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目が覚めた。くだらない日常が、また始まった。
習慣のようにそう思うが、しかし自分がちゃんとベッドに寝ていることに気付き、これがくだらない日常なんかではないのだと気付いた。
ベッドから起き上がり、立ち上がる。
とりあえずタバコが吸いたい。意識が朦朧とする。
こんな状態では、まともに考えることもままならない。まずは意識をクリアにしなければ。そのためにはニコチンが必要で、この習慣のお陰で俺はまともな思考力を得ている。
リビングへと歩き、部屋も確認せず、真っ先に換気扇の前に向かう。
ボックスには、タバコが三本入っている。その一本を取り出し、咥える。ライターを手に取り、火を付けようとして、
がちゃりと、扉が開いた。
愛海が、顔を出す。
ライターを置き、咥えたタバコをボックスに戻す。
愛海の顔を見ただけで、意識がクリアになっていくのを感じたからだ。
愛海が生きている。いつものようにギラギラと光る眼で俺を見ているが、しかしこの場では、愛海が生きている、ということが重要だった。
ここは、俺が先ほどまでいた俺の部屋とは違う。
以前の俺の部屋。俺が寝て、起きて、愛海を殺したら、また同じ時間が始まる閉じた世界。俺は、それが始まる前に戻ってきた。どういう理屈であの現象が終わったのか、俺にはわからない。妻の幻覚が消えて、罰から解放されて……。
ともあれ、俺は可能性を手に入れたのだ。
もう、タバコは吸わなくても大丈夫だと思った。
そんなことに時間を割く暇はないのだと理解した。ボックスを握りしめ、ゴミ箱に放り投げた。乾いた音がして、興味を失った。
愛海へと近づいていく。じっと、俺を見据えるその顔を。
抱きしめる。
こいつは、何もしない。
抵抗も、受け入れることも。
ただ、されるがままだ。
無関心。この子は俺に関心がない。
当然だ。俺が関心を払わずして、誰が関心を持ってくれるというのか。
だが、それはこれから構築していけば良い。
今までの関係を壊し、新しい関係を作り上げる。
それがどれほど難しいことなのか、俺にだってわかる。
妻と、結婚するに至った経緯。俺が無い知恵を絞って作った関係は、どんな問題よりも難しいと感じた。
しかし愛海は、彼女よりも難しいだろう。
少なくとも彼女は、俺に対して興味を抱いてくれた。俺の歩み寄りに応えてくれた。
だが、愛海は違う。全部俺の行いのせいだ。俺は愛海に何も与えなかった。
抱きしめていた腕を解き、その、触れただけで折れてしまいそうな手を引いた。
連れていくのは、浴室。まずは風呂に入れてあげるべきだと思った。
思えば、こうして一緒に風呂に入るのも初めてだった。
ガリガリに痩せた身体。腹だけがぽっこりと出ているのは、栄養失調のせいだろう。何度も踏みつけて、なかったことになったあの時間……。今は、優しく洗ってやっている。もう踏みつけたり、殴ったりなどしない。そんな俺を、思い出さないために。文字通り水に流すために。
風呂から上がり、服を着せてやる。
タンスをひっくり返しても、外に出しても恥ずかしくない服は見当たらなかった。
結局は、いつものよれたTシャツに、色褪せたジーンズを履かせるしかなかった。そのまま手を引いて、外に連れ出した。
マンションの廊下を歩いていれば、隣の部屋のババアが、物珍しいものでも見るような視線を向けてきた。
思えば、俺と愛海がこうして手を繋いで歩くのすら初めてだ。あのババアは、俺に娘がいたことすら知らなかったのだろう。
今までは無視していたが、軽く会釈をした。こういう小さな変化が必要だと思った。ババアも会釈を返してくれる。たったこれだけで、何かが変わった気がした。
そのまま螺旋階段を降りてゆく。
振り返れば、愛海は無表情に俺を見据えている。
階段の二段上。それでもまだ、俺より目線は低い。
上目遣いなその視線は、頭は、何を考えているのだろう。何を思っているのだろう。考えたこともなかった。しかし、これからは真正面から向き合わきゃならない。そうすると、決意したのだ。
