いつか、笑っている

蘇芳ぽかり

いつか、笑っている

 桜の花びらが大体散り終わって。

 季節が巡り巡って。

 何年かぶりに、小学校時代の卒業アルバムを開いた。つるつるとした手触りのページを、指紋を付けないようにそっと、一枚一枚静かに捲った。ほんの春の夜の感傷。ただの暇つぶし。ゆっくりゆっくり捲るたび、懐かしい顔ぶれが私に微笑みかけてきた。自然に指が進んだ。

 これ、五月の全校遠足の時の写真だ。確か朝からずっと曇り空で、お弁当食べてる間に雨が降ってきたんだよね。私は雨具なんて持ってなかったから、同じ班のアミちゃんが傘に入れてくれたんだよね。わあ、ナナムラ先生が写ってる。懐かしいな。先生は私が毎日書いている日記に、一日も欠かすことなくコメントをくれた。先生、私今も日記、続けてるんですよ? あ、こっちは運動会の組体操だ。クラスで二番目に背が低かったものだから三段ピラミッドのてっぺんを強制的にやらされたのだった。今ならきっと中段をやらせてもらえるぐらいには背が伸びたよな……。全校二百五十人しかいないような小さい学校で、私たちの代はたったの一クラスしかなかった。三十二人だけだから、みんな写っている枚数は多い。私も何度も何度も登場している。デスクライトの白っぽい光を反射して、写真が光った。

 豆みたいに小さい私と、同じぐらい幼い顔をしたクラスメイトたち。今じゃ当たり前だけどみんな高校二年生だ。なんだか信じられない。信じられないんだけど……今あの頃よりも大人になった私がアルバムを眺めている、これはどうしようもなく、紛れもない真実だ。

 ふと、クラス全員の集合写真が目に入った。六年生の時の大房岬だ。海を背景に全員で笑っていた。私は当たり前に一番前にいて、それからこれは偶然だけど、真ん中。男子と女子のちょうど境目でちょっと固い笑顔を浮かべている。あの頃はカメラに向かって笑うの、苦手だった。今ならもう少しいい顔ができるのに。隣の男子は……Tだ。

 写真を見下ろして、私は思わず表情を緩める。久しぶりに思い出したなぁ、Tのこと。顔を上げて窓の方を見たら、透明に映った私は少しだけ眉根を寄せるようにして微笑んでいた。えくぼが左頬にできた笑い顔が思い浮かんだ。

 懐かしい、本当に。

 ほんの春の夜の感傷。ただの暇つぶし。だけど──。

 ──だから、軽く私の記憶が脳裏で、いや胸の中で回り出す。


     ❇︎


 バンッと手を突かれた拍子に机が大きく揺れて、本を読んでいた私は舌打ちをした。小学三年生春の業間休みだ。机を揺らしたのが誰かはわかっていた。Tだ。

 最近Tはよく、休み時間に教室内を走り回る。奴の一番の仲良しのコースケと追いかけっこだ。男子って本当にガキだ。大騒ぎしながらどたばたと走り回って、それで一人で本を読んでいる私の机にぶつかったり、勢いよく手をついたりする。絶対わざと。

「やめてってば‼︎」

 顔を顰めて私が怒鳴ったって、聞きやしない。「ごめっ」と叫んでまた駆け回る。

 なんでそんなことをするのかって。

 そんなの私を馬鹿にするために決まっている。

 今まで私は、親友のミッちゃんと共に「決闘」と称して散々Tやコースケと絡んでいた。業間休みや昼休みに校庭に出て、それから家の方向が同じだったから下校途中まで、殴るのアリ蹴るのアリで暴れ回っていた。……というより、かなり私とミッちゃん側が一方的に好き勝手やっていたかもしれない。Tたちから痛い目に合わされた記憶はあんまりない。奴らはいっつも「やめてよぉ」と声を上げながらヘラヘラとしていて、だから私はより一層ムカついて「けっとうだ」だの「たたかいを挑む」だのなんだの。

