娼館の親仁が子育てを語る話
しゅるしゅると衣擦れの音。
俺の目の前で服を脱いでいるのは大柄な女だ。
肌着だけになった女は、肩紐がずらした。体格に相応しい豊満な乳房が顔を出す。
それから女は俺の手から赤ん坊を受けとった。
「可愛い子ね。やっぱりオズマの旦那の子なわけ?」
訊ねて来る女に、健康的な色気はあれど恥じらいはなかった。
俺だって女の裸は見慣れているから、臆することなく軽口で応じる。
「んなわけあるか。知り合いから預かった子だよ」
「ふーん……?」
何かいいたげな目線で俺を眺め、ついで赤ん坊の口に乳首を含ませる女の名はリトラと言う。
元娼婦の彼女は、年季が明けて馴染み客だった商人と結婚。
三ヵ月ほど前に夫婦待望の子供が生まれたばかりだ。
「それよか悪いな。わざわざ足を運んでもらってよ」
「ううん、構わないわよ。うちの子が飲み終われば持て余すだけだし。それをこうやって飲んでもらえば胸も張らなくて痛くならないし」
屈託なく赤ん坊に授乳してくれるリトラ。
いわゆる乳母として俺が声をかけたのは、顔見知りであることはもちろん、彼女の口の堅さを見込んでこそ。
こんな姿になっちまったが、この赤ん坊の正体は亡命してきた魔族のイーヴ姫だからな。
サキュバスであるイーヴ姫は、男の精気を糧にしている。
サキュバスという種族自体、精気を定期的に摂取しないと、自身が干からびるように老けてしまうらしい。
その精気を過剰摂取した反動か、逆に赤ん坊になるまで若返ってしまったのが今の姫さまの実情となる。
若返る仕組みなんざ見当もつかないが、彼女をこんな状態にしてしまった俺の責任は大きい。
なのできっかり元に戻るまで面倒を見ると決めたわけだが、娘が山ほどいる俺の娼館も、さすがに乳の出る女はいなかった。
母乳がなければ赤ん坊は育てられない。
なので市井に貰い乳を求めた次第である。
「うーん、いい子だねぇ」
乳を飲ませ終わり、リトラが姫さまの頭を撫でている。
姫さまも、けぷっと可愛らしいゲップをもらして上機嫌で笑い始めた。
服を着て居住まいを直しているリトラに、俺は改めて礼を言う。
「ありがとよ。こいつは手間賃だ」
懐紙に包んでおいた硬貨を渡す。
受け取ったリトラは顔色を変えた。
「ちょいと旦那! こんなにもらえないよ!」
彼女の手には金貨が一枚。
「いいから取って置いてくれ。なあに、これきりじゃなくて、また何度も足を運んでもらうんだ。その分の苦労も前渡しさ」
「でも……!」
「なんならおまえさんの赤ん坊に、新しい
渋るリトラを説き伏せて、どうにか了見してもらう。
「これで風呂にもタダで入って行けって、本当に良いの?」
申し訳なさそうなリトラだったが、そもそも授乳じゃなくて風呂に入るって名目で来てもらっているんだ。風呂代をロハにするのは当然だわな。
「その替わり、この赤ん坊のことはコレな」
唇の前で一本指を立てる俺に、リトラは苦笑しながらもしっかりと頷いてくれる。
「はいはい。わかりましたよ」
「おう。今度はおめえの赤ん坊の顔も見せに来てくれよな」
リトラは支配人室を出ていき、部屋の中には満腹になった姫さまと俺が二人きりだ。
「いいよな。おめえさんは悩みがなさそうでよ」
揺りかごの中に横たわる赤ん坊、もとい姫さまに語りかける。
小さな唇の端に涎が流れていたので拭ってやった。
