100(3)

 しばらく経ったある日だ。


 仕事が早く終わった日があった。


 帰ってきて、玄関のドアノブを捻った。鍵が掛かっていて驚いた。


 いつもなら、もう愛海は帰っている時間だった。

 腕時計を見れば、五時を回ったところだ。小学生の低学年である愛海が、この時間に帰っていないのはおかしい。


 ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。


 そのとき、不意に後ろに気配を感じて振り返った。


 泥だらけになった愛海が立っていた。


「どうした?」


 という言葉が、おかえりよりも先に出た。


「なんでもない……」


 愛海は言いにくそうに答えた。

 なんでもない状況ではなかった。こんな格好をして、なんでもないわけがなかった。


 とりあえず、玄関前でする話でもなかったから、二人で家に入った。

 愛海を風呂に入れ、着替えさせ、居間のテーブルに向かい合って座った。

 まるで家族会議のような状況だと思ったが、家族会議そのものだと気付き、俺はようやく口を開いた。


「いじめられているのか?」


 オブラートには包まず、単刀直入に切り出した。


 愛海は首を振った。

 いじめを隠すのは、子どもにはよくあることだ。だから、それを鵜呑みにしてしまってはダメだと俺は知っている。


 徹底的に追求して、解決しなければ。


 愛海を守るためだ。そのための力を惜しんではいけない。


「愛海、本当のことを言うんだ」


 語気を強くして問い詰める。しかし、愛海はふるふると首を振るうばかりだ。


 それからなんとかして、愛海から経緯を問いただした。


 どうやら父兄参観の日に読んだ作文が、クラスメートの嫉妬の対象になってしまったようだ。一番拍手をもらえたのが、愛海の作文だったのだ。


 俺は愛海の作文と、それから後の数人の作文しか聞いていなかったが、確かに愛海の作文は群を抜いていた。親というフィルターが掛かる以上、仕方無いことだが。しかし公平に客観視したところで、愛海以上の作文があったとは思えない。


 それが、クラスメートの一部の子の嫉妬を買ったらしい。

 物を隠されたり、悪口を言われるようになってしまったようだ。


 今日は放課後に、そのリーダー格の女の子と取っ組み合いのケンカをしたと愛海は言った。そこで立ち向かったことは褒めてやったが、しかし複数人が相手だから負けてしまったと、愛海は悔しそうに言った。


 その状況は、簡単には覆せない。

 本格的ないじめに発展するケースも少なくないだろう。


 だから、何とかするなら今しかない。

 状況がもっと陰湿になれば、愛海は学校に通えなくなるかもしれない。


 それだけは避けなければならない。俺と愛海が目指す「楽しい日々」を妨げるものは、何人たりとも許してはならないのだ。


 だが、これは愛海自身が解決すべき問題だ。


 心苦しさを抱きながらも、俺は一つの解決策を愛海に提示する。


「愛海、よく聞け。ここで逃げたり、誰かに頼るのはとても簡単だろう。……だが、俺はお前にそういう生き方を覚えてほしくないし、してほしくもない」


 そう切り出せば、愛海は少し驚いた表情をする。


 予期していた答え――例えば、俺がなんとかしてくれるとか、担任のちからを借りるなど、期待した提案とは掛け離れた言葉に、裏切られたと感じただろう。


 ……だが、それでは抜本的な解決にはならないと俺は知っている。


「そいつらは、愛海に負けたと認めたくないんだ。だからここで引いたら、勝ったお前が負けを認めることになる。悔しいだろ? 悔しかったら、やっつけろ。どんな手を使っても、そいつらに負けを認めさせてやるんだ」


