100(2)
愛海を、小学校に入学させた。
近所の小学校に二人で顔を出して、校長に頭を下げた。届いた就学通知書を無視し続けていたからだ。
しかしそこは義務教育だから、愛海は滞りなく小学校に通えることになった。
色々と不都合があるから、転入したという扱いにすることを提案された。ただ、こうして学校側に頭を下げた手前、俺の社会的評価というものは決め付けられてしまうのだろうが。そういうしがらみに、俺はこれからも縛られていくのだろう。だが、そんなことで俺の決意が揺らいでしまうことはない。
愛海の入学と同時に、俺も就職活動を始めた。
前に勤めていた会社は、妻が死んだときにやめていた。
彼女が遺した保険金と、わずかな退職金だけを頼りに生きてきた。
だが、それももう底を尽きようとしていた。愛海をちゃんと育てていくと決めた以上、俺が働くのは当然のことだった。
履歴書を何枚も書いて、もうくたびれてしまったスーツを着て、電車に揺られた。
何社も面接を受けたが、十社目あたりで採用をもらえた。面白くもなさそうな、平凡な営業職だ。
だが、純粋に安堵した。面白くもない仕事だからといって、文句を言ったりはしない。
これで俺たちは普通の家族のように暮らしていける。それは金銭的な意味だけの話だが、これで愛海が同級生から不躾ないじめを受けたりはしないだろう。子どもというものは、何に対しても敏感な生き物だからだ。
初出勤を終えて、家に帰る。ケーキを片手に、マンションへと帰ってきた。
愛海の誕生日はまだ先だが、けじめが必要だと思ったのだ。
愛海が小学校に入学できたこと。
それと、俺の就職先が決まったこと。
祝わなくても良いことなんかじゃない。
そういう積み重ねが大事なのだと、俺は知っている。そういった細やかなことが家族の絆を深めていくのだと、妻との経験が俺にそうさせた。
帰れば、愛海は居間で宿題をやっていた。
買い与えたノートと、筆記用具。教科書を脇に置き、俺が帰ってきたことにも気付かず熱心に勉強している。邪魔をするのはどうかとも思ったが、しかし気にせずその前に腰を下ろした。
「愛海、ただいま」
そう言えば、愛海はノートから顔を上げる。
「あ、おとうさん。お帰りなさい」
当たり前のように、そう言い返してくれる。
ここまで来るのにも、随分と時間を要した。愛海とまともにコミュニケーションを取れるまでに、想像以上の労力が必要だった。
言葉を掛けて、返事をくれるまで。
そりゃあ目の敵にしていた挙句に暴力まで振るうような人間を、「おとうさん」として認識してもらうのは常識的に考えて困難だ。
だが、俺は諦めなかった。
例え愛海の生活を豊かにするのに時間を割かなきゃいけなくとも。俺が社会に復帰するのに、時間を割かなきゃいけなくとも。
それは、二の次だ。
一番大事にするべきなのは、愛海と、しっかりと家族としての絆を深めていくことなのだ。
「今日はプレゼントがあるんだ」
そう言って、机の下に隠した紙の箱を取り出し、愛海の前に置いた。
愛海は、不思議そうな顔をして俺を見る。
どうしたらいいのかわからないといった様子だ。
「開けてみろ」
そう促してやれば、鉛筆を置きノートを畳んで、ケーキの箱を開け始める。開けて、覗き込む。一瞬にして目を輝かせて、箱の中身と俺を交互に見やった。
「これ、ケーキ!」
「そうだ。お前が小学校に上がった祝いだ。それと、俺の仕事が決まった祝いも、な」
そう言って自嘲気味に笑えば、愛海は純粋な笑顔を向けてくれる。俺の祝いと言ったのは蛇足だったかと後悔するが、やはり言って正解だと思った。俺たちが家族だと強く認識するためには、対等であることを示さなきゃいけないのだから。
「……食べていいの?」
「あぁ、もちろんだ」
答えて、立ち上がる。キッチンから包丁を持ってくる。
出刃包丁。かつてこれで愛海の身体を、何度も傷付けた。殺した。
それが、こうして本来通りの用途として使えることに、感慨深い気分になった。気を緩めたら、涙さえ流してしまいそうだった。いや、少し流してしまっていた。
愛海に気付かれないように目元を袖で拭って、皿とフォークも持って居間に戻る。
ケーキを箱から取り出した。綺麗に四等分にして、取り分けて、「いただきます」と手を合わせ、二人で仲良く食べ始めた。「美味いか?」「うん」程度の簡素なやり取りを交えながら、黙々と食べる。
駅ナカのデパートで買ってきた、安いショートケーキだった。
だが、今まで食べたケーキのなかで、一番美味かった。こんな安物のケーキなのに。甘さのなかに、塩辛さが混じってくる。
「おとうさん、どうして泣いてるの?」
愛海はそう言って、心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。
俺は気付けばフォークを持った手を止め、みっともなく涙を流していた。フォークを置き、慌ててワイシャツの袖で目元を拭った。