ついでにふくふくとした頬をくすぐれば、丸っこい手足が上下にバタバタと動く。
「ん? なんだ? こうすると気持ち良いのか?」
キャッキャと声を張り上げる姫さまの、紅葉みたいな小さな手を指先でくすぐれば、ぎゅっと掴まれた。
魔族といっても、人間の赤ん坊とほとんど変わらない。可愛いもんだ。
「……オズマ殿」
「!?」
背後から声をかけられて飛び上がりそうなほど驚く。
振り返れば、ダークエルフにしてイーブ姫の従者である通称ロロことロロスロウが立っていた。
相変わらず、豊満な身体付きが男の本能に訴えてくる美女である。
「おめえさん、ちょいと心臓に悪いぜ。いるならいるってもう少し早く声をな」
「申し訳ない。あまりにもオズマ殿が楽しそうだったもので」
「………そうか?」
「確かに姫さまであるということを鑑みても、赤子というものは愛らしいな」
なんとなくバツが悪い俺を差し置いて、ロロは姫さまを抱き上げた。
「もし、己が腹を痛めて産んだとあれば、どれだけ愛らしく感じるものか……」
胸に埋もれるように抱かれた姫さまは、無邪気に従者の褐色の深い谷間へ手を突っ込んでる。
「しかし、いくら私が望めど、種を貰わなければ孕めない。
そう言えば、お手前の奥方は妊娠中であるな。となれば夜は無聊を囲うことになるのではないか? いや何も他意はない話だが」
「余計なお世話とだけは言っておくぜ。おめえさん、姫さまを風呂に入れるって迎えに来たんだろ? さっさと行った行った」
「相変わらずつれないな」
軽い溜息と、何とも妖艶な流し目を残してロロも支配人室を出て行く。
姫さまへの授乳以外の、湯浴みやおむつの交換、寝かしつけといった仕事は彼女が一手に引き受けている。
褐色の肌を持つダークエルフであるロロはすこぶる目立つ。
加えて、ダークエルフ自体も魔族の眷属ってことで、人間の暮らす国じゃあ滅多に見かけない。
なので外出するときはフードを目深に被り、出来るだけ正体を隠すようにしていた。
基本的に俺の店の一角の部屋に籠ってもらっている状態なのだが、それを逆手に取って、彼女は療養中の客人、という設定にしている。もう一人の従者である小鬼のタメラが専属で世話をしつつ出入りをすることによって、一応、彼女を含めた姫さま一行が潜伏している秘密は保たれている格好だ。
はっきりいって如何にも怪しい設定なのだが、娘たちに説明するとみんなあっさりと納得してくれた。
彼女ら曰く、俺の訳ありナイショ話は今に始まったことじゃないから、だと。
……そんなに秘密ごとや厄介ごとばかり持ち込んでいるつもりはないんだが。
トントン、と支配人室のドアがノックされる。
あいよ、と俺が返事をすれば、入ってきたのは今やうちの店でも稼ぎ頭のクエスティン。
「あれ? イーちゃんは?」
「ん? イー坊だったら、さっき部屋に戻ったぜ?」
これはむろん赤ん坊になったイーヴ姫の渾名だ。
ロロがダークエルフであることを隠す一方で、さすがに赤ん坊の存在を隠すことは出来ない。
グズればすぐ泣き出すし、おしめを中庭で干しておいて知らぬ存ぜぬじゃおかしいからな。
なので、療養中の客人の赤ん坊の面倒を見ているというていで、娘たちにはぶっちゃけていた。
日中は授乳やら何やらでけっこうな頻度で支配人室にいるイーヴ姫。
彼女見たさに、娘たちはこうやって遊びにくる。
「ふーん、残念」
つまらなそうに鼻を鳴らすクエスティンだったが、なぜかそのまま立ち去ろうとしない。