 無理難題を押し付けている自覚はある。

 だが、そういう感情こそが、この社会で生きるうえで大事だと俺は思っている。


 心苦しさはあったが、俺が負けてほしくなかった。愛海にはどんな相手にも勝ってほしい。


「うん」


 と、愛海は力強く頷いた。


「わたし、まけないよ」


 愛海の表情は、さっきまでの落ち込んだ様子ではなかった。

 絶対に相手を負かす強い意志を感じた。それでこそ俺の娘だと思った。


 それからしばらくして、また仕事が早く終わった日があった。


 ドアノブを捻れば、鍵が掛かっていた。

 ポケットから鍵を取り出していれば、後ろに気配を感じた。


 振り返れば、そこには泥だらけの愛海が立っている。


 しかし、表情は暗くない。

 にやりと不敵に笑い、Vサインを掲げる。それは、勝利の証だった。


「わたし、勝ったよ」


 にっこりと笑い、抱き付いてくる。

 愛海の身長は低い。当時の栄養失調が発育に影響を及ぼしているのは明白で、俺はふとした折にこころが痛む。


 俺の腰にしがみつき、上目遣いに俺を見る愛海。

 褒めてくれと、言外に言っているのだ。


 この年で、もう女の処世術を知っているらしい。 

 俺は困った顔ながらも、小さな頭を撫でてやった。泥は、髪の毛にもついていた。構わずガシガシと撫でてやる。愛海は気持ちよさそうな顔で目を細めている。


「よくやった。それでこそ俺の娘だ」


「おとうさん、わたしハンバーグ食べたい!」


「あぁ、食べに行こう。その前に風呂に入らなきゃな」


 そう言い合いながら、俺たちは家に上がった。


 愛海ならどんな状況でもやっていける、確固たる自信ができた。

 いじめにも屈しない強いこころを持っている。諦め掛けても、それをはね除ける強い意志を持っている。


 ハンバーグくらい、安いもんだ。


 祝い事は欠かさないと決めたのだ。俺たちは仲良く風呂に入り、そうしてファミレスではなく、ちゃんとしたレストランに向かったのだった。




 それからは、怒濤の日々が続いた。


 愛海はクラスで浮いてしまうこともなく、穏やかに小学校での日々を過ごした。


 しかし、俺たち大人の穏やかさと、子どものそれは違うものだ。

 毎日を、駆け抜けるように過ごした。日々が成長記録なのだ。


 愛海は料理を作るようになり、クラブ活動にも参加した。色々な才能を開花させていった。そんな娘を見ているのは、やはり気分が良かった。


 中学校に上がった。

 吹奏楽部に入りたいと言ったから、安いトランペットを買い与えてやった。


 定期演奏会を聴きに行った。一年生ではレギュラーにも入れなかったが、三年生ではソロを担当した。過程を思い返せば、色々と胸にくるものがあった。


 そうして部活動に励んだ愛海だが、勉強にも精を出していた。

 テストの順位は一桁台から落ちず、高校も地域で有名な進学校に進んだ。


 その辺りから、だろうか。俺に突っ掛かってくることが多くなった。


 反抗期だ。