「泣いてなんかいない」
「うそだよ。おとうさんぜったい泣いてた」
愛海は変わらず心配そうな瞳を俺に向けている。
かつての無表情な眼は、もうどこにもない。
「何がそんなに悲しいの?」
何がそんなに悲しいのか。
あぁ、そうかと、俺は気付いた。
ひとは嬉しくても涙を流すのだと、愛海は知らないのだ。
涙は本来なら、悲しいときに流すものだ。殴っても涙を流さなかった愛海には、涙の意味さえわからないのかもしれない。しかし、悲しさで流れるくらいは知っているか。小学校に通っていれば、同級生が涙を流す現場に立ち会うこともあるだろう。
「悲しくなんかない。嬉しいんだ」
「うれしいときに、涙が流れるの?」
「そうだ。ひとは、嬉しいと感じたときにも、涙を流す生き物だ」
「じゃあおとうさんは、今はなにがうれしいって思ってるの?」
それは――
言葉にしていいのだろうかと、少し考える。
だが、わざわざ隠す必要もないことに気付いた。
思ったことは、口にしないと。家族なのだから。家族に気を遣う必要はない。俺が目指す家族のかたちは、隠し事や誤魔化しの上に成り立つものではない。思ったことを言い、その都度話し合って、なんでも相談し決めてゆける、そういう家族になりたいと俺は思っている。
ならば、今思ったことをそのまま伝えるのは、その重要な一歩だ。
「これは、俺とお前が家族になった証なんだ。安いショートケーキで悪いと思っている。でもこういうかたちこそが、家族には必要だと思うんだ。めでたいことを祝わず、当たり前に流される家族は寂しい。だからお前とこうして互いの祝い事を祝える現状に、俺は嬉しさを感じているんだ。だから、俺は嬉しくて泣いているんだ」
早口でそう言うと、愛海は更に不思議そうな表情を強める。
そうして、口を開く。
「おとうさんの言ってること、むずかしくてよくわからないけど……」
考え込むように顔を伏せ、まだ半分以上も残っているケーキの前にフォークを置き……、どれくらいだろう。一分以上考えて、また顔を上げる。
「でも、わたしもうれしいよ。おとうさんとこうしてケーキ、食べれて」
愛海は、優しく微笑んでくれる。
その笑顔に、一瞬だけ妻の笑顔を重ねた。あまりにもそっくりだったのだ。
だが、俺の頭の中で微笑む妻はすぐに霧散し、後に残ったのは、嬉しいという感情だけだった。
それが、全てだった。それだけで、良かった。
だが、急に気恥ずかしくなり、急いでショートケーキを掻き込んだ。
「ほら、早く食わないと俺が食っちまうぞ」
そうけしかければ、愛海も慌てた様子でケーキを掻き込み始めた。
こういう空気は苦手だ。
だが俺は、悪くないとも思っているようだ。
家族とはこういうものなのだと、強く思った。できればこのままの形で、愛海が嫁に行くまで、家族というものが続いていけばいいと思った。
心配はいらないはずだ。
俺と愛海なら、上手くやっていける気がした。
この気持ちを忘れないように、楽しい日々を過ごせるよう、努力していこうと思った。
父兄参観があった。
元々、その日は午後休を取っていた。
しかし、そういう日に限って急ぎの仕事が舞い込んでくるものだ。
どうしても出てくれと、年下とはいえ上司に頭を下げられてしまえば断ることもできない。時計を気にしながら、パソコンに付きっ切りになっていた。
なんとか二時半には会社を抜けられて、慌ててタクシーを拾い、運転手が口を開く前に愛海の通う小学校の名前を言った。俺のただならぬ様子に、運転手は口を閉ざしてタクシーを飛ばしてくれた。
授業参観は三時からだった。急いではもらったものの、三十分もあればお茶をすする余裕くらいあるはずだった。
しかし、走っている国道の、真っ直ぐ先。車たちが列を作って止まっている。
フィクションを疑うほどの渋滞だった。
運転手が、困った顔をして振り返った。「どうしますか?」そんなことを訊いてくるから、俺は千円札を何枚か手渡して、お釣りをもらっている時間も煩わしかったから、タクシーから飛び出した。
……ここから走って、どれくらい掛かるだろうか。タクシーは道程の半分ほどしか進んでくれなかった。
社会復帰したことで体力はそれなりに戻っているはずだが、自信は無い。
腕時計を見れば、もう三時になろうとしている。季節は初夏だ。走っているうちに汗だくになっても、上はシャツだけだから脱ぐものがない。
通行人の視線も、形振りも、構っている場合ではなかった。
そうして走り続けて、小学校に着いた頃には三時半を回っていた。
授業はもう半分以上が終わったところだろう。職員用の昇降口でスリッパに履き替え、事務室の教員に教室の場所を尋ねて、そのまま廊下を駆け抜けた。気分が変に高揚していたせいか、疲れは不思議と感じなかった。
慌てて教室に入れば、クラス中の視線を集めてしまった。
それもそうだろう。