どうした? と俺が首を捻れば、彼女はこう訊いてきた。
「ところで、ミトさんの具合どうなの?」
「おう。アイツだったらようやく
女房であるミトランシェが妊娠したことも、娼館にいる娘たちには周知されていた。
むしろ俺が発表するまでもなく、女房殿が触れて回ったらしい。
「ようやくヒュレオの実の山を見ないで済むぜ。あれは眺めるだけで口の中が酸っぱくなるもんあ……」
妊娠すると味覚が変わり酸っぱいものが欲しくなるってのは話に聞いてはいたが、あの量は尋常じゃなかった。
しみじみと述懐していると、クエスティンの俺を見て来る目付きが険しい。
「ミトさんが妊娠したってことは、支配人さんとシたからってことだよね?」
「おいおい、なに当たり前のことを言ってやがる?」
ファンタジーであるこの世界だったが、さすがに木の股から子供は生まれない。
相手が妖精族と呼ばれるエルフであっても、人並みの手順を踏まなきゃ子供が作れないのは当然だ。
「あたしたちが一生懸命お客の相手をしているのをよそに、支配人さんはせっせとミトさん相手に励んでいたんだ……?」
「いや、さすがにおめえたちが働いている間にはシてなかったぜ。するのはだいたい客も帰ってようやく眠れるって朝方の頃合いでな。こちとら眠くて仕方ないのに、アイツときたらそんなことお構いなしでよ」
「……そういうことを言ってんじゃないのに」
小声で呟き、ぷい、と顔を逸らすクエスティン。
「はん? どういうこった?」
俺の疑問を無視して、イラただしげに支配人室を出ていってしまった。
「なんだよ、てめえで話を振っておいて、なんで不機嫌になってんだ?」
憮然として椅子に背中を預ければ、すぐ横から声がする。
「いやあ、愛されてますねぇ旦那」
何が楽しいのかニヤニヤする痩身の黒衣の野郎が立っていた。
「なんだ、ベー助、いたのか」
「だからあたしの名前はサイベージで……って! なんですか、その呼び方。原型もほとんどないじゃないですか」
墜落寸前のカラスのように両手をバタバタさせるサイベージを横目で睨む。
「それよか、愛されているってなんだよ?」
「そんなこと、あたしの口からはとてもとても」
お道化た仕草で肩をすくめるサイベージに、なんかムカつく。
「ところで旦那。父親になるってどんな気持ちです?」
「そりゃあおめえ……」
出し抜けのこの質問に、不覚にも言葉につまってしまう俺。
というのも、俺はこの世界の人間じゃない。
元々生きていた現代日本から、この世界に落ちて来たらしいマレビトだ。
現代日本の価値観や知識は覚えている。
それでも俺に関することだけが、スッポリと記憶から抜け落ちていた。
なんなら尾妻連太郎って名前も、本名かどうか分からないくらいだ。
そんな怪しい記憶を紐解いても、元いた世界で俺が結婚して子持ちだったことは、多分ない。
もっともその根拠は、こっちの世界に来た時の肉体年齢が二十歳そこそこだったって直感だ。勝手にそう思ってるとだけ、と言われりゃ返す言葉もないが。
翻って、俺がこの異世界に来て軽く二十年以上は経っていた。直感に従えば、俺は四十も半ばを過ぎていることになる。
一般的に、齢を喰ってから子供をこさえると色々と大変だ。
子供を育てるのには体力と気力が必要だって言うし、その子供が成人する頃にゃ俺も六十を過ぎているはず。