 ずっと四人でそうやってやっていくのだと、漠然と思っていた。

 Tたちは私たちの永遠の敵だ、などとカッコつけて考えていた。

 だけど、二年生の終わりと同時に、ミッちゃんは引っ越して行った。お父さんの仕事の関係で宮城県の仙台に行くのだと言っていた。都道府県についてまだ習っていないからセンダイがどこにあるのかわからないけれど、でも「ミッちゃんセンダイに引っ越しちゃうんだって」と親に話したら、「それはまたかなり遠くに行っちゃうんだね」と言われた。それを聞いて、私は初めてミッちゃんともう会えないんだって気づいた。

 私は、三年生になると同時に案外あっさりと一人になった。

 ミッちゃん以外に友達なんていなかったから、私は休み時間を教室で読書して潰すことを覚えた。Tはそんな私を馬鹿にして同じ教室内で騒ぎ立てる。私がもう蹴ったり殴ったりしないのをいいことに、悪戯を仕掛けてくる。机なんかじゃなくて、思い切り身体にぶつかられたことだってある。

 散々私が好き勝手にしてきたお返し?

 ふざけんな、と思いながら、私は本を持つ手に力を込める。一人になりたくて一人になったんじゃない。ほんの数ヶ月前までは何も知らずにミッちゃんと遊んでいたのだ。

 境遇を恨んだ。

 いるともしれない神様を呪った。



 転校生の女の子がクラスに来たのは、五月。

 静岡のハママツというところから越してきたらしいが、相変わらず私はそれがどこにあるのかわからなかった。ただ突然来た、とそう思った。

 漫画やらアニメやらによくあるみたいに、黒板に名前を書いて「これからよろしくね」と言った彼女は、私とは合わなそうな子だった。いろんな表情をしたミッキーマウスがプリントされた灰色のパーカー、キラキラ光るヘアピン、少し吊り目気味の目。リサイクルショップで親が買ってきた地味な服を着て、髪はボサボサで、それからミッちゃんがいなくなってからはすっかり内気になった私とは、真反対に見えた。ぱちぱちぱち、と歓迎するような、それでいて適当な拍手が教室内に響いた。私は文庫本に手を置いたまま、興味もなくて窓の外に視線を飛ばしていた。浅い緑が広がる木々が、わさわさと噂話をするようにさざめいていた。

「今日ね、転校生が来たよ」

 帰ってから例の如く親に言ったら、「あら」と母親は口角を上げた。

「それは友達を作るチャンスなんじゃない?」

 そうかなぁ、と内心で呟いた。私あの子と気が合うとは思えないよ。理由はないけど、なんとなくそう思うんだよ。それに転校生が来たからって飛びつくの、馬鹿みたい。それってダサい。だけど母親が、友達がいなくなった私のことを心配しているのはわかっていたから、結局私は「かもね、話しかけてみよっかな」なんて言って曖昧に笑っていた。


 転校生はあっという間に私を除いたクラスの女子から受け入れられた。

「ハママツってどんなところ?」

「兄弟はいる? ペットは飼ってる?」

「ねえ、アヤカちゃんってどういうことするのが好きなの?」転校生の名前は山内アヤカだった。

 休み時間は、みんな山内アヤカの席に集まって、甲高い声で喋っていた。それは私の知らない輪だった。授業の間の五分休みも、それから業間や昼休みも。賑やかに談笑する彼女たちの存在は私の〈独り〉を明確にさせた。少なくとも、そんな気がした。

 嫌だなぁ、と思って、机のフックににゴム紐で引っ掛けた洗濯バサミから赤白帽子をひったくるようにして取った。一年生の頃から使っていて伸び伸びになったゴム紐は、情けない感じでゆらゆら揺れた。逃げて教室にいたはずなのに、ついに逃げて外に出た。居場所が無いなと他人事みたいに思った。居場所。それは今までは無縁で、本の中で最近に知った言葉だった。