 俺も四十代になり、おっさんと呼ばれる年齢になっていた。

 端的に言うところの親父臭さが、年頃の女子高生には嫌がられるのだろう。とは言え俺は男だ。この年頃に親父に感じた不快感を、実感として得るのは難しい。


「お父さんのシャツ臭かったから、新しいの買ってきたから」


「まだ下ろしたばかりのシャツだが。無駄な金を使うなと言ったはずだが」


「でも一緒に洗濯するとにおいが移るんだよ。友だちからお父さんのにおいがするって言われる私の身にもなってよ」


「しかし、下ろし立てのシャツだが……」


「じゃあ別々に洗濯するから」


「それは勘弁してくれ」


 このやり取りを部長に愚痴れば、「まだ良い方ですよ」と笑われてしまったが。


 別に、他人の家庭と比べられる事情ではないのだが。

 家庭はそれぞれのかたちで、それぞれの事情があるのだ。部長がどれだけ虐げられているのか知らないが、俺が虐げられている事実に違いはない。


 それでも、割と良好な関係は築けている、という自負はあったが……。愛海がどう思っているかは終ぞ聞かなかった。


 愛海は高校でも吹奏楽部に入り、勉強にも続けて精を出し続けた。


 そんな日常がまだ続いていくと思ったが、期待は往々にして裏切られるものだ。


「彼氏ができたんだけどさ、今度紹介するね」


 夕飯を食べているときだった。

 いきなりそう切り出されて、飲んでいる味噌汁を吹き出しそうになった。


「彼氏って、お前、いつからいたんだ」


「先月かな。告白されて、悪くないなぁって思ったから良いよって答えた」


 淡々と答え、焼き魚を頬張る愛海。美味しそうに食べながらも、俺の動揺なんてまったく気にしていない様子だ。

 そんな風に簡単に流してしまえるのが、俺には不思議でしょうがなかった。


「先月からの関係なのに、もう紹介されるのか」


「別に隠しておく必要もないし。家族に隠し事は、良くないんでしょ?」


 不敵に笑い、俺の冷ややっこを奪う愛海。


「だからってな、もっとこう……、色々あるだろ?」


「色々って?」


「俺にもこころの準備があるんだ」


 男手一人で育ててきた、大切な一人娘だ。


 それを、どこの馬の骨ともしれない男に取られてしまう。

 俺の所有物とまでは思わないが……、それでもモヤモヤはする。


 付き合って一ヶ月の男。本当に愛海にふさわしいのか。愛海を支えてくれる、器の広い男だろうか。紹介すると言われただけなのに、色々と考えを巡らせてしまう。


 半分に減った味噌汁の水面を眺めていれば、俺の前にきんぴらごぼうが差し出される。前を向けば、愛海が困ったように笑っている。


「私が認めたひとだからさ、大丈夫だから。あんまり深刻に考えないでよ」


「だがなぁ……」


「お父さんの気持ち、私もわかるよ。でも、この先うちに呼ぶこともあるかもしれないし。だったら今のうちにお父さんと面識があった方が色々と楽だと思ったんだよね。結婚とか、そういうことはまだ全然考えてないけどさ」


