第2話

どうしてあんたはいつも、自分のことしか考えられないの。

はあ?それを言うんならお前だって自分の服や化粧品ばかり買ってるじゃないか。

それは、仕事に必要だからよ!

嘘だね、お前は自分のことだけが可愛いんだ。そうやっていつまでも若さにしがみついて、みっともないと思わないのか。

ひどい、昔はあんなに優しかったのに。

昔のことなんてどうだっていいだろうが!


机がガタンと音を立てて、ママが泣き喚く声が聞こえてくる。心を殺していないと私は死んでしまうから、玄関に座ってじっと耐えている。

「まこと!まことはどこだ!」

逆上した親父が怒鳴っている。ここにいちゃダメだ。ママの叫び声と親父の怒鳴り声がかぶさって何十にもなってやってくる。音もなく立ち上がった。残してきたママが少し気がかりだったけれど、走りだした。ここから出なければ、逃げ出さなければ。



寒い、上着も持たないまま飛び出してきてしまった。思えばまだ2月だ。冷たい風が肌を刺す。だけどコートを羽織る時間さえなかった。それは、きっと、私のせいじゃない。

「あ!」

いきなり足の力が抜けてしまって、地面に倒れこむ。打ちつけた膝小僧や肘がズキズキと痛んだけれど、胸の中の方がずっとずっと苦しい。あの悍ましい、身体が世界の酸素に溶けていくような恐怖がやってくる。まずい、だめだ。死んでなきゃ、殺していなきゃだめ。

じっと動かないで、心臓のあたりをぎゅっと拳で抑え込む。出てこないで。何度も祈る。お願いだから静かにしていて。誰でもない誰かに縋り付く。でも、心臓はどんどん速く動きだす。祈っても縋っても、身体は正直で、残虐だ。発作が起こる、くる。

死、し、しぬ嫌、嫌だ、い、死、嫌だ、死ぬ、死ぬ嫌だ嫌だ、い、死ぬし、ぬ、死ぬ、死ぬ嫌だ死ぬ、いやだいややめて、死ぬ、助けてたすけて怖い、こ、こわ、怖い、許し、許して怖い嫌だ、い、や、助け、お願い、こわ、怖い、いや、怖い助け、死ぬ

 あ

ぶつんと途切れる。何が?私の中の、思考が。目の前が真っ白になる。酸素が、掴み取ろうとするのに何度も私の手からボロボロこぼれ落ちて、掬おうとしては溢れて、息ができない。肺の奥が痛い。

「はーーーーー、はーーーーー、は」

息が、できない。心臓が、はやい、はやい。殺される。


これはきっと本能が遺伝子レベルで感じている恐怖なんだろう。だって、少しだって抵抗できないもの。指一つ動かすことができない。心の核のところが、恐怖に染められてしまっている。

 いろんな人が私を見ている。目が世界中にある。いろんな人が私の声を聞いている。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。


「・・・まーちゃん?」


ぱっと、視界がひらけた。

「まーちゃん!どうしたの!?」

聞き覚えのある声がする。誰かが私のそばに近寄ってくる。だけどわからない、ガタガタ震える歯の音が大き過ぎる。誰かに肩を触れられたような気がした。温度はなくて、その触感が私を惑わせる。息ができないのかだとか、何かを尋ねられたけれどわからない。

「ま、まーちゃん。どうしよう、病院に・・・あ、でも、立てないか、どうしよう・・・」

ぼんやりした視界の中でみながもたついているのはなんとなく見えた。もういいから、放っておいてほしい。時間さえあれば、治るはずだから。そう伝えることもできなかった。

病院なんて行かなくていい。そう伝えようとして首を横に振ってみるも、みなには伝わらない。ますます、私という人間が消えてしまうような心細さが強くなる。耐えられなくなって、気づけばみなの腕に縋り付いていた。体裁なんて言っていられなかった。私を一人にしないで。みななら救ってくれる。そんな気がして。

「まーちゃん・・・」

みなは私を静かに抱きしめる。大丈夫、大丈夫と子供にするみたいに繰り返す。呪文みたいで不思議な感覚だった。身体の中は冷たいのに外側だけがぐわっとあたたかくて、人の匂いがして。嫌じゃなくてむしろ、この状況がとてもありがたいものに思える。心の落ち着きに呼応するように、心臓がゆっくりと平常に戻り始める。肺に酸素が戻ってきた。思いきり吸うと、空気のひんやりした温度が身体の外に溢れそうになった。

「大丈夫?」

ふと顔を上げる。みなの顔がとても近くにある。長いまつ毛の一本ずつまでよく見えた。

「わあ!?」

思わず突き飛ばしてしまった。みなが尻餅をつく。私はというと、自分が何をしたか思い出して恥ずかしくて死にそうだった。私はみなに、縋り付いたんだ。すり寄って助けを乞うた。いじめてる相手に。誰よりも近くて遠いやつに。気まずくて恥ずかしくて、顔に熱がぼっと灯るのが分かった。そんな気も知らないで、みなはまだ心配そうな顔を浮かべる、それが私をますます惨めにさせるってことがわからないようだ。

「まーちゃん、何があったの?大丈夫?」

大丈夫、じゃなかった。

「・・・大丈夫」

無理矢理立ち上がって走り去ろうとした。しかし急に酸素が戻ってきただけの体で、みなから逃げきることはできなかった。

「大丈夫じゃないよね」

そう言われた時思わずハッとする。みなに全部見透かされているようで、どこかで喜びと安堵を感じている自分がいた。

「あ・・・」

どうして今、そんなに強い目をするの。

 逃げられない奇妙な快さが私を包む。やっと気づいてもらえた、そう思った。みなは私の手を引いて歩いていく。夜の道が私たちから過ぎ去っていく。団地沿いや橋の上、あぜ道を通る。どこにいても空には白い星が煌めいている。冷えた風が私たちを揺らす。みながかけてくれたコートを羽織って、私は歩いている。時が止まってくれればいいのにと思う。こうやって音もない夜に、私と、みなだけがまだ地球で生きていてずーっと、二人だけで生きていくんだ。多分私は毎日幸せで、満たされて。

 そらがきれい。

月光を浴びた雲が、縁を鈍色に染められている。本当に月がきれいな夜だ。


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