第7話 END

あれから、もう何年も経った。




 昨夜、飼っていた金魚が死んだ。

いつも、触られたらすぐに尻尾をばたつかせて逃げた金魚が、私の手のひらにねっとりとした感触を与えていた。その亡骸を両手で大事に抱えて、あたたかな土に埋めた。餌に向けて必死に口をパクパクさせていた姿は、はっきり言ってあまり可愛くなくて、むしろ気味が悪かった。でも、あの頃は死んではいなかった。息をしていた。

 「キンギョの墓」木の板に、油性ペンで文字と日付を記した。シンナーの匂いにさらに胃が重くなった。

私も死ぬ。みなもいつかは死ぬ。ママもパパも誰もかも、死ぬのだと思った。


どうしたらいいのかわからない。それが私の感情だったということに、今になって気づく。そうだ、そうだった。私はずっと、どうしたらいいのかわからなかったんだ。親に認めてもらいたくて。普通でいることが、周りとの境目がないみたいな、恐ろしいことに思えてしまって。みなが羨ましくて。みなになりたくて。みなが好きだった。ずっと、自分には何もないことを知っていた。そして私が持ってないものは、みなが全部持っていた。

窓を見上げる。涙みたいな雨が、さあさあと地面に降り注いでいる。木々の緑が濡れている。憂鬱がますます膨らんでくる。


 



 20歳を超えた私たちは、喫茶店にいた。

「急にこんなの送りつけて、どういうつもり?」

目の前に、大学生になったみながいる。相変わらずメガネをかけているけれど昔に比べると少しほっそりしていて、目元にはオレンジ色が浮かんでいる。メイクをするようになったらしい。

「これを読ませていじめをなかったことにしたいってこと?」

みなは涙を目に浮かべて私を睨んでいる。怒っていた。当然だ、今日ここにきてくれただけで、奇跡だと思う。

 私は彼女の目を見ることを避けて俯いたまま、小さく、面白くもない冗談を言うように囁く。

「・・・昔、私の話が好きだって言ってたでしょ。だから書いた」

みなの手の中の原稿用紙が震えている。タイトルは、『まーちゃん』にした。

自分の声が情けなく思えた。いつもそうだった。私は一人じゃ何もできない弱虫だった。

「・・・私がどれだけ傷つけられたかわかる?どれだけ苦しんだか。本気で死のうとしたこともあった。こんなの読んだからって、まーちゃんを許せない気持ちは変わらない」

ああ、と息が出そうになった。怯える小動物を見るような目でみなを見ている私は、やっぱり昔から消えないでここにいるんだ。もう、まーちゃんと呼ばれる資格なんてないのだ。

「許さなくていい」

そう言うと、みなの瞳孔が大きくなったのがわかった。周囲の人々の、葉っぱが擦れ合うような穏やかなざわめきが、私たちからすごく遠かった。まるで二人だけがずっと世界から切り離されているみたいだ。

「嫌っていいし憎んでいい。私があなたをいじめてたって、世間に公表してもいい」

手の中でコーヒーカップを弄んでから、これじゃダメだと向き直る。

今は本当に言いたいことだけでいいんだ。今逃げたら私は、自分を許すチャンスを永遠に失う。そんな気がした。

言わなきゃいけない言葉があったのだ。だからこんなものを書いて、みなに郵送で送りつけた。スタッカートのような浅い息を吸って、私は今日初めてみなの瞳を見た。あの頃よりも茶色がかっていて、みなのことだからカラコンではなくて素の色なのだろうと思った。ずっと変わらないと思っていたものだって変わっていく。みなも、私も。

「みなは初めから、何にも悪くないって言いたかっただけ。ごめんなさい」

立ち上がる。1000円札をテーブルに置いた。その指が震えてるのが、自分でも不自然だった。私は悲しんではいけない。そんなことをしていい人間じゃない。

カランコロンと喫茶店の扉が開くと同時に走りだす。非難するような冷たい風に煽られて、カーディガンが空気を含む。まだ唇が震えていた。どうして私が泣きそうなんだ、おかしいじゃないか。

 ただ、喉の奥が熱かった。理由もないのに傷ついていたあの頃みたいに、じくじくした重さが体を包んでいる。この痛みを振り払うために、私を私じゃなくすために、どこまでも逃げていきたかった。

 だけどそれは止められる。いきなり後ろから何かにぶつかられた。

「嫌えるならとっくの昔から嫌ってるよ!」

聞き慣れた声が背中から私を襲った。

「いっつも、まーちゃんはずるいよ!いつもいつも傷つけられて、それなのにいつも、寂しそうに私を見てるから、だから、嫌えなくて・・・!」

腕がちぎれそうなほどきつく、抱きしめられていた。というか、しがみつかれているの方が近いのだろうか。苦しさと痛みのせいでみなの体温がわからない。

 振り払う気はなかった、これはきっと私の戒め。

「ばか、ばか、ばかばかばかばか」

みなは私の肩を何度もばんばん殴った。多分明日、背中にあざの花が咲いているんだろう。彼女の証が残ることで救われる気がした。

今思えば、私はずっと、彼女さえいれば他のことなんてどうだってよかったんだろう。これは恋じゃない。でも私にはみなしか見えない。みなに私だけを見てほしい。ずっと私だけのものになってほしい。この重さがみなを押しつぶしてしまうのもわかっている。

みなの両腕がゆっくりと解かれて、私は彼女の頬に唇を押し当てる。彼女は目を丸くして私を見つめている。

「さよなら」

みなの手を優しく握り締めてから、私は歩いていく。

ちゃんとみなを笑顔にできる人が、彼女の隣にふさわしい。

だけどもし、この広い世界の中でまたどこかで再開する日がきたら。彼女の足元に泣いて縋りたい。みなの、優しさに赦されたい。馬鹿で甘ったれな私はまだそんなことを思っていてそんなだからきっと、もう彼女には会わない。

「まーちゃん」

最後にそう呼ぶ声だけがした。


END

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まーちゃん お餅。 @omotimotiti

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