「愛海」
名前を呼んだ。その濁った瞳を覗き込んで。
「腹は減ったか?」
問いかけに、しかし愛海は何も答えない。ただ、俺を見据えているだけ。
だが、腹が減っているのは明白だった。
何せここ三日間、俺たちはまともな食事を摂っていない。
カップ麺を、一つだけ。
愛海には何かを投げつけた覚えがあるが、あれは何だったか……。
ともあれ重要なのは、俺たちが飯を食べていないことだ。俺が食べていないのに、愛海が食べているなどありえなかった。
答えない愛海の手を引き、そのままエントランスに向かう。
外に出て、近所のファミレスに入った。
席に着くなり、ウェイトレスのバイトがメニューを持ってくる。俺と、愛海の前に差し出された、それ。
「何が食べたい?」
問いかけに、愛海は何も答えない。
先ほどと同じように、ただじっと、俺を見据えているだけだ。
「何が食べたいのか、自分で決めるんだ」
そう言って、俺は注文を決めた。愛海を見れば、よくわからなそうな表情のまま固まっている。メニューに顔を落とし、何をしたら良いかさえわからないと言いたげだ。
「食べたいものが分からないのか?」
訊けば、愛海は小さく頷いた。
なるほど。その可能性には気付けなかった。
確かに、物心が付いてから外に出していないのに。そもそも愛海には選択させることを教えていなかったのに。食べたいものを食べさせてあげなかったのに……。
急にそんなことをさせてみても、いきなり出来たりするはずがない。
「パスタが食べたいか?」
愛海は、首を傾げる。
「カレーは?」
首を傾げる。違うらしい。
「じゃあ、ハンバーグか?」
首を、わずかに前に倒す。なるほど、と俺も頷く。
呼出ボタンを押せば、ウェイトレスはすぐにやってくる。
お昼時も過ぎて落ち着いた店内で、暇を持て余していたらしい。俺はメニューをウェイトレスが見やすいように傾けて、写真を指差して言った。
「ハンバーグセットを二つ」
外に出る頃には、もう空が茜色に染まり始めていた。
振り返れば、愛海は歩きづらそうに俺の後ろをついてくる。
腹が重いのか、膨らんだ腹を撫でている。これだけ充実した食事を摂るのは初めてだったから、当然だろう。俺としては、ファミレスなんかで申し訳ないと思ってしまうのだが。
そんな愛海に、右手を差し出した。
これで俺の罪が無くなるなるわけではない。
むしろ、ここから始めるのだ。
俺と、愛海と。二人で歩んでいくこと。
これで俺の罪が購われることはない。俺はこの罪を、ずっと背負っていかなければならない。それを自覚して、愛海を愛していこうと決めたのだ。それは俺のエゴだろう。自己満足だろう。だからといって決意は揺らいだりしない。
愛海は、俺の手を取らない。
ただ、いつもの無表情な瞳で俺を見据えるだけだ。
しかし、そこには不思議そうな、何かを疑問に思うような色が見えた。
それは純粋な変化だった。俺は、もちろん変わった。だが、愛海も少し変わり始めているのかもしれない。そういった変化を外に出せるくらいには。
なかなか俺の手を取らないから、じれったくなり、その小さな左手を取った。
強引に引き寄せて、歩き始める。強く引っ張られて足をもつれさせるが、すぐに持ち直し、俺の手を振り解くことなく、愛海は俺にちゃんとついてくる。
振り返れば、もうそこには無表情はない。
不思議そうな顔をしている。俺がどうして食事をご馳走し、手まで握るのか、理解できないといった様子。
父親だから、では駄目なのだろうか。
それじゃあ理由になっていないだろうか。俺の今までの行いを鑑みれば、確かにそれが理由だと、到底思えないのかもしれないが。
こうして俺は、愛海と一緒にまともな親子になろうと、家族になろうと、決めた。
愛海を育てて、そうしていつか、俺が死ぬときにでも誇れればいいなと思った。
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