑って誤魔化した。


(……び、ビビったぁ。あんな視線も出来るんだ、女子ってこえぇ)等と内心震え上がりながら、席を立とうとした所で声がかかる。


「拓馬ぁ~、佐倉ちゃんに迷惑かけるなよ~」


 そんな声を掛けながら背中に覆いかぶさって、うざ絡みしてくるのはクラスメイトの坂本宏一。コイツとの付き合いは、この高校に入学して以来だ。ノリは軽いがチャラいまでじゃなく、誰とでも仲良くなれて話しやすい。深い相談まではしたことは無いが、ペラペラ誰にでも話すような軽薄男ではないと思う。ただ恋愛に関してはかなり奥手なのか、彼自身は「俺は年上しか愛せない!」等と豪語しているが、クラスの女子と話す時、耳が赤いのを俺や他の男達は知っている。


「あぁ、悪かった。お前の女神様? を煩わせてよ」

「そうだよ、年上で美人女教師! しかも副担任! サイコーかよ!」

「へいへい、さいこー、サイコー。後は君がちゃんと話せれば良いんだけどねぇ」

「……グッ、厳しいご意見どうもありがとう。……ってか、今日もバイト?」

「……あぁ、今週は全部シフト入れてもらった。ちょっと入用でさ」

「そっかぁ、じゃぁ休みできたら、連絡送っといてくれ」


 そう言いながら、スマホを手に持つジェスチャーを見せ、元いたグループの方へ戻っていく。片手を上げて了解の意思表示をし、鞄を持つと、そのまま教室を後にした。



◆  ◆  ◆



「お先に失礼します」

「はい、お疲れ様。……ほい、これ今日のまかない」

「ありがとうございます!」

「暗いから真っ直ぐ帰るんだぞ」


 バイト先のラーメン店で、店長からまかないの入ったビニール袋を受け取り、店の通用口から出る。時間はもう既に10時過ぎ、高校生で出来る限界の時間だ。貰った袋を自転車の前かごに入れて、上から学校のカバンで抑えると、暗くなった夜道を一人、自宅へ向けてペダルを踏む。


 5月に入り、昼は既に暑いくらいの時もある。それでも夜はまだ肌寒く、自転車を漕ぎながらも身震いすると、昼のぽかぽかとした微睡みを思い出す。ふと見上げた空は真っ黒で、遠くに月だけがポッカリと、空に空いた穴のように見えていた。


「やっぱ、街灯が多いと星までは見えないか」


 人通りはなく、確かに暗い通りではある。だがそうは言っても、そこまで田舎というわけじゃない。道路はすべて舗装され、至るところに街灯が設置されている。まして今走っているのは国道沿い、隣の車道はひっきりなしに車が行き交っているのだ。そんな道を10分程進み、市道に入ってやっと自転車のライトが役に立つ。そこからすぐに住宅街を進んでいくと、公団住宅の並ぶ団地街が見えてきた。


 駐輪場に自転車を停め、エレベーターホール脇に設置されたポストを覗く。幾つかの郵便物を手に取ると、ちょうど止まっていたエレベーターに乗り込み、6階のボタンを押した。



 自宅の玄関で鍵を出してドアを引くと、玄関には見慣れたパンプスがだらしなく転がっている。見かねて揃え、自分も靴を脱ぎ、キッチンに入った所で洗面所の方から声がした。


「おかえり~」

「……ただいま。ってかいい加減履物くらい、きちんと揃えておけよ。社会人なんだから」

「はいはい、ごめんなさいね」


 同居人はそう応えると、ドライヤーのスイッチを入れたのか、ゴーとうるさい音が聞こえ始めた。「ったく」と愚痴とも言えないものを零しながら、ダイニングテーブルにビニール袋を置いて、自室へ着替えに向かう。



 部屋に入って鞄を机に置き、スマホを充電器に挿すとクローゼットから部屋着を出し、ついでに下着類も準備する。風呂に入る前にまかないだけは食べようと思ったからだ。そうして着替えを一旦済ませ、下着を持って部屋を出てそのままリビングに向った。



 ――ただいま、母さん。


 リビングボードに置かれた小さな仏壇に、そう言いながら手を合わせる。声に出す訳では無いが、既に日課になっている。今日の出来事などを思い浮かべて黙っていると、後ろから来た彼女が突然、声に出して話をしてきた。


「姉さん、聞いてよ~、拓馬、私の授業で爆睡してたんだよ! 酷くない?」

「な! 急に横で喚くなよ、それに爆睡じゃなくてウトウトしてただけだろ!」

「何言ってんのよ、「母さんあと5ふん~」とか言って甘えた声だしちゃってさ」


 ――佐倉 雪乃。

 