文字通り初老に片足を突っ込んでいるわけで、身体にガタが来て子供にやっかいをかける心配が――って、その齢まで生きられるかどうかも疑問だな。
なにせこの世界の医療技術はまだまだ未発達。
回復魔法があって怪我は治せても、病気までは治せない。
下手をすりゃロクロク成長しないうちに俺が死んでしまう可能性もある一方で、子供が路頭に迷ったりすることはないだろう。
なぜなら俺の女房ミトランシェは、妖精族、別名長命族ともよばれるエルフの娘だ。
実際にどれだけ生きているかは俺も知らない
ってなことで、生まれた子供の行く末に関しては、さほど心配しなくて済む。ありがたいことにな。
と、だらだらと前置きが長くなってしまったが、俺自身、親になると聞かされて真っ先に思い浮かべた感情と言えば。
「そりゃあ嬉しかったよ。めちゃくちゃ嬉しかったな」
子供が出来たと告げられて驚きはしたが、直後に溢れてきたのは心の底からの感激だった。
クエスティンからも言われた通りヤることはヤっていたが、もともとエルフは妊娠率が低い。種として長命すぎるため、生殖、繁殖能力が弱いのだとか。
人間とのあいだには格段に子供が出来やすくなるという話だが、元からの確率は低いし、俺もそろそろ齢だしと、特に避妊はしていなかった。それがまさか本当に出来るとは。
もしあのとき赤ん坊のイーヴ姫を抱えてなかったら、ミトランシェを抱え上げて「でかした!」と叫んでいたかも知れない。
「自分の血肉を受け継いだ存在がこの世に生まれてくるんだ。俺が死んでも、俺という存在があったことが受け継がれていくってことだろ?」
「だったらもうお嬢さんがいらっしゃるじゃないですか」
「マリエか。あいつの場合―――」
ここヒエロで幻翆苑という高級娼館を切り盛りする女主人マリエは、俺の娘だ。
それはともかく、マリエは実の娘だけれども、あまり自分の子だと実感がないのが本音だ。
というのも、遡ること20年以上昔。
翡翠の森でミトランシェとたっぷりと情を交わしたあと、別れた俺は一人旅へと戻った。
その時点でミトランシェが妊娠しているかどうかなんて知り様はなかったし、彼女も俺に連絡してこなかった。
実際に産んだことさえ知らされていなくて、俺が娘と初めて引き合わされたのは、例の四年に一度の蒼月祭の晩である。
遠く翡翠族の村からの移動魔法を使って現れたミトランシェ。
彼女のちっこい身体に隠れるようにして、足にすがりつくさらに小さな影。
「誰だ、この嬢ちゃんは?」と尋ねる俺に、「あなたの娘」ってあっさりと答えられて、感動するより
ちなみにエルフもハーフエルフも、15歳くらいまでは人間と成長速度は変わらない。
あの頃3歳だったマリエは、当時まだ娼館の運営を始めようと四苦八苦していた俺が引き取れるはずもなく。
あっさりとミトランシェと一緒に戻っていったマリエが、エルフの隠れ里を飛び出してきたのは成人してから。
俺を尋ねてヒエロまでやってきて、なぜか父親と同業に落ち着いたのはさっき説明した通りだ。
「―――あいつの場合、生まれたての赤ん坊の頃を見てないし、ほとんど俺が育ててないからなぁ」
人によって薄情と思われるのは承知の上だ。
それでもやはり、幼少期に接して来た時間も記憶もないことはどうしようもない。
その分、成人して俺を尋ねて来てからずいぶん甘やかしたと思っている。いや、少し甘やかし過ぎたか?