こんな時間にやってきた挙げ句に、息も絶え絶えになっているうだつの上がらないサラリーマン。街中に紛れていれば景色の一部になれるが、ここは小学校の教室で、今は授業参観の最中だ。
その視線たちに、高揚した気分が変に落ち着いていく。背筋に汗が何筋も伝った。
ともあれ、ドアの前に立ち尽くしているわけにもいかず、そそくさと教室に入り、空いている場所に立った。
顔を上げれば、愛海が立って、俺を見ていた。
「なんでもっと早く来てくれなかったの?」とでも言い出しそうな不満げな表情だ。
手には原稿用紙を持っていた。
黒板を見れば、「わたしのおとうさん」と、白いチョークで書いてある。
その「わたしのおとうさん」という内容の作文を、これから読むらしい。脳裏に昨日の我が家での出来事がよぎった。愛海はこそこそと原稿用紙に何かを書いていた。
愛海は呆れたような表情で俺から視線を外し、黒板に向いた。
「わたしの、おとうさん」
そうして原稿用紙を手に持って、読み上げ始めた。
「わたしのおとうさんは、とっても寂しがり屋です。この前まで、部屋にはたくさんのおかあさんの写真が貼ってありました。お母さんは、もう死んでしまってこの世にはいません。ずっと忘れられなかったんだと思います。写真のおかあさんは、寂しそうな顔をしていたり、笑ったりしていました。とっても美人さんです。わたしはおかあさんに会ったことがありません。わたしが小さいときに死んでしまったと、お父さんからは聞きました」
そこまで読んで、愛海は大きく息を吸った。
俺が寂しがり屋だと、愛海は言った。そんな風に思われているとは知らず驚いてしまう。愛海の前ではそういう素振りを見せないようにしていたはずだが、未だ家族として暮らしていなかったあの地獄の日々から、ちゃんと俺を見ていたのだと驚いた。
妻の写真は、愛海を愛すると決めたその日に、全て剥がしてしまった。もう必要無いものであることは言うまでもない。
「だから、これからはわたしがおかあさんの代わりになれるように、がんばっていけたらいいなぁと思います。おとうさんは寂しがり屋で、わたしたちは二人だけの家族です。おとうさんが、これから寂しくないように、わたしも寂しくないように、二人で楽しく過ごせたらいいなぁと思います。……終わり、です」
愛海が作文を読み終えた静かな教室に、原稿用紙を畳む音が響く。
誰かの息を飲む音が、聞こえた気がした。
ぱち、ぱちと、誰かが拍手をした。
それに続くように、連ねるように、拍手が伝播していく。
立ったままの愛海が、俺の方へと振り返る。
気付けば、俺も拍手をしていた。
うるさいくらいの拍手の渦が、教室を満たしていた。
愛海は、不敵な笑みを浮かべていた。
「間に合わなかったら、ただじゃおかなかったんだから」
そう言われている気がして、遅れてきたことが申し訳なくて、だが、間に合って本当に良かったと思った。
そうして授業も終わり、俺と愛海は手を繋ぎながら、帰路についた。
「お父さんは、寂しそうに見えるか?」
愛海の発表を聞いたときから抱いていた疑問を、愛海にぶつけた。
寂しいと思ったことはあまりないと、自分では思っていた。
妻が死んだとき、確かに俺は寂しさで死にそうだった。愛海という娘がいながらも無視し、妻の幻覚に縋り惰性のように生きていた。
それは、端から見たら寂しそうに見えるだろうか
俺には、よく分からない。
「んー。今はそうでもないよ」
愛海は、楽しげな表情で、そう答えた。
握っていた手が、不意に離れる。俺の前に躍り出た愛海は、スカートの裾を翻し、俺の方を向きながら後ろ向きに進んでいく。
「危ないぞ」と注意しても、
「おとうさんは心配性だよ」と言われてしまう。
まぁ、転びそうになったら、俺が身を挺してでも助ければいい話だが。
「前までは、ね。なんかね、ずっとたいくつそうだったよ。でも、お仕事行くようになってから、楽しそうになったかな。やっぱりお外に出ないとだめだよねー」
「仕事は、別にそれほど楽しくはない」
「そうなの?」
「俺たちが生きていくのに必要だから、やっているだけだ」
そう答えれば、愛海は不思議そうな顔をする。
「じゃあ最近は、どうしてそんなに楽しそうなの?」
「そんなことは、言うまでもない」
答えて、再び愛海の手を取る。
横に並び、まだ不思議そうな顔をする愛海に、不器用ながら微笑んでみせた。
「お前とこうして日々を過ごすのが、楽しいんだ」
そう言ってやれば、愛海も笑った。
「今日は久しぶりに外食をしよう。気分が良いからな」
「おとうさん、もうちょっと料理上手くなろうよ。わたしもがんばるから」
そうして、俺たちは歩いて行く。
確かに、最近は寂しさとか孤独感とか、そういうものからは無縁だと気付いた。
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