 何故彼女がここに居るのか。……彼女は母と年の離れた実の妹なのだ。元々教師には今から3年ほど前になっていたが、去年俺の父が急遽異動になった。父は大学の教授で、初めは俺も一緒に行くことになっていた。だけどせっかく入った高校で、また編入試験を受けてなどの煩雑な作業が手間と感じ、俺はここに残ると言い出した。困った父が母の実家に相談した所、彼女が立候補してきたのだった。


「ちょうど、次の赴任先を探していたところだし、姉さんの家に一緒に住まわせてもらえるなら、彼の面倒くらい私が見ますよ」


 渡りに船と父はそのコネをフルに使い、彼女をまんまと俺の通う高校に赴任させると、雑務を全て俺に押し付けて、さっさと自分は好きな研究の為に旅立ってしまった。結局面倒事が色々重なり、一緒に暮らすようになって既に1年、おばさんというより、面倒な姉が増えた気分だ。




「……仕方ねぇだろ、雪乃おばさんは母さんの妹なんだ。寝ぼけてそう見えたかもしれない」

「――っ! ……」


 その言葉に一瞬動揺したのか、彼女は息を呑んで俺を凝視するが、ニヤリと笑って「ね、雪乃おばさん」と繰り返すと、「おばさん言うなぁ!」と気づいて暴れだした。



******



「ふぅ、さっぱりした」


 結局、彼女が暴れたせいで洗面所に逃げた俺は、腹を空かせたまま風呂へ入った。着替えを済ませ、バスタオルで頭を拭きながら、限界を迎えた腹の虫を宥めるため、ダイニングテーブルへと近付くと、彼女は缶ビール片手に、まかないに入っていたチャーシューをアテに摘んでいた。


「……あ!? 何勝手に食ってんだよ! 俺の晩飯だぞ!」

「あぁ?! 飯の方は食べてないわよ」

「……うぉ! って、何本飲んでんだよ。明日もガッコだろ、大丈夫かよ」


 見ると、既にプルトップの空いた缶が5本、テーブルに積まれている。彼女の持つビールは6本目、恐らくは今日買ってきたパックの全てを開けたのだろう。そんなに強かったかと思いながら、対面に座りビニールを漁る。


「……発泡酒よ、それに話したいことも有ったからね」

「ふぅん、発泡酒だと酔わないって理由がわからんけど、話って何?」


 バスタオルを首にかけ、パックに詰められた大盛りチャーハンをレンジに突っ込むと、そう言いながら冷蔵庫からお茶を出す。


「七回忌、お義兄さん帰ってくるって」

「……そっか。まぁ、其処は当然だろう。お寺さんの方は?」

「そっちは大丈夫、うちの実家で取り仕切るから」

「そう……。よろしくお願いします」

「良いわよ、息子のアンタが頭下げることじゃないわ。……それにしても、もう6年も経つのよねぇ」


 そう言って彼女はくぴりと缶を煽る。楊枝でチャーシューを一切れ突き刺すと、マジマジとそれを眺めながら、独り言のように彼女の口から言葉が落ちていく。


「……姉さんは私にとって憧れの人だった。丸々一回りも上だったからね、私が小学生に上がる頃には中学生で、あっという間に大学生になっちゃって……気づいたら貴方のお父さんと結婚してた。……吃驚したわ、中学生の時に見かけた高3のお義兄さんに一目惚れだったなんて。……おっとりして大人しく、綺麗で優しかった姉さんが、そんな一直線にお義兄さんに向っていくなんて、当時の私には想像もできなかったもの」


 そこまで言って、チャーシューを一口で頬張ると、対面でまかないのチャーハンを思いっきり口に放り込んでいる俺を、しみじみと見てくる。気にせず、咀嚼しながらコップに注いだお茶を一口飲み込むと、彼女は俯き、「ふぅ~」と息を吐く。


「小学5年生だったっけ? 姉さんが事故に遭ったのって……」

「……あぁ」

「……庇った子も同い年だったんでしょ?」


 ――あの日のことは今も鮮明に覚えている……。



◆  ◆  ◆



 その日もいつも通りの筈だった。母は昼のパートに出掛け、俺は団地内に有る公園で、近所に住む友達と遊んでいた。太陽が傾き空を橙色に変えた頃、うちの近所に住むおばさんが、血相を変えて俺の名を呼んだ。


 ――拓ちゃん! 深雪さんが! 拓ちゃんのお母さんが! 事故に遭ったって……。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る