銀煙管を贈ったり、あいつを働かせるために高級娼館を作ったり、今も訪ねてくるたびに、なんだかんだいって昔集めた戦利品を持っていかれたり。
……いや、間違いなく甘やかし過ぎてたわ。
「とは言え、旦那の娘さんに間違いないですからねえ」
しみじみ抜かしやがるサイベージ。
「ったりめえだ。エルフの一途さをおまえは知らねえのか? アイツらは一人を
俺が真顔でそういうと、サイベージの野郎は目を白黒させる。
「そりゃミトランシェさんが浮気をするなんて微塵も疑っていませんよ? つまりはマリエさんの性格面の話でして」
「確かにアイツは口も悪けりゃ態度も悪いな。おまけにクソ度胸で生意気で―――褒めるところがあれば筋を通すことくらいか。ったく、いったい誰に似たもんやら」
「……旦那、それって本気で言ってます?」
「あん? どういう意味だ?」
なぜかサイベージのやつは天を仰いでいた。
なんだよ、言いたいことがあるならはっきり言えや。
俺がそう凄もうとした矢先、サイベージは悟りを開いた坊さんのような表情で告げてくる。
「ほら、旦那にそっくりな娘さんがやってきましたよ」
間もなく支配人室のドアがノックされた。
返事も待たず乱暴に扉が開け放たれる。
噂をすればなんとやら。現れたのは両手に荷物を抱えた俺の娘、マリエだった。
ぜーぜーと肩で息をする姿には、いつもの居丈高で斜に構えた雰囲気は微塵もない。
ご自慢の黒曜鳥のような艶のあるドレスの裾も、持っている荷物に巻き込まれてずり上がり、膝小僧まで見えてるじゃねえか。
「おめえ、そんな艶姿で買い物をしてきたんか?」
俺の皮肉にマリエは答えない。
なお痩せ犬みたいにぜーぜー言いながら、半ば叫ぶように口にしたのは一言だけ。
「水か酒!」
「はいはい、こちらをどうぞ」
心得たように酒を満たしたコップを持つサイベージ。
それを引っ手繰るように受け取って、マリエは一気に呷る。
「……ぷはー! 生き返った!」
言動もろもろが全て所帯じみていてオヤジ臭い。
ってか、こんな姿を晒していたら百年の恋も冷めるぜ?
まったく、誰がこんなあーぱー娘を嫁に貰ってくれるものやら。
呆れて眺めていると、コップを放り出したマリエは持っていた荷物を解き、次々と来客用の大きなテーブルの上に並べ始めた。
「まずはおしめでしょ。こっちは産着に粉末油脂。それと匂い消しの香油に……」
「なんだ、イー坊への差し入れか。悪ぃなあ」
並べ立てられた赤ん坊の世話道具に、俺は礼を言う。
我が娘ながら、なかなかどうして気が利くじゃねえかよ。
「イー坊?」
しかし返ってきたのは剣呑な目つき。
「なんなのよ、そのイー坊ってのは?」
「いや、そいつは……」
あれ? 考えてみりゃ、マリエに
うちの娘たちは余計なことを口外しないようみっちりと仕込んでいたし、授乳に来てくれる連中にもしっかり口止めしていたから、漏れ聞こえるはずもないわけで。
「……とにかく何なんだ、この荷物の数々は?」
「そんなの、生まれて来る父さんたちの子供用に決まってるじゃないの!」
「気が早ええよ!?」
確かミトランシェも妊娠して三、四か月ってところだろ? 生まれるのは半年も先じゃねえか!
「こういうことはいくら早くてもいいのよ!!」
返ってきたのは、あろうことか逆ギレである。
「にしたって、おめえ……」
「何よ! 全部あたしが稼いだ金で買ってきたのよ? 父さんに文句を言われる筋合いはないわね!」
親子で軽く修羅場っていると、サイベージが一人ニコニコと言った。
「いやあ、お二人して、新しい家族が増えるのが嬉しくてたまらないんですねえ」
さすがに面食らってしまう俺の前で、マリエは顔を真っ赤にしながらサイベージに詰めている。
爪先の尖った靴でサイベージを蹴り回す彼女の言動は、俺よりよほど直截的だ。
「そんなのッ! 他人様からッ! 言われる覚えはないわッ!」
「ああ! すみません! ごめんなさい! 脛は、脛はやめてくださぁあい!!」
さんざん脛を削られてサイベージが逃げるように部屋から退散したあと。
またもや肩で息をするマリエに、俺はソファーを勧めた。
「……ありがと」
一応礼を言ってから座るのは上等だが、流れるような仕草で部屋にあった酒の封を切り、カップに注いでいるのはどういう了見だ?