 その表情と言葉で、愛海も愛海で色々考えているのだと思い知らされた。


 そうだ。俺の娘なら、考えていないはずがない。だからこそ、信じてあげるべきなのだろうが……。


「まぁ、相手に寄るがな。くだらない男を連れてきたら容赦しないぞ」


 差し出されたきんぴらごぼうを食べつつ答える。

 結局は、何事も妥協と割り切りが必要なのだ。最上の理想ばかりを望んでいたらキリが無い。


「わかってるよ。だからこそ信用してほしいんだよ」


 そんな会話をした、三日後だ。

 愛海は本当に、その彼氏を連れてきた。


「こ、こんにちわ……」


「あぁ、こんにちわ……」


「二人とも硬くならないでよ。ほら、お茶持ってくるから」


 愛海は俺たちを残し、キッチンへと向かう。その後ろ姿を恨めしく睨みつつ、対面に座る男の顔を見る。


 普通の、男子高校生だった。

 チャラいわけでもなく、真面目そうでもない。制服を着て歩いていれば景色に同化してしまいそうな、何の変哲も無い男子高校生。


 とても女の子に告白する勇気があるようには見えない。

 ……それはさすがに言い過ぎだろうが、とにかく無個性な子だった。愛海の彼氏と言われなければ、こうしてじっくり見ることもなかっただろう。


 そんな風に俺が値踏みしていたからか、彼氏くんは恐縮してしまった様子だ。居心地悪そうに座り、お伺いを立てるように上目遣いに俺の様子を窺っている。


 ようやく、愛海が戻ってくる。


「お父さんさ、そういうの良くないよ。ほら、浩樹もしゃんとして」


 俺たちの前にお茶を置き、腰を下ろす愛海。どうしてこいつはこんなに落ち着いていられるのかと、逆に心配になった。

 一番の当事者だろう。そんな風に楽しそうに笑っていないで、積極的に俺たちの間を取り持つべきだと思うのだが……。


 それから、なんとかポツポツと会話の往復をした。

 しかし、控えめにも盛り上がったとは言えない空気だった。


 だが、それほど悪い印象も抱かなかった。

 最近の高校生にしては言葉遣いも悪くなく、何より場を弁えられる子だった。


 会社の後輩には、社会人のくせにちゃんとしていない若い子もいる。だから年下が苦手だったのだと、俺は思い出した。

 昔、妻が生きていた頃。そのときに勤めていた会社でも、そういう輩は多かった。


「どうだった?」


 と、彼氏くんが帰った後に愛海が訊いてきた。


 表情は浮かなかった。俺と彼氏くんが覚束ない会話をしているときは、あんなにも余裕そうにしていたというのに。


 今になって急に不安になってきた、ということはないだろう。ずっと不安だったに違いない。だが、それを彼氏くんの前で見せるのには抵抗があったのだろう。だから俺と二人になって、こんなことを訊いてくる。


「別に、悪い子ではなかったが」


「そうじゃなくて!」


 食い気味に遮り、しかしすぐに自信をなくしたような表情をする。


「お父さんが、認めてくれるひとだったかなって……」


「だから、悪くなかったぞ」


「それは、お父さんのお眼鏡にかなったってこと?」


「……まぁ、さっきの会話だけじゃ全然わからんが」


「これからの交流に期待、ね。うん、わかった」


 そこまで心配せずとも、という困惑が顔に出ていたのか「だって……」と萎れた様子で言う。


「お父さんって他人に厳しいからさ、不安だったんだよ……」


 ……言わんとしていることはわかる。


 だが、俺もそこまで排他的な人間ではない。それくらいの分別はあるつもりだ。少なくとも、娘の彼氏という理由だけで他人を嫌える人間ではない自負くらいは。


「俺が認めるか認めないかは、まぁ重要かもしれないが……。だが、それ以上に大事なことがあるだろう?」


「重要なこと……?」


「お前が、彼氏くんと、上手くやっていくことだろ」


 真面目に諭すように言えば、愛海は最もだと頷いた。


「そうだよね……。うん。忘れないようにする」


 じゃあ夕食の準備するからと言って、ぱたぱたとキッチンに走っていく愛海。

 その後ろ姿を眺めながら、俺は溜息を一つ吐いた。


 正直、愛海がこんなに良い子に育ってくれるとは思わなかった。


 俺が暴力を振るっていた、あの日々。無表情だった、当時の愛海。

 それが今は彼氏を作り、俺に紹介している。当時の俺が今の俺を見たらなんて言うだろう。バカバカしいと言うだろうか。軽蔑して笑うだろうか。


 それはこの幸せな日々を知らないから、切り捨てられるのだ。

 今の俺にはもう、この日々を切り捨てられない。


 死んだ妻にも、どんどん似てきている。

 だからといって、今更どう思うこともない。あぁ、妻に似てきたなぁ、というくらいだ。当時のように、妻を盲信したりはしない。


 もう当時を乗り越えたのだ。そう言い切れる自信が俺にはあった。


 だから心配はいらない。愛海に彼氏ができても、嫌なことがあろうとも、この生活に幸せを感じられる限り、俺は大丈夫だ。


 冷めてしまったお茶をすすりながら、夕食を作る愛海の後ろ姿を眺める。


 エプロンを着けた、母性的な姿。妻が学生だったなら、こんな雰囲気だっただろう。俺が彼女と出会ったのは大学生だったから、妻の学生服姿は知らない。見てみたい気もしたが、やはりもうどうでも良いことだと思った。


 こんな日々が、生活が続いていく。


 俺は老いて、愛海も大人になっていくだろう。


 あの彼氏くんと結婚する日が来るかもしれない。それは思い描いてみれば、案外悪い想像とは思えなかった。むしろ、良いと思える。


「お父さーん。ショウガ焼き作ったから、そっちに運んでー」


「あぁ」


 答えて、立ち上がる。よっこいしょ、とくちから出そうになったが、まだそんな歳じゃないのだからと自制する。


 ショウガ焼きの良いにおいが、居間まで匂ってきた。

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幸福へと終わる 八神きみどり @yagami_kimidori

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