後編




 ――― 空は晴れわたっていた。


 輝くばかりの空からは、燦々さんさんと真昼の陽射しが照りつけていて。

 その下には、ただ見渡すかぎりに黒く、葡萄の実が広がっていた。

 あまりに巨大なかごおけに、葡萄がめてあるのか。

 それとも大地を一面に、葡萄の実で埋め尽くしたのか。

 頭がぼうとしているようで、その判別もつけられない。


 いっそ気味が悪いほどに白くかがやく陽の光。

 それに照らされ黒ぐろと光る一面の葡萄。




 その二つの間を、飛びねている影がある。

 いくつもの影が、踊るように脚を、総身をはずませて。


 何人か ――― というべきなのかはわからない。

 跳ねる脚があり、揺れる腕があり、激しく振るう頭があり、おおむねは人の形をしているものの、脚の形はあきらかに人のそれとは異なっている。

 鹿か、山羊か、猪か。そんなものを思わせながら、そのいずれとも違うような、毛に覆われた脚を跳ねさせて。

 一面ひろがる葡萄の実を踏み潰している。


 収穫された葡萄を足で踏み潰し、表皮に付いた酵母菌を果汁に混ぜて発酵させる。

 欧洲での、古い葡萄酒ワインの造り方を見るようだった。




 そう大柄な体躯でないのに、その影どもは、余程よほどに力が強いのか。

 そいつらが一跳ねすれば、葡萄の山はぐしゃりと潰れ、赤い飛沫しぶきがはじけ飛ぶ。

 獣じみた脚の先に尖っている硬い爪で踏み潰されて、積み重なった葡萄の実が、一跳ねごとに果汁の水柱に変わる。


 そしてどういう訳だろうか。

 あふれた果汁はぶつぶつ泡立ち、うねくるように波を立たせて渦を巻く。

 陽光に照らされながら、赤黒い沼は、豊かな薫りを沸きたたせる。

 その薫りたるや、頭のなかに渦を巻かせて ―――。


――― ああ、あの薫りだ。


 土色の陶製の瓶に封じられていたあの芳醇な薫りそのものが、この謎めいた奇怪な世界に満ちていた。


――― そしてやつらが、あの爪の持ち主だ。

――― 古びて乾ききっていた、何の獣の爪ともつかぬあの黒い、割れた爪。

――― あれはやつらの爪なのだ。


 頭をとろかすような薫りが、ひときわ強く鼻をおかす。

 いつの間に立っていたものか。

 の一人、いや、一匹か。とにかくそいつが、すぐ目の前に立っていた。




 そいつの背丈は私より低く、この陽光の陰となって顔をうかがうことはできない。

 ただ、髪と呼ぶには獣毛じみた長い毛が絡みあいながらそいつの頭を覆っていた。


 そいつはこちらに手を差し出した。

 いや、前脚と呼ぶべきだろうか。五本の指はあるものの、節くれだって毛が生えて、爪は鷹のそれを思わせるほどに長い。


 その、手と呼ぶか前脚か、とにかくそいつは一本の、大きな角のようなものをこちらへ向かって差し出した。

 切断面は上に向けられ、中が空洞になっているのが見て取れる。ただの角というわけではなく、西洋美術に描かれている角杯によく似ていた。

 その中には、赤黒いものがなみなみ満ちている。

 その表面から、あの薫りが立ちのぼっては、私の鼻孔をおかし続けた。


 蠱惑の薫りに鼻をかれるようにして、角杯に口を近づけたその瞬間。

 私の目に、満たされた液体の表面がとらえられた。

 そこに映る、このひづめを持った生き物の、顔と、表情。


 それを見て取ったとたん、私は角杯を振りはらい、叫びながら逃げ出した。






 目を醒ますと、そこは長次郎と葡萄酒ワインを飲んだ、西澤の家のあの部屋だった。

 頭が重い。さんざん葡萄酒ワインを痛飲したのを今さらのように思い出した。

 長次郎も畳の上に寝穢いぎたなく仰臥している。


 その肌の色が、あの瓶のような土色に近づいていること。

 いびきをかく癖のある長次郎が何の音も立てぬまま倒れ伏していること。

 そこから導きだされた恐怖に、酔いの残りと眠気とがすべて吹き飛んだ。




 長次郎の死因については急性の酒毒であろうと診断された。

 西澤の遺族の人びとは私を責めることもなく、あの爪を破棄するよう勧めたときも、あっさりと聞き入れてくれた。

 ただ、家族が命を失った、その原因とされた葡萄酒ワインを改めて造ろうという気にはならなかったようで、村を葡萄酒ワインの一大産地にせんとする長次郎の夢は潰えることとなった。


 だが私の脳裏には、あの酔いのなかで見た、不思議にして奇怪な夢のありさまとともに、倒れていた長次郎の顔が焼きついて、数年たっても消えなかった。

 長次郎はその顔に、まことにその魂がとろけて消えて流れたような笑みを浮かべてこと切れていた。


 あの笑顔は、一体、何に起因するものなのだろうか。

 長次郎も、あの夢を見ていたのだろうか。

 私が振り払った杯を、彼は受け取り、口にしたのではないだろうか。




 そんなことを思い返すのは、あの酒と、あの黒い爪に繋がるものがひとつだけ、私の手に残っているからだ。


 あの晩の部屋の中、畳の上、ちょうど私の手許てもとに散らばっていた紙。

 意味もわからぬ洋文と図面とに満ちた得体のしれぬ古びた羊皮紙。

 一体どうしてそうなったものか、その一枚がふところのなかに紛れていたのを、後になって気がついたのだ。


 今もってなお、その文章は読み解けず、図像の多くも一体なにを意味しているやら見当もつかず。

 だが、どうやらどこかの地図らしき図と、忘れもしない、あの黒い爪が紙のうえに跡をつけたらこのようになるだろうかという形は、はっきりと認められる。




 私は紙に顔を寄せ、文字と図像に目を凝らす。

 紙のうえに記されたものが、ゆらゆらと跳ねるようにうごめく。

 鼻の中を、あのかぐわしい薫りが満たし、文字は一層、誘うように踊って見せる。


 この赤黒いインクの跡から立ちのぼってくるこの薫り。

 恐ろしくも忘れがたい、あの葡萄酒ワインの芳香だ。

 この文字と図像は、おそらくはあの酒をインクに用いて記されているに違いない。


 忘れようとして忘れられない。てようとして棄てられない。

 いつか私は、このかすかな手がかりをよすがとして、あの酒と爪を探そうとするのではないか。そんな予感が、薫りとともに強まってくる。




――― Yancultoonヤンクルトーン


 その謎めいた洋字は、羊皮紙の上にひときわ大きく、赤く記され、誘うように跳ね踊っている。



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ヤンクルトーンの爪 武江成緒 @kamorun2018

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