「ごめん。ちょっとあたしも興奮してたみたい……」
カップの中身を飲み干して、思ったより殊勝なことを言ってくるマリエに、俺も口から出かけた文句を飲みこむことにする。
「だったら別にいいさ」
俺も支配人席からソファーへと河岸を変えた。マリエの対面に腰を下ろす。
互いに口を開かず、しばしの沈黙が流れたあと。
「……その、なんだ。やっぱりおまえもきょうだいが増えるのは嬉しいのか?」
訊ねる俺に、マリエは一瞬「な……!」といきり立つ素振りを見せたが、すぐに消沈。
コップを両手に持ったまま素直に頷く。
「そりゃあね。故郷にも齢の近いきょうだいなんて滅多にいなかったし」
エルフたちが多く住まう隠れ里。
エルフ同士の妊娠率が低いのはさっきも説明した通りだが、なるほど、そうなると兄弟姉妹なんてのは滅多に産まれないものか……って、うん? ううん?
「おめえ、齢が近いって……」
現在のマリエは二十歳を幾つか過ぎている。
今から生まれて来る子とは少なくとも20以上は歳の差があるわけで、、世間じゃ親子ほど離れているってやつでは?
「エルフ同士なら、百年単位で離れているなんてザラよ?」
「……。そういうもんかい」
エルフの時間間隔が壮大過ぎて気が遠くなる。
「楽しみだなあ。きっとあたしに似て可愛い子に決まってるし!」
エルフから生まれるエルフやハーフエルフは、例外なく親と似た秀麗な見た目になる。なのでマリエの台詞を自画自賛とは言うまい。
男親である俺の容姿はどうでもいいとサゲられている気がしないでもないが、可愛い子が良いってのには反論出来ないな。
「ね、ね! 父さんはやっぱり男の子の方が良い?」
「男か……」
そう言われれば男の子が欲しいかも知れん。
既に娘がいるってこともあるが、男親としてはより価値観の共有できる同性の子供もワクワクする。
一緒に泥だらけになって取っ組み合って遊んで、喧嘩の仕方とかも教えてよ。
「だったらさ! もう名前を決めちゃわない!?」
「だから気が早いっての」
目をキラキラさせて少女みたいにはしゃぐマリエに苦笑する。
「さっき言ったかも知らんが、出産はまだ先だぜ? 産む当人が慌ててねえのに、俺らが浮足立ってどうするってんだ。慌てず騒がず腰を据えて、どっしりと構えていりゃいいんだよ」
我ながら中々の説教だな、と自画自賛していると、どっこいマリエの浮かべた表情は、微妙。
「なんだ? まるでカエルを丸のみしたみたいなツラしやがって」
「……父さんは気づいてないの? 母さん、めちゃくちゃ浮足だってるよ?」
「へ?」
唖然とする。
んなわきゃあるか。そりゃ子供が出来たと自慢げに報告はしてきたが、あれから態度も何も変わってねえはずだぞ?
「そっか。やっぱり父さんには見えてないんだ……」
またもや意味深に言ってくるマリエに、俺もはたと思い当たる。
「そういやおまえ、以前、精霊がどうとか言っていたよな?」
あの時は、俺にあまり構って貰えないミトランシェが、表面上はいつもと変わらないその裏でかなり鬱屈を貯めていたそうだ
その結果、彼女の漂わせる雰囲気に触発されたのか、周囲の精霊が不穏な動きを見せたらしい。
精霊は精霊魔法の使い手にしか見えないってことだから、そんなもの俺が見えてなくても当然なのだが―――。
「なんだ? またぞろアイツの周囲の精霊が騒いでいるってことか?」
ゴクリ、と唾を飲み込んで俺。
マリエは頷く。
「うん。それこそ絶賛お祭り状態みたいな感じで、すっごい元気で賑やかよ。それこそ翡翠神が降臨しちゃいそうなくらい」
「お祭り状態は分かったけれど、なんだその翡翠神ってのは?」
「翡翠神は精霊を統べるもの。右の眼で未来を見通し、左の眼は過去を見通す。始まりと終わりの円玉の座にて、世界の全てを見渡すもの――」
唄うようにマリエは口ずさみ、説明を続ける。
「エルフの口伝では、天と地を創造し、世界に精霊を満たした始祖神とも伝えられてるわ。猛き精霊たちの祝福のもとに再臨する、とも伝えられてる」
「ちょ、ちょっと待てや! そんな天地開闢したような神様が、俺の子供が生まれるだけで降りてくるってのかよ!?」
「あたしだって詳しくは知らないわよ! 口伝でそう教えられただけ!」
またもや逆ギレのように返してくるマリエだったが、おいおい
この世界じゃ出産フィーバーでどえらい神様まで降臨してきちまうってのか!?
