ヤンクルトーンの爪

武江成緒

前編




「この村を日本の葡萄酒ワインの一大産地とする、これがそのための切り札さ」


 そう言って西澤長次郎が、宝物でも扱うように抱えてきた品。

 二尺ばかりの細長い木箱だった。

 古び黒ずんだそのおもてには、なにやら文字が黒く書かれているようだ。


――― Yancultoon

――― ヤンクルトーン。


 畳に置かれたその箱の、ふたに書かれた羅馬ローマ字を、明瞭に判別する間もなく、ぱかりと開かれたその中は、黄ばんだ綿で満たされていた。

 長次郎は丁寧な手つきとなり、ゆっくりと綿をほどいて、くるまれていたの姿をあらわにする。


 それは獣の爪だった。


 箱よりも古びたそれは、黒く干からびて痛んではいるが、牛や猪のそれのように二つに割れたひづめのようだと、かろうじて見てとれた。

 ちょうど小児の足首くらいの大きさをしたそんなものが、どうして切り札になるのだろうか。

 大きな目玉をぎらつかせている長次郎は、ただ笑みを浮かべているだけだ。




 旧友とはいえ、この状況は気味が良くない。

 西澤の家は村の旧家だけあって、そもそもが古めかしいさに満ちみちている。

 その屋敷のはずれ、ほとんど離れのような場所がこの部屋で、日も暮れた今では、母屋からの音や気配も届きはしない。


 それに加えてこの部屋には、妙な品が多すぎる。

 筆頭はこの獣の爪だが、“充棟じゅうとう”という言葉そのままに大量の書が集められ、幾つかは畳の上に積まれている。

 私の右の手許てもとにも、一体どういう品物なのか、古ぶるしい紙がちらばり、赤黒いインクで記された、やはり洋字らしきものや奇妙な図面に満ちていた。


 とはいえ、気味が悪いと断じるのも、友に対する非礼であると思い直した。

 これらの品も、熱に浮かされたがごとき態度も、長次郎がこの村のために心血を注いできたその表れなのであろうから。




 山梨県に葡萄酒会社が興されて、西洋風の葡萄酒ワインの醸造と販売を始めたのが二十年あまり前。

 酒造にまわる米を節約し、また米作に適さぬ土地を活用せんとす政府の国策もあって、日本各地で葡萄栽培がすすめられ、葡萄酒ワインの醸造も芽吹きつつある。


 U県北部、中国山地東部に抱かれているこの村は、気温と雨量、昼と夜の寒暖差などからして、山梨や信州といった葡萄栽培のさかんな地にも見劣りしない良い葡萄の収穫が見込めるとして、大地主である西澤家の主導のもと、数年前から葡萄栽培を行ってきたのだが。




「しかし、そう簡単に葡萄酒ワイン造りが成功するものなのか」


 率直に疑義を呈する。

 山梨や新潟で葡萄酒ワイン造りが進められてはいるものの、聞くかぎりではその道のりは並大抵ではないようだ。


 はるか欧洲に留学してその製法を学び取り、日本の風土にあわせて試行錯誤をくりかえし、それでも西洋葡萄酒ワインの質にはまだまだ及ばないというのが現状だ。


 そもそも日本人の舌にはいまだ葡萄酒ワインそのものが受けつけがたいという面もある。先達の醸造業者も、葡萄酒ワインを飲み慣れぬ人にむけて、蜂蜜をくわえ甘口にするなど工夫をこらしているそうだ。


 この村の地主の息子として大阪の農学校で学び、欧洲へ半年ばかりの留学までした長次郎がそれを知らない訳はなかろうと、そう思ったが。




「その切り札がこの爪だというわけさ。

 洋行の旅のなかでこれを手に入れたのはまさに僥倖ぎょうこうそのものだった。

 疑うなら、論より証拠、こいつを味わってみるといい」


 そう言って出してきたのが、一びん葡萄酒ワインだった。

 瓶といっても硝子ガラス製でなく、これまた古びた土色の陶器というのが気にはなったが ――― コルクの栓がはずされて、用意された硝子杯グラスにその中身が注がれるや否や、私は瞠目どうもくすることとなった。


 その薫りが鼻孔に充満するや否や、頭のなかに渦が巻くと同時に光が満ちた心地がした。

 燦々さんさんと照らす陽光のもと、目に灼きつくような緑がはじけしげり、赤い実がこぼれ雪崩なだれる、そんな幻視が目の前に広がった、そんな思いが確かにした。

 そしてその、幻視のなかの赤色は、んだ硝子の杯のなかに現実の液体となっておさまって、こちらを誘おうとするかのようにその艶姿あですがたを見せつけているのだった。


 赤い、あまりに赤い。そして深い。

 傷から流れたばかりの血を、あるいは深い夜の闇を思わせる、美しい、しかしどこかしら妖しげな色。

 それはむしろ手を伸ばすことを躊躇ちゅうちょさせた。


 だが、躊躇など一切みせず杯を一気にあおった長次郎の勢いと、そのあまりに魅惑的な芳香とがあいまって、恐るおそる、その液体に口をつけた。




 魂魄がはじけ飛んだ。

 もはやこの赤い液体に誘われるまま、否、赤い沼へとみずから望んでずぶりと沈んでゆくように、二人して杯をかさねる手は止まらず。

 新たな一口を舌のうえへと転がすたびに、口中が沸き、身体の中身が心とともに蕩けてくる心地となり。


 ただ、これほどの美酒の誕生に、あの古い獣の爪が、一体何のかかわりがあるのだろうか。

 そのことを漠然と考えていたような気がする。


 意識を失ったのは、果たして何杯を干したころか、それもまったく記憶にない。

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