 久しぶりに出た校庭は晴れていた。

 真っ青な空から、早くも夏を予感させる日差しが降り注いでいた。言葉になっていない声を上げながら何も考えていないかのように走り回る下級生たち。多分本当に何も考えていないんだろうね、気楽でいいね。一生懸命に格好つけて、心の中で言ってやった。

 遊具もないところをぶらぶらと歩いていたら、不意に背後に人の気配を感じた。気配、なんて言うほど察知しずらいものではない、むしろ騒ぎ声とバタバタという足音だ。私は半ば諦めながら振り向いた。

 思った通りだ。Tが例の如くコースケのことを追いかけ回しているのだった。「ちょっと待ってよコースケっ、おいってばさあっ‼︎」キンキンするような声変わり前の絶叫。コースケも腑に落ちない顔で逃げながら、「追っかけてくるなよぉ」などと言っている。その様子をみた瞬間、私の中で何かがぶちっと音を立てて切れた。理性だったのかもしれないし、案外怒りとか悔しさであったかもしれない。鬼ごっこする下級生たちと何ら変わらないTたちの様子に苛立った。ひとりぼっちの私をからかうために、こいつらはわざわざ外まで出てきたのだ。……許せない。

 ふざけんな。

 ふざけんなふざけんなふざけんな。

「なんで──」

 軽く息を切らして言葉を切った私に、Tがぴたりと動きを止めた。視線は逃げていくコースケに遣ったまま。いい加減にしてよ──ッ!

「なんでついてくんのっっ‼︎」

 私は悲鳴のように叫んでいた。

「別にお前についてってるわけじゃないし」やっとTはこちらを向いた。チビな私と同じぐらいの背たけだから、目線が真正面からばちっと噛み合った。「なに気にしてんの」と奴は真顔で言った。その表情には、笑いのかけらもなかった。

 最低だ。これじゃあ、一方的に怒っている私が馬鹿みたいじゃないか。

 そうわかっているのに、苛立ちがどうしても収まらなかった。

「き、にして、ないし……! もうついてこないでよ、あんたたちうるさいんだよ! うるさいの、うるさいの……っ‼︎」

「だから別についていってなんか、ないって!」

「黙れ‼︎ いい気にならないでよ! ミッちゃんがいないからって、私は」

 気がついたら腕を大きく振り上げていた。ぶっ叩いてやる。ぶん殴ってやる。大っ嫌いだ、みんなみんな、あんたたちも。私は強い、全部壊してやる。

 頭上を雲が横切ったらしい。一瞬だけ影がおりて、それからまた明るさを取り戻した。がやがやとたくさんの子どもたちが動き回る校庭の隅で、私たちだけが時が止まったみたいに硬直していた。

 ややあって、私は手を下ろした。意外なほどに音が欠落した動作だった。

「……、……」

 何か言いかけて、だけど自分でも何を言おうとしたのかよくわからなくて、結局無言で踵を返した。校舎へと歩き出す。Tがその後どうしたかなんて知らない。どうでもいいよ、どうでもいい。結局私が今Tを殴ったって、ボコボコに、コテンパンにしたところで、現状なんて何も変わらないんだ。

 とぼとぼと俯いて歩いたりなんてしない。僅かに顔を上に向けて、教室へと帰る。言いようもない行き場のない思いが胸の内に気づけば広がっていた。それはさっき思ったみたいな理性的なものじゃあなかった。怒りとか悔しさとか、そんな強い感情でもなかった。それは、虚しさだとか、哀しみだとか、寂しさだとか、そういう輪郭の甘いものだった。

 夏が来る前。梅雨にも入る前の透明な空が自然に視界に入った。穏やかに雲がどこかから流れてきてどこかへと流れていく。

 私は拳を握りしめて、涙を流さないままに泣いていた。乾いた目をしたまま泣いていた。



 そしてまた、何週間かが経った。Tは私の本を読む邪魔をし続けて相変わらず面倒だった。転校生の山内アヤカは、だんだんとクラスに埋もれていった。彼女の「新しさ」は薄れて、それと同時にみんな山内アヤカを囲うことに飽きてきたのかもしれなかった。そんなものだ。