なお詳しく聞き出そうとする俺の耳に、背後からドアの開く音。
凛とした空気に振り返れば、そこに立つのは渦中の女房、ミトランシェだ。
悪阻は治まったものの最近はやたらと眠いと訴える彼女は、さっきまで寝室で昼寝していたようだ。
「あ、か、母さん、コンニチワ……」
マリエが片手を上げて挨拶をする。その動きがぎこちないのは、母親の周囲に俺には見えない何かを見ているからか?
そんな娘を横目に、俺がすることなんて決まっていた。
俺は慌てず騒がず落ち着いた動作でソファーから立ち上がり、それからミトランシェの隣へと駆け寄る。
本当に子供がいるのか疑わしいほど細い腰にしっかりと手を回す。彼女の歩調に合わせて支えて守るようにサポートする。
「どうだ? 身体にどっか案配の悪いとこはないか?」
「ん。平気」
そのまま連れ添ってソファーの前まで歩き、座る前に表面のホコリを手で払う。
細心の注意で持ってミトランシェを座らせてから、俺も並んで隣に腰を下ろした。
「何か飲むか? 下の食堂から果汁かお茶でも持ってこさせるぞ。けど酒は腹の子に悪いからやめとけ」
ミトランシェは細い首を振った。それからぎゅっと俺の腕に抱き着いてくる。
「寒くはねえか? 昼間はそれほどだが、そのうち朝晩は冷え込むだろうしなあ。明日にでも、ちょいと一緒に冬物の服でも物色しに行くか?」
ミトランシェは答えない。けれどますます俺に強く引っ付いてくる。それだけだ。
「な? 何も変わったようには見えないだろ?」
俺がそう言うと、マリエは鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしていた。
「なあに面白いツラしてやがる」
「あの、ね。父さん自身は浮足だっている自覚はないわけ……?」
「はあ? 誰が浮足立っているってんだ? 俺だっていつも通りの通常営業だろうが」
「で、でも、普段より母さんに対するサービスというか気遣いが……」
「あのなあ」
俺はバリバリと頭を掻いて、
「妊婦さんを気遣うのは世界共通の常識だろうが、このべらぼうめッ」
叱りつけると、マリエは静かに俺たちから視線を逸らした。
それから「ご馳走さま……」って呟いたけれど、まだ酒の入ったカップを持ちっぱなしじゃねえかよ。
ったく我が娘ながら行儀の悪いこった。
軽く睨みつけてから、俺は女房へと視線を戻す。
「そういや腹は減ってないか? 何か食いたいものはあるか? 何でも作らせるし買って来させるぞ」
妊婦には滋養が必要だ。なにせ自分と子供の二人分食べなきゃならないからな。
「……何でも?」
「ああ。何でも構わないぜ」
こちらをの見上げて来る熱っぽい眼差しに、力強く頷く。
店の食堂のコック長であるゲンシュリオンのレパートリーは広いし、彼が作れないなら市井の食堂からでも配達してもらうつもりだ。
すると、なぜか幸せそうに頷くミトランシェ。
それから彼女は、緑色の瞳に懐かしそうな光を浮かべてこういうのだ。
「―――レセルヴァの花が食べたい」
【続】娼館オズマ 鳥なんこつ @kamonohasi007
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