6
ようやく再び帰郷できるようになったのは最後に帰ってから実に五年の月日が経っていた。
テルネリカへの船は待望の帰郷を迎える者でいつにも増して混雑しており、ナギは甲板に出ることなく自室に篭っていた。
この五年間、一体何が起こっていたのかはあまりよく覚えていない。気がつくと寝室にいて、身体の疲れが一日が過ぎたことを物語っている、ただそんな日の繰り返しだった。
ナギにとって、アオイのいない世界を必死に生きる理由はもうわからなかった。
帰郷の船が復旧するとの知らせが上部から届いたとき、ナギの様子からなんとなく察していたアレが気を利かせて晩夏のテルネリカ行きの船の乗車券を取ってくれた。ナギの手元の“使い”は未だ消えていなかったので正直帰らなくても困ることは無かったが、「上には休むと報告してあるから、たまにはゆっくり故郷で休め。俺たちで穴は埋めておく」と言われ、せっかく親切にしてもらっているのだからと帰ることにした。布団の上で微睡んでいると、扉の方向から三度、空気の震えが伝わってきた。扉を開けると船員らしき男性が大きな荷物を抱えて立っていた。
「ナギさんかい、お客さん宛に手紙だよ」
そう言ってナギに手紙を渡すと、甲板へ戻っていった。
何やら長く、様々な種類の紙を雑に束ねた重い手紙だった。手紙以外にも、大小様々なスケッチや走り書きが溢れ、部屋があっという間に紙まみれになった。
その中に一枚、一際大きく文字の多い少し丈夫な紙があった。ナギはそれを拾い上げた。
開くとあの時見たのと同じ、ピョドだとすぐにわかる丸っこい特徴的な文字が一面に広がっていた。ナギは背筋を伸ばして手紙を読み始めた。
「突然ごめんなさい。ピョドです。あの時分けて貰った“使い”を色々調べてみて、わかったことがたくさんあったから送ります。家中の紙をかき集めて書いているから、重くなってしまっているかも。でも切手はちゃんと規定料金分貼ってあるから、大丈夫だと思う。
そうそう、”使い“なんだけど、あなたの持っている物は郷にいるものとはちょっと構成物質が違うようなの。もちろん、”力“を与えてくれるという点では同じなんだけど(実際私も分けて貰って少し使えるようになったし)、具体的にいうと、あなたのには感情があるみたい。
感情ってどういうこと?って思うわよね。でも本当に、あなたの“使い”は感情を持っている。私の手元に、パルンドゥの“力”を再現する装置があって、それで読み取ってみたのだけど、しきりに「寂しい」「会いたい」というのが読み取れたのね。初めは、ほら、ナギが持っていた時にナギが抱いていた感情なのかなあとか思ったんだけど、途中から「ナギ」って名前が出てくるようになって、それじゃあもしかしたら、この“使い”自体が感情を持っているのかも知れない。だって一年経っても消えない不思議なものだし、感情を持っていたってなんらおかしくないじゃない。
ここで問題になってくるのが、この“使い”の感情はどこからやってきたものなのか、ということ。建国神話にも“使い”についてはあまり細かい記述はないし、あんまり詳しくはわからないけど、私の仮説を書いておくわね。私は、恐らくこの“使い”は、神の使いじゃなくて、誰かナギの身近な人の強い思いから生まれたものだと思うの。それが誰だか私には知る由もないし、もしかするとナギも知らないかもしれない。それでもきっと、その人の思いが巡り巡って、“使い”となって今ナギのいるところにいるのだと思う。だから消えることもないし、減ることもない。
この仮説だと、とりあえず今のところは矛盾が生じない筈だけれど、確証はないわ。ナギに誰か心当たりがあるとは限らないと思うし、仮にあったとしても私は詮索するべきではないから、これ以上あなたの“使い”について調べることはやめておきます。もしも新しくわかったことがあったら連絡するけど。もちろん研究結果をどこかに公開することはないから安心してね。
それと、“使い”は預かっておくわね。私の予想が正しければ、彼(女)が帰りたくなったらひとりでに帰っていく筈だから。
それじゃあいつかまた、私たちの物語が出逢うことがあったら。」
手紙を読んだ後、ナギがどのようにして故郷まで辿り着いたのかは覚えていない。いつの間にかナギは大量の手紙を抱えて見慣れた光景を前に立っていた。
五年越しの故郷は再び活気に満ちていた。以前と異なり植物は生い茂り、心地よい風が優しく吹いている。
まず先に母に顔を見せようと思い立ち、墓へ向かった。
母の墓石は変わらずナギを待っていた。変化といえば以前よりも苔の量が増えた程度で、草の生えた地面に忽然と置かれた石は周りとどこか隔離されたように見えた。
いずれナギがいなくなり、母の存在を覚えている人もいなくなり、誰もいなくなっても墓石の文字は薄まり、自然と崩れていき、やがて再び巡っていく。
母は今頃巡っているのだろうか、ふとナギは考えた。
いつものように馴染みの食堂へ向かうと、独特の抵抗のある戸がナギを迎えた。少し力を入れて中に入ると、丁度入り口付近に店の者がいた。一瞬アオイかのように思われ、ナギは電流の走る心地がしたが、よくよく見るとアオイと違って茶色く柔らかな癖っ毛の別人だった。そのときナギは心のどこかで期待をしていた自分がいたことに気が付いた。