 小学生なんて、子供なんて、人間なんて、そんなものだ。

 同じことばっかり繰り返して、結果として何も変わらない日々が過ぎ去っていく。単調な時間の流れは一定でしかない。

 唯一変わったことといえば。

 私が山内アヤカと友達になったことだ。



 しとしとと雨が降る帰り道だった。

 冴えないビニール傘を差した私は少しだけ振り向いて、山内アヤカが分れ道でクラスの女子たちと手を振り合ったのを見た。彼女の家が私の家と同じ方向にあることはもうわかっていた。

 湿って、どこか懐かしい雨の匂いがした。不意に思い立った。ある種の気まぐれだったと思う。

「家近いみたいだから、一緒に帰りませんか」

 笑っちゃうぐらい小さい声だった。

 アヤカちゃんは驚いたように私を見た。吊り目っぽい目がまん丸になっていた。数秒……十数秒……数十秒。私たちはそのままだった。水滴が傘に当たって跳ねる、その音だけが不規則に聞こえていた。

 アヤカちゃんが歩き出した。私も歩き出した。一切の会話はなかった。冷たくて新鮮な沈黙だった。私の声は、雨音に掻き消されずに届いたろうか。ちゃんと伝わっていただろうか。わからないけれど、信じてみたいと思った。何も言わずに隣を歩かせてくれたこと、そして家の前で別れ際にちょっとだけ目を合わせてくれたこと、今日はそれだけでいいやって思った。

 次の日、私たちは朝「おはよう」と言い合った。その次の日には、休み時間に窓際で話した。

 何にも変わらないように見える日々の中で、少しずつ何かが変わっていく。何かがどこかに向かっていく。



 梅雨明け宣言が降りた頃、担任の先生の家庭訪問があった。

「先生も暑いのに大変だねぇ」母は苦笑いしつつ。先生に出すために透明なグラスに麦茶を注いだ。とぽとぽと音を立てて、琥珀色の液体の中で気泡が弾けた。「あんたは話聞かなくていいんでしょ?」

 うん、と私は頷いた。保護者と教師の二者面談だから、本人である私がいる必要はない。むしろ直接は聞いていたくない。何と言うか、成績だとか日頃の態度だとかを面と向かって言われるのは気まずい。

「二階にいるね」

 とたとたと階段を上がって行って自分の寝室に隠れるように入ったところで、ちょうどピンポーンとチャイムの音がした。急いで窓から玄関口を見下ろすと、先生が母に家に入れられるのが見えた。見慣れない緑のママチャリが駐車場に停めてあった。若い男の先生であるノミヤ先生が生徒の家一軒一軒ママチャリで回っているのだと思ったら、ちょっと可笑しかった。今頃は母が麦茶を出しているところだろうか。結露でグラスが酷いことになっていないといいけれど。我が家にはコースターを出す文化がないから。

 カーテンをゆっくりと閉めた。日が差して暖まったシーツの上に寝転んで、ぼんやりと天井を眺めていた。暑いな。外はもっと暑いのだろう。夏になったんだな。数秒のことのようにも思えたし、数時間そうしていたようにも感じられた。そんなわけないか。面談は一人当たり十五分なのだし。

「終わったから降りてくればー? 先生帰ったよー」

 階段下から母親が呼びかけてきた。私は何も言わずにトントンと階段を降りて行った。

「リビングまで来たの?」

「ううん。玄関で大丈夫ですって。段になってる部分に座って話してたよ」

「へえ」

「あんたのこと何て言ってたか、知りたい?」

 私は少しわざとらしくそっぽを向いた。「べつに」

 クーラーをガンガンに効かせたリビングは涼しかった。窓もドアも至る所が完全に閉じられているはずなのに、鳴き出した蝉の声が聞こえていた。

 思った通り、母はテーブルにつくと勝手に話し出した。仕方なく私も横のソファーに座って微妙に視線をずらした。

「勉強に関しては問題無さそうだったね。なんだっけ……理科? の実験ノートをいつもすごく見やすくまとめてますって言ってたよ。国語の漢字テストでいっつも一、二問だけ落としちゃったりするから、そこはもうちょっと詰められるといいですねって」

