ヤンクルトーンの爪
武江成緒
前編
「この村を日本の
そう言って西澤長次郎が、宝物でも扱うように抱えてきた品。
二尺ばかりの細長い木箱だった。
古び黒ずんだその
――― Yancultoon
――― ヤンクルトーン。
畳に置かれたその箱の、
長次郎は丁寧な手つきとなり、ゆっくりと綿をほどいて、くるまれていたそれの姿をあらわにする。
それは獣の爪だった。
箱よりも古びたそれは、黒く干からびて痛んではいるが、牛や猪のそれのように二つに割れた
ちょうど小児の足首くらいの大きさをしたそんなものが、どうして切り札になるのだろうか。
大きな目玉をぎらつかせている長次郎は、ただ笑みを浮かべているだけだ。
旧友とはいえ、この状況は気味が良くない。
西澤の家は村の旧家だけあって、そもそもが古めかしいさに満ちみちている。
その屋敷のはずれ、ほとんど離れのような場所がこの部屋で、日も暮れた今では、母屋からの音や気配も届きはしない。
それに加えてこの部屋には、妙な品が多すぎる。
筆頭はこの獣の爪だが、“
私の右の
とはいえ、気味が悪いと断じるのも、友に対する非礼であると思い直した。
これらの品も、熱に浮かされたがごとき態度も、長次郎がこの村のために心血を注いできたその表れなのであろうから。
山梨県に葡萄酒会社が興されて、西洋風の
酒造にまわる米を節約し、また米作に適さぬ土地を活用せんとす政府の国策もあって、日本各地で葡萄栽培がすすめられ、
U県北部、中国山地東部に抱かれているこの村は、気温と雨量、昼と夜の寒暖差などからして、山梨や信州といった葡萄栽培のさかんな地にも見劣りしない良い葡萄の収穫が見込めるとして、大地主である西澤家の主導のもと、数年前から葡萄栽培を行ってきたのだが。
「しかし、そう簡単に
率直に疑義を呈する。
山梨や新潟で
はるか欧洲に留学してその製法を学び取り、日本の風土にあわせて試行錯誤をくりかえし、それでも西洋
そもそも日本人の舌にはいまだ
この村の地主の息子として大阪の農学校で学び、欧洲へ半年ばかりの留学までした長次郎がそれを知らない訳はなかろうと、そう思ったが。
「その切り札がこの爪だというわけさ。
洋行の旅のなかでこれを手に入れたのはまさに
疑うなら、論より証拠、こいつを味わってみるといい」
そう言って出してきたのが、一
瓶といっても
その薫りが鼻孔に充満するや否や、頭のなかに渦が巻くと同時に光が満ちた心地がした。
そしてその、幻視のなかの赤色は、
赤い、あまりに赤い。そして深い。
傷から流れたばかりの血を、あるいは深い夜の闇を思わせる、美しい、しかしどこかしら妖しげな色。
それはむしろ手を伸ばすことを
だが、躊躇など一切みせず杯を一気にあおった長次郎の勢いと、そのあまりに魅惑的な芳香とがあいまって、恐るおそる、その液体に口をつけた。
魂魄がはじけ飛んだ。
もはやこの赤い液体に誘われるまま、否、赤い沼へとみずから望んでずぶりと沈んでゆくように、二人して杯をかさねる手は止まらず。
新たな一口を舌のうえへと転がすたびに、口中が沸き、身体の中身が心とともに蕩けてくる心地となり。
ただ、これほどの美酒の誕生に、あの古い獣の爪が、一体何のかかわりがあるのだろうか。
そのことを漠然と考えていたような気がする。
意識を失ったのは、果たして何杯を干したころか、それもまったく記憶にない。
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