「いらっしゃいませ。一名様ですか?」
「はい。…あなたはどちら様ですか?」
出会ったばかりの客にそう尋ねられ、店員は一瞬怪訝な表情をした。
「え…?ヒマリっていいます。…こちらへどうぞ」
気まずい空気になってしまったのでナギは手早くいつもの鶏の揚げ物と夏野菜の煮物を頼み、味のないお冷を味わうように飲んだ。喉の渇きは暫く癒えなかった。
「お待たせしました」
ヒマリが卓に料理を載せ、伝票を置くとナギに少し申し訳なさそうな表情で言った。
「先ほどはごめんなさい。店主ご夫妻の顔馴染みのナギさんだったんですね。私は二年程前からここで手伝いをしています。従姉妹がお世話になっていたそうで」
アオイの従姉妹だと言われて改めて見てみると、顔つきがどことなく似ているような気がする。それにしても、彼女に従姉妹がいたことは初耳だった。何故だか、彼女がまだ生きているかのように強く感じた。ヒマリの顔の中にある面影のせいかもしれない。
「彼女が旅立つ直前に、見送りに来た私が預かったナギさんへの伝言があります。「きっとまた巡るから、またね」と。私には正直意味はわかりませんが、一字一句違いませんので。…それではごゆっくりどうぞ」
ナギは暫く考えた後、今夜が満月だったことに気付き、冷め切ったご飯を食べ始めた。
食堂を出ようとすると、誰かに肩を叩かれた。振り返ると、アオイの母親だった。
「ナギ君、久しぶり。役人、大変そうね」
「いいえ、充実していて楽しいです。夕飯、ご馳走様でした。相変わらず食堂は賑やかですね」
母親は困ったように笑った。食堂での日々を思い返しているようだった。
「ええ、ヒマリが来てくれるまではちょっと大変だったけどね。…また来てね。困ったことがあったら、いつでも来ていいのよ」
アオイの名が出た時、少しの間が空いたが、ナギは気づかなかったことにした。気を遣わせていることに気が付いても、居心地が悪くなるだけだ。
「ありがとうございます。また、来年」
ナギは返事を待たずに目を伏せて食堂を後にした。
外に出ると、前来た時と同じ澄み渡った空に大きな満月と星々が浮かんでナギを見下ろしていた。同じ月と星座が何度も空を巡り、またこの地でナギを静かに照らしている。柔らかく輪郭を帯びた暖かな風がナギの服の袖口を攫っては抜けていく。
先程の伝言を思い出し、丘に向かって歩き出した。
前に来た時とは違い、一人で歩きながらナギはアオイのことを考えていた。最後に見たのは五年以上前だから、幾らか記憶が薄れている箇所もあった。人の死には、身体的な死のほかに、人々からの忘却による死もあるらしい。ならば絶対に忘れるものか、ともナギは考えたが、そうすると本当に彼女の死を認めてしまうことになるので葛藤していた。
既に彼女の顔も不明瞭になり始めている。他国の人には声というものが存在するそうだ。もしも存在するのなら、アオイの声はどのようなものなのだろうか。
考えている間に丘の上に着いた。花は咲いていない。月に照らされて丘の草が光っている。
あまりに都合が良すぎたか、ナギは自嘲気味に口角を上げ、宿に引き返そうと月を背に後ろを向いた。
その時だった。
一陣の風が吹き、それに応えるように懐が__懐の袋が__輝き始めた。
何事かと取り出すとそれは一際大きく光り、ナギは思わず目を瞑った。瞼越しの光が収まり、ゆっくりと目を開けると、足元に違和感を覚えた。
花が咲いている。
振り返ると、小袋の中の光が飛び出して一面に咲く花の上を回り始めた。月明かりに照らされ、揺蕩うそれはどこかアオイの姿に重なる。
どれほどの間眺めていただろうか、ふと月を見ると、段々と近づいてくる星とは異なる異質な光に気が付いた。
それはきっと__ナギの考えが合っていればの話だが__あの時ピョドに分けた“使い“の一部だった。
ナギの周りを一周すると先に浮かんでいた“使い“と溶け合って一つになり、形を変えながらナギの目の前にやってきた。
ナギがそれを見つめていると、光は縦に伸び、横に伸び、ナギよりも頭一つ分程小さな女性の形になった。アオイだった。
思い出す事しかできない拙い記憶よりもずっと鮮明で、ずっと美しくて、ずっと儚げだったその顔は微笑みながらナギを見つめた後、両手を挙げて言葉を紡ぎ出した。
__ナギ。
視界がぼやけないように、ナギはしきりに目に袖を当てていた。
アオイは暫く揺蕩い、再び手を挙げ、回した__巡る。
全ては巡りゆくのよ。
不意に母の言葉を思い出した。
良いことも悪いことも、生きている人も死んだ人も、巡り巡って、帰ってゆくの。
アオイも巡るのだろうか、形を変えて、また逢えるだろうか。次に逢えた時には、きっと…
最後にナギに大きく笑いかけると、光は二つに分かれ、ナギの周りをもう一度回ると、緩やかに回りながら海の方へ遠ざかっていった。
柔らかな風が頬を冷やしながら抜けていく。
ナギはかがみ込み、花の香りをいっぱいに吸い込むと、喉を震わせて泣いた。
めぐりめぐる あらぱすりんこ @haruchoy
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