「……ふうん」

「それから、ノミヤ先生、読書好きなんだってね。一回あんたと好きな本について話したことがあったって言ってたよ」

「うん。何冊かおすすめされたの。ちゃんと読んだよ」

「感想をちゃんと話してくれましたってね」

「うん。……割と面白かった」

 母はふふっと笑って「いい先生そうだね、っていうかなんて言うの? あんたも嫌いじゃなさそうな先生で良かった」と言う。私は目線を逸らしたまま頷いた。

 母が席を立って、新しいグラスに水を入れて持ってきた。ごくごくと美味しくもなさそうに飲み干した。

 少しの間私たちは無言になった。沈黙の意味はよくわからなかった。外の蝉の声がうるさいはずなのに、時計の秒針が動く音もはっきりと聞こえた。

「Tくん」やがて母が、ぽつりと呟いた。

「……? T?」

 母にTについて話したことがあっただろうか。ああ、あった。小二のころ、ミッちゃんがまだいた頃だ。「Tがね、いっつも私たちにひどいこと言ってくるんだよ!」「私たちテキ同士なの。いっつも休み時間たたかってるんだよ!」そんな意味不明な愚痴とも言えないものを報告するみたいにぺらぺら喋っていたことがあった。

 母がグラスを覗き込むような目をした。何が中に見えていると言うのか。

「昨日Tくんとこの面談があったらしいんだけどね、Tくんのお母さん言ってたらしい。Tくん、随分あんたのこと気にしてくれてたんだってね」

「……」

「ミサキちゃんが転校しちゃって、あんたすごく寂しいだろうから、オレが友達になれたらなって言ってたんだって。ここだけの話って先生話してくれたんだけどね」

 悲しい思いをしてること、わかってるから。だから、とTは言ったそうだ。

 寂しくないように。

 寂しくないようにって。

 ばん、といつも私の机にぶつかって来るのを思い出した。ある日校庭に出た私についてきた姿が思い浮かんだ。

 彼は──TはTなりに私のことを気にかけてくれていた。一、二年生の頃さんざん奴に酷いことをしていた私の、そばにいようとしてくれていた。一人じゃないように。

「あんた、幸せ者だねぇ」

 母はしみじみと呟いた。私は硬直したまま、それでもどこか中にある何かが溶解していくのを感じていた。それは目に見えるところにはない、もっと優しくて内部にあるものだった。

 私が、幸せ者。

 ミッちゃんに「引っ越すことになったの」と言われたその日から、私は自分を不幸だと思い続けていた。世界で一番可哀想だと、自分の中で念じ続けていた。それが滑稽だったとなんて言わない。自分で憐れむほどの「私」もまた、私の一つの表情だったには違いがなかった。だけれど。

 境遇を恨み否もうとしていた私にはきっと、明確に見えていたものがあって……それと同時に、欠片も見えていなかったものがあったのだ。

「うん」と私は、それだけ言ってこくりと首を縦に傾かせた。四時半だというのに外はまだ真昼と同じぐらい明るくて、なのにいつの間にか蝉たちは鳴き止んでいた。


 ──そして。


 Tが私にしてくれたことに気づいてからも尚、私が彼に対して感謝を伝えることはなかった。小学生女子なりの中途半端でくだらない羞恥心が、どうしても邪魔をしていた。

 私はアヤカちゃんといつも一緒にいるようになって、学年が上がるごとに他の女子たちとも話せるようになっていって、そしてやがてはクラスのほとんどの女子たちが加入している仲良しグループの中に存在するようになった。その頃には男子と女子の間には透明で淡くてだけど越えられない垣根のようなものができていた。私はTとは用もない限り話さなくなったし、それは他の男子たちに対してもそうだった。特別な何かがあったわけじゃなかった。

