第3話
「ただいまー」
辿り着いたのは、みなの家だった。そろそろ手に汗が滲んできたから離して欲しいと思ったのに、みなはただ黙って、ずっと私を離さなかった。
「お帰りなさい。あら・・・まことちゃん?」
玄関で迎えてくれたのは、みなのお母さんだった。昔と少しも変わらない、優しい笑顔が印象的な人だ。
「お母さん、まーちゃんを休ませてあげてもいい?」
驚いたことに、みなはそう言った。ギョッとして口を開きかけるも、声が出なかった。
「勿論いいわよ!」
お母さんは優しい笑顔をくれて、その上私の心配までしてくれた。何かあったのか、大丈夫かと。居た堪れなくなってきて、二人の目をみることができなかった。汚い所なんて一つもない目だ。親子だから似てるのか、似てるから親子なのか、どっちなんだろう。
「今日はもう遅いから、ぜひ泊まって行って」
靴を置かせてもらうと、みながそう言った。この家に上がってからびっくりしっぱなしだ。みなはお母さんにすぐに許可を得てしまった。
お母さんは簡単な夜食を作ってくれた。自分で作ったというふわふわのパンと、ミネストローネは、舌が溶けるほど美味しくて甘かった。ここにいるとだんだん緊張が解けるような気がする。厚かましいことだと分かっているはずなのに、みなの笑い声やお母さんの優しさに、ゆっくりと絆されていく。一種の恐ろしさだった。こんなに幸せになっちゃいけない気がした。何か、罰が私に訪れなきゃいけないような気が。
「そうそう、まことちゃんのお母さんに、泊まること伝えておいたからね」
お母さんの声を最後に聞いて、私はみなに、二階へ連れて行かれた。みなの部屋に入るのは初めてだった。廊下を進んで、3つある内一番奥の扉が開いた。
「さ、入ってー」
今更不安を感じていた。いつもみなにいじめをしているのは私なのだ。二人きりになって、急に今までの仕返しをされる、その可能性は十分にある。復讐されるようなことをしてきたのだから。
「?まーちゃん?」
俯いていた私に、みなは首を傾げた。むしろ、仕返しを受けた方が、帰って気が楽になるのかもしれない。熱気球みたいに膨らんでくる罪悪感が消えてくれるのなら。
私は一歩踏み出す。扉をそっと越える。今更みなに対してびびっている自分は、本当にちっぽけだ。
本棚の上にはかわいい小物が並んであったり、淡い色合いのインテリアが配置されてある。一言で言うと、とてもみならしい部屋だ。物は全てきちんと整頓されていて、雑多なところがどこにもない。
みなは小さなテーブル越しの座布団に、腰を降ろした。
「まーちゃん、ここ座って〜」
私は言われるがまま、みなの向かい側に腰を下ろした。口を開くのが怖くて、何も言うことができなかった。沈黙が5分ほど続いた。
だけど不思議なことに居心地が悪くはない。みなの側にいると、私が本当に求めている人が、どうしても分かってしまう。
「・・・今日は寒いね」
みながそう言って言葉を切った。部屋が静かになる。何か言ったら全てが壊れてしまいそうだった。
「まーちゃん、もし話して楽になるなら話してね」
みなはいつも、控えめなこういう言い方をする。強制はしないし無理はしないでいいけれど、もし話したいなら聞くよと言うスタイルだ。でもそれが私のプライドを悪く刺激するってことはわからないらしい。だって今もしも私が話したら、私が話したいってことになってしまう。みなに救われたいってことになってしまう。言えるわけがなかった。
私みたいな、話しにくいやつが部屋にいるのが申し訳ない気持ちになってくる。せめて何か、話を、話題を引っ張り出してこようか。そんなことを考えてから、私の柄じゃないと、思い直す。
また沈黙が続いてから、どう言うつもりなのか、みなが自分の話をぽつりぽつりと呟き始めた。
「私ね、塾に通っているんだけど、もう、やめたいんだ。先生がものすごく怒鳴る人でそれが辛くて仕方ない。友達もできなくて、いつも一人でご飯を食べるの。すごく、寂しい」
そして両膝をキュッと抱える。
「だけどやめられないの。お母さんもお父さんも、私に期待してる。私、本当はもう何もかも全部をやめたい」
一瞬目があった。助けてと言われている気がした。
二人で、逃げちゃおうか。こんなばかみたいな世界、全部捨ててさ。二人でここを出て、どこか働き手を探して、小さなアパートを借りて住もうか。私が帰ってくると扉の前では晩御飯のあったかい匂いがして、みなが笑顔でおかえりを言ってくれる。寝る前は二人でテーブルの前に座って、小さなテレビで古い映画を見る。みなが涙して私は彼女を揶揄う。悔しいことや腹の立つことだってあるだろうけど、みなが一緒にいてくれるなら。多分私は幸せに。
また部屋が静かになって、俯いていたみなが、笑みを作って顔を上げる。少し痛々しかった。
「まーちゃんは黙って私の話を聞いてくれるね」
ずき、と何かが張り裂けたような感覚を受ける。違う。何も言えない、それだけだ。みなに感謝されるようなことなんて何もしてない。急に熱い衝動に襲われた。全部吐き出してしまいたくなる。もしも今、私の汚いところも全部曝け出したらみなはどんな目をするんだろうか。少し怯えて、でも見放さないでくれるんだろうか。
しばらくしてお風呂を貸してもらった。ほかほかした身体に、借りたパジャマを通す。いつもと違う柔軟剤に包まれた。レモンみたいにほろ苦い。
みなと入れ違いで部屋に入るとそこには布団が二つ敷かれてあった。ここまでしてもらうと居た堪れない。シャワーの余韻でまだ音を立てている鼓動が、ヒヤリとした空気に覆われる。不快さよりむしろ、安心する。ここが自分の居場所のような気さえする。布団に転がってから髪が濡れていることに気づく。乾かさないといけない。その思考はだんだん隅へと離れて、フェードアウトする。
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