 小六になって、私は突然に大した理由もなく中学受験することを決めた。学校からの帰り道に一時間ぐらいかけて友達と喋って、家では机に齧り付いて。そうこうしているうちにあっという間に早春になって、私はクラスメイトたちとは違う中学校に行くことが決まった。

 合格発表があって学校に遅刻して行った日に、ちょうど地元中の学校説明会があった。遊びに行く感覚で、私も参加した。出席番号順に並べられ、ちょうどTと席が隣になった時に、訊ねられた。そう言えばだけど、受かったの? って。

「うん。受かったよ。もうみんな知ってると思ってた」

 私が少しだけ微笑んで見せたら、Tは真顔でぱちぱちと瞬きをした。それから「そっかぁ」と呟く。

「良かったじゃん。みんなすごいなー」

 彼の仲良しのコースケもまた、難関の私立中学に受かったのだった。

「あんたはどこも受けなかったんだね、結構頭いいのに」成績は多分私と同じぐらいであるはずだ。だがTは首を振った。

「別にやりたいこともないから、この中学で充分。……とにかく、合格おめでとう」

「ありがと」

 個人的にTと話をしたのは、多分それが最後だ。卒業までの一ヶ月はあっという間に過ぎて、そして私は誰も知り合いのいない中学に入学した。そんなの私だけじゃない。コースケを含め、クラスにあと数人いた。

 奴とはそれっきり。

 結局、私は小三の頃の「ありがとう」を伝えられないまま。

 いつの間にか親友になっていたアヤカちゃんとだって、卒業以来直接会ってはいない。誕生日に「おめでとう」とメールを送りあって、一週間ほど会話を続ける程度だ。

 Tは地元の中学校に行った。一切合わないまま中三でアヤカちゃんとメールをした時、奴が科学部の部長になったことを聞いた。私もまた英語交流部の部長をしていた。私が今を生きている、それと同時に彼もまた彼の日々を生きているのだと何となく感じた。

 小学校時代のクラスメイトたちとは別次元で暮らしているようなままに、気づけば卒業から四年が経っていた。


     ❇︎

  

 高校二年生の私は、静かに卒業アルバムを閉じた。

 今の私は、仙台や浜松がどこにあるのかも知っている。それなりに距離があっても全然行けなくはない場所だと知っているし、それでもわざわざ昔の友達に会いに行こうとは思わないその感情も知っている。物理的ではない溝を、今なら見ることができる。それがいいことかはわからなくても。

 懐かしいよ、T。今なら私はもう少し素直に感謝を口にできるのに。照れくさいだろうけど、ちょっと恥ずかしいに違いないけど。あなたが私を気にしていてくれていた、その事実に、あの頃の私は確かに救われたのだ。

 友情? そんなに簡単なものじゃない。

 仇敵? 今の私にとってその言葉をあなたに向けるのは罪だ。

 初恋? まさか。これはもっと、純粋な憧れ。

 関係に名前なんていらないや。ただTのような存在が存在していたこと、それを決して決して忘れてはならないと思った。

 ありがとう、T。

 心の中で呟いて、私は卒アルを厚紙のカバーにしまった。優しくて暖かい風が部屋の中にまで吹いた気がした。またもうしばらくこれは開かないだろう。また忘れちゃう? 今芽生えた懐かしみも、ぽかぽかとした思いも。

 自分から橋渡ししない限り、溝なんて絶対に埋まらない。

 忘れたくはないから。

 メール、してみよっかな。確かあいつも、同じ元クラスメイトのグループラインに入ってたよね? 突然追加したら迷惑かな。彼は私のことを、当時のことまで全部覚えているだろうか。

 覚えていてくれたら嬉しいな。

 一人じゃない。誰かがいてくれるから、いつか笑っている。長い冬を超えて、春は今始まったばかりだ。

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いつか、笑っている 蘇芳ぽかり @magatsume

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